信長続生記 巻の九 「叛逆の胎動」 その1
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信長続生記 巻の九 「叛逆の胎動」 その1
夜の帷と木々が生み出す暗闇の中を、複数の人型の影が疾走している。
どの影もそれが暗闇の中とは思えぬ俊敏な速さで動き、その中から一つだけ突出した存在を後に続く影たちが追っている。
山深い土地の、無数に立つ木々の乱雑に伸びた枝や葉をまるで全て知り尽くしているかのように、突出した影は速度を一切緩めず進んでいく。
時刻は深夜と言ってもいい時間帯の山深い場所となれば、辺りには暗闇が満ちてそこかしこに野生の動物が潜んでいそうな空気を漂わせ、人間に本能的な恐怖を抱かせるには十分な環境だった。
だが突出した影は、恐怖など微塵も感じさせない動きでその後を追う者たちを隙あらば引き離そうとしていた。
(なんという速さだ…我らが付いて行くのがやっとなどと…)
突出した影を追う者たち、信長によって召し抱えられている甲賀忍軍の一部隊を任されている上忍の一人が、口にこそ出さないものの先程から内心で歯噛みしていた。
追っている者たちは皆甲賀の忍たちであり、暗闇での移動や戦闘の訓練もしている。
夜目も効くため、暗闇に紛れて動く前方の影を見失ったりはしない。
だが見失いこそしないものの、その距離は一向に縮められないでいた。
それほど自分たちが追っている者の足は速く、また夜目も効くのか障害物となる草木や枝葉などを巧みに避けて進んでいる。
逃走を図っている存在は、織田家の敵対者であることは間違いない。
なにせ本願寺の中でも反織田派の旗頭となっている顕如の長男・教如の一派を軟禁場所から解放し、また雑賀衆の中でも反織田派筆頭、土橋守重と繋がりがあると目されている者だ。
信長と顕如が近衛前久と一条内基の仲立ちによって会談を行ったその日、顕如はいらぬ騒動を起こさぬために、この機に信長を害さんとする教如一派を軟禁した。
その監視の総責任者を、自らの後継者と考えている三男・准如に据えて、万が一にも逃がす事の無いように厳命した。
軟禁場所で大人しくしている様であれば、今後の振舞い如何によっては教如にも何らかの立場を用意し、少なくとも屈辱的な扱いにはさせぬように取り計らうつもりであった。
顕如としても自らが隆盛させた後に凋落させてしまった本願寺を立て直すため、信長と手を結ぶことは容易ではないにしろ、絶対に有り得ぬ一手ではないと思っていた。
准如もその考えには賛同してくれたが、教如をはじめ過激な意見を打ち出す門徒たちは、それを絶対に認めようとはしなかった。
しかもその人数は決して少数という訳でもなく、それら全てを納得させる事は不可能であった。
そのため信長が紀伊国までやって来るという話に「この機に信長を討って先に極楽へ逝った者たちへの手向けとせん」とまで宣言してしまった教如と、それに賛同していた主立った者たちは、顕如の命により伽藍の一つに押し込められ、会談が終わるその時まで軟禁される事となったのだ。
だがとある者の手引きにより、教如たちはその伽藍を飛び出し、信長の命を狙って暴れ始めたのだ。
監視をしていた准如たちと警備をしていた織田家の兵士たちは、それを抑え込もうとするも過去の諍いのために互いが互いを信用し切れず、すぐには事態を収拾出来ずにいた。
そこに土橋守重を支持する雑賀衆の者たちが乱入、いよいよ混乱してきた状況にさらに追い打ちをかける者がいた。
頭上より鉄砲を撃ちかけ、警備を指揮する者たちを狙撃して、事態の混乱に拍車をかけようとする者が現れたのだ。
事ここに極まり、信長周辺を中心に警備していた甲賀忍軍から、狙撃した者たちを中心に排除命令が下り、さらに織田家の兵にはこちらの兵を殺した者は討ち果たし、武器を持って暴れて手が付けられない者も殺してもやむなし、という命令が下りた。
それまでは向後の憂いとなりかねないため、相手が本願寺の僧や雑賀衆の者が相手でも、怪我を負わせて無力化はしても、殺しても良いとは言われていなかったのだ。
それまでは加減した対応しか取れなかった織田軍も、命令が下った事で火縄銃を用意し、奪った薙刀で暴れようとする本願寺の僧兵や、こちらに銃口を向けてきた雑賀衆を次々に駆逐していった。
これがまた後々の禍根となってしまうかもしれぬ、と内心で心を痛めてはいたが、それでも自軍の兵士たちがやられるのを黙って見ている訳にもいかなかった森成利(蘭丸)や池田輝政などは、率先して事態の収拾に全力を尽くした。
そうしてようやく事態も沈静化し、さらに会談場所で凶行に及んだ土橋守重も捕縛されると、教如も乱戦の中で負傷した事もあってか、混乱の気配は急速に弱まった。
その中で蘭丸の耳に一つの報告が入った。
どうやら教如たちが軟禁場所から出る事は出来たのは、素性不明の忍びの存在があったという事だった。
さらに樹上にあって上からの狙撃を行った者の存在など、いくら雑賀衆やそれを指揮する土橋守重が信長を害さんとしていたとしても、あまりに手際が良すぎる事からこのような事態があらかじめ起こる事を想定していた何者かがいるのでは、と蘭丸は推測した。
最も可能性が高いのが、樹上からの狙撃をしていた者と教如たちを軟禁場所から解放した者が同一人物、あるいは同じ勢力に属している、という事。
いずれにしろ甲賀忍び達には周辺をくまなく探すようにと蘭丸は厳命し、自らも報告のために信長の元へと向かった。
さらに池田輝政の指揮する兵に捕縛された土橋守重は、長可の怒りの拳をまともに食らって気絶した後、長可の思い付く限りの拷問を受けてついには口を割った。
初めから生かして帰す気など毛頭ない長可は、立場上その場にいなければならない兵士が数日食欲を無くすほどの激烈な拷問を行った。
結果、会談の二日前に守重を訪ねてきた年寄りの忍びは、懐に収まる大きさの短筒で信長を撃ち殺すよう依頼してきた、という事が分かった。
守重は状況を想定し当初は不可能だと首を横に振ったが、信長の再臨とそれによる影響で雑賀衆がどのような扱いになるのか、を忍びは語った。
無論その忍びとは黒田官兵衛と協力状態にある百地丹波ではあったが、あくまでこの場では『鳶加藤』こと加藤段蔵の名を騙り、官兵衛から指示された通りの言葉で守重を籠絡した。
反織田の土橋守重によってまとめられた雑賀衆が信長にとってどれほど邪魔であるか、一方で『雑賀孫市』こと鈴木重秀に雑賀衆をまとめさせた場合、土橋守重の立場はどうなるか。
守重は悩みに悩み、結果としてとある条件を突き付けた。
自分が雑賀衆の頭領のままで、信長が雑賀衆を自らの陣営に高値で雇い入れること、これが叶ったなら信長を討つ必要は無い、なのでそれをまずは確認したい、という事を条件に入れた。
さらに会談の場で信長を討つ様な真似をすれば、自分は間違いなく捕縛されて殺される、なのでどのような形であれ逃げ道を確保して欲しい、という事。
加藤段蔵の名を騙る百地丹波は、それを事も無げに了承した。
既に織田軍の先発隊が到着しているにも拘らず、それらにその存在を悟らせずに土橋守重に接触を図れる、その様な技量を持つ忍びである自分なら退路の確保などお手の物だと。
言われてしまえば納得せざるを得ず、だが守重は報酬をはずんでくれなければそのような危険な真似は出来ない、と最後に抵抗した。
すると百地丹波はその言葉を鼻で笑ってこう言い放った。
「分かっておらぬな……信長がお主を懐に入れるなど決してあり得ぬ、ましてお主は今座して死ぬか、一筋の光明を目指して抗うかの瀬戸際におるのだ…報酬は今渡しても良いが、それを持ったままノコノコと信長の前に出るのか? それならば信長に一矢報いて逃げ切った後にまとめて渡した方が、お主にとっても都合が良いとは思わぬか? どの道お主はこのまま雑賀の郷にはおれぬ、ならばここで多少の金子を手に入れたとて無意味であろう? 国境まで逃げおおせた後に、報酬はしっかと渡してやるわい」
それで守重は沈黙した。
信長が自分を高値で雇い入れるのであればそれで良し、だがそうでなかった場合自分は間違いなく何らかの形で不幸な結末を辿る。
それを改めて思い知らされただけでなく、そもそも都合の良い方向に向かう可能性が低いという事を再認識させられ、追い詰められた心境の守重は苦渋に満ちた顔で最後は首を縦に振った。
本願寺の中でも反信長派である教如一派や、自分に付いてくる雑賀衆を陽動に使い、会談場所で守重が信長を討ち、後は『鳶加藤』と共に混乱に乗じて姿をくらませる。
一見して既に穴だらけと思える作戦でも、守重には他に取れる手段が無かった。
そして最後に守重は切り捨てられた。
信長に向かって短筒を放ったものの、身を挺した明智光秀によって信長はかすり傷一つ負わず、その場からの逃亡を図った自分への援護は全く無かった。
ひたすら短筒の銃口を四方を囲もうとする兵に向けて回り、威嚇しながら逃げるにも限界があった。
捕えられた後は長可による鉄拳、更に拷問で知り得る限りの情報を吐かされた。
しかしその時点で時刻は既に夕闇が支配する時間となっており、ようやく蜂起した者たちの捕縛・処断が一通り終わった所だった。
総兵数の半分を近隣の山狩りに出す一方で、忍びには忍びという考えで甲賀忍軍にも出動がかかった。
百地丹波は山狩りが行われる前にすでに現場を離脱していたが、その後も慎重に慎重を重ねた動きで自らの存在の痕跡を消しながら移動するも、ついに甲賀の忍びの一人によって捕捉された。
人一倍夜目が効く若き忍び、フクロウの手柄であった。
自分の居所が知られたと察した百地丹波はそれまでの慎重な動きから一転、凄まじい速度で追っ手を撒く動きを見せた。
上忍の指揮する部隊の内十人ほどがこれを直接追尾、残りは周辺の者たちに連絡をする、というやり方で追跡を開始した。
そうして今、上忍とフクロウを交えた総勢十名による追走劇が幕を開けていた。
既に発見してから一里以上ほぼ全速力で走り続け、早くも息が上がりはじめる者も出てきたため、上忍はここで勝負に出る決断を下した。
持っていたクナイの一本を自らの手甲に当て、金属音を鋭く二回、更に金属同士が擦れる硬質な音を立て、周囲の部下に合図を送る。
それに気付いた部下たちは気力を振り絞って速度を上げた。
二名が先行して牽制、相手の足を少しでも止めてその隙に後から追い付いた者たちで仕留める。
下忍と中忍の二人が百地丹波と間合いを詰める。
場合によっては死ぬことさえ織り込み済みの動きであるため、二人は後先考えずに一気に肉薄した。
しかし二人が近距離からの飛び道具を放とうとしたその瞬間、ダーンッという火縄銃の発射音が夜の山を震わせた。
生きる者の習性として、思わず身を縮めて硬直してしまう甲賀忍び達とは対照的に、それが来ることをあらかじめ知っていた百地丹波は、空中で身体を反転させて二本のクナイを投げ放つ。
その二本は狙い違わず下忍の喉と中忍の眼に突き刺さる。
「ぐぅぁ!」
「ごッ…」
短い叫びとくぐもった悲鳴に、二人以外の者たち全員がどのような事が起きたのかを察した。
山肌の固い地面の上に倒れ込んだ二人の忍びをそのままにする、それに怒りと申し訳なさを感じながらも、その感情で敵への恐怖を押し殺して残りの八名が気力を奮い立たせて百地丹波の後を追う。
対して百地丹波はこの火縄銃の轟音が、紀伊国と和泉国の国境付近に配置させた弟子の一人の仕業であると知っていた。
黒田官兵衛との合流を前に、このまま後ろに追手を付けたままでは都合が悪い、そのためもしこの場に来るまでに追手がかかるようなら、この場で片付けるという段取りを取っていたのだ。
火縄銃は弟子の中で最も腕利きの者に持たせ、それ以外にも四名ほどがこの場に伏せていた。
「やれ」
百地丹波の短く発した命令に火縄銃を持った者は次弾装填を始め、他の四人はそれぞれ手に何かしらの得物をもって甲賀忍びたちに向かっていく。
上忍は敵の援軍に内心で舌打ちをしながら「怯むな、迎え撃て!」と、号令を発する。
その一方で自らの真後ろを走らせていたフクロウには「見ておけ、最悪お主は走れ」とだけ伝えた。
この命令に一瞬フクロウは動揺を表すも、すぐに気持ちを切り替えて静かに頷いた。
フクロウはその夜目の効きと瞬発及び持久力に優れた忍びではあるが、戦闘は得手ではない。
そのため戦闘には参加せず、万が一敵の戦力がこちらを上回り返り討ちにあった場合、せめて情報だけでも持ち帰るように、という上忍の指示であった。
逆を言えばこの時、既にフクロウの上司に当たるこの上忍は、百地丹波によって自分も含めた残り八名全員が皆殺しにされる可能性を感じ取っていた。
追手全員が返り討ちに遭い、ロクな情報を持ち帰れなかったとなれば甲賀の名折れである。
ましてや敵は直接信長の命を狙った一味であり、それに対して何の有効な手立ても取れなかったとなれば、それは信長に「甲賀忍びは使えない」という印象を持たせてしまう原因と成り得る。
最悪返り討ちに遭っても、出来得る限りの情報は持ち帰らせるという、苦肉の策であった。
フクロウは少しだけ後ろに下がって、戦場となった森の中で極力全体を見回せる位置に陣取った。
その頃には既に、上忍ともう一人を相手に優位に立ち回る百地丹波と、他の忍びと百地丹波の弟子たちがそこかしこで切り結ぶ、目まぐるしくも恐ろしい戦場と化していた。
そしてそこに次弾装填を終えた鉄砲が放たれ、その銃撃を運悪く胸に受けて即死する甲賀忍びがいた。
暗闇の中で敵と戦いながら、飛んで来る銃弾にも対応するというのは実質不可能である。
もっともこの場合は暗闇の中で狙いを付ける敵方も条件としては同じであるが、そんな中で胸に銃弾を受けてしまった忍びは不運という他に無かった。
だがこの運の要素が、甲賀忍び側に動揺を走らせた。
暗闇の、ましてや遮蔽物が多い森の中で、正確にこちらの忍びを撃ち抜いてくる凄腕の鉄砲の射手がいる、というのは甲賀忍び側からすれば恐怖の対象だ。
百地丹波自身、牽制以上の役目は果たせないと思っていただけに、この結果には内心でほくそ笑んだ。
これで向こうは思い切った攻めに出れず、常に木々で身体を隠しながら戦うようになるだろう、そしておそらく次に狙うのは。
敵の動きを読んで先手を打つため、百地丹波が口元に手を持って行き「ひゅっ」と鋭く指笛を拭いた。
それを合図に百地丹波とその弟子たちは互いに戦線を維持するような牽制を含めながら後退し、この場からの離脱を優先するような動きを見せた。
上忍はこの動きに思わず舌打ちをする。
こちらが攻めあぐねている、という状況を打開するために鉄砲の射手を優先して狙おうと思った矢先に、向こうは撤退しようとして見せた。
うかつに進めない中で撤退をされてしまっては、追撃もかなり制限されてしまうだろう。
ましてや向こうは夜間での戦闘を想定していたのか、火縄の明かりを上手く隠して位置を極力悟らせないようにするという、念の入れ様であった。
こちらの被害を抑えようとすれば敵を逃がしてしまう、だが敵の追撃を優先させればこちらは鉄砲の前に姿を晒さざるを得なくなる。
フクロウを除いた戦力は上忍自身も含めた残り六人、対する敵は当初の手練れの忍びと腕利きの鉄砲射手、他四人の計六人。
数の上では互角でも状況が大きく違った。
この場にいる甲賀忍び全員が上忍からの指示を待っていた、取り逃がす事を覚悟した距離を置いての追尾か、特攻染みた追撃かの判断を仰いでいるのだ。
わずか二秒で冷徹な判断を下した上忍は、ただ一言「怯むな」とだけ発した。
その一言だけでその場にいた他の者たちは覚悟を決めた。
全員が一斉に身を隠している所から躍り出て、百地丹波たちの後を追い始めた。
上忍もそれに合わせて木の影からその身を躍らせる。
ただそうする直前に背後に顔を向けて、その視線の先にいるフクロウに向かって言い放つ。
「最後方から付いて来い、わしが死ぬか半数以下になったらお主は走れ」
フクロウの返事も待たずに、それだけを命じて上忍は百地丹波の後を追う。
フクロウもそこから遅れる形で敵と味方を追いかける。
しかしフクロウはそれほど先に進むことなく、進んだ道をすぐさま逆走する事となる。
甲賀忍軍は決して弱くはない、だが今回に限り相手が悪すぎた。
敵も忍びであるためこちらの戦い方を熟知しており、ましてや状況は向こうに有利過ぎた。
自分のいた部隊で、自分以外の全員が恐らく全滅したという報せを持ち帰るため、フクロウは夜の闇の中を疾走する。
悔しさを滲ませながら走るフクロウであったが、その速度は些かの衰えも無い。
百地丹波もまずは自分の離脱を優先したため、フクロウに逆追撃はかけなかった。
そして甲賀忍軍の決死の奮戦により百地丹波の弟子の一人が討死、一人が負傷という結果となった為に、織田方に情報をやらないためその二人を抱えての逃走という事になったのも大きかった。
フクロウは情報を持ち帰るために離脱した後、途中で他の忍びと合流し状況を伝え、百地丹波追撃をその者たちに託して信長の元へと走った。
フクロウと別れ、別の小隊と合流した甲賀忍び二十人ほどからなる集団は、結局夜の闇と遮蔽物の多い山林地帯である事もあって、百地丹波を取り逃がす失態を犯してしまった。
信長はフクロウの報告を聞いた後に改めてその者たちの捕縛を命じたが、フクロウに代わって追撃に赴いた部隊は結局和泉国方面に敵は逃走した、という事以外にめぼしい情報を報告する事は敵わなかった。
この報告に信長は激怒し、座っていた上座から立ち上がりながら肘掛けを投げ付け「草の根分けても探し出せ! 黒田孝高なる者らを早急に見つけ出さねば、甲賀の里に先は無いと思え!」と言い放った。
恐縮して下がる上忍と共に隅に控えていたフクロウも下がろうとしたが、信長はそれを押し留めた。
敵は手練れの忍びであった事から、京で秀吉に襲撃をかけた者たちと同一の者ではないかと信長は推測し、フクロウには一足先に京へ向かい、秀吉と合流するように命じた。
秀吉の所に現れた手練れの老忍び、そして今回の一件の裏で糸を引いた者、共に『鳶加藤』こと加藤段蔵の名を騙り、また多くの忍びの配下を従えているという。
その一点が信長の思考に引っかかった。
信長の命を受け、休みなく京へ向かおうとしたフクロウを呼び止め、信長はフクロウに自らが疑問に思う事を問い質した。
「加藤段蔵なる者、聞けば上杉や武田に身を置くも、最後は信玄坊主によって消されたというが…お前が実際にその眼で見て、その男が加藤段蔵であったと思えたか?」
「……それ、は…」
信長から直接問いかけられ、フクロウはどう答えたものかと言葉を詰まらせた。
そのフクロウに「忌憚なく申せ、彼奴を直に見て生きておる者が他におらぬ」と言葉を続けた。
フクロウは立場としては「武士」よりも遥かに扱いが低い「忍び」であり、ましてやその中でも下忍の地位にある者なため、本来信長から直接声をかけられるような事はない。
だが二年前の本能寺の一件以後、信長はフクロウの能力に目をかけ、自らの警護の忍びの中には必ずフクロウを入れる様にしていた。
夜を徹して走り続けられる体力と速度は緊急連絡の際、場合によっては早馬よりも早く目的の者への連絡を可能とする。
さらに他の者よりも更に夜目が効くため、夜間や暗闇での襲撃に備えた警護にはうってつけである。
以上の二点により、信長はいざという時のためにフクロウを『隠れ軍監』の一員から、自らの専任警護兼緊急連絡要員として側に置いていた。
忍びの世界も武士と同じく、いやあるいはさらに厳しい上下関係が存在する縦社会であり、いくらフクロウが信長の小姓めいた役どころを与えられているとは言っても「信長の問いに直答しても良いのか」という懸念があり、フクロウはチラリと信長の左右に座している佐々成政と森長可に視線を向ける。
すると長可からは「早く言え」とばかりにアゴを向けられ、成政に至っては「上様を待たせるとは何事だ」と言わんばかりに睨み付けられた。
仕方なくフクロウは自分の思う限りのことを口に乗せた。
「さ、されば申し上げます。 彼の者は確かに手練れ、それも我ら甲賀忍びの上忍を相手にしても一対一で圧倒出来るほどの凄腕に御座いました…加藤段蔵を目にした事はござりませぬが、言われてしまえば納得せざるを得ぬ腕前、と…」
「ふむ…」
フクロウが平伏したまま顔を上げず、それでも何とか平常心を保ったまま報告すると、信長はアゴに手をやって黙考を始めた。
だがその様は顔を上げていないフクロウからは見えず、フクロウはさらに言葉を続ける。
「ただ一つ言わせて頂けるならば……あの者は我らの動きを知り過ぎておりました…」
その言葉に、信長たち三人の眉がピクリとはね上がった。
しかしそれも気付かないまま、フクロウの言葉は続く。
「単なる力量の差、と言われてしまえばそれまでに御座いますが、それでも我らの動きをまるで知っているかのように対応してきた彼奴は、上杉や武田などの東国に身を置きし『鳶加藤』と言うには、些か畿内の忍びの動きに精通し過ぎておるように思えました…加藤段蔵が甲賀や伊賀に身を置いていた、という話は少なくとも某は存じませぬ、故にもしかすると――」
「影、いやその名を騙っているだけの別の手練れか?」
フクロウの言葉を遮るように、信長は険しい目付きでフクロウを見ながら独り言のように呟いた。
信長の声にそっと顔を上げたフクロウは、ちょうど険しい目付きの信長と目が合い、慌てて面を下げて平伏し直した。
だがそんな態度をどうでもいいとばかりに、信長はフクロウに話の先を促した。
「あくまで推測に御座います、全くの見当外れともなりかねませぬが…加藤段蔵が始末された、と風の噂に聞いて既に十年以上の月日が流れております。 死んだと思われていたその間、弟子を取って配下を増やしていたとしても…相当な年寄りであるはず…或いは『鳶加藤』の名を継ぐ者、という事も」
「…いや、それはあるまい。 それほどの手練れがおったならばもっと早く世に名が知れておる、そして信玄坊主に消されたと言われる男が、武田を滅ぼしたわしの命を狙う理由が無い、黒田は既に所領も何も持たぬ者ゆえ召し抱えるほどの禄は無い、となれば自ずと見えてくるものがある…」
信長の両脇に控える佐々成政と森長可は一切口を挟まない。
いや、正確に言えば挟めなかった。
信長の思考の速度に付いていける者は少なく、またその少ない中の一人であった光秀は、つい先程息を引き取ってしまった。
だがいない者を頼りにしても始まらず、信長は自らの考えをあくまで仮説として口に出した。
珍しく断言ではなく、あくまで高い可能性の一つとして前置きしつつ信長は『鳶加藤』の正体について言及した。
「彼奴はわしに何らかの因縁、恐らくは恨みなどによるものを抱いておる……わしの命を狙う利はいくらでもあるが、純粋な利だけでは黒田めと組むのは道理が合わぬ、黒田の裏に何者かが潜むのであればそやつが飼い主であろうが、その特定は現時点では不可能…となればフクロウ、貴様の言葉が引っ掛かる」
名を呼ばれてフクロウが軽く体を震わせた。
恐る恐る、といった風情でフクロウは信長と目線を合わせ「ひ、引っ掛かるとは…」と、まるで亀のように首を縮めながらどうにか言葉を発するフクロウに、信長は真っ直ぐに視線を向けた。
「貴様は先程言ったな、『鳶加藤』は畿内の忍びの動きに精通していた、と……畿内の忍びも貴様ら甲賀や徳川の伊賀、さらには多羅尾や柳生など色々とあるが……甲賀、ではないのだな?」
「そ、それは間違いなく! 我ら甲賀は上様と織田家に忠節を誓っておりますれば――」
信長の言葉にフクロウが必死の形相で肯定する。
信長に甲賀に不穏な動き有り、と判断されてしまえばそれこそ甲賀に未来はない。
かつては織田家による甲賀攻めで窮地に陥ったものの、降伏して織田家に丸ごと召し抱えられて以降、甲賀の里の暮らし向きは明らかに向上したのだ。
十年ほど前の未だ織田家の支配が盤石とは言えなかった時ならまだしも、信長も存命中で今や一挙に日ノ本全土にその影響を伸ばさんとする織田家に対し、牙を剥けるような愚かな真似は出来ない。
さらにフクロウは本能寺の一件で信長を救った立役者の一人でもあり、元々助ける気が無ければあの場で信長を見捨てていたはずなのだ。
信長も本気で言ったのではない、とばかりに手を振ってフクロウの言葉を遮った。
わずかに口元を歪めているあたり、信長が僅かに見せた悪戯心の様なものだと見て取った成政は、昔から変わらぬその性根に懐かしげに頬を緩ませた。
だがそれも一瞬の事であり、信長が表情を引き締めるのに合わせて成政も笑みを打ち消す。
「柳生は松永との戦に端を発するやもしれぬが、多羅尾は考えにくい…差し当たってはやはり伊賀か」
かつて柳生家は、信長に二度謀反を起こして最後には自爆して果てた謀将・松永久秀に仕えていた。
松永久秀が治めていた大和国内に柳生の庄があり、その当主であった柳生宗厳は久秀亡き後大和国を治めていた筒井順慶に恭順せずに、現在も弱小ながら独立勢力の立場を取っている。
確かに織田家に対して明確な恭順の意を示していない以上、潜在的な敵勢力にはなり得る。
ましてや地理的に現在信長のいる紀伊国と大和国は隣接しており、夜の山林地帯と言えど庭のように動く事も不可能では無いほど精通している可能性も高かった。
だがそれ以上に信長が危険視しているのが伊賀だった。
『天正伊賀の乱』と呼ばれる二度の伊賀攻めで、織田家は伊賀国、さらに伊賀の忍軍に対して苛烈な攻撃を行っていた。
第一次、と銘打たれた時の総大将は信長の次男・信雄であり、敵の神出鬼没の用兵術により、巧みに戦力を削られてついには大損害を被って撤退。
織田家当主・信長の息子が、寡兵の敵を相手に大敗を喫したという醜聞に晒され、以降信長は信雄に大事な戦を任せることはなくなった。
そしてその一方で織田家の威信に泥を塗った敵方・伊賀忍軍に対し、第二次の際には信長は圧倒的兵力をもって一挙に蹂躙、伊賀国全土を焦土と化す勢いで攻めかかったのである。
結果として伊賀国内では多くの里が焼かれ、多数の死者を出した。
その『第二次天正伊賀の乱』と銘打たれた戦の翌年には、本能寺で信長が殺されかけるという事態となった。
その際堺から逃げる途上で家康は伊賀国を通り、『憎き信長の同盟者』から『自分たちの新たな庇護者』へと巧みに立場を変貌させ、無事三河国へと帰り着くという離れ業をやってのけた。
家康の偉業を讃える『神君伊賀越え』と後世語り継がれるその逸話は、前年の信長による伊賀攻めに端を発している出来事でもあった。
今でこそ伊賀忍軍は家康の元で働いてはいるものの、あの時の信長への恨みが既に晴れているかと言われれば、まず首を横に振るだろう。
家康が現時点で信長の命を狙うとは考えにくいが、それでも信長に恨みを持つ忍び、といえば真っ先に心当たりがあるのが伊賀の関係者なのだ。
「フクロウ、貴様は京へ向かいサルを護衛しつつ大坂に参れ。 成政、お主は一足先に大坂に戻り、畿内の警戒を強めつつ四国への渡海準備をせよ。 そろそろ四国でも徳川が長宗我部を打ち破っておる頃合だ、お主は徳川に代わり対長宗我部に備えよ。 徳川には兵糧を贈って功を労いつつ大坂に帰還せよと伝えろ、その際わしと家康で今後の話を詰めたい、とも言っておけ」
矢継ぎ早に指示を下し、フクロウと成政が頭を垂れて返事をする。
長可は引き続き信長の護衛として側に付き、光秀の葬儀などが全て終わるまで大坂に戻れぬ信長の周辺を固める事になった。
そして本願寺との交渉、光秀の葬儀、それらを終えて信長が大坂に帰還する際、紀伊国の主な勢力である雑賀衆は鈴木重秀が、一向宗は顕如の三男にして後継と目される准如がそれぞれ纏め上げることが決まった。
顕如は信長に付いて大坂に向かう事となり、今回の騒乱の原因の一人となった教如は、顕如と改めて義絶され、大坂で幽閉という処分が下された。
なまじ紀伊国内での幽閉となるとまたどのような行動を起こすか分からないため、近くに味方がおらず信長の膝元である、大坂城近くの屋敷に幽閉となった。
信長は当初首を刎ねようとしたが、これに異を唱えたのは意外にも准如であった。
今回の騒動で本願寺内の強硬派はその大部分が捕えられ、あるいは始末されたが、その数は未だに相当数存在し、それらを刺激するような真似は止めて欲しいと懇願したのだ。
四六時中監視されるような環境に置かれようと、死んでさえいなければまだその者たちを宥めようもある、という准如の意見を容れて、信長は教如を大坂に連れていく事にした。
いわば強硬派への人質であるが、融和派である顕如や准如からしてみれば、むしろ教如がいない方が坊官や門徒たちをまとめやすいという利点があった。
その一方で信長にとっても、教如を旗頭とする強硬派はいつか来るかもしれぬ『デウスの教え』との戦においては、使い勝手のいい捨て駒としての利用価値があると考えた。
教如の助命を理由に強硬派に恩を売り、その闘争心の矛先を自分にとっても敵となる者へ向ければ、実に都合のいい尖兵となるだろうという算段があった。
そして教如自身は義絶したとはいえ顕如の息子であり、顕如の後を継ぐであろう准如にとっても兄であるため、二人にも同時に恩が売れるのだ。
今後の本願寺との関係も考え、信長はあえて寛容に見せる事で本願寺方の態度を軟化させた。
これにより融和派の意見は信長との協調路線を進め、強硬派の一部も融和派、あるいは中立派へと傾いていく事となる。
それらの話をまとめ、信長は大坂へと戻っていった。
紀伊国を北上し、和泉国へと入る際に信長は一度だけ後ろを振り返り、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「大儀であった」
その呟きは突如後ろから吹いてきた風にかき消され、誰の耳にも入る事なく散らされていった。
その後も風は信長の背を押すように、常に後ろから吹き続けた。
まるで振り返る事を許さぬように、常に前だけを見続けさせるために吹くかのような風を受け、信長は国境を超えた。
数々の面倒事がようやく終わったかと思えば今度はポケットwifi、時々回線がぶっつり切れる不調が出て来ました、機種変更したいけどまた出費が…
何かあった時のための備えは本当に大事ですね、特に時間管理と懐事情…どうか皆様もお気を付け下さい。




