信長続生記 巻の二 「山崎に集う」 その1
本編の更新が遅くなりました分、明日にはすぐ次の話を投稿する予定です。
引き続きよろしくお願いいたします。
信長続生記 巻の二 「山崎に集う」 その1
光秀は本能寺と二条御所での戦を終え、そのまま休むことなく戦後処理に入った。
戦というのは、ただ単に槍を突き合わせ、矢を射かけ合い、鉄砲を撃ち合う事ばかりではない。
戦の前の準備はもちろんのこと、終わった後の戦後処理も大変なものがある。
ましてやそれが大きな戦だったり、または規模はともかく重要な戦だったりすると、その処理の猥雑さは数倍にも増す場合がある。
例えば今回の戦は、その規模はともかくこの日ノ本においては、重要この上ない戦であったと言える。
まずは軍勢全体の指揮統率。
なまじ勝ち戦ともなれば、その勢いや狂騒の精神状態に任せるがままに、乱暴狼藉・窃盗放火といった悪事を働く、いわゆる悪党足軽と言われる者が出て来る。
今回の戦は二カ所で行われたが、その両方が京の街中である。
もし兵士たちがこの後勢いそのままに好き放題な行動を取れば、それこそ京の街は破壊と混乱によって、一気に荒れ果ててしまう可能性すらあるのだ。
それを防ぐための統制を敷き、かつての信長のような厳しい治安維持を施し、町衆には自分たちに対して危害を加えない統治者、であることを認めさせねばならない。
信長は敵や裏切り者に対しては苛烈だが、国の根幹を成すのが民であるという事も分かっていた。
治安維持、街道の整備、関所の撤廃など様々な方策を打ち出したことでも知られている。
なので幼い頃からうつけと呼ばれながらも、下々の民との交流を止めなかったし、大勢の人間が参加し、楽しむ祭りなどは率先して催し、そして自らも参加した。
そういう意味では「馬揃え」も信長なりの祭り、だったのかもしれない。
信長はともかく派手な事や賑やかな事を好んだが、だからといって狂乱の雰囲気そのものを肯定するわけではなく、キチッとした節度を守らせることにも苦心していた。
信長を討ち、その後継者筆頭であった信忠を討ち、血の繋がりは無くとも思想・構想の繋がりを持った光秀が、新たな支配者として京を統治する時がやって来たのだ。
光秀の目標は信長の強引過ぎた朝廷への態度を自分の代で軟化させ、その上で朝廷との関係を友好的な方向へと持って行きつつ、信長から受け継いだ構想を浸透させる。
京の町衆には今回の戦で迷惑を被った者たちへの、様々な形での賠償を行う約束をし、一旦はその感情を収めさせる。
各地方の戦線には、それぞれ使者や文を飛ばし、信長も信忠も死した現在、まずは戦闘を停止した上で今後の話し合いの場を持ちたい、という意思を伝える。
その一方で自らの足場を固めつつ、信長の敵討ちを考える勢力に対しての防衛策も、念のため同時進行で行う必要があった。
とにかくやる事は山積みだ。
信長とはお世辞にも友好的な関係ではなかった、各宗派の寺社勢力とも折衝を行う必要がある。
特に対立が激しかった一向宗・石山本願寺にはこれからの統治上の重要課題、再び一向一揆などでの足場を揺らがせるような、そういった行動を一切取らせる訳にはいかない。
信長は石山本願寺との対立が決定的となってから、十一年もの歳月をかけてようやく降伏させた。
信長よりも年長の自分が、そんな時間をかけていられる余裕があるとは思えない。
信長を葬った責任と使命、その両方を果たすため光秀は昼夜を問わず、それこそ意識を失って倒れるまで、様々な問題を処理し続けた。
それでもなお追いつかない量の案件があった。
純粋に一朝一夕で片付く問題ではない事が多いという理由と、現代に比べ一つ一つ確認などを行う作業がすべて手作業・人力である以上効率化するにも限度があるという事。
人海戦術で他の者に任せても済ませられる案件は、とっくに他の者に任せていた光秀だったが、それでもなお自らで処理しなければならない仕事が多すぎた。
そして何より光秀を悩ませたのが、家臣の意識低下であった。
兵の大半は「あの信長を討ち、我らの主君は天下人となったのだ」と自惚れた。
自分は表向き「信長を討った新たな天下人」なのかもしれないが、その言葉を口にする時の自分の言葉は、自分でも驚くほど声に感情が籠もらない。
ともかく家臣たちは、自分たちは天下人の直臣である、という無意味な誇りを手に入れてしまった。
今までの信長という絶対君主による、圧倒的な支配力からの解放も手伝い、まるで我が世の春が来た、とばかりに浮かれてしまっている。
二条御所を落としてすぐさま末端の兵士たちまで行き渡るよう、軍勢の指揮統制に力を入れたため、今のところ大きな問題などは起こしていないが、それでも兵たちの空気は明らかに弛緩した。
京都の入口や街道筋を固める兵は交代制だが、光秀の目の届かない所ではどうなっているか分かったものではない。
そして本能寺や二条御所の焼け落ちた建物の撤去作業、この混乱に乗じて悪事を働こうという者を取り締まる、京都の治安維持部隊の運用など、戦が終わった後も兵士たちには仕事が残っている。
だが現場の兵士たちはそれらの仕事を適度以上に休みながら行うような、明らかに仕事に身が入っていない有様なのだ。
戦を終えたばかりであれば、確かに休息も与えてやりたいという気持ちは光秀にもある。
だがここが一番の踏ん張り所であると、今ここで頑張れば後の安定に繋がるという思考は、光秀一人が持っているだけで、末端どころかそれなりの地位にいる者すら昼間から酒を飲んだりする始末だ。
既にあの戦から二日が経っている。
その間光秀は最低限の仮眠、というかほとんど意識を失うような形での睡眠しか取れていない。
それでも気が付けば、頭を振って作業に戻ろうとする。
既に家臣たちの方が先に音を上げ、仕事の能率が落ちていたため、光秀は能率が落ちてきた者は順番に休んで良い、と通達して自らは働き続けていた。
すでにこの時、光秀の齢は五十六とも五十七とも言われている、身体に無理をきかせるにしても、限度がある年齢であるにも拘らず、光秀は頑として仕事を続けていた。
「殿、後生ですからお休み下され。 このままでは殿の御身体の方が心配で」
頬が若干痩せこけ、目の下に隈も作っている斉藤利三がそう進言した。
家老という重職にある者として、極力光秀の傍でその仕事を手伝っていた利三であったが、すでに彼は三回ほど小休止を挟んでおり、その間光秀が休んでいるところを見ていない。
放っておけばまた倒れるまで働き、しかもその後ロクに休まずにまた働き続けるであろう光秀に、もはや気が気ではないのだ。
光秀は朝廷からの親書に目を通しながら、利三の方を見もせずに答える。
「その義には及ばぬ、我が命ある内に成せること全てを成しておかねば、生きている意味すら無くなる」
言って光秀は朝廷からの親書に了承を示す自らの名、そして花押を書き入れて脇にいた文官に渡す。
文官はそれを丁寧に運んで、字が渇き次第、朝廷への返書として処理するのだ。
戦が終わった後、光秀は宮中へと参内し、改めて京と朝廷を守護する意思を伝えた。
朝廷はその光秀の態度にいたく感謝し、近く光秀に高位の官職を用意する、とまで言ってきたがそれよりも光秀は戦後処理の効率化のため、書類の簡素化を願い出た。
公家衆からの書簡はもったいぶった言い回しが多く、また返書にもかなり気を使って書いた文章でなくてはならない。
その煩わしさを知っていた光秀は、今はやらなくてはならない事が多く、この京周辺の安定化や、信長に従っていた旧勢力への対応を含め、問題は山積みだと語った。
その上で朝廷を蔑ろにする訳にもいかないから、せめて書類の簡素化、厳密には簡単な用事であれば本題のみを書いた書簡、ある程度重大な事でもこちらが了承を示す名と花押だけで良いような書簡にしてほしい、というような内容を、朝廷の気を良くするような言い回しで願い出たのだ。
あくまで自分は信長とは違い、朝廷に対する敬いの気持ちは忘れてはいない。
ただ世の中のために信長を討ったのだから、そちらも出来る限りの協力はしてほしい。
そういった事を、しっかりと持ち上げながら言われた朝廷は、光秀の願いを受け入れた。
朝廷の、公家衆への言い回しはある程度の教養が無くては務まらない。
だが光秀は織田家のいわば筆頭外交官としての顔も持ち合わせていたため、公家を相手にする時にはどのように言えば喜ばれるか、を熟知していたのである。
それもあって朝廷関係の書類は一定の効率化を見たが、それでも光秀の作業量には終わりが見えない。
軍事的な方面も、織田とは直接的な戦闘に入っていなかったこともあり、長宗我部家との連携は比較的容易であろうから『四国遠征軍はそちらには向かう事無く引き返すはず、我らは中央での地固めに動くため、そちらに援軍などを割くことは適わないが、近く場を設け、確たる同盟を結ばせてもらいたい』という内容の親書を送っておいた。
北は柴田と上杉、西に羽柴と毛利、東に滝川と北条、他にも丹羽や徳川といった、敵対・同盟どちらに転ぶか分からない勢力はたくさんあるのだ。
そういった所へは代筆用の祐筆に任せるでなく、光秀自筆の手紙でもって、誠意を表しておくことも忘れない。
今回の事は単なる下剋上の謀反ではなく、朝廷などが後ろ盾となった義戦であると喧伝。
その上でこちらと争うは、如いては朝廷にも弓引くことにもなりかねず、という脅しを匂わす一方で、こちらと同盟を結ぶのであれば門戸を開いて受け入れる、という文面も混ぜておく。
アメとムチの両方を潜ませた文章に、各勢力の反応を待つ。
光秀の計画としては、現時点でのこちらの話を聞く気がある全ての勢力の代表者を集め、信長の掲げた日ノ本統一防衛構想を説明し、理解してもらう事から始めようと思った。
信長は手っ取り早い制圧・支配・統治による統一を目指していたが、光秀はその方法がやはり性急に過ぎるとは以前から思っていた。
なので、信長の後を継いでその構想の後継者となった自分は、大勢力同士が互いに手を結び合う、共同戦線同盟による融和策を展開するつもりであった。
危機意識を持ってくれた勢力であれば、少なくとも即座に断られることはないはずで、もしこれが最大の成功を収めたならば、五年以内には日ノ本は纏まるかもしれない、とすら光秀は思っていた。
なにせ表向き「信長」という英傑を討った光秀が、朝廷という後ろ盾を得た上で単一勢力による天下統一という、いわば独裁も可能な最高権力を自ら手放し、それぞれの勢力が混在する分割統治に切り替えるという、天下に覇を唱えようという者からすれば、信じられないような権力の放棄を自ら行おうというのだ。
少しでも頭の働く者ならば、この提案に乗ってこないはずがないと思う光秀である。
すでにその草案は出来上がっており、それをいつどのように発表するかまで、光秀の脳内では想定を始めていたのだ。
かつての古代中国において、「三国志」と呼ばれる時代があった。
その時代の国の一つ『蜀』において、現代でも最高の軍師と呼ばれる「諸葛孔明」という男がいた。
彼は三つの国がそれぞれに並び立つ『天下三分の計』を、主である「劉玄徳」に語ったという。
光秀もそれに習い、天下をこの案に賛成した勢力で分割統治して分け合う『天下○分の計』として提案するつもりであった。
入る数字は協力した勢力の数で決まるが、ある程度は集まると信じている。
だが、この時光秀は大きな失敗を犯していた。
忙しさのあまりほとんど睡眠を取らずに作業をしていたため、自らの考えを盲目的に信じ過ぎてしまっていた事である。
睡眠とは肉体に休息をもたらすが、脳内の記憶や思考を整理する役割もある、だが今の光秀にはそれが絶対的に足りていない。
大勢力を率いる者であれば、誰も彼もがしっかりと広い視野で物事を考え、南蛮の国が持つ潜在的な脅威を認識できると思い、ましてや織田家の各方面の司令官であっても、いきなり問答無用の戦闘にはならぬであろう、という過信がどこかにあった。
既に各勢力に「本能寺にて信長は死亡、その跡継ぎである信忠も同日自害」という内容の文が届き始める頃である、
自分と懇意にしている大和国の筒井家、そして娘がその嫡男に嫁いで親戚となっている細川家など、本能寺では極秘の作戦だったため合流できなかったが、心強い味方となってくれるであろう勢力にも、すでに真っ先に文は出しているので、早ければ明日には自前の軍を引きつれて合流してくれるかもしれない。
信長の喪失による影響、そこから来る自己の責任。
様々な事に光秀は立ち向かい、それら全てを乗り越える覚悟を決めた。
あの信長もそうやって生きてきたのだ、ならばその後を継ぐべき自分が出来なくてどうする。
光秀は止まらない、止まる訳にはいかない、すでに自分は『信長』なのだから。
そんな光秀に、後に「中国大返し」と呼ばれる神速の大強行軍をもって、遠く備中国から羽柴秀吉が京に迫ろうとしていることを、明智軍の誰も知る由もない。
信長近辺以外は基本的には史実通りに展開していく予定です。
この巻からは秀吉や家康たちにも焦点を当てていきますので、より話が冗長になりますが、飽きずにお付き合い頂ければ、と思います。




