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信長続生記  作者: TY1981
107/122

信長続生記 巻の八 「それぞれの戦」 その8

お待たせ致しました。

今回でどうにか秀吉対官兵衛に決着を付けたくて、過去最大文字数でお送りすることとなりました。

お時間のある時にでもご覧頂けましたら幸いです。

             信長続生記 巻の八 「それぞれの戦」 その8




 秀吉の前に立ちはだかるのは『武田の鳶加藤』こと加藤段蔵の名を騙る百地丹波。

 一見両手に何も持ってはいないが、瞬きする間にその手に何が握られるか分からぬ恐ろしさと素早さを持ち合わせ、ただそこにいるだけで気圧される威圧感を放っている。

 その外見からもかなりの年月を己の技を磨く事に費やしたのであろう、まさに凄腕中の凄腕の忍びであり、戦慣れをしている秀吉をして、ものの数秒も持たずに殺されてしまう事だろう。

 さらに杖を持ってその後ろで冷淡に見下ろす黒田官兵衛。

 こちらも五体満足な身体では無いとはいえ、刀を手放してしまっている秀吉がすぐに倒せるほど簡単な相手ではないだろう。


 そして何より部屋の前の廊下で、寧々を縛り上げて動きを封じている若い忍び。

 今は寧々に刀などを押し付けてはいないが、その気になればすぐにも寧々は殺されてしまうだろう。

 秀吉にとって、もはや状況は絶望的と言っていい。

 既にこの宿は官兵衛配下の忍びたちの手で占拠され、官兵衛の手の者以外では秀吉と寧々しか生きている者はいない。

 秀吉は自慢の大声でもって幾度かこの場で声を上げていたが、それでも秀吉の危機を察して宿の外から救援が来る様子はない。


 これが京都所司代・堀秀政が在京中であったなら、まだ救援が来る可能性はあった。

 しかしその秀政は近衛前久と一条内基らの護衛を兼ねて、大坂城へと向かってしまっている。

 その大坂城で一通り歓待の宴を催し、信長らが紀州へと向かうのを見送ってから、秀政は京へと帰ってくる手筈となっていた。

 しかし信長が紀州へと発した、という連絡はまだ秀吉の元へは来ていない。

 実はこの時、日を同じくして信長も明智光秀や森長可・蘭丸兄弟などを供に連れて大坂城を発していたのだが、その報せが京に届くにはまだ時が必要であった。


 京の洛中洛外や大坂城下には、日ノ本各地の勢力が放った忍びがそれこそ掃いて捨てる程存在していたが、互いが互いに牽制し合い、目立つ事を避けていたためにどこかで自分たち以外の勢力が衝突をしていても、情報こそ集めようとはしても積極的に関わろうとはしていなかった。

 そして京都所司代に堀秀政が就任して以後、織田家お抱えとなった甲賀忍びは常に京・大坂内での情報を細部にわたって収集するため、多数配備される予定であった。

 しかし今回の様に堀秀政自身が京を離れるような場合、ましてや要人の警護という任務を伴っている場合、その特性上多くの忍びが警戒のために必要となる。

 結果として現在、京の周辺はかつて無いほど無防備となってしまっていた。

 それを見抜いていたからこそ、官兵衛はこの日に合わせて秀吉の前に姿を現したのである。


 その日が竹中半兵衛重治の命日、という事に官兵衛が内心で笑みを浮かべていたのだが、秀吉には当然与り知らぬ事であった。

 だが秀吉とて、実力や才覚のみでこの戦国の世を渡って来た訳ではない。

 そこには当代随一と言っても良い、豪運も持ち合わせていた。

 その豪運はその場にいる誰にとっても予想外の形で現れた。

 秀吉たちのいる宿の二階の階下、一階から昇ってくる階段をコツコツコツ、と三回連続で早めに叩く音が響いたのだ。


 その音にピクリと反応する秀吉と寧々以外の三人に、秀吉が先程放り投げていた刀に視線を向ける。

 一瞬とはいえ完全に自分から注意が逸れたのを悟った秀吉が、起死回生の好機と見て刀を拾おうとしたのである。

 しかしそれすらも読んでいた百地丹波が一歩だけ身体を横にずらし、己の身体を使って秀吉の視界から刀を隠す。

 すでに踏み出そうとして足に力を入れていた秀吉は、その動きに対応しきれずにそのまま前に足を進めてしまった。

 それは百地丹波の腕の射程内、身体の小さな秀吉にはギリギリで届かぬ間合いの位置から、いつの間にか握られていたクナイの切っ先が、秀吉目掛けて振るわれた。


「待てッ!」


 秀吉が不用意な踏み込みで進んでしまった一歩、その秀吉の頭部、眼球のすぐ目の前にまで迫っていた百地丹波の持つクナイの切っ先が、官兵衛の発した一言で即座に止められた。

 あまりの素早い動きに眼を見開いたまま硬直し、一気に脂汗を噴出させる秀吉と、無言のままに秀吉への威圧を続けながら官兵衛の方に視線を走らせる百地丹波。

 寧々は秀吉の無残な最期を想像し、眼を固く瞑っていたが恐る恐るその眼を開いた。

 周囲のそれらの反応を受け流し、官兵衛はアゴ先を階段の方へと向け、百地丹波に視線で何かの意思を送る。

 ほんのわずかに頷いた百地丹波は秀吉の刀を拾い上げ、そのまま部屋の外へと進んでいく。


 それと同じく官兵衛も部屋から出て行き、秀吉に背を向けて杖を突きながら階段を下りていく。

 百地丹波はそんな官兵衛を守りながら、秀吉に常に視線を向けてゆっくりと下がっていく。

 寧々を捕えたままの若い忍びも、寧々の身体を抱え上げてそのまま階段を下っていった。

 寧々も抵抗こそするものの、手足を縛られたままでは精々身じろぎ程度しか出来てはいなかった。

 一人残された秀吉が、慌てて部屋の外に出て階段のふちまで追いかける。


「待て官兵衛ッ! どこに行く、寧々を置いてゆけッ!」


 秀吉の切羽詰まった声にチラリと後ろを振り返った官兵衛が、表情を消したまま答える。


「少々長居し過ぎたように思いましてな、またお会いする時もございましょう…念のため奥方様はこちらでお預かりさせて頂きまする。 先にも申した通り、奥方様に危害を加える気はございませぬ故、ご安心為されませ」


「ふざけるなッ! 寧々を返さぬというのなら今この場で!」


 言いながら秀吉は徒手空拳のまま挑もうとする。

 しかし秀吉に一番近く、殿を務めているのは百地丹波である。

 その男の放つ威圧感は、怒りと焦燥に溢れた秀吉を以てしても、容易に飛び掛かれぬ気配を纏わせていた。

 何より先程の、官兵衛が止めてなければ確実に秀吉は殺されていたであろう動きは、秀吉に死の予感を抱かせるに十分な恐ろしさを持っていた。

 そして一階にある囲炉裏から見つけたのだろう、火かき棒をまた別の忍びが持ち出してきており、その赤銅色に染まった先端を寧々の顔に向けた。


「止めろッ!」


 その仕草が何を指しているのかを悟り、秀吉が悲痛な叫びを上げる。

 危害を加えぬ、と公言している官兵衛も何も言わずに、より焦燥感を強めた顔をした秀吉にさらに言葉を発した。


「これより一刻ほど後、巨椋池にて先のお話の続きを…御一人で来て頂ければ奥方様はお返しいたしましょう…もし来られぬ場合、もしくは護衛の者たちを引き連れて参った場合は…某も前言を翻さざるを得ませぬな……ああそれと、御存じの通り某は少々足を痛めておりまする故、四半刻ほど羽柴様はこちらの宿でお休み下され…追いかけて来られぬ様、そこの者を目付とさせて頂きまする故…これにて」


 そう言いながら官兵衛は悠々と一階に到達する。

 そして秀吉から見えぬ位置にある玄関口で、すでに用意されていた駕籠(カゴ)へと乗り込む。

 駕籠は二つあり、小さめの駕籠には官兵衛が一人で、大きめの駕籠には拘束されたままの寧々と、それまで拘束していた若い忍びとは別の女忍びが乗り込んだ。

 この宿は玄関口が広めに作られており、暖簾をくぐった屋内に貴人用の駕籠を二つ置けるだけの間口があったため、官兵衛はこの宿へ出入りする際に、人目を気にせず乗り入れる事が出来たのである。

 またそれに合わせて宿自体も大きく、護衛の者も数多く同宿させる事が出来るように秀吉はこの宿を取っていたのだが、官兵衛にとってもそれが都合の良い方向へと働いてしまっていた。


 官兵衛が駕籠に乗り込みながら脇に控えていた一人の侍に「ご苦労」と声をかけた。

 侍は笠で顔を隠しながら頷き、駕籠を運ぶ人足たちに「出立せよ」と小さく指示を出した。

 その侍こそが、一階に残ったまま宿の周囲の警戒を始め、官兵衛・百地丹波の両名を秀吉との対話に集中させるために忍びたちに指示を出し、先程階段で音を出して官兵衛たちに準備が整った事を知らせた男である。

 そうして二つの駕籠がゆっくりと宿を出ていく。

 その男もきちんとした身なりの侍を装い、駕籠を先導する立ち位置で堂々と通りを進んでいった。


 傍目から見ればどこかの地位の高い武士が、人目を避けて移動していると思うだろう。

 織田信長の京での再臨に合わせて、京ではこういった光景は珍しいものでは無くなっている。

 ましてやその駕籠が出てきたのは駕籠ごと暖簾をくぐれるような大きな旅籠からであり、それなりの財力と地位を持っている者でなければ一生縁の無い場所でもある。

 そんな所から笠をかぶりつつも堂々とした態度で、きちんとした身なりの侍が駕籠を先導して通りを歩いていく、となれば人目は引いても誰も訝しがる事はなかった。

 それすらも計算に入れた上で官兵衛は動いており、また先頭を歩く男はほんの少し前までは正真正銘、れっきとした侍であった。


 黒田官兵衛の配下となって、信長と対立する道を選んだ男。

 官兵衛からは「右衛門」の名で呼ばれ、どこかの大名へ仕官口を探すより、信長への復讐の道を選んだ侍である。

 懐かしき、そして忌まわしき京の都の道を歩きながら、その男は口元を昏く歪めていた。

 敗れたからとて、すぐさま勝者に尻尾を振って従う事を選んだ兄とは違う、またたとえ仕えている身とはいえ、命を捨てて負け戦に挑めなどと命ずる者を主君とは思わぬ。

 兄の手前大人しく織田家に奉公はしたが、負け戦に付き合って死んでおらぬという理由で追放などと、そんな家はこちらから願い下げだ信長め。


 武士は生き残る事こそ本分よ、負け戦で何の名誉も旨味も無いまま死んで、一体何になるというのだ。

 それを強要し、負けて死なねば生きても追放などと、あんな奴を上様などと敬う気になれるか。

 あのような人間によって治められてしまっては、せっかくの戦国乱世もつまらぬままに幕を閉じてしまうではないか。

 乱れた世でこそ立身出世の好機、彼の羽柴秀吉の様に俺も成り上がってみせる。

 そしてその羽柴秀吉も、信長に尻尾を振って浅ましく生き延びようなどとするから、このような醜態を晒すことになるのだ。


 俺は違う、俺はこんな所で終わるものか。

 秀吉という男がいたから、信長が死んだという話になっても思ったより世が乱れなかったが、信長も秀吉もいなくなれば、世の中はもっと乱れてこの俺にも機会が巡ってくるはずだ。

 この黒田孝高という男は自ら槍を持つ事は出来なくとも、稀に見る知恵者だと見て取れる。

 この男に付いて行けば、俺にもまだまだ芽はあるだろう。

 もっとも芽が出そうに無ければとっとと見限って、その時にはどこかで腰掛けの仕官先でも見つければ良い。


 戦国乱世よ、まだ終わるでないぞ。

 俺がこんな浪人なんぞで終わってたまるか、せめて俺に相応しい万石取りの立場となるまで、戦が続いてくれねば俺が成り上がれぬではないか。

 天下なぞは無理でも、一国一城の主となって、多くの者を傅かせたい。

 まずは秀吉、そして恨み募る信長に目に物見せて、この山内次郎右衛門康豊、ここに在りと高らかに謳い上げてくれようぞ!

 「右衛門」の名で呼ばれる男、史実において土佐一国の大名となる山内一豊の弟である山内次郎右衛門康豊は、倒れ伏す信長の上に足を乗せ、そう名乗りを挙げている己を夢想して、より一層昏い笑みを浮かべていた。




 秀吉の前から官兵衛が姿を消してちょうど四半刻。

 計っていたかのように正確にその時間が経過すると、百地丹波は焦燥感で歯噛みしたままの秀吉の前から音も無く姿を消した。

 百地丹波は秀吉の刀を他の忍びに渡し、秀吉は完全に武器が手持ちに無い状態で、百地丹波との睨み合いを続けていた。

 話しかけても、気を抜いた振りをしても、殺気を込めて睨もうとも百地丹波は全く意に介さず、ただ秀吉がその場から脱出しようとした時だけその道を塞ぎ、黙ったままより強烈な威圧を放った。

 その様な時間が終わりを告げた事で、秀吉は百地丹波を追おうとするより先に、両膝の上に手を置いて大きく息を吐く事しか出来なかった。


 伝説的な忍びの一人である『武田の鳶加藤』の名を騙るに相応しい威圧感と、一言も発せぬまま放たれ続ける威圧感に、秀吉は精神的にかなりの疲労を強いられた。

 常人であれば寝込んでもおかしくないその疲労を、秀吉は己の妻を取り返すという一念で堪え切り、腰を下ろしてしまえば立ち上がれなくなるのを見越して、膝すら付かずに耐え抜いた。

 そして百地丹波を相手にした神経消耗戦から頭を切り替え、秀吉は行動を開始する。

 まずは宿の中にいる生存者がいるかどうか。

 これは絶望的ではあったが、確認しない訳にはいかなかった。


 結果として皆殺しという、この上ない陰惨な結果が待ち受けていたが、それで悲嘆にくれている訳にはいかない。

 宿から飛び出し、近くにいた者に京都所司代配下の洛中巡回警備兵を呼ぶよう頼み、駆け付けてきた警備兵に襲撃を受けた事を告げ、状況を説明し協力を求めた。

 秀吉は警備兵たちに護衛されながら未だ建設途中の所司代詰所に入り、そこで所司代代理を任されていた前田玄以と、膝を突き合せて善後策を練る事となった。

 だが後半刻もすれば約束の刻限となってしまう中、おいそれと名案が浮かぶ訳もない。

 やむなく秀吉は腰に差す大小の刀を借り受け、単身で巨椋池へ向かう旨を玄以に告げて、その場を出立しようとした。


 必死に秀吉を止める玄以だったが、秀吉は頑として譲らず結果として玄以の方が折れた。

 だが玄以としても、むざむざこのまま秀吉を無駄死にさせる様な真似はさせたくなかった。

 秀吉にはかつて村井貞勝亡き後の京都所司代職を任せてもらった恩もあり、また堀秀政不在の間に秀吉を敵の策略で死なせてしまった、となってしまえば今度こそ玄以は信長から首を刎ねられるだろう。

 なので秀吉のかなり後方から、敵に悟られぬよう今かき集められる忍びの中でも、腕利きの数名を抜擢して隠れて護衛させるという案で秀吉を納得させた。

 秀吉は最悪自分と寧々が死んでも、官兵衛と刺し違える覚悟でこれを渋々ながら了承した。


 そうして刻限が迫り、秀吉が腰に刀を指し直して詰所を発った。

 玄以は洛中警護の兵たちをかき集め、秀吉には内密に巨椋池周辺を封鎖し、包囲してこの機に一挙に殲滅するように指示を下した。

 秀吉は既に寧々と共に死ぬ覚悟は出来ている。

 敵が大人しく寧々を巨椋池に連れて来るかは分からないが、向こうから指定してきた以上、巨椋池近辺で何かしらの反応はあるはずだ。

 まんまと現れればそれで良し、秀吉も寧々も助け出して官兵衛を生け捕りに出来ればこれ以上ない大戦果だが、最悪秀吉と寧々を死なせてしまっても官兵衛さえ討ち取れれば構わない。


 玄以は肚の内で皮算用を始め、秀吉に気取られぬように大急ぎで巨椋池周辺を固めさせるように指示を下した。

 かつては京都所司代を務めていた玄以にとって、京周辺はまさに己の庭も同然だ。

 秀吉の進む道からは通り一本以上離した場所から遠巻きに巨椋池周辺へと兵を走らせ、自らの失態回復の好機を逃さぬように手を打った。

 先の本能寺の一件で、信長の中での前田玄以の心証は悪い。

 その上今回秀吉は敵の襲撃を受けたというのに、こちらは全くそれを把握出来ていなかったという体たらくであったため、堀秀政が大坂から戻って来る前に、この件は自分と秀吉だけで決着を付けておく必要があった。


 これで更に失態を重ねれば、いよいよ玄以としても進退窮まるだろう。

 日頃から自らの失態は功績を上げて挽回せよ、と言っている信長であったが、あまりに目に余る失態が続けば追放どころか打ち首にされてしまう。

 だが信長が目障りに感じている黒田官兵衛を自分たちで捕縛出来たなら、これは失態回復どころか一気に京都所司代職復帰、すらあり得るかもしれぬ功績となるはずだ。

 堀秀政不在、これを自らの好機と捉えるか、失態の上に失態を重ねるかの分水嶺。

 前田玄以はこの一件に己の首がかかっていると改めて実感し、唾を飲み込んで喉の渇きを癒してから周囲の兵たちに向かって声を上げた。


「よいか、上様に対し不忠を重ねる無礼者は我らで討つ! 羽柴様は先行して巨椋池にて敵と相対する、我らは持てる全ての力を以って敵を一人残らず捕縛、あるいは討ち果たすのだ!」


「ははッ!」


 玄以は必死の形相で叫び、その切羽詰まった言葉で兵たちは奮い立った。

 兵たちの返事に玄以は大きく頷いてから、自らも具足を付けて馬に跨ろうとして止めた。

 密かに進まねばならない中、馬に乗っては却って目立つ上に余計な音が立つ。

 それを寸前で思い出して、玄以は仕方なく徒歩で巨椋池へと向かった。

 具足の重さに辟易しながらも、玄以は心の中である決意を固めていた。


(わしにとっては京は鬼門かもしれぬ……もしこの件で出世が出来るなら、会合衆からの袖の下が期待出来そうな堺奉行などを希望しよう…)


 具足がガチャガチャと音を立て、結局は騒々しく巨椋池へと向かいながら、玄以の内心の皮算用は留まる所を知らなかった。




 既に宵闇が辺りを覆う中、一人悲壮な決意を固めた秀吉は、玄以の思惑に薄々は感付きながらも、己の命を以てしても寧々だけは救い出さんとしていた。

 官兵衛は玄以あたりに任せておけば良い、あれはあれで少々俗物なきらいはあるが有能だ。

 約束の刻限が迫っている。

 秀吉は改めて腰に差してある借り物の刀の具合を確かめながら、巨椋池のほとりに到着した。

 既に辺りは暗闇に覆われているため、どこに誰がいるかは分からない。


 だが秀吉からも分からぬ所で、恐らく腕利きの忍びが自分の周囲を警戒してくれているのだろう。

 逸る気持ち、焦る苛立ちをどうにか押さえながら、秀吉は官兵衛が来るのを待つ。

 秀吉が巨椋池のほとりに到着してから、既に十分は経過している。

 秀吉からは分からなかったが、既に前田玄以の指示によってこの巨椋池周辺は封鎖・包囲されており、これからこの場に現れようとすれば、その前に周囲を取り囲んでいる兵に捕縛されるだろう。

 玄以も乱れた息をなんとか整えながら、秀吉の位置からは反対側のほとりの、草が生い茂っている中に身を隠して、その時が来るのを待っていた。


 さらに十分以上が経過し、秀吉は焦れてついに声を上げた。


「官兵衛、居るなら出て来い! わしはここじゃ、約束通り来たぞ、寧々を返せッ!」


 自慢の大声は半ば枯れていた。

 梅雨時の蒸し暑い中、それでも夕闇で幾分過ごしやすい風が流れる中で、秀吉の声が辺りに響き渡った。

 だがそれに対する返答はどこからも聞こえず、ただ秀吉の声の残響が虚しく辺りを揺らしただけだった。

 夕闇の中で焦燥感に汗だくなる秀吉と、虫にたかられて顔を顰めていた玄以は、それでも待ち続けた。

 するとどこかで大きな音が轟いた。


 思わず秀吉も、そして隠れ潜んでいる玄以と兵たちも思わず体を縮こませ、周囲を見回した。

 見れば、秀吉からはよく見えなかったが、京の街中が明るい何かに照らされていた。

 何かが燃えている、という事しか分かりはしなかったが、位置的に秀吉よりも街に近い所にいた玄以には、僅かながらに悲鳴のような声も耳に届いていた。

 ざわつく周囲の兵たちに小声で「落ち着け、落ち着くのだ」と言い放つ玄以の耳に、今度は馬の蹄の音が響いてくる。

 やがて玄以の下に火急の際には知らせる様にと、緊急連絡用に残しておいた馬に乗った兵が「申し上げます!」と切羽詰まった声を上げながら駆け寄ってきた。


「声が大きいぞ…で、なんじゃ?」


「ぞ、造成途中であった所司代詰所に、火を放たれました!」


「なんじゃとぉッ!?」


 思わず立ち上がりながら大声を上げた玄以は、秀吉にもその存在を気付かれた。

 途端に気まずそうに秀吉の方を見ていた玄以だったが、秀吉はそれには構わず「どうした、何があった!?」と大声で問いかけた。


「そ、それが! 京都所司代詰所に火をかけられた、と!」


「なぁッ!?」


 先程の玄以の声よりもさらに大きな、秀吉の驚愕と痛恨に満ちた声が巨椋池を覆った。




 秀吉と別れ、京の近くにある高台に身を潜めていた官兵衛は、京の街の一角から、夜の闇を照らす炎が上がるのを見て取り、その口元をわずかに歪めた。

 その脇に控えていた山内康豊も、目の上に手をかざしてその炎を見て声を上げた。


「おぅおぅ、燃えておるわ燃えておるわ! これほど早く燃え上がるとは、さてはロクに兵も残しておらなかったな、ならこれで逃げ出したからと言って追放される者もおらんじゃろう、祝着じゃ祝着じゃ!」


 言って「ガハハハハ!」と豪快に笑い声を上げ、隣の官兵衛から「少し黙れ右衛門、羽柴方に気取られるぞ、忍びの耳の良さを侮るな」と小声で窘められる。

 言われた康豊は「すまぬ」と詫びて口を閉じる。

 二人がいるのは巨椋池からは大分離れた、嵐山にほど近い高台である。

 ここからは京の街並が一望出来る上に、夕方以降はまず人が来ない土地でもある。

 官兵衛は秀吉に巨椋池方面に意識を向けさせ、そことは全く違う場所に陣取ったまま、奇襲でもって所司代詰所を爆破させるという作戦を用いたのだ。


 最初は寧々を人質に協力を誓わせる気であった。

 だが秀吉の決意は固く、こちらに協力するくらいなら夫婦揃って死ぬ覚悟までしているという有様であった。

 なので官兵衛は方針を転換した。

 押してダメなら引く、こちらが一歩引いた懐柔策を用いてみれば、秀吉から思わず激昂してしまうような言葉を言われて、官兵衛は第三の策に出た。

 脅迫も懐柔も効かぬとなれば、少なくともそこに行くまでの間にそれなりの時間が経過している。


 なので第三の策は時間経過と共に開始するつもりで、その合図を康豊に任せていた。

 階段を三回叩いて音を立てる、それを合図とした。

 寧々を人質に取ったまま行方をくらまし、巨椋池という全く見当外れの方向に秀吉らを呼び寄せる。

 秀吉は間違いなくかつての所司代で、現在代理を任されている玄以を頼る。

 そしてその玄以は信長への手土産と、秀吉への救援による功績を求めて、こちらを捕縛、あるいは討ち取る算段を建てるはずだ。


 そこに付け込む隙がある。

 ただでさえ現在の京都所司代・堀秀政不在という状況下において、玄以の判断で動かせる兵などはたかが知れている。

 玄以は一応ほんの少し前までは京都所司代の職にあったため、多くの兵がその顔を知っているし、京の地理にも明るいだろう。

 だからこそまさか京で自分が出し抜かれるなどとは考えない、むしろ自分の膝元とも言うべき場所で敵方に優位があるなどという考えが及ぶ男ではない。

 時間も場所も全てこちらが指定したものである以上、そこにどのような企みがあるかを想定し、どのような状況になっても対応出来る、そのような手が打てる男でもない。


 堀秀政であったなら、少なくとも建設途中であろうと詰所にはそれなりの兵を置いておくべき所だろうが、玄以はほぼ全兵で巨椋池へと向かってしまった。

 そこが事務方でしか名を上げられない男の限界であったのだろう。

 それに官兵衛が仕掛けた罠の中には時間という制限もある、秀吉はその短い残り時間の中で一番近くにいる味方は前田玄以のみ、そして落ち着いてこちらの手を読むだけの余裕が無い。

 現在の身分にまで成り上がる前、それこそ足軽時代から苦楽を共にし、支えて来てくれた妻である寧々を人質に取られ、冷静さを欠かせるのが官兵衛の真の狙いであった。

 しかも、官兵衛の狙いはここで終わるものでは無かった。


「首尾は上々じゃ…ふむ、言わずともここからならすぐに分かるか」


 合流してきた百地丹波が、街並の中で一際明るく、そして猛々しく燃え盛る炎を見て呟いた。

 百地丹波とその弟子たちの忍び衆は、秀吉と手練れの忍び数人、さらに京にいるほぼ全兵を連れた前田玄以らが詰め所を出るのを見計らい、詰所内の至る所に火薬をバラまいて火を付けたのだ。

 当然火はあっという間に火薬は引火し、爆発音と炎を吹き上がらせて建設途中であった詰所を一挙に呑み込んだ。

 半鐘が打ち鳴らされ明るくなった街中で、恐らくは兵士たちだろう、燃え盛る建物の前で右往左往しているのが僅かながらに見て取れる。

 今頃は、秀吉も玄以も歯噛みして悔しがっている事だろう、だがこれで終わった訳ではない。


「ご苦労であった、丹波殿。 貴殿には『鳶加藤』の名を騙らせてしまってすまなかったな。 お主の名を名乗ってしまえば、そこからどのような手を打たれるやも知れぬ故、どうか許されたい…」


「なぁに、構わぬよ…敵を欺くのもまた立派な兵法。 死んだと思われておる者が、死んだ奴の名を騙った所で大した差は無かろうよ、ひゃっひゃっひゃ…」


 何事も無いように快活に笑う百地丹波。

 昼間の街中で見かけたならば、年寄りが世間話で笑顔を浮かべているとしか思えぬその顔は、しかし眼の奥に潜む剣呑な光だけが、その老人を恐ろしい存在へと仕立て上げている。

 そしてそんな百地丹波に、軽く頭を下げて官兵衛は言葉を続ける。


「忝い……さて、信長に対する狼煙はこれで良かろう…これからは道中に女子が加わる、これまで以上に慎重に行かねばな」


 そう言って官兵衛は京の街に背を向ける。

 その背中に向かって康豊が意外そうな声を上げる。


「何故殺さぬ? もはやあの女は用済みではないか…もしかつての主君の女房を手にかけるのは気が進まぬ、というのであれば俺が代わってやるが?」


 進む歩みは止めず、官兵衛は言葉だけを康豊に返す。


「仮にも秀吉に危害は加えぬ、と言ってやったからな。 いざという時の質に使える以上、手札として持っておいた方が良い……それに、生きているからこその使い道もあるのだ」


「……もしや、年増が趣味か?」


 康豊が訝しげな声を上げ、官兵衛が思わずその歩みを止めて、顔だけを康豊に向ける。

 その康豊は今は猿ぐつわをされたまま気絶させられている寧々を見て、今度は官兵衛に顔を向けて目を合わすなり肩をすくめた。


「醜女とは言わぬが、あまり良い趣味とも言え……いや、失言であった」


 官兵衛から発せられる気配に、思わず康豊が後ずさりながら詫びの言葉を口にする。

 無論、康豊の言うような目的で官兵衛が寧々を生かしておいた訳ではない。

 今回の事で秀吉は寧々を人質に取られた場合、冷静さを欠いてこちらの手玉に取る事も可能だという事が分かった。

 それに最善の結果は得られなかったものの、次善の結果を得る事は出来た。

 次善とはすなわち、信長と秀吉の信頼関係に亀裂を入れる事、である。


 秀吉は寧々を連れ攫われ、そして堀秀政が京で政務を行うために建てられる予定であった京都所司代の新たな詰所が、爆破されるという事態となった。

 この建物は信長が京を訪れた際の、新たな宿所とする予定でもあった。

 それがよりにもよって、敵対を明らかにした黒田官兵衛によって爆破されたのである。

 それはまるで京に在る信長の宿所が焼けるという、二年前の本能寺を連想させる行いでもあり、信長に対するこれ以上ない叛逆の狼煙となるだろう。

 そしてこれらを引き起こされる際の失態の、当事者とも言えるのが羽柴秀吉と前田玄以の二人である。


 秀吉はかつての官兵衛の主であり、信長が死んだと思われた後に織田家を実質乗っ取り、信長の後継者の地位を確立したという経緯があった。

 前田玄以は本能寺の一件の際、本人の言によれば信忠の妻子を護るために共に脱出した、という理由で逃げ出したという経緯があった。

 そこに今回の一件が加われば、あの執念深く警戒心の強い信長のことだ、今後は秀吉や玄以を信頼し切る事はまずなくなるだろう。

 さらに秀吉はこれによって信長の構想の中枢に用いられる事は無くなり、冷遇されて居場所を無くせばいつの日か心変わりする可能性もある。

 その時に「寧々が無事である」というのは大きな交渉材料となる。


 もし秀吉が信長に対する忠誠心を薄れさせ、さらには身の危険まで感じる様になれば、寧々を死なせてしまっているか、それともまだ生きているかで秀吉のこちらに対する心証は大きく変わるだろう。

 そのいざという時のための詰めの一手、秀吉自らがこちら側に来たくなるような状況に陥った際、こちらに寝返らせる際の「王手」に成り得るのが「寧々の生存」である。

 今日の時点では未だ秀吉の決意は固く、信長に対する忠誠心も篤い。

 だが人の心は移ろい易く、また信長は感情で苛烈な処置を行う男だ。

 その苛烈な処置で自分は見捨てられ、息子は首を刎ねられかけた。


 いつの日か秀吉と信長の信頼関係に大きな亀裂が入る日が来る、それを見越して今は打てる手を打ち、その時を待つのみだ。

 杖を突いて歩みを進めながら、官兵衛はこれからの行動に頭を巡らせる。

 今回これだけ大きく動いた以上、もはやこれまで通り京近郊にいるのは危険だろう。

 となればこれ以後は京には近寄らず、どこか別の場所で信長を脅かし続ける必要がある。

 現在信長はたしか紀州に向かっている、という話だったはずだ。


「紀州、か……」


 一人そう呟いた官兵衛は、歩きながら頭の中で考えをまとめ上げ、百地丹波を呼んだ。

 百地丹波が歩みを止めぬままの官兵衛の横に並んで歩くと、官兵衛は小声で何かを囁いた。

 一通り聞いた百地丹波が僅かに頷き「可能じゃ、心得た」と返すと、その次の瞬間には姿を消した。

 夜の闇に紛れて、突然いなくなったように見えた百地丹波に康豊は目を白黒させていたが、周りの者たちは何の反応を見せていなかったので、何も言わぬまま大人しく官兵衛の後を付いて行った。

 彼らがその高台を去った後も、京の街中は燃え盛る火で明々と照らし出されており、その火の勢いは夜が明けて、燃やすものが無くなった後でようやく静められたのだった。

少々マイナーな人物かと思いますので、補足説明を。

関ヶ原の合戦後、土佐一国を与えられる山内一豊の弟にして、一豊の養子となって後の土佐藩二代目藩主となる忠義の実父、それが山内康豊です。

織田家と信長に対し、少々含む所がある人物という条件で選別され、今回の登場と相成りました。 差別化を図るために、少々「俗」な人物になってしまいましたが何卒ご容赦を。

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