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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の九 「叛逆の胎動」 その3

また一話あたりの最大文字数の記録を更新してしまいました。

書き終わってから二話に分ければ良かったと後悔しましたが、お待たせしてしまっている分少しでも読み応えを感じて頂きたく、そのまま投稿いたしました。

お時間のある時にご覧ください。

           信長続生記 巻の九 「叛逆の胎動」 その3




 紀伊国での一件の後、信長は奇襲や狙撃を警戒しながら大坂へと戻った。

 黒田官兵衛は予想以上に周到に、そして悪辣に信長の命を狙っているという事が明らかになった為である。

 身を隠し、いつの間にか手練れの忍びを配下に引き込み、様々な手段を講じてこちらの力を削ごうと暗躍している。

 京においては秀吉の正室・寧々を人質にとって、建設途中の京都所司代詰所を襲撃。

 紀伊国においては光秀を喪うという痛手を被り、信長はともすれば噴き出さんばかりの怒りを堪えながら、大坂へ戻っていった。


 信長が大坂へと戻る一方、紀伊国内においては大きな動きがあった。

 かつては紀伊国の豪族たちの中でも一際存在感を放っていた雑賀孫市の復権、さらに反信長派の首魁であった土橋守重の捕縛及び大坂への連行。

 これにより雑賀衆は一気にその旗手を新信長派へと移行させた。

 無論反信長派の残党は少数とはいえ存在したが、その大半は先の騒動においてほとんどが捕縛、あるいは討ち取られていたため、これ以降過激な行動を取ろうとする者は皆無だった。

 それでも念のため信長が紀伊国を出た後も、二千ほどの兵が雑賀の郷とその周辺に駐留して警戒を怠らず、信長が無事に大坂城に入城したという報せを受けて、ようやく全軍が引き上げた。


 更に一番の目的であった本願寺勢力との完全和解、これを成し遂げた事は大きかった。

 全国に散らばる本願寺の門徒衆には、顕如から改めて通達が行く事で、無用な衝突を避ける事が出来る様になったのだ。

 もはや日ノ本の中で争っている場合では無い、その事を強く自覚した顕如は信長に積極的に協力する事で、本願寺の再興と日ノ本の安定を同時に行うべく行動を開始した。

 顕如にそこまでの決意をさせたのは、偏に明智光秀の存在が大きい。

 かつては信長の首を狙って本能寺に襲撃をかけた男が、まさかその身を挺して信長を庇うとは思わなかった。


 会談中に行われた土橋守重の凶行。

 懐に忍ばせた短筒から発射された凶弾は、光秀という盾が無ければ間違いなく信長を捉えていただろう。

 目の前で倒れ、そして「日ノ本を頼む」という遺言を信長に残して逝った光秀に、顕如は心から敬服すると同時に、かつてない衝撃を覚えた。

 日ノ本のために、自らが生まれ育った国のためには、信長に生きていてもらわねばならない。

 光秀の行動からそれを見せ付けられた顕如は、紀伊国内にいる門徒衆の取り纏めを三男・准如(じゅんにょ)に命じ、また自らの後継となる第十二代目の法主を、その准如に就かせると宣言した。


 これが武家であったならば「家督を譲る」となっていたことだろう。

 准如本人も、周囲もそれを受けて今後は准如の指示に従う事を良しとした。

 補佐役として下間仲孝(しもつまなかたか)が准如を支え、顕如自身は自他共に認める右腕・下間頼廉(しもつまらいれん)と共に信長に付き従う事となった。

 かつては不倶戴天の敵であった本願寺の法主とその右腕が大坂城に同行すると聞き、池田輝政と森蘭丸は当初難色を示した。

 しかしその二人を遥かに超える武闘派であり、実際に本願寺勢力とも弓矢を交えた経験を持つ森長可と佐々成政は、信長と顕如の間で決まった取り決めに異を唱えなかった。


 「全ては上様が判断なされたこと、それに異を挟むのか」と、年長の二人にそう言われてしまえば若い二人もそれ以上抗弁は出来なかった。

 明智光秀の死は確かに信長にとっては痛手ではあった。

 だがそれ以上にその死は意義のあるものとなった。

 顕如を頂点とする本願寺勢力の積極的な協力を得る事が出来、ましてや光秀に代わる新たな側近として顕如自身が加わる事となったのだ。

 手放しでは喜べないとはいえ、結果としては上々の成果を上げて信長は大坂へと戻った。


 途中、同行していた現関白・一条内基(いちじょううちもと)からは「目の前で人が殺される所を見てしまった、なんという恐ろしい場所に来てしまったのだ、早く京に帰りたい」と連日行軍を急かされる事となったが、それを除けば道中に別段問題は起きなかった。

 信長は大坂城に先触れを出し、到着するなり一条内基の気晴らしのための饗宴や能楽なども連日催させたが、やはり完全に気分が晴れる事は無かった様で、予定を繰り上げて京へと帰っていった。

 その護衛には池田輝政を付け、帰京するまでの間の一条内基の様子を事細かに報告させた所、どうやら軽い気鬱の病に罹った様だという。

 それを聞いた信長は早速一条内基に進物を贈りつつ、同時に文を送るように命じた。


「『此度の騒動において、関白殿には並々ならぬご迷惑をおかけした事、深く恥じ入っております。 凶行に及びし慮外者は、こちらで全て滞りなく処理しておきましたので、間違っても京に累を及ぼす事はございますまい。 関白殿には今後とも何かと面倒をおかけするでしょうが、二度とこのような事が起きぬ様尽力致します、一刻も早い御快復を大坂よりお祈り申し上げまする』とでも書いておけ」


 信長の言葉に、蘭丸は「はッ」と返事をしてすぐさまその内容を丁寧な文脈で、いかにも相手を思いやるかのような文章に仕立て上げた。

 内容を確認した信長が一つ頷いて、その文は一条内基の下へと届けられた。

 その文を呼んだ一条内基は、その丁寧な文章の裏に隠された意味を読み取れるだけの頭脳があった。

 『今後とも面倒を』、『二度とこのような事が』という言葉に、「また連れ回す気か、またあんな光景を見せる気か」という感想を抱いた。

 慣れ親しんだ京の空気に触れてようやく全快間近となっていた一条内基だったが、この文を読んだ日を境にまたも体調を崩す羽目となった。


 この日からしばらくの後、一条内基は体調が優れない事を理由に関白職を辞職したい、と願い出る事となる。

 権謀術数に長けた者でないと生き残れない、そんな魑魅魍魎の溜まり場たる朝廷内においても、流石に目の前で人が撃ち殺されるという現場に居合わせる者などそうはいない。

 その光景を目の当たりにした一条内基の精神的な損耗度合いを読み取った信長は、進物を贈りその体調を慮った体を装って、形の無い毒を送っておいたのだ。

 しかもそれは当人しか自覚出来ず、誰の目にもそれが精神を蝕む毒だとは分からない。

 一見普通の見舞いの品と添え状、周囲は信長はちゃんとそういう贈り物をしてくる男だ、としか思わない。


 なまじ戦場というものを知っている、いや知っているからこそ近衛前久にも信長の裏の意図があったとは読み切れず、一条内基の気鬱の病には「刺激が強すぎたか」としか思われなかった。

 一条内基の頭の良さに付け込んだ信長の毒は、秀吉の関白就任を急がせる上で「早く関白を辞めねば、また引っ張り出すぞ」という無言の脅しとなる。

 今回協力的な立場を取った一条内基に対し酷な対応とも取れる話ではあるが、これには信長の焦りが関係している。

 関白に就任させて、朝廷内を完全に親信長派にさせるべく送り込む予定の秀吉、その正室である寧々は現在官兵衛の手に落ちている。

 もはや一刻も早い官兵衛討伐を成し遂げねば、いつどこでどのような形で痛手を受けるか分かったものではないのだ。


 朝廷と寺社勢力、この二つを完全に抑えた上で全国の武家勢力、いわゆる大名を従える事が出来れば、この日ノ本に官兵衛の生きる術はない。

 だが現在の様にその居場所も分からず、討ち取ったという報告も聞かれぬ状況では、常に足場を盤石にしつつ敵方の動きに備える事しか出来ない。

 もどかしい状況に苛立ちを抱えて続けて数日を過ごしていた信長は、自身の体調がその苛立ちによって明らかな変調をきたす、という事を実感し始めていた。

 現代で言う所の過剰なストレスによる病状の進行であり、頭痛やめまいが頻繁に起こり、更にまたも血の混じった咳をしてしまっていたのだ。

 咳に交じる血を忌々しそうに睨み付け、信長は一人「事を急がねば…」と呟いた。


 一方で近衛前久と一条内基を京まで護衛した池田輝政は、大坂までの帰り道に今度は羽柴秀吉と前田玄以を連れ、二人を護衛する形で大坂城へと戻った。

 秀吉と玄以から黒田官兵衛が何を語り、どういう行動を取っていたかを、当人たちの口から聴取する為である。

 無論その間信長とて漫然と時を過ごしていた訳では無い。

 所司代詰所襲撃によって朝廷にもたらされた衝撃は、なまじ禁裏に近い所で起きた分誤魔化しが効かず、無用な混乱と不安を公家衆に植え付けてしまっていた。

 信長という一人の怪物に朝廷すらも意のままにされかねない、そんな懸念を持っていた公家の中には、内心で信長はまたもどこかで敗れるのではないかと期待感を抱く。


 表立っての動きはないものの、公家衆の多くは自分を嫌っているという事を重々承知している信長は、京都所司代・堀秀政に織田家の権威回復と公家衆の不安払拭にあらゆる手を尽くすよう命じた。

 また一方の懸念事項の一つであった四国の情勢も報告を受け、新たな指示を出す。

 徳川が長宗我部と阿波国内で一戦交え、長宗我部軍を撃退したという。

 徳川は、地の利があり数でも勝る長宗我部軍を相手に互角の戦いを繰り広げ、ついには打ち破ったという報せを聞いた信長は、ようやく良い報告を聞いたと頷き、さらに続けて詳細を持って来るよう命じた。

 大坂に居ながらにして四国全土の状況把握を為さんとする信長の意を受けて、家臣たちはすぐさま淡路島の大名・仙石家の家臣達の協力も得て、三日で更に詳細な情報を持ってきた。


 結果として分かったのは、四国に上陸した徳川を迎え撃つために伊予国から阿波国へ向かった長宗我部の隙を突く形で、毛利軍が大挙して伊予国に上陸していたという報告であった。

 徳川と長宗我部が互角の戦い、だけなら純粋に徳川の奮戦があったのだ、というだけである。

 だが自らの庭を荒らすも同然の徳川を相手に、長宗我部の方が先に兵を退く、というのは不可解であった。

 結果を知ればなんという事はない、徳川を相手にしている間に毛利に後背を突かれるのを嫌がった長宗我部が、慎重策を取ったという極めて無難なものであった。

 伊予国には毛利、阿波国には徳川という二大勢力を相手に、無闇にかからず本貫の地である土佐国で防衛に勤めつつ様子を見る、という判断をしたのだろう。


 季節は収穫の秋であり、国許にもある程度の兵と人手を残している徳川や毛利と違い、長宗我部は兵のほぼ全てが農民たちでもある。

 精強と謳われる土佐の一領具足(いちりょうぐそく)衆と言えど、食わねば飢えて死ぬのみであり、収穫の時期に長く土地を離れる訳にはいかない。

 おそらく年内に長宗我部が再び軍を興す事は叶わないだろう。

 攻め込めば防衛主体で兵は集まるだろうが、完全に守りに入った相手を打ち崩すのは骨が折れる。

 ならばここからは戦場で弓矢を交えるのではなく、外交の場で戦を仕掛けるべきだと信長は判断した。


 差し当たっては現在も阿波国に居続けている徳川軍に、兵を退くように通達を出す。

 東海から遠く離れた四国に渡り、そのまま冬を越させてはいくら精強な徳川と言えど、兵の士気の低下は免れない。

 ましてや万の兵が冬を越せるほどの兵糧ともなると、莫大な負担を科す事となり徳川の財政が立ち行かなくなる恐れがある。

 しかしいざとなればこの時代、戦で攻め込んだ土地での『乱取り』、いわゆる略奪行為を行って兵糧の現地調達を行う事も頻繁に行われていたし、いざとなれば徳川家もそれを行える状況ではある。

 だが絶対ではないものの、信長は家康が『乱取り』を行わないのではないか、という漠然とした確信があった。


 古来より戦では食糧も人間もその多くが消費され、また戦場となった場所のすぐ近くではその巻き添えで、村が焼かれ人は攫われ、田畑は荒され全てを奪われる。

 これは別に特別な事ではなく、むしろ『略奪するために戦を起こしていた』と見る事も出来た。

 かつての武田家は貧しい甲斐国から肥沃な信濃国へ、略奪を行うために戦を仕掛け、一方の上杉家は謙信時代の関東遠征の際に、部下たちの『乱取り』を特に咎め立てずに進軍を続けた。

 口の悪い者は武田家を「全てを奪い尽くす山賊」と罵り、上杉家は「義を掲げてはいるが、それは武士に都合の良いだけの義であり、民にとっての義ではない」と(あげつら)った。

 それほど戦の前後と最中での乱取りは一般的に行われた行為であり、実際に被害にあった民を除けば悪行と見なされてはいなかった。


 そして現在の徳川家は戦で長宗我部を打ち破った興奮そのままに、特に末端の兵などは長宗我部の襲撃を警戒せず、思うがままに奪い尽くせるのではないかと息巻く者さえいた。

 しかもこの場合、阿波国内の物資も人手も財貨も奪い尽くし、長宗我部軍が改めて攻め込んできた時には、戦略的に支配する価値の無い土地、としておく事も出来るという大義名分も作れる。

 無論これから自分達がそこを支配地として治めよう、とする場合だとこの行為は逆効果となる。

 その地域の民草からすれば、突然やって来ていろんなものを奪い尽くした挙句に「これからは自分達が支配者だから年貢を納めろ」などと言われて従える訳がない。

 良くてその土地からの逃散、悪ければ一揆を起こしてその支配者に牙を剥く。


 それ故にこれから自分達が安定して支配しようとする土地では、あまり酷い「乱取り」は行わないのが暗黙の了解となる。

 だが今回の徳川軍はそれに合致しない。

 家康自身、領国から遠く離れた飛び地の四国に領地など手に入れても統治に困る上に、元々信長を含めた同盟国への「徳川家の基本姿勢」を示すための戦であり、阿波国を手に入れる気などさらさら無かった。

 それ故に阿波国内でどれほどの非道に手を染めようとも、実際に被害にあった者以外で文句を言われる心配の無いものであった。

 しかし今回徳川家は家康自ら乱取り禁止令を出し、末端の兵にもそれを徹底させた。


 不満気な部下や末端の兵たちへの理由には「地の利の無い我々が下手にこの四国の者に手を出せば、どこで要らぬしっぺ返しを食らうか分かったものではない」という、極めて正論な物言いをした。

 一方で信頼のおける重臣たちには、家康自身の本音を聞かせることにする。

 「信長殿は後々阿波国を信頼出来る家臣に統治させるであろう、ここから大坂城までは淡路一つ越せばすぐじゃ、海の上では砦も築けぬし、淡路におるのが仙石殿では些か心許なかろう」と。

 仙石秀久は武勇・内政共に悪くは無いものを持っているが、だからと言って信長の本拠となる大坂城が攻められるかもしれぬ時、最後の砦を任せるに足るかと問われれば、やはり首を傾げてしまうだろう。

 元々が美濃国斎藤家家臣であり、秀吉の下で与力として働いていた経歴が長い仙石秀久は、やはり信長の直臣でもなければそこまで縁が深い間柄でもない。


 そうなれば対長宗我部への抑えも含めて信長の股肱の臣が阿波国へ派遣されてくる、そういった公算が高いと家康は踏んでいた。

 かつては筆頭宿老であった柴田勝家は既に亡く、同じく宿老の丹羽長秀ももはや余命幾許(よめいいくばく)もないという話も聞いている。

 清州会議で立場が繰り上がった池田恒興は家康が討ち果たしてしまったし、残る秀吉は信長によって朝廷への楔として用いられる事になっている。

 となれば次点となる地位にいる、かつては信長の馬廻り衆、母衣衆として名を馳せた者たちか。

 ここまで考えれば、自ずとこちらに寄越される人間は予想が付く。


「佐々か前田……今や上杉は同盟国なれば、その抑えにこの二人まで置く必要はあるまい…長宗我部の鉄砲運用の戦術に対抗する上でも、このどちらかで間違いあるまい」


 家康はそう結論付けた。

 事実信長はこの時点で佐々成政に四国へ向かわせる算段を付けており、長年の付き合いから家康も信長がどのような戦略・戦術を取るかの大凡(おおよそ)のところは掴めていた。

 織田軍内でも佐々成政と前田利家と言えば、本能寺で討死にした野々村正成らと共に織田家鉄砲奉行の地位にあったことがあり、鉄砲の扱い運用に関しては織田家屈指の武将である。

 鉄砲を戦の中心に据えた長宗我部を相手取るのに、これほど相応しい人材もいないと言えるだろう。

 何よりこの二人は若かりし時より信長に付き従い、その付き合いの長さと密度は他の追随を許さない。


 そしてなればこそ、家康がこの地で乱取りをしない、という最初の決断に行き付く。

 中央から日ノ本全土を治めんとする信長の、その股肱の臣がこの阿波国に派遣された時に、以前の徳川の略奪によって奪い尽くされ、恨みしか残らぬ土地となっていたとしたら。

 間違いなくその地を治める事になった者の怒りと、信長の不興を買う事だろう。

 「どうせ自分達が治める土地でないのなら」と、その考えを安易に実行に移せば家康も、そしてこの場に居ない信長すらも『民を慈しまぬ者が日ノ本の為などと』ということになり、大義を失う。

 家康の軽はずみな行動一つで、信長の考える壮大な計画が水泡に帰す事になってしまう可能性がある、その危険性を考えた家康は部下への乱取り禁止を周知徹底させた。


 そしてその考えは信長が「家康ならばそうするのではないか」という、漠然としながらもある種の信頼によって想像していた行動と合致していた。

 信長は家康の、家康は信長の思考をある程度まで読み切る事が出来たがために、阿波国での乱取りは行われず、阿波国の民は海を渡ってきた徳川軍が、他の軍勢の様に略奪をしないことに戸惑いつつも喜んだ。

 しかしそうなれば当然兵糧の備蓄に不安が募る。

 家康は現地の商人と渡りを付けて購入出来る物は購入して当座を凌ぎ、淡路の仙石家からも兵糧を送ってもらうなどの援助を受けながら、信長からの援軍を待った。

 信長も長宗我部の再侵攻の可能性は無いと判断し、徳川軍との引き継ぎさえ無事に済ませてしまえば問題無しと判断したため軍勢を編成した。


 信長は家康の予想通り佐々成政に、兵一万五千を率いて四国へ渡るよう命じた。

 無論そのまま四国で冬を越す事も前提とした、大量の兵糧を持って行く事も厳命する。

 長宗我部には「織田には万を超える軍勢が、冬を越せるだけの兵糧の余裕がある」と見せ付け、同時に国境沿いに敵が在り続けるという心理的圧迫を加え、長宗我部元親本人や家臣・領民全体に不安を煽る。

 音を上げて向こうから交渉を持ちかけてくれば、完全に優位に立った状況での外交戦が出来る。

 佐々成政には国境沿いを脅かすだけ脅かして、こちらからの使者などは一切出さずに向こうからの使者を待て、という命令も出しておいた。


 成政自身、元々が調略を得意とする秀吉を毛嫌いする男である。

 一戦もしない内から早くも敵に寝返りを持ちかけ、こちらに引き込むというやり方は確かに賢いと言えるだろう。

 だが成政の本音としては、自身の武勇と将才でもって敵をねじ伏せ、その上での降伏を認めるというのが武士のやり方であると思っている。

 最初から勝てる見込みがあるのなら、自軍の勝利を疑いなく信ずるのなら、戦いもしない内から交渉など臆病者のする事だ、という考えが根底にある。

 信長の命令は、そんな成政にとってうってつけの命令と言えた。


「必ずや! 上様の耳に良い報告をッ!!」


 もはや叶わぬと思っていた、信長からの一軍を率いて出陣せよ、という勅令。

 口には笑みが、そして肌が粟立つのを抑え切れぬとばかりに声を張り上げる成政。

 全身に力が漲るのを感じながら、成政は信長の前を辞した。

 最早居ても立ってもいられぬ、とばかりに()く成政に、信長は思わず口角を上げた。

 首尾良く長宗我部を服従させたなら、佐々成政にはそのまま阿波一国を与えるつもりであった。


 長宗我部への抑え、大坂への四国の情勢をいち早く伝える連絡役、大坂・堺への貿易船の海上交通路の保守など、阿波一国を抑えさせる事でやらせたい仕事は幾らでもある。

 能力はもちろんの事だが、それ以上に決して自分を裏切らず、下手に利に聡い人間ではない、そういった条件を全て満たしていたのが佐々成政だった。

 信長から内々に阿波一国を与える、という言葉をもらっていた成政は、その抜擢人事に眼を輝かせながら鼻息を荒くして平伏したほどだった。

 そして成政が辞した後、側には蘭丸しかいなくなった大坂城の一室で、信長は大きく息を吐きながらとある人物の顔を思い出していた。

 京都所司代・堀秀政に、大坂城へ出頭させるように命じた宣教師。


「本願寺はおさえた………さて、どう出るルイス・フロイス…」


 自らの命よりも信仰を重んじる、敬虔な宣教師と会うのは久しぶりである。

 だが今回は今までとは違う。

 遠き九州の事とはいえ、日ノ本の民を信仰で縛り、船で異国に奴隷として売り飛ばすという暴挙。

 この事実を知った以上、そして本願寺という不倶戴天の敵であった存在が敵ではなくなった以上、信長がフロイスに手心を加えてやる理由は無い。

 下手な誤魔化しや居直り、ましてや母国の戦力を当てにした恫喝などを見せて来た時には、ありとあらゆる手段を以ってその頭の中にある情報を全て引きずり出してやる。


 あの敬虔な態度は果たして偽りであったのか。

 或いは自分達と懇意にさせることで、こちらの、日ノ本の宗教勢力との対立を煽らせる狙いでもあったのか。

 九州での人身売買には、フロイス自身どれほど関わっているのか。

 信長の頭の中に、フロイスに詰問するべき内容が次から次へと浮かんでくる。

 フロイスとの会見の結果次第では、信長は年明けを待たずして『デウスの教え』の排斥に動かねばならないだろう。


「ふむ、余興にもなるか…お蘭、フロイスとの会見には顕如らも同席させるぞ」


「ッ! 恐れながら…水と油を混ぜるかのような…」


「承知の上よ…むしろわしと顕如が同席しておる所にフロイスを呼び、どのような顔をするかを見てやる…敵対心を露わにしたのなら、それで奴の肚も読み易くなろう」


「…承知致しました…されば詳細な日時を取り決め次第、顕如殿にも通達いたします」


 蘭丸がそう言って平伏すると、信長は満足そうに頷いた。




 足利尊氏を祖とする足利将軍家。

 鎌倉幕府に代わる新たな武家政権・室町幕府を誕生させた男の子孫、その当代の当主にして足利幕府第十五代将軍・足利義昭。

 『名族の生まれでありながら。若年の頃より理不尽極まりない不遇の扱いを受け続け、ようやく将軍となるも身分卑しき者によって京を追われし非業の将軍』

 それが彼の自己評価であった。

 彼の頭の中では、この世に生きる者はどのような生まれの者であろうとも全うすべき役割、行うべき宿業というものが存在する、という考えがある。


 例えば貴き血筋に生まれし者はそれに見合うだけの責を負う代わりに、下々の者よりも贅を凝らした生を謳歌すべきであり、下々の者は土に塗れ地に這いつくばるだけで生きることを許される。

 『幕府の将軍』という、この世で指折りの貴き地位に就いている者は天下の安寧のために、いついかなる時も心を砕きあらゆる物事を考えねばならぬ重責を担う。

 作法や教養は息をするように身に付けねばならないし、人脈の構築のためならいけ好かぬ者たちや身分卑しき者と対面する苦行も味あわねばならぬ。

 命を狙われる恐ろしさは言わずもがな、事実十三代将軍にして我が兄たる義輝公は、三好家と松永久秀なる慮外者らによって命を奪われた。

 それらを全て抱え込まねば将軍とは言えぬ、事実わしは将軍たるに相応しい事を為していたはず。


 だというのに一体何故、このような仕儀に相成ったというのか。

 甘言をもってわしを誑かし、将軍の地位を用意したかと思えばわしを傀儡扱いした悪鬼外道。

 もはや死して生まれ変わっても忘れぬであろう、怨敵・織田信長。

 あやつが本能寺で明智によって討たれた、と聞いた時には心より喝采を上げた。

 わしの元を去って織田に降った時には、なんという不忠者かと声を上げてしまったが、それらは全て演技だったのだと悟った。


 むしろわしに忠節を尽くすためにあえて信長に(へりくだ)って、あやつの科す人を人とも思わぬ無理難題をこなし続け、そうして得た機会を活かして信長を誅殺したと聞いた時の痛快さときたら。

 敵を騙すにはまず味方から、などという言葉があると聞いたことがあったが、この時の明智はまさにそれであった。

 だが哀しいかな、怨敵に忠義立てなどした下賤なる者共によって明智は討たれ、わしは京へと返り咲く機会を失った。

 その後は羽柴などという、どこの馬の骨とも分からぬ小男が天下人を気取り、信長亡き後の世を動かし始めるという異様な有様となった。

 どれほど天はこのわしに苦難を与え続けるのか、悲嘆に暮れていたわしに一条の光を差し与えたかと思えば、その光はさらなる闇によって呑み込まれた。


 だがそれで終わりではなかった、死んだと思っていた悪鬼外道は生きており、しかも真の忠義者と思っていた明智光秀は、実は真の不忠者であった。

 しかもそれからほどなくして、わしを支えるという話であった毛利家はわしとの縁を切るという一方的な書状を寄越してきた。

 日ノ本を護るべく毛利家は織田家と和を結ぶ、という書状を見た時には書いてある意味が全く分からなかった、いや未だに理解の仕様が無い。

 日ノ本を護るのは武家の頭領たる将軍の役目であり、その将軍と呼べる存在はわしを置いて他に無い。

 その将軍を置き去りにして、一体何をどうするというのか。


 毛利家の当主である毛利輝元は、兄・義輝から片諱をもらっておきながらまさか乱心したのか。

 一旦はそう考えたが、後で冷静になって考えれば答えは出た。

 要は毛利家も織田家に屈したのだ。

 そしてわしの存在が織田家に漏れれば、毛利家は潰されるとでも思いこんでこのような真似をしたのだと察しが付いた。

 この分では毛利は未だ気付いてはおらぬ、お主が手放してしまったのは未来の玉璽(ぎょくじ)であるという事を。


 わしが毛利に付く限り、毛利は織田に対して大義名分を掲げ続ける事が出来、首尾よく織田を破った暁にはわしが京に、将軍に返り咲いて輝元には副将軍という地位を約束してやったものを。

 思えば信長めは最初から反抗的であったのだ、わしからの副将軍か管領の地位を与えるという褒美を、あろうことか要らぬと拒絶したのだから。

 わしが如何に感謝していたかを表してやろうとしたのに、あやつはそれを拒絶した。

 わしの寛大さをあやつは足蹴にしたのだ。

 今にして思えば、なぜあの場で不敬として切腹を申し付けなかったのか。


 あの場で信長を亡き者にしてしまえば、わしの将軍としての権威は一層高まり、諸大名も自ずとわしに頭を垂れ、今頃は京で連歌の会でも催していたかもしれぬというのに。

 織田は悪鬼外道の如き輩だが、毛利は毛利で小心すぎる。

 むしろわしを押し立てて京に攻め上る、くらいの事がどうして出来ぬのか。

 信長風情でもそれが出来たというのに、輝元にそれが出来ぬのはやはり九州や四国に跋扈(ばっこ)する凶賊共のせいか。

 時が来るまでは、と無聊を慰めるつもりで滞在していた鞆の浦であったが、まさか毛利がこのわしを、将軍を手放そうとは夢にも思わなかった。


 雌伏の時を過ごしているだけのはずであった、いずれ時が来ればわしを乗せた輿は再び京へと入り、わしが京から落ち延びる際に心なき声を上げていた者共を一人残らず晒し首にし、その上で改めて京を支配下に置いて天下の政を行うはずであったというのに。

 何故このような事になったのだ、いや答えは分かっている。

 信長だ、あの男が本能寺で大人しく死んでおればわしは再び京に戻る事が出来たのだ。

 やはりあの男は人外の化生、悪鬼外道の修羅じゃ、羅刹じゃ、鬼畜生じゃ!


「おのれおのれおのれ、信長めぇぇッ! 忌々しいことこの上ないわぁッ!」


 怒りが高じた義昭はその場で地団駄を踏み始めた。

 その様はまるで、物事が思い通りにいかぬ事にダダをこねる子供の様であったが、本人だけがそれに気付かない。

 自分は将軍であるはずなのに、なぜこのような目に遭っているのか。

 答えは出ないまま思考は堂々巡りとなり、義昭はひたすらに苛立ちを何かにぶつけ続ける。

 自分の言う事も、行う事も、何もかもが上手くいかない事に日々鬱憤が溜まり続ける。


「信長も、明智も、羽柴も毛利も何もかも! 何故わしがこのような場所で燻っておらねばならんのだぁッ! わしは将軍ぞ! なぜわしが! なぜわしが! なぜわしがぁッ! 何故どいつもこいつも武家の頭領たるわしを蔑ろにしておくのだ、日ノ本に生きる武士としての矜持も無いのか慮外者共がッ!」


 この日の義昭は特に荒れていた。

 床の板を踏み抜かん勢いで地団駄を踏み、ふすまを次々と蹴倒し、ひじ掛けを投げ飛ばし、それでも気が収まらない様でついには腰に佩いていた刀すら抜き放つ。

 その眼差しは常軌を逸した光を放ち、血走った眼が獲物を探して辺りを睥睨する。

 もはや誰でも良かった、自分のこの鬱屈した気持ちを晴らせるのなら、相手が誰であろうと斬り捨てて、この鬱屈した気持ちを鎮めるための人柱にしよう。

 そんな剣呑な空気を放ちながら、哀れな獲物を探し始めて縁側へと踏み出した義昭の前に、ふらりと一人の男が現れる。


 義昭の眼がその男を標的と定めた。

 口元を歪めて刀を構え、狂気を帯びた視線をその男の顔に向ける。

 義昭の中に残った僅かな理性が、見覚えの無い顔だと告げる。

 そこでようやく、義昭は徐々に冷静さを取り戻してなぜこの男が自分の前に立っているのか、を思考し始めた。

 自分の周りには少数とはいえ供の者がいるはず、見知らぬ者が入って来るとすればその者たちの中の誰かが義昭に報告に来るはずなのだ。


 なのに自分に全く報告が無い、あるいは目の前の男はその者たちに気付かれずに自分の前に現れたというのか。

 いずれにしろおかしな話だった。

 供の者の怠慢か、あるいは目の前の男の無礼か、とりあえずは目の前の男を斬り捨て、この者をここまで通してしまった愚か者にも、責任を取らせて首を刎ねねばならぬ。

 冷静さこそ取り戻しても、未だ狂気に支配された義昭は目の前の男に斬りかかった。

 この男の素性などどうでも良い、将軍であるわしが自ら手討ちとしてやるのだから、涙を流して甘受すべき事柄なのだ。


「これはまた、随分と手洗い歓迎にございますな…」


 だが義昭の持つ刀が、目の前の男の身体に届くことはなかった。

 男の持つ杖が義昭の刀を受け止めて、そこから全く微動だにしなかったのだ。

 将軍の太刀を受け止める、という行いに義昭はさらに苛立ちを感じた。

 将軍自らが振った刀を、感謝しながら討たれるのではなく、防ぐなどという事が許されていい訳がない。

 激高した義昭は奇声を上げながら刀に力を込めるが、男が持つ杖はビクともしない。


「ふむ……相当荒れておいでのご様子、そこまで信長が生きていた事が疎ましゅうございますか?」


「ッ! な、なぜそれを…いや、何者じゃお主は!? わしを、わしを誰だと思うておる!」


 真剣で斬りかかられても表情一つ変えずに、片手に持つ杖で受け止め切った男は、感情を感じさせぬ声で淡々と義昭に問いかけ、その声に義昭は狼狽えながらも声を荒げた。

 そして刀を退いて構え直し、義昭は肩で息をしながらさらに「頭が高い! わしは室町幕府第十五代将軍にして従三位権大納言、足利義昭なるぞ!」と声を張り上げた。

 それを聞いてその男は杖こそ持ったままではあるが、その場に片膝を付いて頭を垂れた。

 その態度にようやく少し溜飲が下がったのか、義昭は構えを解いてその男を改めて見やる。

 旅装姿の武士、という風情ではあるがどこか威圧感があり、重心の傾き具合から身体のどこかが不自由である、という事は見受けられた。


「本来であれば問答無用で首を刎ねる所ではあるが、わしは心が広い…格別の計らいにて直答を許す、貴様は何者で何をしにこの場に現れた? 包み隠さず申せ!」


 予想以上に傀儡として容易に動いてくれそうだ、と分かると思わず口の端が釣り上がる。

 ほとんど表情を変えない男ではあったが、流石にこれほど滑稽だと笑いを抑え切れない。

 傲慢で、癇癪持ちで、器が小さく、それでいてその能力に見合わぬ地位が当然と驕り高ぶる。

 信長もさぞ呆れながら御輿を担いだのであろう、そんな感情をおくびにも出さぬまま、男は口を開く。


「某の名は黒田官兵衛孝高と申しまする。 元は播磨国の国人・小寺家家臣にして後に袂を分かち、羽柴家へと鞍替えいたしました。 しかし先日復活した第六天魔王を騙るあの信長によって、謂われなき罪により家禄を没収され、命まで狙われる仕儀と相成りました。 かくなる上はあの怨敵めに一矢報いんと、不遇を囲う上様に今一度御立ち頂き、世に再び正しき秩序を布いて下さいますよう…」


「それでわしに信長追討の旗頭になって欲しいと、そのために我が前に現れたと申すか?」


「無間地獄に堕ちても飽き足らぬ悪党の征討、これを成すには高貴なる血を引く方の、正義の御旗の力にお縋りするより他に手は無し…某は微力ながらその一助となるべく、無礼を承知で馳せ参じたる次第…」


 舌が腐り落ちそうだ、と思った。

 調略において、相手の気分を持ち上げるというのは常套手段ではあるが、ここまで心無い言葉を並べ立てた事は、官兵衛の記憶にも無かった。

 我ながらよく一度も舌を噛まずに、このような放言が出来るものだと呆れるほどだった。

 だが今や朝廷すら手中に収めんとする信長に対抗するには、形だけでも正当性を得られる存在の後ろ盾を用意する必要があった。

 かつては信長も用意し、そして用済みとして捨て去った『室町幕府将軍』の大義名分。


 朝廷の公家衆の中でも、反信長の意思を持っている者は少なからず存在するが、それでも情勢が信長に傾けば、あっさりと掌を返すのが公家というものだ。

 協力を仰いだ公家に、いざという時のトカゲの尻尾として切り捨てられるのは御免である。

 ならば大義名分として利用が出来て、なおかつ信長への恨み骨髄、という存在ならば。

 信長に捨てられ、京を追われた男ではあるが、義昭自身はまだ京への返り咲きを諦めてはいない。

 ましてや信長への恨みとなると、一昼夜語れそうなほどの膨大なものとなるだろう。


 官兵衛にとってはこれ以上ない傀儡であり、存在自体が大義名分となる上に、なにより自身で筆を持って信長討つべしの文を日本中に送り続けるほどの執念深さである。

 これほどの「駒」を、捨て置くなどあまりにもったいなかった。

 だが官兵衛の思惑を知ってか知らずか、予想外の言葉が義昭からこぼれた。


「わしはな、信長に利用されていた時から散々嘘を吐かれてきた…」


 官兵衛の表情は動かない。

 だが内心ではピクリと反応していた。

 官兵衛がそっと顔を上げると、官兵衛を真っ直ぐに見下ろす義昭が立っている。


「おべんちゃらを重ね、心にも無い事をぺらぺらと良く喋る…そんな者たちを吐いて捨てるほど見てきたわしじゃ…お主が何を思っておるのか、わしには見抜けるのだぞ?」


 予期せぬ義昭の言葉に、官兵衛は驚きを隠し切れなかった。

 わずかに眼を見開き、心臓の鼓動が上がる。

 義昭は相変わらず抜身の刀を手にしたまま、一歩一歩と官兵衛に近づいてくる。

 仮にも将軍となり、あの信長とやり合った経験を持つ足利義昭を舐めすぎていた、そんな動揺が官兵衛の脳内を駆け巡る。

 そして官兵衛の目の前までやってきた義昭は、手にしたその刀を逆手に持ち替え、官兵衛の顔をかすらせるように目の前に突き刺した。


「お主の眼は本物じゃ…本気でわしを支え、あの悪党を誅殺せんとする忠義に満ちておった…よくぞ参ったな黒田……黒田、何某(なにがし)とやら…そなたを足利の臣の列に加えてやろう、励めよ!」


 そう宣言した義昭は、一瞬だけ呆気に取られた官兵衛が、再び頭を垂れたのを見て満足そうに笑った。

 一方の官兵衛は瞬間的に「傀儡に使うとしても、早まったことをしたか?」という疑念に襲われた。

 刀を納めて背中を向けながら、義昭は「わしは人を見る目があるのだ」と独り言にしてはやけに大きな声で語り始める。

 それを完全に聞き流しながら、官兵衛は「これほどとは、本当に早まったかも知れん」という、疑念から確かな後悔へと、自らの行動に珍しく反省を見出した。

 天正十二年十一月、信長と官兵衛は来る日のために着々と己の陣容を固めていった。

いつか出そう出そうと思いながらも、ここまで出番が遅くなってしまいました。

信長を語る上で外せない人物の一人、足利義昭の登場となります。

少しでも良い扱いにしてみたかったのですが、やはり無理でした…理知的で有能で洞察力のある足利義昭、どうしても違和感があり過ぎてイメージできません。

せめて年内にあと一話くらいは投稿しておきたいと思います。

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