信長続生記 巻の八 「それぞれの戦」 その7
大変お待たせいたしました。
なんだか書きたい事が途中からどんどん増えてしまい、日を追うごとに編集による書き足しの繰り返しで、気が付けば随分と前話から日が空いてしまいました。
竹中半兵衛重治、という人物が良い様に書かれ過ぎている節がありますが、物語の展開・都合上のモノとしてご理解の程を…
信長続生記 巻の八 「それぞれの戦」 その7
官兵衛が有岡城から救出され、城主であった荒木村重は落城寸前に抜け道から逃亡した。
その後の荒木村重は信長への降伏・助命嘆願を諭す家臣団にも耳を貸さず、結果家臣団からも見捨てられるだけでなく、自らの妻子や一族、重臣らの家族すらも巻き込んで、大勢の者たちを信長の処罰の対象とさせてしまった。
荒木村重に関連する者たちで、信長の命により処刑された者は百人を優に超えた。
だがそれでも彼はひたすらに信長から逃れ続け、結局武将として再起することなく本能寺の一件が起こるまで隠棲して時を過ごしていった。
それらを見続けた官兵衛は、最後まで荒木村重の勧誘を断り続けた、自らの判断が誤りではなかった事を確信した。
救出された後、官兵衛は秀吉も愛した有馬温泉で湯治を進められ、監禁されてボロボロになっていた身体を癒し、やがて戦列に復帰した。
肉体と精神を大分回復させた官兵衛であったが、どうしても足の不自由さだけは完治し切れずに、以後は杖を突いての行動が余儀なくされた。
そして羽柴軍の陣地、その奥まった場所にある秀吉の本陣で、改めて官兵衛は秀吉に頭を垂れた。
自らの主君であった小寺家と、完全に縁を切って以後は旧姓であった「黒田」に姓を変え、「黒田官兵衛孝高」を名乗る事を正式に秀吉に認めてもらった。
そしてその場で秀吉の口から竹中半兵衛が亡くなっていた事を正式に聞かされた。
覚悟はしていた。
荒木村重とて、完全な作り話で自分を騙そうとはしていないだろう、という思いがあった。
だがそれでも、去る天正七年六月十三日、竹中半兵衛は病のため息を引き取ったと聞かされた時には、自分でも驚くほど身体全体から力が抜けた。
自分が助け出される四ヶ月も前に、半兵衛は死んでいたのだ。
しかし彼を驚かせたのはそれだけではなかった。
彼の息子松寿丸(後の黒田長政)が、秀吉が手を叩いた合図で、陣幕の向こうから姿を現した。
なぜそこにいるのかを聞けば、半兵衛の機転によって信長の命を破る形になっても、官兵衛の息子の命は守ってやらねばならないと、とっさに偽の首を信長に差し出したのだという。
秀吉は申し訳無さそうに「わしでは上様の命令には逆らえぬ、じゃが半兵衛が自分はもうすぐ死ぬから、もし露見した場合は全て自分の独断であった、という事にして欲しいと言ぅてくれてのぅ」と呟いた。
その言葉を聞いて、官兵衛はただひたすらに泣いた。
息子を抱きしめ、奥歯を噛み締め、人目も憚らずに泣いた。
秀吉は嬉しそうにしながらも、どこか寂しそうな、それでいて複雑な笑みで頷いていた。
脇に控えていた羽柴秀長も、思わずもらい泣きをしていた。
だが官兵衛が思わず涙を流していた、本当の理由には気付けていなかった。
「竹中半兵衛重治という男は、今の自分には決して越えられぬ高みにいる」という事を、官兵衛自身が実感してしまったが故に、官兵衛は涙を止める事が出来なかったのだ。
自らの死ですら利用する、使い方こそ違うがまるで『死せる孔明、生ける仲達を走らす』という三国志時代の故事に倣ったかのような方法ではないか。
諸葛孔明は自らの死期を悟り、自分が死んだという噂を故意に敵に流し、それで勢いに乗って攻めかかってきた敵を生前に残した策でもって散々に打ち負かし、さらに自分が生きているかのような木像まで敵に見せて、それを見た敵の指揮官・司馬仲達は孔明の罠であることを悟ったという。
まんまと騙された司馬仲達は、孔明が実は生きていて自分たちは誘き寄せられたのだと疑心暗鬼にかられ、本国まで完全に撤退してから本当に孔明が亡くなっていた事を知ったという。
自らの死でさえも策の一つとして用い、後に残る者たちに何かを遺していく。
自分にこんな事が出来たか、やろうとさえしたか。
器の違いを見せ付けられたかのような気さえした。
さらに官兵衛生存と実は幽閉されていたという一報は、信長にも衝撃を与えた。
頭の回転が速いが故に、状況的に寝返っているものと早合点し、官兵衛の人となりを読み切れなかった信長は松寿丸を斬るように命じてしまっていた。
だが実際には寝返ってなどいなかった者の、しかもこちらに対して忠義を貫いていた者の人質を斬った、というのはあまりに外聞が悪かった。
苛烈な所業も全て理由あっての事、となれば納得する者もいる、何より信長自身がそれによって生ずる様々な業も背負う覚悟が出来るというものだが、今回ばかりは全面的に信長の失態であった。
そこで秀吉から官兵衛生存の後にさらに一報が届き、亡き半兵衛の一存により実は松寿丸が生きており、官兵衛にその身柄を返したという報告が届いた。
信長はその報告に大きく息を吐き、竹中半兵衛重治という男の才覚に改めて感じ入った。
それと同時にその男が既にこの世にない、という事に先程とは違う意味でまた大きく息を吐いた。
こと先見の明においては己すらも凌駕する才を持つ男、という認識を改めて持った信長は、内心で竹中半兵衛の死を惜しみ、疑念でもって人質を殺し、忠義の家臣を裏切るという己の悪評が広まらずに済んだことに感謝した。
そして一方の官兵衛は秀吉の元で改めて働く際に、半兵衛が用いていた家紋を譲り受け、自らの家紋とする事でその恩を決して忘れぬようにしたという。
それはもちろん本心からの思いではあったが、それとは別に口外出来ぬ別の理由もあった。
『今孔明』の知略を、我に授けたまえ。
新たなる『今孔明』にならんとした官兵衛は、その後も秀吉を助け続けた。
秀吉は半兵衛亡き後、その後を継がんと必死になっていた官兵衛のやる気を削がぬためにも、生前の半兵衛に代わり官兵衛を軍師として重用した。
諸葛孔明という人物は、自らが仕えた主君・劉元徳を皇帝の座に就かせ、自らは丞相となってその子の代まで支え続けたという。
ならば『今孔明』の名を受け継がねばならぬ自分は、秀吉をこの国の王と成し、それを支え続ける存在にならねばならない。
そこまでしなければ、本当の『今孔明』とは言えぬ。
そこまですれば、自分こそが本当の『今孔明』に成り得る。
竹中半兵衛重治と黒田官兵衛孝高、後世に『孔明』の名を付けて遺すのはいずれの者か。
半兵衛は死しても尚その名を上げた、ならば自分は生ある内にそれを越えねばならぬ。
機会は必ずある、自らの名を上げ、秀吉を王と成す好機はいつか、どこかで必ず。
そして、半兵衛が亡くなってもうすぐ三年というあの日、京の本能寺にて織田信長が明智光秀から襲撃を受け、炎の中に消えたという。
叫び出したくなるほどの衝動、笑い出したくなるほどの好機、これぞまさに天啓と言えた。
もしこの機会を呼び寄せたものが、デウスの教えで語られる「神」とやらであれば、自分は一生そのものを崇め、敬い、奉る事だろう。
秀吉から呼び出しを受け、明智からの書状に書かれている文に目を通した後、五体満足であればどれほどの興奮を表現してしまっていたか、自分でも分からない。
逸る気持ちを押さえ付け、表情と感情を押し殺し、淡々と秀吉に進言を続けた。
御運が開けてまいりましたな、と。
その言葉は誰に向かっての事だったか。
秀吉か、己自身か、あるいは自分と秀吉二人同時にか。
王となる機会を得た秀吉と、それによって己が目指すものへの道が見えた官兵衛。
後はただひたすらに、今必要な行動を冷徹に考え続け、そして動き続けた。
利用出来るものは全て利用し、巧みに秀吉の思考を操縦し続けた。
そして訪れた竹中半兵衛の没した六月の十三日。
自らが心より尊敬し、その才を羨み、いつか超えんと志した恩人の命日。
まるで全てが自分のための道筋となっていくかのようだった。
今まさにこの時、自分は新たな『今孔明』となるべき道を歩んでいると、胸を張って言えた。
超える、超えられる、このままいけばあの男を、竹中半兵衛重治を越えられる。
明智光秀を打ち破り、秀吉は織田信長の後を継ぐ天下取りの一番候補に躍り出た。
戦後処理を含めた清州会議、さらには織田家を乗り越えんとする秀吉対織田家を護らんとする柴田勝家の一戦でも、官兵衛は必死に秀吉を支え続けた。
そうしてやがて、時は来た。
自らが設計し、縄張りから何から全てを差配した、天下の主に相応しき巨城。
日ノ本の皇帝の居城を戴くに相応しき、畿内に在って信長の建てた安土城を超える威容を誇る大坂城の完成を迎え、官兵衛は『今孔明』の名がいよいよ現実味を帯びてきたことを実感した。
秀吉の天下取りを支え、秀吉の後を継ぐ者も支え続ける事が出来れば、自分はまさに『今孔明』と名乗るに相応しい存在となろう。
諸葛孔明は政略・戦略・計略全てに長けた者であったと聞く。
かつて横で見聞きした竹中半兵衛の戦略や計略の巧みさには、何度も舌を巻いたものだった。
才ある存在であるはずの自分が時に挫かれ時に奮起し、時に言い知れぬ興奮すら覚えたものだった。
だが戦略・計略の才も併せ持ち、さらに主君の傍らにあって政略すらも統括せし者こそ、真に『今孔明』足り得るものだと信じ邁進した。
だがあの男の存在一つで全てが変わった。
大坂城において、家康と和睦した後で北と西の雄、即ち上杉と毛利を半従属化に置いた同盟締結に向けて動いていたかと思えば、よりにもよってそれは信長の掌の上の話であった。
秀吉は天下人の座から転落、自分が『今孔明』になるための御輿は、信長の存命によっていともあっけなく叩き落されたのだ。
さらには死んだはずの男がもう一人、明智光秀すら生きているという悪夢。
もはや何が何だか分からなくなりそうだった。
死んだはずの邪魔者が生きており、結果として自分にとっては恩人とも思えた男は同じく生きて、しかも邪魔者の側に仕えている。
ここまでは順調だった、秀吉の才を己の才でもってさらなる高みへと押し上げ続ければ、数年の内にこの天下は収まり、秀吉がこの日ノ本の王と名乗る事すら不可能ではないと思えた。
そしてその後を継ぐのが凡庸な者であれば、自分無くして天下は定まらぬと思い知らせられる、格好の御輿となってくれるだろう。
自分が死んだ後ならば羽柴家の行く末などはこの際どうでも良い、むしろ自分が病か何かで倒れた後ならば、いっそ綺麗さっぱり滅びてしまえば、それこそ諸葛孔明亡き後の『蜀』の国のように。
その方が自分の名声はより後世で高まっているものやもしれぬ。
そんな皮算用までしていた己が、まるで途方もない阿呆の様だと膝を折った。
秀吉はあの場で信長に屈し、所領も金銀も全てを召し上げられ、以降は信長の駒となって生きる事を良しとした。
腑抜けたか、とすら思ったがあの場で信長に刃向おうとすれば、下手をすれば無駄死に以外の何物でも無いだろう。
むしろ今、これから信長が秀吉に高い地位を与え、それに見合うだけの権勢を誇れるようになったなら、それを裏から暗躍する事で信長にとてつもない損害を与える事も出来るのではないか。
まだあきらめぬ、一度や二度の苦難で一々足を止めていられるものか。
そのためにまずは、信長の駒たる秀吉を取り、こちらの駒として動かしてやる。
信長よ、こちらの手駒は少なくとも、足りぬ分は貴様から剥ぎ取ってくれる。
そして盤上に潜み続け、所在を明らかにせぬままであれば、どこに玉たる某がいるかは分かるまい。
かつての貴様の様に、裏から一歩一歩貴様の喉元へと向かう機会を伺い、その時が来たらば一挙に形成をひっくり返させてもらうぞ。
官兵衛による反撃の一手が今、信長の見えぬ所から打たれていた。
「竹中半兵衛重治、某の知る限り当代最高の軍師……『今孔明』の名に恥じぬ御仁…」
「で、その半兵衛の命日にお主は線香の代わりにわしに謀反の話を持ってきた、という訳か? 半兵衛の奴が今のお主を見たら『何を馬鹿なことを』と嘆いておるであろうよ」
「これは手厳しい。 ですが『今孔明』の名を引き継ぐ者であれば、調略や離間の策などはむしろ使いこなせてこそ、とも言えませぬかな?」
「手練れの者で囲み、人質を取って何が調略か…見当違いも甚だしいわ」
そう言った秀吉の顔は、怒りと焦りで歪んだままだ。
眼には軽蔑の色が混じり、口からは吐き捨てるような言葉を紡ぎ、ジッと官兵衛を見据えている。
対する官兵衛はほんのわずかに息を吐きながら、僅かに首を振った。
「見解の相違、にございますな…取れる手段を取り、使える手札を切った、ただそれだけの事にございましょう…それによくお考えを……某は羽柴様に自分に従え、と言うのではございません。 某を改めて召し抱え、織田信長打倒の旗頭となって下さいませ、とご進言申し上げておるのです」
「上様打倒、などとほざくお主こそよく考えよ。 上様はこの世の誰より遠くを見ておられる、日ノ本全土とその先、唐天竺や南蛮までを見据えた大きな構想を持っておられる。 あの御方無くして日ノ本の未来などは語れぬ、わしや明智のみならず、帝や公家衆すらもそれを認めておる。 お主が何を思いどう動こうと、上様を中心とした世の流れを変える事など出来はすまい、諦めて恭順を示せば、お主の腹は斬らせる事になろうと、一族郎党の助命ぐらいは嘆願してやれるぞ」
「南蛮を見据えた構想…それは南蛮国が強大な武器を以てこの日ノ本に攻め入る、という例の話にございますか?」
「知っておるのなら話は早かろう、上様はいつ現れるかもしれぬ南蛮に対抗するため、早急に日ノ本をまとめ上げねばならぬ。 お主がその足元で小賢しく動き回って、日ノ本の統治に支障をきたさばなんとする? 朝廷の帝から無辜の民草、お主に従う一族郎党まで全てを含めた、日ノ本全土を巻き込んだ国難を呼び寄せる事にもなりかねんのだ、それが分からんお主ではあるまい!?」
秀吉の眼には依然官兵衛に対する軽蔑の色や、寧々を人質に取られた焦りの色が見え隠れしている。
だがそれ以上に真剣な、どうあっても退かぬという強固な意志がその眼差しから発せられていた。
寧々の動きを封じている若き忍びはその眼差しにわずかに気圧されてはいるものの、官兵衛と百地丹波はそれすら柳の様に受け流す。
そして秀吉の言葉が終わったのなら、今度は自分の番だとばかりに官兵衛が口を開く。
「まず先程からの羽柴様の言に関して、いくつか申し上げたきことが御座います。 織田信長の構想は確かに壮大にして深謀遠慮、の様にも感じられまするが…これは羽柴様の申したような『早急に日ノ本をまとめ上げる』ための方便にございませぬか? 聞くだけならば耳に心地良く、国のためと言わば如何なる非道も許される、格好の大義名分に他ならず。 信長がいなくなれば、誰も彼もが騙されていたと気付いて掌を返しましょう。 朝廷が認めたというのも信長の威に逆らえなかっただけ、と見れまするな」
「お主、そのような――」
「さらに! 南蛮国がこの日ノ本を武力で支配しようとする、確たる証拠がどこにございましょう? 火縄銃が日ノ本に広がってはや四十年と聞きまするが、本当に攻め入らんとするならもはやとっくに来ておってもおかしくは無いのでは? それが未だに日ノ本に来るのは商人と宣教師ばかり、これでは南蛮国が攻め入らんとしておる、と言われても到底信じる訳には参りませぬ、むしろ南蛮国の者らは我らを有益な交易相手、としか見てはいないのではござりませぬか?」
秀吉の言葉を遮り、官兵衛は一気呵成に言い募った。
だが官兵衛のその言葉を以てしても、秀吉の感情に揺らぎは無かった。
その眼にいくばくかの冷静さを取り戻し、むしろ先程よりも冷えた頭でもって反論を開始する。
「いや、南蛮の者達はいずれ必ずこの国に来る。 彼奴等の持つ武器は我らの遥か上をいっておった、戦において敵を圧倒できる手段があれば攻めぬ手は無い。 それに南蛮国は決して一つの国だけではない、ましてや一枚岩でもない。 つまりは競争・あるいは敵対し合う者同士がこの日ノ本を巻き込んだ大きな戦に発展させぬとも限らぬ、その時我らに十分な備えが無ければ、これ幸いとこの日ノ本全土を掌握せぬとも限らぬ! いずれにしろ上様の掲げられた『天下護武』は、今のこの日ノ本にとってなくてはならぬお考えよ! わしを舐めるなよ官兵衛、かつては上様に代わってこの日ノ本を治めんとした男ぞ、日ノ本のみならず海の向こうの情勢にも、目を向けておらぬ様な暗愚と思うたか!?」
秀吉の反撃を受けて、ごく僅かに官兵衛の眉間にしわが寄った。
それは官兵衛と数年以上の付き合いのあった秀吉にしか分からぬ、ほんの僅かなものではあった。
だがそのわずかな表情の変化で、秀吉はこの言葉による合戦で官兵衛に痛撃を与えた事を悟った。
そしてこれを好機と捉え、秀吉はさらに攻め入った。
「良いか官兵衛! お主の行こうとしている道は半兵衛を超える、『今孔明』へと通じる道ではない! 国を危うくさせる謀反人の道よ! 己が名を高めたくば、己の器量でもって堂々と勝負致せ! わしを支えて半兵衛を超える? あやつとお主とでは向いた先も、歩む道もまるで違うぞ。 少なくともあやつはわしに御輿を用意して、その御輿が天下を獲れば頃合いで担ぐのを止めて追い落とし、その地位に自分が座ろうなどとは微塵も考えてはおらなんだわ! 以前ならまだしも、今のお主の性根を知っておるわしがお主を懐に入れると思うたか、笑わせるでない!」
秀吉の気迫は、官兵衛をして僅かにたじろがせた。
そしてその言葉を官兵衛の後ろで聞いた寧々は、口元をわずかにほころばせて「お前さま…」と呟き、眼に涙を浮かべてコクリと頷いた。
百地丹波はそのわずかな動きだけで、寧々が既に死を覚悟している事を悟った。
たとえ秀吉が官兵衛を論破しようと、官兵衛が秀吉の取り込みに失敗したと判断した場合、秀吉と寧々の二人を生かしておく必要は無くなるのだ。
そうなれば官兵衛がこの京の都に潜伏していた、という事を知る秀吉とその妻の寧々は殺して口を封じるしか無くなる。
寧々は百地丹波の手の者に捕えられてしまった時点で、既に死を覚悟していた。
だが夫である秀吉の姿を最後に目に焼き付けておきたかったため、今この時まで舌を噛まずに生き恥を晒していたのだ。
そして秀吉は自分が捕えられている事に動揺はしても、そのために己の忠義や理念を曲げようとはせず、正面から堂々と官兵衛に立ち向かっている。
その姿を見て、その声を聞けば十分だった。
自分はこれ以上夫の、秀吉の枷となってはいけない。
今まで口を挟まずに秀吉と官兵衛の舌戦を見届けてきたが、頃合いだと悟った。
そしてそのわずかな感情の動きを、百地丹波だけが目敏く見抜いていた。
チラリと視線を向け、寧々を拘束している忍びに合図を送り、とっさに懐から出した懐紙を丸めて寧々の口に押し込んだ。
「んぐッ!」
「寧々ッ!」
百地丹波の行動に秀吉が叫び、腰を浮かせて焦りを顔に出す。
さらに若い忍びは寧々に猿ぐつわを噛ませ、抵抗する寧々を押さえ付けながらその後頭部の後ろで猿ぐつわを結んで固定した。
さらに手も後ろ手に結ばれ、足こそ自由ではあるもののロクな抵抗などは出来ぬように座らされている。
寧々の抵抗が完全に封じられたのを見計らって、官兵衛は先程の痛撃など無かったものであるかのように、感情の乗らぬ声で淡々と秀吉に言い放った。
「どうやら奥方様は死を覚悟されておるようですな…ですが先にも申した通り、奥方様に危害を加える気はございませぬ、羽柴様も腰を下ろされませ」
「ッ! ……官兵衛、わしはどうあっても貴様の側に立つことはないぞ…たとえ寧々を殺されようとも、上様を裏切る事だけはせぬ! わしは己の役割を全うし、寧々にはあの世でひたすら詫びる! そして何があろうと貴様だけは絶対に地獄に叩き落としてくれるわッ!」
官兵衛の言葉に、秀吉は鬼の形相を浮かべて官兵衛に言い放つ。
常人であればこれほどの怒気に当てられれば、良くて顔を逸らすか下手をすれば失禁すらしてしまいそうな迫力を持った秀吉の眼光を、官兵衛は真正面から受け止める。
怒りで握り締めた拳を振るわせる秀吉に対し、官兵衛はまるで世間話をするかのような口調で話を切り替えた。
「そういえば、その上様のお加減は如何にございますか? 病を得られて羽柴様もさぞご不安では?」
「なッ!?」
感情を前面に出していた秀吉は、その官兵衛のカマかけに引っかかってしまっていた。
何故それを知っているのか、とまで言ってしまいそうだった秀吉は、慌てて口元に手をやって後の言葉を無理やり飲み込む。
眼を見開いて、怒りよりも驚きを声に出してしまった秀吉は、慌てて繕う様に視線を逸らしたが、それで見抜けぬ様な官兵衛や百地丹波ではない。
先程までの会話の主導権争いで、またも形勢が変わったと感じ取った官兵衛がさらに言葉を言い募る。
「なるほど、上様を裏切らぬというその忠義は大したもの、さすがは音に聞こえた羽柴様……ですがその忠義を向ける先が無くなってしまっても、同じことを申されるので? ならばいっそ某は信長死するその時まで潜伏し、死した後にまた改めて羽柴様の元で新たな天下を築かせて頂く、という話では如何にございますかな? 『上様への忠義』に反さず、『天下人・羽柴秀吉』が誕生する、これこそが羽柴様にとって最も栄達を謳歌出来る方法にございませぬか?」
「………先程とは、随分と言う事が変わったのぅ?」
官兵衛の言葉に訝しげな表情を見せる秀吉であったが、官兵衛はまず最初の一言が否定から入らなかった事に脈がある、と判断してさらに言葉を繋げた。
「先程のはあくまで本当の目的の前に出した捨て案にございますれば…信長が病死した後ならば、その腹心であった羽柴様が後を継ぐのに何の問題がございましょう? むしろこのままでは徳川や明智に先を越されてしまいましょうぞ?」
「わしが上様の後継の任に就く事は無い、わしには子もおらぬし上様から預かった秀勝が病弱なのは貴様も知っておろうが。 明智は上様より年長、後を継ぐのに真に相応しいのは徳川殿を置いて他に無い」
「ではその徳川が死ねば? 羽柴様にも目があるのでは?」
「貴様ッ!」
官兵衛が初めて、この場に来て明確に笑みを浮かべた。
それは口の端を釣り上げる程度の微笑、という範囲のものではあったが、その微笑が秀吉の背筋も肝も同時に凍らせた。
「徳川は長宗我部と四国で戦を始めんとしておる様子、さらに信長は因縁浅からぬ紀州へ向かわんとしておる様子……これは、どちらも不慮の事態が起こりかねぬ土地にございますな…」
「お主、どこまで……」
知っているのか、と言いたい一方で恐ろしい事を考えるのか、とも問い質したかった。
だがそんな秀吉の心情を読み取ったように、官兵衛は自らの後ろで控える百地丹波をチラリと見やる。
「某にも、情報の伝手はございます故…そして羽柴様を真の天下人へと導く算段も、付いておるからこそこうして姿を晒したのでございます……表立っての信長への反抗は一切行わずとも結構、ただその時が来るまでお見逃し下されれば、羽柴様の望む世へと某が道をお作り致しましょう…某らはあくまで闇に潜み、その時が来るまでじっくりと羽柴様が跡目を継ぐべき状況を作り上げて」
「そうやって、またわしを御輿に乗せる気か?」
官兵衛の言葉を遮り、秀吉は冷徹な眼差しで官兵衛をジッと見た。
官兵衛の顔からは、既に笑みは消えていた。
「お主に任せておけば、なるほどわしは天下人の座に返り咲けるかもしれぬ…徳川も明智も、なんだったら堀久あたりまで死んでしまえば、わし以外に上様の理想を実現できる者など無ぅなるじゃろう? じゃがそれによって引き起こされる混乱をお主は分かっておらぬ。 日ノ本の国も民も、何も見えてはおらぬ、結局お主は己の望む方向へ世の中を動かしたいだけのたわけ者よ! 『今孔明』の名を継ぎたい? 半兵衛を超える? 馬鹿を申すな、そんなものは貴様にとってただの通過点であり、後の世の名声を得たいがだけのものであろうが! お主は日ノ本各地におる大名らと何ら変わらぬ、ただ中央で『天下』というものを目の当たりにして、それが欲しくなっただけの俗物よ! わしの陰に潜み、隙を見て己が乗っ取らんとする浅ましい獣、それでいて乗っ取った後の『天下』の行く末を上様の様に語る事の出来ぬ、先の見えておらぬお主が半兵衛を超えるなぞ、寝言以下の戯言じゃ! 己が身の程を知れぃッ!」
立ち上がったままの秀吉は、官兵衛を指差して弾劾の言葉をぶつけた。
そして秀吉の言葉を聞いて、官兵衛の目にわずかに怒りが灯る。
秀吉は眼に再び軽蔑の色を浮かべ、官兵衛を真正面から見ながらトドメの言葉を言い放つ。
「器が知れたな官兵衛、お主ではわしを御輿に乗せる事は能わぬ。 その程度で半兵衛を越えようなどと二度と口にするな、貴様程度では生涯をかけても『今孔明』になる事など能わぬわ!」
秀吉がその言葉を言い終わると同時に、憤りに任せた官兵衛の拳が秀吉を殴りつけた。
ゴッという音が鈍く響き、憤怒に顔を染めた官兵衛が傍らにあった杖を掴んで、顔面を殴られてたたらを踏んでいた秀吉めがけて振り下ろされた。
なんとか腕で防御しつつ、秀吉は先程放り投げた刀を取ろうとしたが、その前に百地丹波が官兵衛の腕を取って無言のままに抑える。
「ッぐ……すまぬ、放せ」
百地丹波に抑えられ、珍しく感情を露わにして秀吉を殴りつけた官兵衛が、自らの感情を急速に収めていく。
憤怒に染められた表情が、見る見る内にいつもの無表情へと戻り、改めて秀吉と相対する。
秀吉は最初の一撃で鼻から出血し、その鼻血を拭ったまま腰を落として低く構えていた。
もしこの場で戦いが起こったなら、秀吉に間違いなく勝ち目はない。
百地丹波の存在と人質である寧々の存在、このどちらか一方だけでもすでに秀吉の勝ち目も、退路も塞がれているも同然だった。
「……殺すんなら殺せ、ここまで生きておる方が奇跡のようなわしじゃ…今更死なんぞ恐れぬわ」
息を整えつつも官兵衛・百地丹波・寧々とそれを押さえている忍びを順に見やって、秀吉は人生最後の戦に臨もうとしていた。
秀吉対官兵衛の舌戦が思いの外、長引いてしまいました。
言いたい事、言わせたい事をやらせていたら何故だかこんな事に。
ともあれようやく書き終えましたので急ぎ投稿いたします、編集が不十分な可能性がありますので、誤字脱字等ございましたら遠慮なくご指摘下さいませ。




