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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の八 「それぞれの戦」 その4

            信長続生記 巻の八「それぞれの戦」 その4




 淡路島の一角、拠点となっている淡路洲本城から数分ほど歩いた所にある平地で、徳川家康とその重臣たちが集まっていた。

 周囲を徳川の兵で囲ませ、陣幕を張った中で徳川の者だけの作戦会議を行っているのである。

 家康がこの淡路島に連れて来た軍勢は、総勢一万五千。

 だが淡路洲本城には、それだけの兵を収容出来るだけの規模は無い。

 なので兵の大半は淡路島の至る所に分散し、四国本島の監視をしつつ地元の島民に迷惑のかからない方法で、野営をさせていた。


 その内の一つを使い、野営陣地そのものの場所で彼らは軍議を行っているのである。

 なぜこのような場所でやっているのか、それは四国の調査に向かわせた服部半蔵が報告のために戻って来たからだ。

 半蔵以下の伊賀忍びを使い、家康は四国の情勢や地形を調べ上げさせていた。

 なにせ家康自身、四国に対する知識は無いに等しい。

 無論讃岐国・阿波国・伊予国・そして長宗我部の本拠地である土佐国の四カ国からなる巨大な島である、という認識くらいは持っている。


 だがそれ以外の、例えば良質な馬はいるのか、美濃柿の様な甘い食べ物はあるのか、信濃国の様な肥沃な土地はあるのか、そういった類の知識が無いに等しい。

 そして長宗我部元親という男がどのような政を行っているのか、年貢はどれほど取っているのか、どのような戦法を得意とするのかなどを、あらかじめ調べ上げておく必要はあった。

 家康と長宗我部元親は、かつては拡大していく羽柴秀吉に対して、いわゆる『秀吉包囲網』を形成する同盟相手として書状のやり取りをした事がある。

 その関係もあって、少なくとも長宗我部元親は四国だけを治めれば満足するような男ではない事は、書状の中身から容易に読み取れた。

 その器があるかどうかは別として、機会があれば四国統一後には本州にも打って出ようとする野心が窺えたのだ。


 長宗我部元親は信長への従属を蹴って、敵対を選んだ結果四国征伐軍を向けられそうになり、窮地に陥りかけていた。

 それが明智光秀の起こした本能寺の一件により、うやむやとなって九死に一生を得た。

 その後は四国制覇実現に向けて着々と歩を進め、今や四国の半分以上を手中に収めている。

 『土佐の出来人』の名に恥じぬ、外交戦略や戦での強さでもって頭角を現し、全国規模で見ても充分に群雄と呼べる規模にまで長宗我部家を発展させた、英雄と呼ぶに足る手腕の持ち主である。

 だからこそ、家康には一片の油断も許されない。


 書状でのやり取りでその野心は読み取った。

 そして家督相続後からこれまでの伸長具合で、どれほどの器かは見定まった。

 後はより細かく、どのような戦術を用い、どのような政を行い、何を好み何を嫌うかを見切ってしまえば、慣れぬ土地であろうとも勝機は充分にあると家康は見た。

 そのための半蔵、そして伊賀忍びの先行偵察である。

 半蔵は配下の者たち総出で目と耳や測量で計った地形・評判などの一切を家康に提示した。


 長宗我部元親の目指す所は四国の完全統一、ならば外敵となる本州や九州からの軍勢には保守的にはならず、進んで打ち倒そうとする傾向がある。

 つまりは籠城戦を好まず、打って出る野戦、もしくは攻城戦を好む気質であるという事。

 地形も海で囲まれた島であるとはいえ、四国の名の通りの四ヵ国を分断する中央部の山々は、標高が高く山越えは困難と言える。

 さらに阿波国・讃岐国・伊予の北半国は比較的雨が少ないため、干ばつが起こり易く凶作になることもしばしばあるという。

 長宗我部家の本拠地である土佐国はそういった被害は少なそうではあるが、こちらは長宗我部元親の決めた年貢の税率が重いとの事だった。


 当時の年貢の税率は概ね五公五民、厳しい所で六公四民、甲斐の金山の収入を得る事が出来た武田信玄や、民政家と言われる北条氏康などが四公六民を達成出来ていたくらいである。

 つまりは大体四割から六割が、年貢の税率としては全国的な水準であったと言える。

 だが六公四民にまでしてしまうと、一度凶作にでもなれば一気に餓死の危険性も高まるため、農民の逃散が相次ぐ事態となってしまう。

 そのため基本的な税率は五公五民が多く、後は何かしら別の所での税収を期待するのが、一般的な領国経営の在り方と言えた。

 だが長宗我部の支配地での税率は二公一民、つまりは三分の二、六割六分までが年貢として納めなければならないという有様であった。


 またそのあまりの年貢の重さに逃散を企てる農民も多く、それらを取り締まるための厳しい罰則を設けているとの事だった。

 こうなると領内の不満はさぞ高いものだろう、と家康は考えたが半蔵はそれを否定した。

 『一領具足』と呼ばれる半農半武士の兵が長宗我部軍の中核であり、彼らは農繁期に農作業を行い、農閑期に戦に積極的に出陣するという者達であるという。

 「それは一般的な足軽らとどう違うのだ」と家康が問うと半蔵は「彼らはあくまで農民でありながら武士でもあり、だが武士としての仕事はしない」のだという。

 兵農分離政策によって、一年中どのような時期でも戦を行える織田軍とは対極に位置した者だな、と家康は一人考える。


 織田家中を外から眺めている者の中でも、家康ほど間近でそれを見て来た者はいない。

 信長が進めた兵農分離政策は、農繁期は戦を避けて農閑期に出稼ぎの様に他国へ侵略しに行き、物や金を奪って冬を越すなどといった、それまでの戦の概念を根底から覆した。

 そしてそれを行えたからこそ、信長は幾度にもわたる織田家包囲網を潜り抜けて来られたのだろう、とも思う。

 そして一方で徳川家康がまだ『松平元康』と名乗っていた頃、今川義元率いる今川家の支配地となっていた三河国では、真っ当な武士の地位にある者ですら百姓に交じって農作業を行っていた。

 今川の搾取によって三河の武士たちは、自分たちの食い扶持を自分たちで作り出さなければ生きていく事が出来ない程、困窮を極めていたのだ。


 数え年で六歳、つまりは満五歳程度の小童一人が他国へ人質として出され、その存在のためにどれほどの苦難が三河の領民に襲いかかったか。

 桶狭間で今川義元が討たれ、今川の上洛軍が崩壊してそれぞれが自領へと逃げ帰る中、家康はおよそ十年ぶりとなる三河の地へと帰還した。

 今川においては「支配下に置いた地の、人質上がりの小倅」であった松平元康は、三河の地においては「正統なる統治者の血を引く若殿」であったのだ。

 その時の家康の心境を思えば、領民に苦難を強いる今川への従属を続ける理由がどこにあるだろうか。

 ボロボロになりながら涙を流して自分を迎えてくれた者達へ、さらなる苦難を受け続けてくれなどと、一体どの口が言えようか。


 松平元康はその時、今川義元から頂いた偏諱である「元」の字を捨てる決心をした。

 真っ当な武士でありながら農作業にも従事せねばならない苦難、自らが体験した訳ではなくとも、その苦労は想像に余りあると家康は考えた。

 長宗我部元親は領民を武士化させる一方で、重い年貢でもって縛る悪辣なる独裁者なのか。

 それとも形は違えど信長と同じような合理主義でもって、領民を平時の農民、有事の兵隊として使いこなす才ある統治者なのか。

 現時点ではどちらの判断もつかない、家康にとって四国とは未知の土地であり、その風土や人々の想いの形もまた、未知なるものだからだ。


 かつての三河の領民の様にただ搾取されるだけの農民の様な武士ではなく、土佐の農民は一人一人が武士であり兵であるという、もう一つの姿を持つ軍団であるという。

 重税故に苛烈な取り締まり、そして貧しいが故の侵略時の強さ、であるのならば納得のいく話だ。

 だがこの場合領主への忠誠は低いはず、であるというのに『一領具足』の者達の士気と忠誠心は総じて高いという。

 この時点では伊賀忍びも断片的な情報しか調べられていなかったため家康も想像に頼るしかなかったが、長宗我部元親は商業や文化の発展にも力を注いでいた。

 それによって土佐の国内は栄え、たとえ年貢は重くとも領民は元親を『土佐の出来人』として敬った。


 それらの情報を半蔵から聞かされ、家康はやはり長宗我部元親は油断のならぬ男である、と一層気を引き締める事にした。

 敵の総大将はこちらの想定の上をゆく者かも知れず、地勢も向こうが遥かに知り尽くしているだろうし、兵力もまた向こうが多い。

 「人数」も「地の利」も向こうにあり、そこにある物で、形ある物で上回られているのなら、一体どのように対抗するべきか。

 答えは簡単だ、形ある物で上回られたのなら、こちらは形の無い『情報』でもって上回るまで。

 半蔵からもたらされた『情報』で、長宗我部軍に対して付け入る隙は見つけていた。


「良くやった半蔵。 おかげで長宗我部との戦、こちらの優位に運べる算段がついた」


 家康の口角が上がり、それを見た周りの者達は「おお…」と顔をほころばせた。

 居並ぶ者達に向かって、家康は一つ一つ説明していく。

 まず長宗我部元親が目標としている事は、四国の統一である。

 ならば外敵を排除するため、積極的にこちらに仕掛けてくる、つまりはこちらが仕掛けずとも向こうから勝手に仕掛けて来るであろうという事。

 向こうから仕掛けて来るのなら、こちらが守りに適した地に陣取り、家康の得意とする野戦で防衛主体に戦う事も出来る。


 さらに数の差、長宗我部軍は総勢二万を優に超えると仙石秀久から聞いてはいるが、徳川軍と仙石秀久勢、さらに四国に未だ残る反長宗我部勢力を糾合しても、恐らく二万には届かない。

 長宗我部軍は数の差で勝る以上、そして四国制覇を目指して戦う以上、数の差で劣る相手に消極的な戦をする訳にはいかないという制約が出来る。

 おそらく長宗我部軍は「余所者に四国を好きにはさせぬ」というお題目を掲げるだろう。

 父祖の代から守ってきた土地を、よその者達に好きにされるのは誰であろうと嫌なものだ。

 ならばこそ徳川・仙石という四国とは縁も所縁も無い三河や美濃の出身者に好きにはさせぬと息巻くだろう。


 さらに現在は夏、いわゆる農閑期であるため長宗我部軍も中核となる一領具足が大いに働く時期ではあるが、あまり時間をかけてもいられない。

 時が経ち秋となれば、半農である一領具足は稲刈りのために領国に帰らねばならなくなる。

 つまり戦を長引かせる事は、長宗我部軍の士気の低下、及び脱走兵を出しかねない事態となる恐れがある。

 この時点で「四国の覇者となるため・自軍よりも数の少ない敵勢に・余計な時間はかけられない」という三つの条件が揃っている。

 長宗我部元親は徳川を相手に一気呵成に仕掛けてくる、しかも決して負ける訳にはいかぬために、出し惜しみなしの決死の覚悟で。


 ならば裏を返せばその一戦の勢いさえ凌げば、長宗我部軍は自然と瓦解するか一気に降伏まで持っていく事も可能だろう、という事。

 一方でもし家康が四国に上陸してすぐさま城に籠れば、敵は攻めあぐねて最終的に撤退するだろう、という算段も立てられる。

 だがそれでは結局大した戦働きとは言えなくなってしまう。

 様々な状況によって、長宗我部軍に見逃してもらえた、という扱いにさえなりかねないのだ。

 しかし数も少なく地の利の無い場所にも拘らず、徳川は野戦で長宗我部を打ち破った、というのであれば話を聞いた者達はどのように思うだろうか。


 危険であることには変わりない、万を超える軍勢同士が野戦で戦えば、その損害は莫大な物となるだろう。

 おそらく相当な数の家臣を負傷、あるいは討死にさせてしまうという、非情な判断となるだろう。

 だが今後の日ノ本統治後の在り方において、徳川家の家名を高めるためには、これは必要な戦である。

 戦国乱世の時代において、戦に強いというのは何より家名を高める必須の要素でもある。

 ならば、ここは危険であっても退く訳にはいかない。


「長宗我部を相手に野戦を仕掛ける。 半蔵、阿波国の地形をさらにつぶさに調べ上げ、伏兵を配しやすい地や、川や湿地などの更なる詳細な情報をまとめ上げよ。 長宗我部の主力を阿波国まで誘い込み、これを撃破して徳川の名を世に高める! 弥八郎、お主は仙石殿に四国渡海の準備をするよう申し伝えよ、こちらは四国に不案内故、貴殿が頼りと持ち上げながら言うてやれ!」


「は…」


「かしこまりました……殿もなかなかどうして、サルめに似て参りましたか?」


 命じられた服部半蔵は返事をした直後に、すぐさま部下に命令を下しにその場を去っていく。

 対して弥八郎こと本多弥八郎正信は、皮肉めいた笑みを口元に浮かべ、家康を見返していた。

 自分より立場が下の者に対し、上から物を言うだけならば簡単だが、そこをあえて気持ち良く働けるように持ち上げて、頼りにしていると言葉にして仕事を任せる。

 そのやり方はまるで「人たらし」と呼ばれる秀吉の様だ、正信は言ったのだ。

 本多忠勝や大久保忠世などの重臣が「余計な事を言わずに早く行け」と視線で促しているが、家康もまた肩をすくめて笑みを返す。


「何を言う、わしは織田殿に狸呼ばわりされた事はあっても、サル呼ばわりされた覚えはないぞ」


「左様にございますか、では狸とサルではどちらが上にございましょう?」


「無論、人を化かす狸の方が上手じゃ。 食ぅても美味いぞ」


 家康から「友」とまで呼ばれた正信ならではの返しではあったが、家康に絶対的な忠誠を誓う三河武士たちからしてみれば、正信の言動は不敬極まりない、という感覚であった。

 居並ぶ他の家臣に対して「そう睨み付けてやるな」と、口元の笑みと手の振り一つで伝え、視線は正信に向かっている。

 正信も勝手知ったるが如く陣幕から出て行き、諸将は軽く鼻を鳴らしたり舌打ちをしていた。


「さて、我らはこれより慣れぬ地にて、初顔合わせとなる敵と戦う訳じゃが……想定する敵の強さは『武田』と思え、良いな?」


 家康の言葉に、多くの者が眼を見開く。

 徳川にとって『武田』を想定するという事は、正に最大警戒・全力で当たって尚力及ばずとなる可能性がある、という事だ。

 ここにいる家臣は皆、武田信玄存命時の強さを身を以て知っている。

 長宗我部元親の軍勢とは、それと同等の強さだというのかと、諸将は思わず唾を飲み込んだ。

 すると家康に最も近い位置に立っていた本多忠勝が口を開いた。


「恐れながら、かの武田と同等の相手に数で劣る上に野戦を仕掛ける、というのは下策では?」


 忠勝の言葉に、神妙な顔付きをした他の者達も「確かに」、「危険にござる」と声を上げ、声に出さなかった者も黙って頷くなど、忠勝の意見に賛同する者ばかりだった。


「無論武田と完全に同じ、とは言わぬ。 だがそのつもりでおらぬとこの戦には勝てぬと思え。 向こうはこちらを完全に駆逐するために向かってくるのだ、一領具足なる者らは甲州武者に負けず劣らず、勇猛にして精強と思っておらねば、かえって徳川は長宗我部の武名を高める餌にされかねぬぞ」


 家康の言葉に忠勝も「承知仕りました」と頭を下げ、他の者達も同様に頭を垂れた。

 その後仙石秀久から、長宗我部軍は鉄砲を多く用いる戦術を得意とする、などの情報も仕入れておいたため、鉄砲からの盾にするための竹束を多数船に積み込み、渡海準備を進めていった。

 諸将には言わなかったが、家康の頭にある勝算の一つは半蔵らを含めた伊賀忍びの存在である。

 四国に先行偵察に向かわせた伊賀忍びの総勢は十や二十ではない。

 未だ見たことが無い地であっても、家康は阿波国の事ならば大体の地勢を把握出来ていた。


(書状のやり取り一つでも読める事はある、ましてやそのやり取りに紛れ、実際に四国に向かわせた伊賀者らが、今も諜報を続けておる……長宗我部元親、お主に恨みは無いが次代の徳川を築く礎となってもらうぞ)


 戦国大名に相応しい、非情な光を湛えた家康の眼は、未だ踏んだ事の無い四国の地に向けられていた。




 長宗我部元親の元に、淡路島に徳川家康自らが一万五千の兵を引き連れて上陸し、四国上陸を窺っているという情報がもたらされた。

 その情報を耳にして元親が真っ先に浮かべた反応は苦笑であった。

 とかくこの世は複雑怪奇なものだと思い知らされたのだ。

 かつて織田信長は長宗我部元親に対し、制圧した地域はそのまま支配して良い、と約束した。

 『四国切り取り自由』という条件もあって信長に臣従したというのに、いざ四国統一が現実味を帯びてくれば土佐一国と阿波の南半国で満足しろと一方的に言い渡された。


 それに反発すれば四国遠征軍が組織され、信長の三男・信孝が副将に丹羽長秀を従えていざ上陸してくるかと思えば、本能寺にて信長が討たれたと聞かされた。

 あれだけの権勢を誇る男と言えど、死ぬ時は一瞬だと世の無常を感じ苦笑した。

 その後の羽柴秀吉の台頭に危険性を感じ、当初は柴田、次に徳川と組んで対抗せんとした。

 そして羽柴と徳川がぶつかり、その和睦が行われたと思えば信長が実は生きていた、と聞かされた時にはさすがに我が耳を疑った。

 しかしそれが虚報ではないと確証が取れたと思えば、羽柴包囲網を敷いていた同盟相手であったはずの徳川がこちらに向かってくるというのだ。


 もはや誰が敵となり味方となるのか、一寸先は闇とはよく言ったものだ。

 いや、その闇の中でも恐らく徳川家康だけはこの状況を読めていたはずだ。

 信長は死んだと見せかけて、徳川家康の元に潜伏していたというのだから、信長が表舞台に舞い戻ればこうなる事態は予測出来たはずだ。

 つまり、この機に四国に兵を向けて来るのも家康にとっては予定の内、さらに対羽柴で同盟を組んでいながらにして、やがては敵対すると分かっていたのならどうするか。

 元親が浮かべていた苦笑はより深くなる。


「やられたな……書状でしか知らぬが、徳川家康なる男は相当な狸だ」


 誰に聞かせる訳でもない独り言、である。

 実際に今元親がいるのは野戦陣地の陣幕の中である。

 辺りには見張りや護衛の兵はいても、重臣などは皆何かしらの理由でここにはいない。

 元親は一人考える。

 羽柴包囲網時に、家康はこちらを完全に騙したまま同盟を組み、こちらの内情を探っていたのだろう。


 まんまとしてやられた、元親は掌の上で弄ばれたと言って良かった。

 だがそこに怒りは無い、利用出来る者は利用し、得られる物は得る、それはこの戦国乱世の世において悪ではない。

 ただそこに考えが及ばなかった己が悪い、少なくとも元親は家康に一手を譲る形となったのだ。

 ここで怒りに任せて激情のままに徳川憎し、を前面に押し出すのは簡単だ。

 徳川はこちらを騙し討ちするつもりで同盟を組んでいた、となれば士気は上がるだろう。


 だがこちらは明確な形に見える被害を被った訳ではない。

 己の感情のみで下した指示は兵たちにまでは行き渡らず、士気向上もあくまで一時的なものになる。

 こちらから打って出るか、あくまで様子見に徹するか。

 聞けば徳川は万を超える軍勢で淡路島に上陸したとのことだが、こちらは伊予国の河野家などへの抑えの部隊を割いても、二万以上の軍勢でもって迎撃できる。

 淡路島の仙石という武将の部隊、さらに阿波国の残党などを糾合して二万と数えたならば、兵力差はそう大きなものとはならない。


 徳川は元々東海にその領地を持つ大名、となればこの四国に来るまでの間に、相当な量の兵糧を消費しているだろう。

 さらに農繁期に合わせて帰国する手間を考えれば、徳川は長丁場を望まぬはず。

 自軍の主力である一領具足衆も、農繁期が来れば戦よりも畑を選ぶだろう。

 そうなればこちらもあまり長丁場は望まぬ、徳川がどこかの城に籠ったならば厄介な事になりそうだとは思ったが、こちらもあちらもあまり戦を長引かせたくはない理由がある。

 そうなれば導き出せる結論は一つ。


「…野戦、か……」


 城に籠られて籠城されるよりかは良い、と考えて元親は苦笑を浮かべた。

 攻城戦は被害を覚悟しなければならないし、ましてや時間がかかる事が多い。

 対して城に籠る側も、徳川にとっては初めて来る土地で慣れぬ城であるため、充分な防衛が出来るか怪しい所もあるはずだ。

 元親の頭の中で、様々な情報を照らし合わせてみても、やはり野戦以外の結論が出ない。


「まあ……話が早くて手っ取り早い、そう思うとするか?」


 元親の頭の中に、一抹の不安がよぎる。

 「狸」と揶揄したものの、家康という男は油断の出来ぬ男と見た。

 同盟とは名ばかりで、実際には信長に従い続ける事で生き延びてきただけの、運の良い男ではない。

 もしかすると、こちらが野戦に持ち込もうとしている事すら読み切っているのではないか。

 元親の頭の中で、その考えがどうしても打ち消せない。


 だがわざわざ遠江国・浜松を居城とする男が四国まで足を伸ばして、城に籠って籠城するとは考えにくい。

 ましてや自分が一度も治めた事の無い城で籠城戦など、まともな戦国大名としての感覚を持っている男であれば、まずしない選択だ。

 であれば狙いが別にあったならどうだ?

 例えば別方向からの援軍、河野家の後援などをしている毛利家が、こちらを挟撃しようとしているならばどうだ。

 阿波国から徳川、伊予国から毛利の二方面作戦を強いられれば、長宗我部としても苦しいと言わざるをえない。


 となれば先に来た徳川は囮、本命は安芸国を本拠地とする毛利家、囮を囮と悟らせぬために万を超える軍勢でやってきた、というのならあり得る手、だろうか。

 毛利家は上杉家と共に、再び姿を現した信長と同盟を結ぶかもしれず、という報告もあった。

 これならば徳川と毛利が波状攻撃を仕掛けてくる、という可能性は決して捨て切れない。

 そもそも徳川という東海の大名が、四国に遠征までして何の益があるというのか。

 信長に命じられて、というのなら納得が出来る、徳川家康は織田信長に半従属同盟を結ばされている。


 ここで元親は最終結論を出した。

 徳川が消極的な動きをしたら、それは毛利との挟撃を狙っている可能性が高く、伊予国の警戒を高め毛利の動きを注視すべし。

 逆に積極的であったなら、徳川単独でこちらに向かってくる可能性が高く、これならむしろこちらから反撃に打って出て、返す刀で伊予国完全制圧に急ぐべきだ。

 基本方針は決まった、元親は口元に浮かんでいた苦笑を消し、静かに歩き出す。

 一寸先は闇、そう思いながらもその足取りは、決して揺るがぬ迷いの無いものであった。

話が全国に広まれば広まるほど、主役であるはずの信長や敵役である官兵衛の出番が減っていきますが(汗)、もうしばらくはこんな感じです。


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