信長続生記 巻の九 「叛逆の胎動」 その6
大変お待たせいたしました、気が付けば2ヶ月半もの間が空いてしまった事を深くお詫びいたします。
いわゆる「エタる」と言われる状態ではなかったのですが、詳しくは後書きにて…
信長続生記 巻の九 「叛逆の胎動」 その6
上杉家では『家老』という地位が無い訳では無いが、家臣の最高位としてはそれに勝る『執政』という地位が存在する。
意味合いとしては宰相という地位が一番近いが、国内の政務全般を執り行い、家臣たちを掌握し、当主の補佐を行うだけでなく、軍務にまでその影響を轟かせる、まさにその家の中心となる立場である。
これは一歩間違えれば家中を乗っ取られる危険性を多分に帯びており、主君・景勝と家臣・兼続の間に強固な信頼関係が無ければ、絶対に成立し得ないものであった。
幼い頃より共に過ごした二人には、単なる主従の間柄だけでは作り得ない絆が生まれている。
故に兼続のその能力を誰より高く買っている景勝は、たとえ自分がお飾りと陰口を叩かれる様な立場になろうとも、越後国内と上杉家の発展のために兼続にあらゆる権限を与えた。
そして兼続も景勝の心意気に働きでもって応え、二人の絆はより一層深まった。
それは足利義昭からの文が上杉家当主である上杉景勝ではなく、頭ごなしに家臣に過ぎない直江兼続の下に届いたとしても、些かも揺らぐものではなかった。
むしろその文を開くことなく、景勝の下へ持参してくる兼続と思わず笑い合うほどに二人の間にはわだかまりが無かった。
二人で対面に座って文を開き、そこに書かれている内容を同時に読み終えて、二人は呆れの混じった乾いた笑い声を上げた。
ひとしきり笑い、景勝は兼続の眼を見て口を開いた。
「どう思う?」
景勝の一言に、その文に書かれている内容に対するあらゆる疑問が込められている。
そして兼続もその一言が、そういう意図の下で発せられた言葉だと理解出来ている。
付き合いの長さが、自然とこの二人の会話を少なくした。
お互いが『相手も己の考えをある程度理解している』と分かっているから、口に出す必要が無いのだ。
だがそれだけでは時折「ロクに言葉も交わさぬとは、どこかで溝が出来たか?」と、要らぬ心配を家中に巻き起こしてしまうため、兼続の方は意図的に言葉を多くするようになっていた。
「織田様が病に侵されており、その情報をもたらしたのが織田様の側近衆に潜り込んでいる足利将軍の手の者、と……少々話が出来過ぎておりましょう、あの方の織田様嫌いは日ノ本で知らぬ者はおらぬほど、となれば織田様の側近に息のかかった者を送り込めるのなら、その者に織田様暗殺を命じる方がよほど話が早く、またそういった手段を躊躇わぬであろう御仁…稚拙な離間の策にございますな…」
そう言って力なく息を吐き出した兼続だが、それでも外交面も預かる立場からか、書状を手に取って景勝へと渡しながら言葉を付け加えた。
「ですが殿の頭ごなしに某にこの文を送る事で、『将軍は上杉家の差配をしているのがお主だと知っている』と暗に示しているご様子、そして殿を軽んじながら某に重きを置く…送る相手一つとっても、離間の策とも言えますが…何故某如きが殿から上杉家の差配を御任せ頂いているのか、とまで考えられぬ所がかの御仁の限界にございましょう…」
そう言って軽く首を左右に振る。
足利義昭が上杉家に文を送るのはこれが初めてではない。
いや、それどころか上杉家の先代当主・謙信存命時にはそれこそ飽きるほど送り付けられている。
そして内容は毎回『信長を討て!』というお決まりのものであり、武田信玄が病死して義昭自身は京を追われてからも文は送り付けられてきた。
書いてある文章自体は以前よりかは幾分上から目線の物言いは減り、『信長を討てば、副将軍か管領にする!』と成功報酬も明記してあり、それなりに義昭の窮状が理解出来るものであった。
だが謙信が没し、景勝が家督相続争いを制して上杉家の家督を継ぐと、今度はまたも上から目線の手紙が景勝宛てに届く事となった。
『先代の謙信は余の窮状に見て見ぬ振りをした不義の者なり、関東管領上杉家の家督を継いだからには、先代の汚名を晴らすべく足利幕府再興のため身命を賭すべし!』などという文が届いた日には、景勝と兼続は揃って盛大な溜め息を吐く事になった。
最早権威も失墜し、足利幕府というものが実質的に滅んで六年も経つというのに、未だそれを認められないような人物を御輿に担げとは、どこまで現実が見えていないのかと呆れるばかりだった。
ましてや遠き越後の地から、畿内をまたいで中国地方の備後国・鞆の浦まで迎えに来い、と言うのだから恐れ入るというものだ。
天正七年当時で既に畿内はほぼ織田家の勢力圏となっており、ましてや上杉は織田と敵対中でわざわざ備後国まで迎えに行ける訳もない。
当然心情的なものはもとより、現実問題として無視し続ける以外に方法はなかった。
だというのに今この時にまた、しかも今度は送る相手を変えて、内容まで一癖加えて送り付けて来るという念の入れ様である。
兼続はこれを「殿にいくら言っても埒があかぬなら、執政たる某を口説こうとしたのでしょう」と苦笑交じりに語る。
それを受けた景勝も「呆れて物も言えぬ」と言わんばかりの顔で、
「兼続を口説くのなら、将軍の名で上杉家当主の座は景勝から兼続に譲らせる、とでも書けば良かったであろうにな……兼続が野心家であれば、名実共に上杉は乗っ取られてしまったであろうに…」
そう言って景勝は兼続の顔をチラリと見る。
見られた兼続はその目線に笑顔で応える。
「某は充分野心家にございます、未だ越後統一が成っておらぬ現状で、いつの日か日ノ本一の強国を作りあげてみせよう、などと大それた望みを持っております故…」
その顔は爽やかではあるが、その一方でこの戦国の世を生きる武将としての凄みも併せ持つ。
必要とあらば他者の命を奪う事も、親しい者に苦渋の選択を強いる事や、己自身が傷付く事も厭いはしないという覚悟と決意がある。
若くして上杉家という大大名の差配を任されたのは伊達ではない、直江兼続という男は大名という為政者としての素質を多分に持ち得る男であった。
だがそれほどの男でも、未だ若年の域を出てはいない。
足利義昭の手紙に黒田官兵衛が手を加えているとは夢にも思わず、また黒田官兵衛の存在自体頭の片隅にすらなく、この手紙も立場上蔑ろにするのが憚られるため、景勝にも目を通してもらっただけの事だ。
「では、将軍様のお話はここまでにして…某の野心の第一歩目、越後国統一に向けての話をいたしましょう」
将軍の座を公式に退いてはいない以上、もはや存在自体無くなったとはいえ足利幕府の将軍からの手紙である。
手紙自体は丁寧にそっと折り畳まれ、脇へと退けられる。
それで二人の頭の片隅にその手紙の存在は追いやられ、その後その手紙は春日山城の書状などを保管しておく部屋へと運ばれた。
直江兼続も上杉景勝も、黒田官兵衛孝高という男の存在自体をロクに知らぬため、この手紙の裏にその男の存在が潜んでいる事に微塵も気が付く事が出来なかったのである。
越後国は南西から北東に向かって斜めに長く、現在の新潟県の地形そのままであった。
そして上杉景勝が拠点とする春日山城は南西、すなわち南越後と言える地域に存在していた。
その地域とは対照に位置する北東、北越後と言える地域に一人の猛将がいた。
先代・上杉謙信の代から仕え、先だっての家督相続争い『御館の乱』時には景勝の指示に回り、敵対した景虎側の武将を多く討ち取り、さらにその混乱に乗じて越後に侵入してきた蘆名・伊達などの軍勢も撃退した、どう贔屓目に見ても大功を挙げた人物である。
だがそれ故に、彼は景勝とは道を違えた。
自身の腹心である直江兼続、そしてそれに付き従う者たちに多くの恩賞を与え、未だ盤石とは言えない自身の足元を固めることを急務としていた景勝は、勲功著しいこの男、新発田重家に満足な褒賞を与える事が出来なかった。
新発田家の本領安堵、ただそれのみを恩賞代わりに保証されたが、当然重家は納得出来なかった。
景勝対景虎の戦いにおいても、明確な落ち度はなかったはず。
さらには他国の介入も撥ね退け、越後の地を護ったのは自分であるという自負があった。
だというのに、自らの子飼い以外に与える褒美は無いというのか、と彼は憤った。
一言で言えば、彼には運が無かった。
国内の混乱を鎮める上で誰よりも功を挙げてしまった彼は、言うなれば手柄を立てすぎたのだ。
突出して一人だけが手柄を挙げ続けると、上に立つ者はその者に褒美を与えなくてはならないし、他の者はその褒美をもらった人物に妬みや嫉みを持つようになる。
やがてそれは家中に不和を生み、妬みや嫉みによって突き動かされた者が、なんらかの凶行に及んだり陰謀を企む原因ともなる。
上に立つ者は常にその危機を念頭に置きつつ、家中の手綱を握り続ける必要がある。
だが彼の働きが無ければ越後国内の内乱はさらに長引き、そして蘆名・伊達などの他国の勢力の侵入を容易にし、最終的にはさらに多くの血が流れていたかもしれない。
そういう意味ではそれを防ぐ要因となった彼は、確かに越後国にとって重要な人間であった。
しかしそれ故に彼はその働きが認められて当然、という思考に至ってしまった。
景勝もまた苦悩していたのだが、西側からの織田家の圧力は日増しに強くなっており、自身が心から信頼出来る者たちに、少しでも多くの力を割く以外に方法が取れなかった。
結果として新発田重家は北東側の抑えとして留め置かれ、南西側の対織田家勢力に注力する景勝からは軽んじられるような扱いを受ける羽目になってしまった。
織田家が攻めて来なければ、景勝の足元が今少し盤石であれば、あるいは蘆名・伊達などが攻めて来ずに、新発田重家の手柄がもう少しでも少なければ。
いずれも可能性としては起こり得たかも知れないが、現実にそれらは全て新発田重家と上杉景勝にとって、最悪な方向へと進んでしまっていた。
挙句、新発田重家が褒美に不満を持っている事を察した上杉家の重臣・安田顕元は、自身が景勝側に付くようにと重家を説得した手前、必死に景勝と重家の間を取り持とうとしたが、不首尾に終わってしまった。
景勝側は今すぐに用意できる褒賞の余裕が無く、また重家側も戦の中で多大な犠牲を出したためここで軽んじられる訳にはいかず、両者が互いに頑として折れなかったため間に立った安田顕元は自ら腹を切ることで、重家に義理を立てて果てた。
だが安田顕元の命を賭けたこの決断も、悲しい事に逆効果となってしまった。
『御館の乱』の際、いち早く自らに忠誠を誓った安田顕元に腹を切らせてまで、こちらに恩賞をやりたくないのかという感情に突き動かされた重家は、公然と反景勝の兵を挙げた。
敗北した景虎派の生き残りを糾合し、更にかつては撃退した蘆名・伊達らの援助まで受け、北越後を中心に強大な反対勢力を作り上げたのである。
景勝は西の越中国からの織田軍だけでなく、越後国内にも新発田重家という厄介な敵を抱え込む事となった。
その状況でもしっかりと上杉の家を護り切ったのは景勝や兼続の手腕でもあるが、一方で新発田重家は北越後に完全な独立勢力として根を張った。
奥州勢力の蘆名・伊達らも上杉の奥州侵攻を食い止めるため、防波堤の役割を持たせた重家に多大な援助を送るようになった。
そうして天正十二年も冬を迎え、新発田重家が天正九年に反旗を翻してから丸三年以上が経った今も、越後国内は統一の兆しを見せてはいなかった。
そんな中で春日山城の景勝と兼続の主従が義昭からの文に二人で目を通したその数日後には、似たような内容の、しかし明らかに意味合いが違う文が新発田重家の下にも届いた。
当初重家は何故自分の所に将軍からの文が届いたのか、全く理解出来なかった。
かつては織田家と協力して上杉景勝を東西から挟み撃ちにしようと画策までした重家である。
織田家憎しの足利義昭から文が届くとなれば、その内容はこちらの現状も顧みない身勝手な話ではないだろうか、という予想を立てながら、文を乱暴に開けてその中身に目を通した。
しかし読み進めていく内に、重家の眉間に大きなしわが寄った。
「信長が生きておったとは聞いていたが、病だと…? それに……」
上杉には長宗我部などに送った物と同じ内容の文が送られている。
しかし黒田官兵衛は新発田重家の所には、少しだけ違う内容の文を送らせていた。
『上杉は信長の病を知らず、愚かにも従属の道を選んだ。 だが信長は病のため自らが指揮を取れる状態ではない、信長の病は上杉方にも知らせてある故、双方今すぐに和睦し停戦せよ。 日ノ本と足利幕府再興のため、ともに天下の簒奪者たる織田信長を討ち果たし、忠勤を示すべし』
新発田重家の手元に送られてきた文には、そう書かれていた。
信長の病も気にはなったが、今の時点で自分にはそう大きな関係はないだろうし、なにより重大な事がそこには書かれていた。
「あの上杉が、織田に降っただと…」
上杉は『御館の乱』以降、常に戦い通しであった。
西から、さらに武田滅亡後は南からも織田家の脅威にさらされ、本能寺の一件以降信濃国の領有を巡って徳川や北条と争い、それと並行して重家とも何度も戦いを重ねている。
確かに自分がいる以上越後国内の統一などやらせはしない。
だがその一方で信濃国に新たに領地を手に入れ、状況は厳しいながらも徐々に足場を固めている様ではあった。
そんな中での織田家への服従、となると思い付く理由はやはり。
「信長、か…」
かつて信長は武田信玄と上杉謙信を恐れ、決して直接戦おうとはしなかった。
武田信玄には徳川を、上杉謙信には柴田を当て、自らは本拠地から出てこようとはしなかった。
その様な男に上杉は屈していたというのか。
仮にも毘沙門天の化身となりし不識庵(謙信)様の跡目を継いだ若造は、上杉の矜持すら守れなかったのか。
いや、それでもあの男は曲がりなりにも不識庵様と血の繋がった甥でもある、となれば。
「樋口から直江家に婿入りしたあの小僧、か?」
直江兼続は元々は樋口兼豊という男の長男として生を受け、その後越後の名門・直江家当主急死に際し、直江家当主の娘を娶って名跡を継ぐ、という形で「直江兼続」となった。
故に現在の直江家はその名門としての名前はそのままではあるものの、血筋としては外から入ってきた男がその当主の座に就いている、という歪なものだった。
正式に直江家の血を継いだ者が当主となるのは、兼続と先代当主の娘・船との間に嫡男が生まれ、その者に代替わりした時となるだろう。
だがこの時代は「血筋」も大事ではあるが、それ以上に「名跡」が優先された。
それ故に家を絶やさぬ事が至上命題とされ、名さえ残れば血筋には目を瞑る、とされる事も多かった。
「たしか景勝に幼き頃より近侍として仕えていた小僧だったはず…となれば景勝を謀って織田に従わせたのはあやつか…直江の名跡を継いで増長し始めよったな、チッ! 君側の奸も除けぬとは、いよいよもって上杉もこれまでか…」
新発田重家は決して無能ではない、どころか十分に優秀な武将である。
上杉景勝が先の『御館の乱』の後に誰にどの程度の褒美を与えたか、それをしっかりと把握出来ている。
褒美の大半を景勝の出身である「上田長尾家」の係累に当たる者たちに与え、味方をした重家をはじめとする国内の実力者たちへは、微々たるものしか与えなかった。
そうして一躍成り上がったのは他でも無い直江兼続(当時はまだ樋口兼続)である。
確かに重家から見てもある程度の実力はあるのだろう、それは認める所だった。
だがそれ故に本人が持つ本来の力に加え、名跡を継いで名門の家柄も加わった。
そこでおそらく、兼続は増長して景勝を裏から傀儡に仕立て上げたのだ。
いや、『御館の乱』の恩賞配分から見れば、それよりも以前から景勝は傀儡に貶められていた可能性が高い、そして今はもはや家中を完全に牛耳ってさえいるかもしれぬ。
今は亡き不識庵様や数多の勇将・精兵が、命懸けで守り通してきた上杉という家がたった一人の小僧如きの好きにされているのかと思うと、情け無くそして申し訳無いとすら思えてきた重家は、そっと左手で目頭を押さえた。
そしてそこまで思考を巡らせて、重家は苛立ちに任せて右手で書状を握り潰した。
「兼続が如き小童が、この越後と上杉家を好きに回しておるという事か…忌々しいッ!」
重家の数少ない短所の一つが、思い込みの激しさであった。
戦で犠牲を出しながらも大功を立てた、ならば褒賞もそれに見合うものに違いない。
自分に従った家臣に腹を切らせてまで、こちらに褒美を与えたくないのか。
それらの差配は全て、『執政』などという地位に胡坐をかいた小童の仕業か。
それらの思い込みが集約し、新発田重家の中で一つの結論を出させた。
「上杉と越後国の真の敵は…奸賊・直江兼続なりッ!」
越後国の代表する猛将の一人が、その標的を直江兼続に絞り、動く事を決めた瞬間であった。
豊後国(現在の大分県)を本貫の地とし、鎌倉の世から続く名門・大友家。
その大友家の現在の当主である大友義統は、内心で弱り果てていた。
その原因というのは彼の下に届いた一通の書状、元将軍である足利義昭からの檄文であった。
内容は他に送られた者たちと似通ってはいるが、だからこそ彼にとっては余計に頭を抱える内容となっていた。
それも『信長に従う事を選んだ惰弱な毛利は、信長が病に蝕まれている事も知らずに、その尖兵となって動く事を決めてしまった。 かくなる上は名門の一翼を担う大友家は、同じく名門である島津家と共に九州から兵を挙げ、逆賊・織田信長を誅すべく行動を開始するように』というもので、義統には到底受け入れられない事が書かれていたのだ。
「我が大友が窮地に陥っておるというのに…その元凶たる島津と手を取り合ってあの信長公と戦えなどと…相変わらず何を考えているのだ、あの御仁は…」
そう言い終わるなり義統は深々と溜息を吐いた。
現在の大友家の状況は決して芳しいものではない。
それというのも六年前、天正六年に島津家との世に言う『耳川の戦い』で大敗北を喫して以来、大友家は完全に右肩下がりの様相を呈しているのだ。
父・大友宗麟は性格に難があったため、能力は高かったが家中での評判はあまり良くはなかった。
だが政にも軍事にも非凡な才能を持っていたため、一時期は大友家が九州の半分程を支配する時期もあったほどだった。
そんな父から家督を譲られ、義統は第二十二代目の大友家当主となった。
しかし家督こそ継がせてもらえたものの、未だ若年を理由に実権は宗麟の手にあり、義統はお飾りの当主としての立場を余儀なくされた。
そして時を同じくして鎌倉時代からの長年の名門同士、という事で繋がりがあった島津家とも徐々に関係は悪化していた。
島津家が本貫の地である薩摩国から隣国である大隅国(薩摩・大隅合わせて現在の鹿児島県)、さらには日向国(現在の宮崎県)までを支配下に置いたため、ついに両家は領地を接する事となった。
島津に追われた日向国の国人・伊藤氏が大友家に身を寄せたため、大友家としても島津家を討つための大義名分も手に入ってしまい、さらにその時の大友家は外交上非常に厄介な問題を抱えてしまっていた。
足利義昭が信長から京を追われ、毛利家に身を寄せていた際に毛利と交戦中だった大友家は、義昭から『六カ国之凶徒』と不名誉な呼び名で誹られ、周囲の大名に格好の大義名分を与えられてしまっていた。
毛利家からすれば、対織田家戦線に戦力を集中出来ないのは大友家が背後を脅かすからであり、大友家の邪魔がなくなれば織田家との戦に集中出来る、と義昭の信長憎しの感情を利用した外交戦略を展開していたのである。
しかし一方の大友家も遠く畿内の織田家と連絡を取り合い、東西から毛利を挟み撃ちにし、首尾良く毛利家を滅ぼした際には周防国・長門国の二ヵ国(現在の山口県)をもらうという密約を交わしていた。
織田対毛利の戦いは、そのような形で九州の諸勢力にも大きな影響を及ぼしていた。
結果として将軍のお墨付きである『六カ国之凶徒』討伐のためとして、島津家をはじめとして九州の諸勢力は堂々と大友家と大義名分を持った戦をする事が出来るのである。
そして実現こそしなかったが、一時期は北に毛利・西に竜造寺・南に島津・東に長宗我部という、大勢力が大友を囲い込んだ大友包囲網も作られかけていた。
そんな中で大友家の家中は、先代・宗麟の『デウスの教え』への過度な傾倒をはじめとする様々な問題行動により、家臣団の心も離れかけていた。
家中の掌握、意思統一を急務と考えていた義統は日向国に攻め入る事を決め、先代・宗麟もそれに賛同したため大友家は総力を挙げて総勢三万とも四万とも言われる大軍勢で日向国に侵攻した。
だが表向きの大義名分としては伊東家旧臣からの援軍要請に応える為とはしたが、大友家の家中では島津家との戦に消極的・中には反対の意見まで挙がってきており、家中の意識統一どころか却って家臣団の分裂を招きかねない事態まで引き起こしていた。
主戦派と和睦派で家臣たちは意見が分かれ、その一方で宗麟は『デウスの教え』への盲目的な傾倒のために、自らの領国でもない日向国の神社・仏閣を取り壊すという暴挙に出た。
既に豊後国内や大友家の支配地となった場所では、宗麟の『キリシタン教国建設のため』という理由で多くの神社や仏閣が破壊されており、義統も宗麟との関係悪化を懸念してか、それを黙認した。
そういった状況下で島津軍との一戦に臨んだ大友家は、数の上では勝りながらも士気の面では大きく劣り、島津軍に手痛い敗北を食らわされた挙句、家臣団の心はさらに離れていく事となった。
重臣を含む家臣を多く失った大友家は、支配下に置いていた国人たちの離反も相次ぎ、往時の勢いを完全に失いかけていた。
しかしここで先代・宗麟は持ち前の能力の高さを発揮、外交手腕を駆使して信長に島津との和睦仲介を願い、絶望的な状況から脱する事に成功した。
その後の大友家はなんとか家中を建て直しつつも、好機を待った。
するとかつての大友家を凌がんばかりに勢力を拡張していった肥前国の竜造寺家が、世に言う『沖田畷の戦い』で島津家に大敗を喫した。
その戦では当主・竜造寺隆信をはじめ、多くの重臣が戦死したため竜造寺家の家運は一気に衰退した。
生き残った重臣・鍋島直茂が家督を継ぐことになった隆信の嫡男・政家を擁して、島津家を相手に徹底抗戦を訴えるものの、状況を鑑みて不利な状況での和睦に同意せざるを得なかった。
そうすると今度は竜造寺家の支配力が揺らいだため、宗麟・義統の親子はここで一気に勢力挽回のために動く事にした。
大友家が誇る二人の名将、立花道雪と高橋紹運を中心に筑後国(現在の福岡県南部)方面へと出兵を行い、各地の国人領主の従属・敵対勢力の排除を進めた。
そうして大友家は最悪の状況を脱し、これからの家中立て直しに全力を注ぐべき所に、水を差すように送られてきたのが足利義昭からの文であった。
しかもかつては大友家を『六カ国之凶徒』とまで罵っておきながら、今更『名門の一翼』とは呆れて物も言えないが、だからと言ってここで相手を怒らせても却って面倒、というのが義統の本音であった。
現状大友家に対毛利に力を割く余裕はない。
むしろその余裕を少しでも早く取り戻すために、今この時こそ勢力挽回に躍起にならないといけないのだ。
だというのにこの元公方様ときたら、と義統はまたも深々と溜息を吐いた。
「大坂からの急使から聞いてはおったが…信長公の復活か…あの元公方様には恩らしい恩なぞないが、信長公には無い事も無い…」
足利義昭の片諱をもらって名を義統としているこの男ではあるが、本音では既に義昭に対する敬意など微塵も持ってはいなかった。
むしろ彼からすればここで義昭の言う通りに動くより、この事を信長に密告する事で、大友家へ何らかの援助を願い出る事は出来ないか、という方に考えが向いた。
例えば島津や竜造寺への牽制をしてもらったり、毛利を従わせたというのなら大友とは敵対せぬよう命じてもらったり、といった外交面での悩みを解決させてもらう事は出来まいか、と考え始めた。
考えながらも無意識に、もう一度義昭からの文に目を通し始めた義統は、そこで一つの言葉に着目した。
「病……信長公は病、か……あの御方も確か『デウスの教え』を庇護しておられたはず…となれば南蛮渡来の薬などを送れば、大友家の心証も…」
妙案を思いついた、とばかりに義統の顔に笑みが浮かぶ。
そして立ち上がるなり人を呼んだ。
「誰ぞ、誰ぞある! コエリョを呼べ! 宣教師のガスパール・コエリョに、南蛮渡来の妙薬を取り寄せさせるのだ!」
この時の義統には、信長の威光を利用させてもらって大友家の立て直しを図ろうという事しか頭に無かった。
なのでコエリョがどのような事をしている人物で、どのような思考を持っているかなど、彼は深くは知らずにその名を呼んだ。
この事が大友家にどのような出来事をもたらすのか、この時点で予想出来た者はいなかった。
ただ義統の顔には、いかにも名案が浮かんだという満面の笑みしか浮かんではいなかった。
今回久々登場の人物がいたり、初登場の人物がいたり、という按配でしたが…話が全国に広がると際限なく登場人物が増えるので、ある程度は人物を絞っていきたいと思います。
前話投稿から今回までの間に何があったのかを箇条書きにいたしますと、こんな感じでした。
風邪をひく、こじらせる、結果2月の半分を自宅療養
溜まった仕事と私事を片付ける、休日出勤もして余計に時間に余裕がなくなる
そのまま仕事の繁忙期突入、さらに家族が相次いで体調を崩す
執筆は進まないものの、頭の中で話だけは纏めていて先の展開の齟齬に気付く。
当初の予定とは展開を大幅に軌道修正、書き直してようやく次話投稿 ←今ココ
こんな感じでした。
なんと言うか、気が付けば2月も3月も終わっていたという心境でした。
隙間の時間を利用して資料を読んだり探したりしていたら、今後のストーリー展開に無理がある部分に気付き、修正しようと頭をひねっていたらこんなに時間がかかってしまいました。
今後とも御時間の許す限りお付き合い頂けましたら幸いに存じます。




