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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の八 「それぞれの戦」 その5

遅くなりました、なんだか連日少し書いては編集、をくり返していたら気が付けば前回の更新から10日も経ってしまいました。

お待ち頂いた方々に満足して頂けるかは分かりませんが、ようやくあの男が登場です。

          信長続生記 巻の八 「それぞれの戦」 その5




 信長が京を発し、それに伴って明智光秀と森蘭丸も大坂へと戻った。

 京都所司代として新たに任命された堀秀政は京に残り、前田玄以を乱雑な庶務の責任者に任じ、信長からの命令通り昼夜を問わぬ激務へと叩き落とした。

 本能寺の一件で戦死した先代の京都所司代・村井貞勝は、自前の戦力をほとんど持っていなかった。

 そのため二条御所で防戦した信長の嫡男・信忠への加勢もほとんど意味を成さず、共に果てるという憂き目に遭ってしまった。

 その轍を踏まぬ様に、新たな所司代となった秀政は領国が近い事もあり、京―大津間の街道を軍用と商用の二通りで整備し直し、有事の際にはすぐさま軍を派遣させる体制を着々と整えていった。


 さらに京都所司代として自らが詰める建物や住居も、信長の許しを得て小城並の防衛力を備えた物へと普請し直す事と決めた。

 信長が京へと滞在する折には、万全の警備態勢を整えた宿所としての役割も果たせるようにと、その建築総指揮は堀秀政自らが激務の合間を縫って行い、さらに山城国内で療養中の丹羽長秀に声をかけた。

 長秀は既に病のため隠居しており、家督を嫡男の長重へと譲っていたが、かつての安土城建築の総奉行を務めた経験から、監修を頼み込んだのだ。

 当初は今更老い先短い隠居した老人を、と長秀も遠慮していたが、秀政に頭を下げて頼み込まれ、隠居料として所領まで与えてくれた信長に最後の奉公のつもりで最終的には頷いた。

 結果として他の者達が想像していた物より遥かに大規模な工事が始まる事となり、秀政や秀吉はそれぞれが護衛を連れつつも、寺や旅籠を転々としながら後回しにされた邸宅の完成を待つ事となった。


 そんな折、近衛前久から一条内基の説得が成った、という報せがあった。

 前久は一条内基に対し、協力する事への見返りに、どのあたりまで好条件を提示して良いのか、をあらかじめ信長に聞いていた。

 信長が提示した条件は土佐一条家の復興と、土佐西半国を再興成った一条家の所領として、統治を任せても良いという破格のものであった。

 無論それらを約束するからには、今後は信長側に完全に寄り添う形となり、前久と二人で対朝廷への工作を取り持ち、一条内基の次の関白が秀吉になる所まで、しっかりと手を組むことが条件であった。

 さすがにこれには難色を示していた内基であったが、帝を含めた朝廷の公家衆たちは、以前ほど信長に対して嫌悪感や敵意を持ってはいない。


 少なくとも第二の「本能寺」を起こそうという空気は無く、信長を害する事は却ってこの国のためにならぬという意見があちらこちらから漏れ聞こえているのだ。

 となれば内基としてもここで変に非協力的な態度を取ったり、ましてや敵対などをしても益は無いと判断した。

 だが内基としても口約束では心許ない、として帝にも拝見して頂く誓紙を提出して欲しい、と前久に要求し、前久も早馬でもってそれを大坂に戻った信長に伝えた。

 報せを受けた信長は即座に誓紙を用意し、未だ徳川との一戦が行われていない長宗我部の領地である土佐国に領地を用意する約束をした書状を、京にいる前久に向けて送った。

 前久が目を通した時点で信長の名と花押が記されていた書状には、「信長」の横に十分な間が用意されている書状を見て「これは自分との連名にしろ、という事か」とすぐに察した。


 前久は自らの名も書き添え、信長と前久の連名による内基への誓紙が完成した。

 だがこの誓紙も実は口約束も同然のシロモノである。

 なにせ内基が行うべき行動はすぐにでも履行可能、しかしそれに対する見返りは未だ用意が出来ていないという状況である。

 万が一にも徳川が長宗我部を相手に不覚を取り、状況がこじれる事になればそれは一気に信長陣営の信用問題となってしまう。

 そこまでを計算していない信長ではないはずだ。


 だが信長は何ら迷い無く、京と大坂の距離を考えれば報せを受けた次の日には誓紙を持たせた使者を発たせた、と思える速度で前久に書状を寄越してきた。

 これは果たして徳川に対して抜群の信頼がある故のものか、それとも後で踏み倒す事も視野に入れた上での行動なのか、前久には判断が付かなかった。

 だが前久が取れる行動は一つ、自らと信長の連名での誓紙を内基に渡し、内基が満足気に頷く姿に笑顔で応える事くらいである。

 無論見えない所でびっしりと汗はかいたものの、それを表に出すほど前久とて小心ではない。

 表向きは「これでよろしゅうございますな?」と、余裕綽々な態度で内基に問いかけた。


 内基も「ええ、では出立の準備にかからせましょう」と返し、和やかな雰囲気のまま協力体制が結ばれる事となった。

 だが内基の「誓紙が手に入るまでは準備をしない」というあたりに、信長の性急さとは真逆の気性が見て取れて、これはあまり親しくさせると却って仲がこじれる、と前久は直感した。

 ともあれ前久は内基を伴って京を出立し、大坂で信長と合流してから紀伊国へと向かう事が決定となった。

 京から大坂へ向かう行程の護衛は、堀秀政自らが行う事で、これはそれだけ重要な仕事だという印象を付けておく事も忘れない。

 『従五位下』の位にあり、京都所司代を任される程の者が自分の護衛として同行する、という事に公家特有の気位の高さを刺激され、内基は終始上機嫌のまま大坂へ向かった。


 その辺りの手配は光秀が秀政と頻繁に連絡を取り合って、少なくとも大坂に来るまでは内基の機嫌を損ねない方が良い、という判断で行わせた。

 一方で光秀は紀伊国の中でも中心的な存在である雑賀衆、その頭領と言われる通称「雑賀孫市」との接触を試みていた。

 だがこの「雑賀孫市」という名はあくまで通称であり、その個人を表す名ではない。

 雑賀衆の中でも有力な者がその名を受け継ぐ、と言った塩梅で常に複数の人間が「雑賀孫市」を名乗っているため、光秀にとってそれが問題であった。

 かつて雑賀衆は石山本願寺に協力し、その鉄砲の腕前で以て織田軍を大いに苦しめていた。


 それに業を煮やした信長によって紀州攻めが行われ、織田軍は当時動員できるほぼ全軍を以て紀伊国に攻め入り、雑賀の荘を根絶やしにせんとした。

 だが現代で言うゲリラ戦法による雑賀衆側の抵抗もあり、織田方は彼我戦力差を覆す手痛い損害を被る事となった。

 殲滅作戦はあまりに被害が出過ぎてしまうため、信長は力押しを止めて降伏勧告を行った。

 物量で遥かに勝る織田方は、単なる潰し合いなら確実に勝てる自信はあったものの、それでは自軍の被害も甚大なものになると判断し、雑賀衆側の降伏を以て和睦に持ち込みたかった。

 雑賀衆側も徹底抗戦を続けてもやがては潰される事を悟っていたため、その降伏勧告を受け入れた。


 だがその際に織田恭順派と徹底抗戦派によって内部分裂を起こした雑賀の荘は、信長に従う事で雑賀の発展を目指す恭順派の「雑賀孫市」によって、徹底抗戦派は駆逐されて一時の平穏を得た。

 しかし他でもない光秀の起こした本能寺の一件によって、信長が表舞台から一旦姿を隠すと、信長の後ろ盾を期待していた「雑賀孫市」は、一転して窮地に陥った。

 徹底抗戦派であった土橋氏率いる一派は、織田恭順派の「雑賀孫市」こと鈴木重秀を逆に雑賀の荘から追い出す事で、紀伊国の実権を握った。

 かつての「雑賀孫市」の一人、鈴木重秀は既に大坂城で信長の御前にて頭を垂れ、信長の紀州入りに同行する事が決まっているが、問題は紀伊国内の方である。

 光秀からすれば自らの行いによって紀伊国内の情勢を不安定に、そして信長の顕如との会談に支障をきたす事となってしまった、という自責の念がある為、この二人の会談に要らぬ横槍を入れさせぬように、事前に様々な手を打っておく必要があった。


 かつての徹底抗戦派、現在の紀伊国の主流派となっている土橋家の主となっている土橋重治は、光秀が送った書状に対し、未だ何の返事も返しては来ない。

 信長が現関白と前関白を同行させてわざわざ紀伊国まで出向くという行為に対し、顕如側からは反対的な意見は聞かれない。

 むしろ関白に紀伊国まで足を運ばせるのは忍びない、とまで書状で返してはきたのだが、信長はそれを一蹴、「この機会に、せっかくだから関白殿には熊野詣でもさせてやりたい」と返事をしたほどである。

 向こうから来ると言うのならむしろそれを待ち、こちらの本拠で迎えればとは思うのだが、それだと時期は向こうが引き延ばそうと思えばいくらでも引き延ばせてしまうため、信長の希望には添わなかった。

 そのため向こうが否が応にも会わずにはいられない、こちらから押しかけるという戦法で顕如に通達したのである。


 そこに光秀の苦悩がある。

 自分で意図せず撒いてしまった種とはいえ、現在の紀伊国は反信長派が主流派となっている国であり、信長と十年以上に渡って戦い続けた顕如を含めた本願寺の一向宗も数多く潜んでいる。

 いくら関白を同行させているとは言っても、暗殺や襲撃の危険性は常に付きまとうだろう。

 道案内は鈴木重秀に任せる事は出来ても、土橋重治がどのように動くかしれぬ以上、決して油断は出来ぬ土地である。

 数多の懐柔・調略を成功させてきた光秀とて、今回の土橋重治率いる土橋派の調略は、これまででも屈指の難度を誇っている。


 だが信長の身の安全を確保するため、光秀は自分に出来る事をただひたすらに行うだけだ。

 紀伊国の現在の情勢把握、顕如との会談場所候補の選定、奇襲や狙撃に向いた土地の絞り込み、現在の「雑賀孫市」を名乗る複数の者たちに送る懐柔の書状の作成など。

 さらには蘭丸と共に紀州に向かう軍勢の編成も並行して行っているため、光秀は寝る間も惜しみながら働いていた。

 その必死な形相は、顔に疲労が色濃く出てしまっている蘭丸をして、決して「疲れた」というボヤキすら呟けない程のものであった。

 そうしている間に世の中は梅雨にさしかかり、鉄砲の火薬にとって天敵と言える湿気が増す時期に入った。


 狙撃による危険性を少しでも減らすため、光秀は信長に梅雨の時期の会談を進言していた。

 信長も今まで幾度も狙撃に遭い、実際に大怪我を負った経験を持っているため、その進言に則って梅雨入りを待っていた。

 梅雨独特の緩やかにして長時間の雨が降り始める直前に、京から近衛前久と一条内基が大坂城へと到着し、信長は二人の到着を労い、歓待の宴を催した。

 接待役は同行してきた堀秀政と、森蘭丸や大坂城に詰めていた池田輝政である。

 一方の光秀は、未だ届かぬ土橋重治からの返書に焦りを抱いていた。


 だが光秀がどんなに焦ろうとも、土橋重治自身が光秀からの書状を破いて燃やしてしまっているため、返書が届くことはない。

 大坂で華やかな宴が催され、四国では徳川対長宗我部の戦が迫る中、京でも人知れず動きがあった。

 自らの邸宅が梅雨入りまでに完成しなかったため、今日も護衛を伴って旅籠に宿を取っていた秀吉が、夕刻になって聞き慣れていたコツ、コツという音に総毛立った。

 眼を見開いて身体を強張らせる秀吉に、周囲の護衛たちが違和感を抱いて秀吉に声をかけようとしたその時、音も無く飛んで来たクナイに喉を、あるいはうなじを貫かれて、護衛の者たちが声も上げる間も無く倒れ伏す。

 ただ一人アゴ先を掠めるだけで助かった護衛が、慌てて秀吉に駆け寄りながら刀に手をかけ、周囲を警戒する。


「何奴だッ!?」


 あえて大きな声を出す事で、部屋の外や旅籠の外にいる者達に危険を知らせる。

 これで襲撃者も、部屋の外やあるいは旅籠の外を警戒している忍びたちに囲まれ、袋の鼠となる。

 しかしそれは、今秀吉とただ一人生き残った護衛がいる部屋の外に、まだ動ける護衛がいればの話である。

 生き残った護衛が声を上げて数秒間、辺りからは何一つ物音が聞こえてこない。

 生きている者が動けば、ましてやそれが緊急を要し、存在を秘匿しなければならない訳でもなければ、動いた時のわずかな音や気配の乱れ程度はあるはずである。


 それらの一切が、全く存在しなかった。

 ただ一つの例外は、秀吉が最初に聞き取ったコツ、コツという硬質な音。

 現在秀吉がいる旅籠は三階建て、その中の二階の一室で寛いでいた所に、その音が聞こえたのだ。

 秀吉が護衛と共に泊まる為、昨日からこの宿は貸し切っている。

 一階も三階も護衛の者たちが詰め、同じ二階の他の部屋も当然護衛や秀吉付きの使いの者らが寝泊まりしている。


 もうすぐ夕餉の時間となる、という所で突如とした襲撃に、秀吉は焦りながらもこの襲撃の主犯とも言える存在に心当たりがあった。

 せわしなく四方八方に視線を巡らせ、さらに「何奴だッ! 姿を現せっ!」と声を荒げ続ける護衛に、秀吉はそっと「落ち着け、いつでも逃げられる準備をしておけ」と声をかけた。

 護衛はわずかに頷いて、そっと窓の外に視線を移す。

 すると次の瞬間にはグラリと身体を傾けて、自らの身体を張って護ろうとしていた秀吉に向かって倒れ込んで来る。

 秀吉が慌てて身をかわすと、その者の首筋には深々とクナイが刺さっており、最後に残った護衛の一人も言葉にならない声を上げて絶命した。


「失礼いたしました。 久方ぶりの再会に余計な横槍はご無用、と思いまして」


 秀吉の視線が護衛の喉元に向いていると、部屋のふすまが僅かな音を立てて左右に開かれ、コツ、コツという音を立てていたと思われる杖を持った男が、静かに佇んでいた。

 顔を上げずとも分かる、そちらを見ずとも分かる、声を聞かずとも秀吉にはその男が誰なのか分かる。

 およそ二か月前となるあの日から、忽然と姿を消していた自身の部下であった男。

 何故今この時期に自らの前に姿を現したのか、それは分からないがただ一つ分かっている事は、自分に会うためにこの男は自分の護衛たちを皆殺しにした、という事だ。

 恐怖と怒り、焦りと疑問を飲み込んで、秀吉は殊更冷静に口を開いた。


「久しぶりじゃな、官兵衛。 何をしに来た?」


 ゆっくりと顔を上げ、秀吉が黒田官兵衛を真っ直ぐに見据えた。

 眉根を寄せて身体をわずかに屈ませ、いざとなれば窓から外に飛び出す事も出来る体勢で、秀吉は油断なく辺りの気配を探る。

 天井裏に一人、官兵衛が先程まで立っていた廊下に最低でも二人、それだけは気配から分かる。

 問題は一階にいるはずのこの旅籠の人間や、三階にも同じく詰めているはずの護衛たちが、この時点で全くその存在が感じ取れないという事だ。

 下手をすれば、この旅籠の中で秀吉は孤立無援となっている可能性がある。


「自らの家臣と会うに、何をそこまで警戒なされます?」


 秀吉の答えなど分かっているだろうに、相も変わらず無表情に淡々と言葉を紡ぐ官兵衛。

 歯噛みした秀吉が、自らの腰にある刀から手を離さずに言い返す。


「白々しいのぅ…警戒されるのが嫌なら、この者たちの命を奪った奴らを全員、今この場で顔と名を晒させた上で腹を切らせよ、さもなくばお主と話す事など無い!」


 仮にも成長著しく、競争激しい織田家内において、底辺から這い上がって宿老まで上り詰めた経験を持つ秀吉である。

 今でこそ過日の様な上昇志向に溢れたギラギラとした目付きは鳴りを潜めてはいるものの、それでもこの戦国の世を代表する一角の男である。

 たとえ絶体絶命の窮地にあっても、おいそれと気概を捨てるような真似はしない。

 言葉と共に放たれた眼光と殺気に、無表情な官兵衛の口角が僅かに上がる。

 矮躯、と呼んで差し支え無い小男とは思えぬその気迫は、未だ秀吉という男が錆び付いてなどいない証拠であった。


「ご安心召されよ、羽柴様と語らうは某一人にて。 段蔵、降りて来い」


 官兵衛が最後に天井に向かってそう言うと、天井板の一枚が外れ、そこから音も無く一人の老人が下りてきた。

 どこにでもいるような風貌の、道端の往来ですれ違っても気付かぬような服装の翁。

 だがその身のこなしは秀吉の額に瞬時に脂汗を浮かせるほど、素早く淀みが無い。

 そして一瞬だけ視線が合うと、それだけで秀吉は心の臓を鷲掴みにされたかのような錯覚を覚える。

 脂汗を浮かべ、思わず生唾を飲み込む秀吉の様子など露知らず、とばかりに「段蔵」と呼ばれた老人は秀吉に一礼し、部屋から出て廊下で控えるように座った。


「……段蔵、と言うたか?」


「ええ、ご存知にございましょう? 音に聞こえたかの『鳶加藤』殿を、召し抱えております」


「馬鹿な、かなり前に殺されたと聞いたぞ! 確かに手練れの忍びかもしれぬがその男が『鳶加藤』な訳が――」


「では羽柴様はその『鳶加藤』こと加藤段蔵の死に様を、その眼でご覧になられましたか?」


 官兵衛の無表情なままの問いに、秀吉は言葉に詰まる。

 手練れの忍びの死、は確かに偽装、あるいは喧伝される事が多い。

 かつて仕えていた上杉謙信から疑念を持たれ、その元を去った加藤段蔵はその後武田信玄に仕え、やがて信玄からもその腕を恐れられて暗殺された、という風聞があった。

 東国において並び称される二人の名将からその様に恐れられた伝説の忍びである『鳶加藤』なら、確かにその死を偽装して名と姿を変えて、どこかで生きていても不思議ではない。

 秀吉とてその可能性を完全には否定する事は出来ず、そのために官兵衛が堂々と嘘を吐いている事を見抜けなかった。


「上杉謙信・武田信玄といった名将でも所詮は人間、恐れを抱けばやがては排除したくなるもの…故にこの者は大名に仕えるを良しとせず、某の様な者と行動を共にしている次第にございます」


「……それで、その天下の『鳶加藤』とわしの元家臣が揃って、一体何をしに来た? 茶飲み話に来たのではあるまい?」


 秀吉はわずかに踵を浮かせて腰を屈めた体勢から動かない。

 両手はしっかりと刀にかかっており、いつでも抜き放てるようにしながら視線は油断なく官兵衛と『鳶加藤』と名乗っている百地丹波に向けられている。

 秀吉は小柄で力も弱いが、それでも一応は五体満足である。

 対して官兵衛は足が不自由となり、杖無しでは歩く事すら難儀する有様だ。

 だが『鳶加藤』で通している百地丹波は凄腕の忍びであり、秀吉一人が白兵戦で敵う相手ではない。


 部屋の外の廊下に控えているとはいえ、あの老人なら瞬きする内に秀吉の首にクナイを突き刺す事など造作もないだろう。

 部屋のふすまは開け放たれ、官兵衛は悠然と部屋の中の秀吉の対面に腰を下ろすが、秀吉は目立たぬ位のわずかな動きをくり返して、窓の方へと自身の身体を向かわせていっている。


「せっかく訪ねてきたというのに、すぐに帰られては元も子もありませぬな……」


 どこか余裕の感じられる官兵衛がそう言うと、秀吉は体をピクリと揺らす。

 対して廊下にいた百地丹波は、無言で立ち上がり一階へ下っていく階段に向かって手を二回ほど打ち鳴らす。

 その音を合図に、誰かが階段を上がって来るときの、階段がきしむ音が秀吉の耳に響く。

 音からするとどうやら同時に二人の人間がこの二階に上がってきたようだが、一人は明らかに足音が殺せておらず、武の心得が無い様に思える。

 そうして二階に上がってきた人物が、秀吉のいる部屋の前に連れて来られた。


「寧々ッ!?」


 秀吉が眼を見開き、その者の名を呼んだ。

 両手を後ろ手に縛られ、口に猿ぐつわを噛まされた秀吉の妻・寧々がそこにいた。

 百地丹波は先程腰を下ろしていた位置から少しずれて、秀吉の正面に官兵衛、その右斜め後ろに百地丹波、そして左斜め後ろに寧々、という位置でそれぞれが腰を下ろした。

 もっとも寧々の場合は、一階から階段を上らせたもう一人の若い忍びが無理やりその場に座らせ、片手には常に短刀を持って寧々の首筋に当てている。

 怒りの形相で官兵衛を睨み付ける秀吉に、官兵衛は以前として表情一つ変えずに言い放つ。


「せっかくですので奥方様もお呼び致しました。 ちょうどこちらへ向かって来られている最中でしたので、某の手の者に案内をさせました。 このような姿で心苦しくはございますが、傷一つ付けてはおりませぬのでご安心を」


「官兵衛ぇぇ……女を盾に、人の女房を人質に取るとは見下げ果てたわッ! 上様に対する人質ならわしの方が好都合であろう! わしが代わる故、寧々は放せッ!」


「武士たる者、妻や我が子が人質となるなどありふれた話に御座いましょう? それに奥方様以外の多くの女子に手を出しておきながら、今更奥方様がそれほど大事にございますか? ならばその大事な奥方様を置いて、この場から一人でお帰りになられる事はありますまい?」


 今にも視線だけで黒田官兵衛を射殺さん、とばかりの形相をする秀吉だったが、自らの歯を砕きかねない程の強さで歯噛みした後、黙って腰の刀を鞘ごと放り投げて、その場にドカッと腰を下ろす。

 秀吉の行動を見た寧々は、言葉を発せぬまま首を横に振り乱し、涙を流し始めた。

 その必死の動きが癪に障ったのか、若い忍びが寧々の髪を掴んで「大人しくしろ」と恫喝する。

 秀吉が思わず腰を浮かせかけるのと同時に、官兵衛が「丁重に扱え」と静かに言い放つ。

 若い忍びが動きを止めて、横からの百地丹波の視線を受けて「失礼しました」と、寧々の髪から手を放し、持っていた刀も少しだけ首筋から遠ざける。


「失礼仕りました、某とて奥方様への無体は望む所に非ず。 まずは某の話を聞いて頂きたい」


「………話してみろ」


 先程よりも幾分感情が落ち着いたのか、秀吉は油断なく三者を見据えているものの、すぐに飛びかかるような無謀な真似はしなかった。

 それに官兵衛の話がもし長くなるようなら、秀吉が襲撃されていると何者かが気付き、官兵衛たちをこの場で捕える事も可能になる公算が高い。

 その場合寧々の安全は考慮されない恐れがあるが、それでもこの場から官兵衛を逃がす気は毛頭ない。

 官兵衛に揶揄された通り、秀吉は妻である寧々以外の多くの女性に手を出している。

 だがそれでも妻である寧々に対する愛情が無い訳ではない。


 自らが築き上げてきた功績、地位を受け継ぐ存在をどうにかして作りたい、しかもそれを出来れば自らの分身となる息子に譲り渡したい。

 そう考えた秀吉であったが、寧々との間には望み続けた男子が出来ず、また生来の女好きも手伝って数多くの女性に手を付けた。

 だがそれも再臨した信長に止められ、また秀吉が罰を受けるのなら自分も共に、とまで言ってくれた妻に対し、秀吉は改めて寧々に深い感謝と愛情を抱いた。

 その寧々を見捨てて自分だけ逃げるくらいなら、ここで命懸けで官兵衛捕縛に挑んだ方がよほどマシというものだ。

 その上でもし寧々が害されるのなら、自分もそれを追って果てるという覚悟すらあった。


 今の所話をしたいと言うだけであって、官兵衛自身に怪しい素振りは見られない。

 足の悪さを補うための杖を自らの横に置き、身を乗り出して腕を伸ばせば届きそうな場所に、官兵衛は表情一つ変えずに座っている。

 もしこの場に救援がやってくれば、いくら手練れの忍びを雇い入れたといっても、五体満足ではない官兵衛に逃げ切る術はないはずだ。

 ならば自分は官兵衛の話に付き合う振りをして、時間を稼げば良い。

 寧々と自分がどうなるか、その時はその時だ。


 悲壮な決意を胸に秘めた秀吉が、既に物言わぬ骸と化した護衛たちの身体の間で、深く息を吸い込んだ。

 むせ返るような血臭がする、下手をすれば自分もここの仲間入りだ。

 だが退く訳にはいかない、圧倒的に不利な状況下であっても、今日この時まで生き抜いてきた自負が、秀吉にはある。

 わざわざ「話をしたい」などと言ってくる以上、すぐに殺そうとはしないはず。

 ならばそこから、この状況を打開する状況を引き出してやる。


「明智光秀が失敗したのなら、羽柴様が織田信長の首を取れば良いのです。 そして徳川や上杉、毛利らを従えれば再び天下は、今度こそ間違いなく羽柴様のものとなりましょう……不肖この黒田官兵衛孝高、御力添え申し上げまする」


 秀吉の内に秘めた覚悟も決意も、一切を無視したかのごとき言葉が秀吉の耳を打つ。

 言い終わるなり平伏した官兵衛に、秀吉は何も言い返す事が出来なかった。

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