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信長続生記  作者: TY1981
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信長続生記 巻の八 「それぞれの戦」 その3

お待たせいたしました、場面がまた信長の方に戻ります。


             信長続生記 巻の八 「それぞれの戦」 その3




 先日の疲れを残したままで、前久は信長に呼び出されるがままに宿所を訪れた。

 本来なら禁裏に参内し帝に拝謁するだけでも大変な名誉であり、余人であれば帝の御前で粗相をしないようにと、緊張のあまり疲労困憊になってもおかしくない。

 ましてやあれだけの事をやってのけた信長は、間違いなくとてつもない疲労を感じているはずだ。

 前久は自邸を出るまではそんな考えを持っていたが、ふと考えを改める。

 色々な意味でこちらの予想を超え、余人には及びもつかぬ事を実行するのが信長だ。


 帝への拝謁も当初から予定に入れていた行動であり、それらが終わったのならすぐに次の一手を打つために自らを呼び寄せた、という事は十分にあり得る。

 だが前久とて信長が御前を辞した後に、信長の持論を補う形で帝と公家衆を説き伏せるという離れ業をやってのけたのだ。

 かつては帝を後ろ盾にした公家衆に、散々に言い負かされて屈せざるを得なかったというのに。

 正直に言えば疲れはしたものの、やり切ったという爽快感が全身に行き渡っていた。

 例え様も無い疲労感と爽快感に身を委ね、心地良い眠りを貪っていた所に急遽の呼び出しは、いかに相手が信長と言えど、愚痴の一つもぶつけてやりたくなるほどだ。


 信長が『天下護武』を唱える事を補佐し、その一方で自らの『公武一和』を提唱した。

 前久としても今日この時だけは、自らの方が疲労を溜め込んでいると断言する。

 いくら性急に事を進めたがる信長と言えど、これはいくらなんでも急ぎ過ぎではないか、今日一日くらい休養に充てても良いのではないか。

 そんな気持ちを抱えながらも前久は信長の宿所へと到着し、馬上から番兵に自らの到来を告げた。

 滞りなく門を開けられ、馬を預けて前久は中へと入る。


 屋内に入ればそこには森蘭丸が待っていた。

 前久と目が合うなり平伏し「本日は急なお呼び出し、誠に申し訳御座りませぬ」と、まずは前関白を呼び付けるという非礼を詫びた。

 これが気位ばかりが高い者ならば皮肉や嫌味の一つでも出しただろう、だが前久としてはそういう事を言いたい相手は蘭丸の主君であり、蘭丸本人ではない。

 なので前久も「いや、他ならぬ信長はんのお呼びやさかい、気にせんといておくれやす」と、朗らかに気楽に返した。

 言いたい事も無いではないが、蘭丸にぶつける程前久は器が小さい訳でもない、案内のため先を歩く蘭丸に付いて行き、一つの部屋の前で立ち止まる。


 そこで蘭丸が前久に向き直り、すぐ近くにいる前久にだけ聞こえる声量で衝撃的な言葉を漏らす。


「上様が、血を吐かれました…」


「ッ!? な、なん――」


「お静かに、どうかご内密に願いまする…」


 蘭丸の真剣な眼差しに、息を飲む前久。

 蘭丸の眼は「もしこの事を吹聴したならば、即座に斬り捨てる」と語っている。

 前久とて無論こんな事を言い触らす気はないが、それでも衝撃的な一言であった。

 信長は自らを第六天魔王と名乗る一方で、数多の戦傷を負いながらも病気らしい病気にかかっている風には見えなかった。

 だが血を吐いた、というのは尋常な話ではない。


 まず間違いなく、信長は病魔に侵されている。

 さもなければ胃の腑を刺されでもしない限り、血を吐くなどという事はないはずだ。

 そして少なくとも昨日の時点で、信長はその様な怪我等は負っていなかった。

 となればまず病魔のせいと見て間違いはないだろう。

 前久は神妙な顔でコクリと頷き、目線で「部屋に入っても良いか?」と、蘭丸に問う。


 蘭丸も頷きを返し、その場に座り部屋の中に向かって「失礼致します、近衛様が御越しになられました」と声をかけた。

 ふすまの中から「通せ」と声が返され、蘭丸は前久に一度頷いてからふすまを開けた。

 先程の「通せ」という言葉は、間違いなく信長の声であった。

 だが血を吐いた信長は、果たしてどのような姿になっているのか、前久は己の心の中にある種の覚悟を決めて、部屋の中へと足を踏み入れた。

 そして部屋の奥の上座に座していた信長は、部屋の入り口付近の左右に堀秀政と羽柴秀吉、さらに部屋の隅に明智光秀を侍らした状態で、昨日見た時と変わらぬ顔でそこにいた。


「どうした? お蘭から聞いたのであろう? まるで死にそうなわしの幻でも見えたか?」


 全く変わらない信長の姿に、部屋に入った所で立ち止まって目を見開いたまま硬直する前久を見て、人の悪い笑みを浮かべた信長がそう言い放つ。

 気を取り直した前久が足を進め、秀政と秀吉の間を抜けて、部屋の中央で座して改めて信長をまじまじと見つめる。


「…お加減は?」


「大事ない、と言いたい所ではあるがな…禁裏から出て、馬でここまで戻る途中に咳をした、口元を押さえたため気付いた者はおらぬであろうが、わずかとはいえ血を吐いておった。 おそらくは胃の腑か肺の腑がやられておろう……ついにわしの元にも病魔が忍び寄って来た、という所か…」


 苦笑している信長だったが、前久以外のこの場にいる三将の顔色は悪い。

 いずれも信長の下で出世を重ね、今ここにこうしてある者たちである。

 秀吉はしきりに喉を動かし唾を飲み込み、秀政は沈痛な面持ちで信長を見て、光秀は奥歯を噛み締めて拳を握りしめている。

 前久も血の気が引いて神妙な顔付きになり、むしろこの場で一番気軽な表情をしているのが、当の信長本人という異常な光景となっていた。


「お蘭が気を効かせたため、この場にいる者以外はこの事を知らぬ。 故に一切の他言無用ぞ」


「ははっ!」


 三人が一斉に頭を垂れ、前久も大きく頷いた。

 それを見て信長は鼻から息を吐き、口元には相変わらず苦笑を浮かべていた。


「この際だから話しておくが、本能寺以前から多少のめまいや頭痛はあった。 だが血を吐くというのは初めてでな、故に少々お蘭が騒ぎおった。 かつて穴山梅雪から信玄坊主の晩節を聞いたが、徐々に咳の回数が増え、頬はこけて血の気が失せ、しきりに血を吐き食も細くなったという…だがすぐに死ぬ、という訳ではない。 少なくとも二年や三年は持つであろう。 ならばその間に成せる事を成すまでよ」


 そう言い切った信長は、既に口元に笑みなどは浮かべていなかった。

 前久、秀吉、秀政、光秀の四人はそれぞれ心の中に決意を抱いた。

 信長が志半ばで倒れる、という事が今度こそ起こらぬ様に、自らが出来る最善を尽くすと。

 そして信長はそれまでの悲壮感すら感じる空気から一変して、前久に問いかけた。


「この話はこれまでで良い。 前久に尋ねる、昨日わしらが御前を辞した後に、何事か公家衆に吹き込んだな?」


 信長が自らの事をこれまで、と言ったからにはこれ以上この話を続ける事は出来ない。

 前久は頭を切り替えて、昨日信長が帝の御前を辞した後で、自分が帝や公家衆とどのような会話をしたかを事細かに語った。

 下手な隠し立ては却って信長の機嫌を損ねる、ならばむしろ堂々と本当の事を正直に語った方が、信長は不愉快にならないのだという事を、前久はこれまでの付き合いで学んでいた。

 その場にいる誰もが口を挟まず、前久の話を黙って聞き続け、前久の「以上ですわ、差し出がましい真似をしてしまいましたな」という言葉を受けて、信長が口を開いた。


「何が差し出がましいか、白々しい事を言うな…むしろ貴様はそれを狙っておったのだろうに」


「いやいや、何を言わはりますやら…この身は信長はんに付いて行くと決めておりますえ、決して邪魔立てをするような真似は致しまへん」


 信長の不敵な笑みに、前久も不敵な笑みでもって返す。

 右手をひらひらとさせて、敵意や害意などは欠片も持っていない事を強調する前久。


「そうだろうな、貴様はわしの邪魔をしたのではない…わしの邪魔にならぬよう帝と公家衆を説き伏せ、さらに公家の地位向上と所領加増を狙っておる…邪魔をするのではなく、むしろ自分たちを高く売りつけて、その儲けにあやかろうといった所だ……貴様は商人に生まれた方が良かったか?」


「冗談はやめておくれやす、この身はたとえ死んでも公家のままであり続けてやりますわ。 商人なんぞになってしもうたら、信長はんからの矢銭要求で干上がってしまいますからなぁ」


 信長の、ある種の褒め言葉を皮肉で返す前久。

 朝廷への多額の献金と進物の出所は、堺の豪商であることを知っているが故の発言である。

 信長の軍資金の源泉とも言える堺の町から上がる利益は、他の大名家の追随を許さない。

 そこに加え、大坂城完成による新たな商業都市の発展・拡大により、信長の財布事情は急速な勢いで回復した。

 安土よりも大坂の方が堺に近いため、今までよりも一層堺に対して目を向けやすく、また大坂城がある場所はかねてから信長が流通の一大拠点として狙っていた地点でもある。


 安土城下の町が本能寺の一件以前の賑わいを取り戻すのは難しい。

 ましてや安土城は未だ完全な再建に取りかかれてはいない。

 さらに信長が新たな拠点として大坂城を選んでしまった今、かつては安土に集まっていた商人たちは、今や大挙して大坂城の城下町へと集ってきている。

 そして安土に無くて大坂にある物の一つとして「海」、即ち大坂湾がある。

 大坂湾の利点は、そのまま淡路島や瀬戸内海、その先の九州・博多、さらにその先の大陸まで海で繋がっているという事だ。


 さらには九鬼嘉隆に任せている新たな織田水軍による海上警備は、大坂で交易をおこなう商人たちによって、歓声を持って迎えられた。

 織田信長直轄の水軍衆による海上警備は、淡路島近海を根城としていた海賊衆や、四国の長宗我部側に協力している水軍などに対して睨みを効かせている。

 さらに毛利家が織田家と同盟関係になった事で、博多から瀬戸内海を通って大坂や堺にまで運ばれてくる品が、海賊衆に強奪されるなどの被害が激減した。

 淡路島近海まで船が来れば、その後は織田水軍の船による万全の警備体制の中で、安全に品物が納品出来るという機構が徐々に出来上がってきている。

 ちなみに信長はこの水軍の維持費用の内、かなりの部分を堺に請け負わせる事も忘れなかった。


 堺の商人たちの中には博多商人と取引を行う者も数多くいたため、それらの船の警護は無条件で請け負う代わりに、大坂湾から淡路島近海を警備する織田水軍の維持費用を負担せよ、と通達したのである。

 信長の再臨によって毛利家との同盟が成り、毛利の領海であった瀬戸内海から淡路島近海を経由して、堺に到着する船は航路の安全が確保されたと言ってもいい。

 商品の安定供給は商人にとって代えがたい恩恵であるため、自分達にとっても利があるこの通達を、堺の豪商たちは表面上は嫌な顔一つせずに呑む事となった。

 さらに信長は大坂から陸路で、京や近江国の大津までの街道整備を堀秀政に命じ、さらに商いの販路を広げさせるように仕向けている。

 秀政も信長の命の真意を理解し、新たに領国とした京―大津間の街道を、商売・軍事両面の理由から真っ先に整備するよう触れを出している。


 それらの政策にどれほどの効果があるのか、大坂の日を追うごとに発展・拡張していく街並みを見れば、自ずと分かるというものだった。

 その辺りの事も知っている前久は、自分よりもよほど信長の方が商人には向いているのではないか、という意味の言葉を信長にぶつけてみると「わしが商人になってしまっては、敵の領地を切り取れぬではないか」と、まるで馬鹿にするかのような目で見られてしまい、そういえばそうかと納得してしまった。

 ともあれ前久は、信長にとっては邪魔どころかむしろ助けになる提案をしつつ、その一方で公家にとっても利のある話で、朝廷を完全な味方とするべく動いたのだ。

 それらの事柄が全て理解出来るからこそ、信長は凄みを含んだ不敵な笑みでもって前久を見た。

 以前の前久ならば竦んでしまったであろうその笑みを、前久も同じ様な笑みでもって返している。


「謀ったな、前久」


「ええ、謀らせてもらいましたわ」


 生かしておいても何ら役に立たず、ただの無駄飯ぐらいである公家ならば、いっそ滅ぼしてしまえ。

 信長はこういった思考をしているはずだと前久は知っている。

 だがその一方で生かしておく利がある、自らの役に立つ、ならば役に立つ限り使うというのが信長の考えである。

 かの松永弾正久秀が、信長に謀反を起こしながらも後に許された理由が、正にそれである。

 ならばかつては自らを排そうと思った公家であろうとも、自らの役に立つのであれば使う、信長はそう考えると思った前久の感覚は間違っていなかった。


「信長はんにも言うておりまへんでした『公武一和』、これを成し遂げる事こそこの身の生涯を賭けた戦、という訳ですわ」


 言いながら前久は両手を広げ、ゆっくりとその両手を顔の前で合わせる。

 武家と公家が融合し、そして固く握り合わせる。

 その時の前久の顔は、信長がこれまで見たどの前久の顔よりも、決意に満ちた笑顔であった。

 ともすれば野心に満ちた獰猛な戦国大名すら、その笑みの前に恐怖を感じかねない。

 それほどの気概でもって、前久は信長の前で敢然と宣言した。


「先程の言葉は撤回しよう、貴様はむしろ武家に生まれるべきであったわ」


「何遍も言わせんでおくれやす、この身は魂の髄まで公家どすえ」


 信長をして、味方で良かったと心から思わせた前久は、先程の笑顔から一変して軽い調子でそう言い返した。

 そして信長は「フン」と笑いを含んで鼻を鳴らし、前久は気になった事を問いかけた。


「そういえば、この身が『公武一和』の構想を口に出したのは昨日が初めてだったはずやのに、随分と伝わるのが早かったようやな、良ければその理由を訊かせてもらえまへんやろか?」 


「…わしが昨日ここへ戻り、大事を取って横になろうと思えば、夜になっておったにも関わらず公家の奴らが次々にわしへの謁見を申し込んで来おってな、わしは疲れて休んでおるとしてキンカンと堀久に任せた。 するとどいつもこいつも、口を開けば貴様の話題ばかりであったそうだ。 貴様を使ってわしの真意を伝えて来たのか、という話ばかりでな……手っ取り早く貴様を呼んで話を聞いた、ということよ」


 信長が億劫そうにそう言うと、前久も苦笑で返す。


「前久、正直に申せ。 帝や公家衆は心から我らを後援すると思うか?」


 信長のその一言に、四人が一斉に軽く眼を見開いた。

 今の言葉は、信長本人でさえ自らの口から出たのが半ば信じられない程だった。

 弱音にも似た今の言葉は、少なくともこの場にいる者たち以外にはまず聞かせられない。

 精々が蘭丸や家康位のものだろう。

 それ以外の者が今の信長の言葉を聞けば、過日の信長の勢い既に無し、としていらぬ行動を起こされる恐れすらある発言だった。


 そして口に出した後で、信長自身僅かながらに血を吐いた事に動揺している己に気付いた。

 だが一度口に出し、その言葉を聞いてしまった四人に、今更聞かなかった事にしろなどとは言えない。

 代わりに真剣な眼差しでもって前久に返答を促した。

 前久もこれが信長の偽らざる姿なのだろうと感じ、己の肚の内を正直に打ち明けた。


「可能性は高い、と見ますわ。 少なくともこの日ノ本を護るための手段として、信長はんの考えは間違ってはおりまへん、戦が長引けば長引くほど有能な者が討たれ、民は疲弊を続ける羽目になり、日ノ本全土の力は落ち続けてしまうやろうからな…それも分からんで、この期に及んで己の保身しか考えへん様なら、そんな公家は滅ぼしてしまって構しまへん。 この身は公家の全てがそこまで愚かやとは思うてはおりまへんさかい……信長はんが日ノ本にとって最良、と思える手段を取りなはれ」


 前久の言葉に一つ頷き、信長は前久の後ろに座する秀吉と秀政に視線を向ける。


「堀久は京都所司代として、サルは前久の猶子となるために諸々の準備が必要となろう。 故にお前たち二人はこのまま京に残り、朝廷の返事を待て。 それと彼の前田玄以なる者を堀久の補佐としてつかわす、昼夜を問わずこき使ってやれ」


 信長の言葉に秀吉と秀政が了解の返事をしながら頭を垂れた。

 そして今度は部屋の隅に座る光秀へ視線へ向けた。


「キンカンはわしと共に大坂へ戻るぞ。 毛利・上杉からの正式な返事と、北条・長宗我部の反応を待つ。 そして九州と奥羽の諸大名からの使者を待たせておる、貴様とお蘭で対応せよ、良いな?」


 その言葉に「御意」と返事をして光秀も首を垂れる。

 矢継ぎ早に指示を出し、最後に信長の視線が前久に戻る。


「そして前久、お主は公家衆の中でもなるべく位が高く、わしとはあまり親密ではなかった公家を味方に付けて、大坂へ連れて来い。 狙い所としては現関白の一条内基あたりが良い、多少は胆も座っておる様だし、現在の関白という地位も申し分ない。 お主らが大坂に到着し次第、紀州へと向かう」


 前久への注文が最も厳しいものであったため、一瞬前久の顔が引きつりかけた。

 狙い所、とは言うがこれは実質「一条内基を大坂に連れ出して来い」という命令にも等しかった。

 だがその部分に何かを言う前に、信長が最後に言った「紀州」という地名に前久の意識が向いた。

 前久が思わず軽く眼を見開き、信長に真意を探る視線を向けた。

 前久の位置からは見えないが、秀吉・秀政・光秀も同様に、信長の真意を測る視線を送った。


「紀州には会わねばならぬ者がおる。 本来であればわしとあやつが直接会おうとすれば、その場で血が流れてもおかしくはない。 だがわしの側に朝廷の明確な後ろ盾があれば、彼奴らとてわしをその場で殺そうなどとは、たとえ考えても実行には移せまい?」


 そう言って信長は凄惨な笑みを浮かべた。

 それだけで四人は、信長が誰と会おうとしているのかに思い至った。

 かつては信長にとって、武田信玄・上杉謙信と並ぶ仇敵とも言える存在であった一人の仏僧。

 だがその男を「仏僧」と呼ぶには、あまりにもその言葉から連想される存在とはかけ離れ過ぎている。

 名を、本願寺顕如光佐。


 信長が父の死により家督を相続してから三十年、どんな困難に晒されようと常にそれを乗り越えてきた男と十年以上に及ぶ敵対姿勢を取り続け、全国に及ぼした影響はそこらの戦国大名を遥かに超える一大宗教勢力。

 現在は秀吉によって大坂城が建てられている土地は、かつては一向宗の総本山として「石山本願寺」があった場所であり、全国の門徒宗にとってそこは聖地とも言える場所だった。

 その総本山が建つ地を流通の要衝として抑えたかった信長は、本願寺勢力に対して立ち退きを要求したが、本願寺側は当然それを断った。

 それ以外にも度重なる矢銭の要求などもあり、その信長の横暴についに堪忍袋の緒を切らせた本願寺側は、信長と徹底抗戦の道を選んだ。

 十年以上にも及ぶ本願寺側の抵抗は、世に言う『織田包囲網』の常に中核に位置し続け、その存在は信長にとって目の上のこぶであり続けた。


 だがそれも武田信玄や上杉謙信が相次いで世を去り、いよいよ『織田包囲網』がその体を成してこなくなった所で、本願寺側がついに折れた。

 石山を立ち退いて南の紀伊国(現在の和歌山県)に逃れる事で、顕如以下の退去する者達は命を永らえる事となったのだ。

 顕如の長男・教如はこれに対して徹底抗戦を訴えたが、退去して兵力も減っていた本願寺の残存勢力は、織田軍にあっさり駆逐されてやがて「石山本願寺」は過去の物となった。

 本願寺の伽藍なども焼け落ち、その跡地となった場所に現在は大坂城が聳え立っている。

 だが顕如自身は未だ存命であり、紀伊国に逃れても一向宗という宗派自体は滅んではいない。


 その顕如に、信長は会いに行くというのだ。

 いくらなんでも危険過ぎるという考えは、この時の四人の共通認識であっただろう。

 だが信長は事も無げに言い放つ。


「彼奴は憎らしいほど聡い男よ。 南蛮国とデウスの教えの危険性を説けば、彼奴ならば恐らく理解出来よう…未だ法主として力を握っている彼奴が味方となれば、一向宗そのものが味方となる。 この意味が分かるな?」


 一向宗は日ノ本全土に信者を持つ、まさに日の本一の巨大な宗教勢力である。

 かつて信長に降伏して石山本願寺を明け渡した事で、最盛期の頃に比べれば勢いは無くなったが、それでも未だに全国規模の信者を有している。

 それらが信長の味方となったのなら、一向宗はその宗派を挙げて信長を支援すると、顕如が全国に激を発したのならどうなるか。

 それとは全く逆の、信長を仏敵として全国に激を発せられた経験をした信長なら、それがどれほどの人間を動かす事になるのかを身を以て知っている。

 そして信長の下でそれぞれ一向宗に手を焼いた経験をした三人の武将は、信長のその発想に眼を見開いて絶句した。


「一向宗をこちらに引き込む事で足元で無駄な火の手も上がらなくなる上に、一向宗以外の宗派が幅を効かせる国では一揆を起こさせ、敵の勢力を弱めさせる事が出来る。 なおかつもし南蛮国がこちらに攻め込んで来たなら、奴らは自ずと死兵と化して先陣を務めてくれよう」


 信長の言葉に一同は思わず眉根を寄せて唸りを上げるが、それでもやはり危険であることに変わりはない。

 そのことを指摘するべく秀政が「恐れながら」と前置きをして発言する。


「確かに上様の仰られる通り、あの者共を上手く利用出来た時には多大な利がございます、されど上様御自ら敵地に向かうはあまりにも危険が大き過ぎまする。 ましてや紀伊国と言えば本願寺と組んでいたあの雑賀衆の本拠。 なにも上様御自身が向かわれずとも、顕如を大坂城に呼び付け、そこで従属を迫ればよろしゅうございます!」


「無論当初はその予定であった。 彼奴を大坂城に呼び、その場で一向宗に無用な弾圧を加えぬ代わりに日ノ本統治のために協力せよ、とな。 だが恐らく彼奴はのらりくらりと返答を先延ばしにするであろうよ、その間にわしの病が進んでしまうかもしれぬ」


 秀政の心から信長の身を案じた顔が、信長自身の言葉によって凍り付く。

 信長の身体には、既に病が巣食っている。

 この会話だけで他の者も悟った。

 信長は残りがどれほどか分からぬその命を使い、一気に日ノ本統一事業を推し進める気なのだと。

 いつ倒れ、動けぬようになるか分からぬ己の身ならば、取れる手段の中でも最速の方法を選び続ける。


「わしが前久や現関白・一条内基と共に顕如の下に足を運んだなら、彼奴が無視できる道理はあるまい。 わしと付き合いの浅い現関白が、わしと共にわざわざ紀州にまで足を運ぶ。 これだけで彼奴なら朝廷が完全にこちらに付いている事を察し、傷一つ付ける事も、無視する事も出来ぬようになる。 一向宗という宗派の命脈を保つため、彼奴はわしの要求を呑まざるを得まい」


 その言葉を聞いて前久の顔から血の気が引いた。

 信長が朝廷の力を取り込もうとしたのはこのためか、と思い知ったのである。

 かつての不倶戴天の敵すら、朝廷を味方につける事で己の傘下に加えようというのだ。

 しかもその方法が、現関白に紀州まで下向させる事が可能なのだと、暗に信長の権威を強調する形で行わせるという、常人であればまず思い付く時点で不敬極まりないものであった。

 己の足場を固める一手目が朝廷なのはまだ分かるが、その次に続く二手目がまさか日ノ本最大の門徒数を誇る、かつての仇敵だというのだからもはや前久の想像の埒外だ。


「…一向宗には畿内に寺領を与え、わしの邪魔をせぬ限りは信仰や布教にも一切口を出さぬ。 だがわしの求めに応じて適宜兵力を捻出させ、また何らかの形で税も納めさせる。 そして南蛮国侵攻の折には必ず全国の門徒を挙げてこれを排すべし、まあこれは言われぬでも自ずからやるだろうがな。 彼奴に出す条件としてはこんな処であろう」


 少しだけ考えて信長が条件を言葉にし、それを聞いた四人が特に大きな反応もしていなかったため、一つ頷いた信長は「では前久、一条内基への調略しかと頼んだぞ」と言い残して立ち上がった。

 信長自身未だに疲れが残っているため、この後の指示を下した後は寝所に戻ろうとしたのだ。

 前久が思わず何かを言い返そうとしたが、それよりも早く光秀が口を開いた。


「上様、顕如との会見にまつわる諸事は某にお任せ下さいませ」


「任せる、それと京の町衆にはさも目出度い事があったのだ、と思わせるために米と酒を配っておけ。 公家衆が『織田信長の日ノ本統治を、京の町衆が望んでいる』と錯覚するほど派手にばら撒いてやれ」


「かしこまりました、それではご養生下さりませ」


 光秀の意見に言葉を返し、その後で京都所司代を任された秀政に新たな指示を出して、信長はしっかりとした足取りで部屋を出て行った。

 信長が部屋を出ようとするとごく自然に蘭丸がふすまを開け、そして信長が出ると同時にふすまが音も無く閉まる。

 その一連の動作一つ取っても、蘭丸がいかに優秀かが分かる。

 一方で去り際に無茶な命令をされた前久が、顔を引きつらせたままそっとため息を吐いた。

 前久は心の中で「こないに酷使されたら、そりゃ仕事出来んモンは弾かれますわ」と、謀反を起こした者たちの気持ちが少しだけ理解出来たのだった。

結構前ですが、まだ家康の所に信長が潜伏していた頃に考えていた案が『天下護武』の原型で、それを聞かせたい人物が少なくとも二人、という描写をしておきました。

その二人の内の一人が帝、そしてもう一人が本願寺顕如、という予定でした。

それを明らかにするまでに、ここまで時間がかかってしまいました、何とかペースアップを図りたい所ですが、厳しいのが現状です。

ご覧頂いている皆様には何卒気長にお待ち頂けますよう、よろしくお願いいたします。

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