信長続生記 巻の八 「それぞれの戦」 その2
今回は前回の続きで、北条家のお話です。
信長続生記 巻の八 「それぞれの戦」 その2
北条幻庵は自ら滝川一益を宿所へと案内し、表面上はあくまでにこやかに歓待した。
無論滝川一益もそれに合わせて、愛想笑いを浮かべながらそれに感謝の意を述べた。
戦国の世を誰より見続けてきた老獪極まる長老・北条幻庵と、戦国の世の酸いも甘いも経験した歴戦の古強者にして戦巧者・滝川一益。
互いに表面上の建前と肚の中での本音を使い分ける事に長けた者同士であり、周囲の兵が滝川一益を自軍の将かと勘違いしてしまうほど、二人は顔に穏やかな笑みを浮かべて会話をしていた。
そうして夜が更ける少し前に幻庵が一益の前を辞して、完全に夜も更けた頃に北条家の中枢の者たちが、再び一堂に会した。
「まずは、ご苦労様に御座いました。 箱根権現別当の職にある長老殿にわざわざ御骨折り頂き、北条家現当主として改めて御礼申し上げまする」
北条一族専用の密談用に使われる狭い部屋に最後に入ってきた幻庵に対し、上座に座っていた一人、北条氏直が深々と頭を下げる。
それに合わせて氏直から見て実の父である先代・氏政、さらに三人の叔父たちも揃って頭を下げた。
いかに現当主・先代当主であろうとも、長幼の序やこれまでの北条家への貢献度合いを鑑みれば、幻庵に対して頭を下げる事を厭わぬというのが共通の感覚である。
だが北条の中枢にいる者たちが、一斉に自らに向かって頭を下げる光景を見て、幻庵は苦笑しながら手をプラプラと振りながら言い放つ。
「やめよやめよ、あまりそうやって畏まられてはわしのお迎えが近いようではないか。 わしはまだ仏になる気は無いぞ」
そう言ってカラカラと朗らかな笑みを浮かべる老人は、一見すればただの好々爺に見える。
だがその実、家督を譲るも未だ絶大な権力を握る氏政をして「長老殿には長生きをして頂きませぬと」と言わしめるだけの存在である。
政や外交面、さらには文化面にまで及ぶ多大な貢献をし続けてきた老人が、ゆっくりとした動作で下座に座ろうとすると、氏照らは慌てて自分たちの座っていた場所を開け、少しでも上座に近い位置を譲ろうとする。
それらも億劫そうに「そのままで良い、そのままで」と言いながら、下座の空いている空間に座る幻庵に申し訳なさそうに恐縮する弟たちを見て、ゴホンと一つ咳払いをした氏政が口火を切った。
「まずは長老殿、滝川めを前にしてのわしの演技、如何にございましたか?」
「うむ、アレで良い。 先代・氏政は血気に逸る気性を持ち、使者を手ずから斬らんとするような獣の如き将なり、と。 であれば組し易いと滝川に思わせたのなら成功よ、取るに足らぬと思わせておけ」
幻庵は頷きながら氏政の演技をそう評した。
それを聞かされて他の四人は一斉に眼を見開いて二人を見た。
口元にわずかに笑みを浮かべながら氏政が「なんじゃ、わしが激情のままに本気で滝川を斬ろうとしたとでも思ったか?」と問うと、四人は頷きかけて慌てて首を横に振った。
それを見て氏政は憮然とした表情になり、幻庵は口の中だけでくっくっくと笑った。
「新九郎と血を分けた者でさえもこれよ、堂に入った芝居じゃったのぅ。 半分くらいは本気であったのじゃろう?」
「…今はわしの演技批評より、織田への返答を考えるべき時にございます」
またもゴホンと咳払いをして、息子と弟たちをジロリと睨むと四人は一斉に居住まいを正した。
幻庵もしわだらけの笑みを消して、戦国の世を生きる男の顔をして言い放った。
「まずは降伏して恭順か徹底した抗戦か、どちらが良いかをお主らに尋ねる。 忌憚無く述べよ」
幻庵の一言に一斉に五人が押し黙る。
彼らとて誰一人現時点での結論が出ていないのだ。
降伏して恭順すれば、確かに北条家は生き残り、今後は相模一国を統治する事で大名としての地位も守り続けられるだろう。
だが相手はあの織田信長である、どこでどんな気まぐれや罪を問われて、その地位を追われるか分かったものでは無いという不安がある。
一方徹底抗戦を選ぶのなら、まずは目の前の徳川との戦になるだろう。
風魔の報告などにもあったが、現在徳川の主力は何を思ったか海を越え、四国にいる長宗我部征伐のための軍を発しているという。
有り体に言ってしまえばこれほど分かりやすい好機は無い。
目の前の広大な所領を護るための主力軍が留守であり、またその主力も遠く離れた所にあるとなれば、慌てて後詰めに来られて逆襲される恐れも無い。
だが逆にそれが不気味でもある。
あまりにもこちらに対して無防備すぎるのだ。
現当主・氏直の正妻は徳川家康の実の娘であり、確かに両家には婚姻による同盟関係が成立している。
だが婚姻による同盟関係、というのが如何に儚いものか、北条家はそれを身を以て知っている。
武田信玄存命時から、武田家とは婚姻関係による同盟なども結んできたが、結局の所同盟などはその時の都合で結ばれ、また破棄される時は一瞬だ。
かつては東国において奇跡と謳われた甲相駿三国同盟、武田、今川、そして北条の三家がそれぞれに婚姻関係を結び、互いに背中を預け合う事になった史上稀に見る大同盟関係があった。
この三国同盟が締結された直後は、やがて天下はこの三国を中心に動いていくのでは、とすら思ったものだった。
だが現在、その時同盟を結んだ内の一つである今川家は、桶狭間の戦いで当主・今川義元が討死、その後は没落の一途を辿り、最期は同盟関係であったはずの武田に食い尽くされた。
思い起こせばその今川義元を討った相手こそが織田信長、さらに義元討死にを機に今川家から独立した松平家の小倅が、後の徳川家康となった。
今川の本領であった駿河国は武田に、所領であった遠江国は徳川によって制圧され、その武田はまたも織田信長と徳川家康によって攻め滅ぼされ、さらにその武田の旧領も大半は既に徳川の物だ。
そして今では織田信長からの要求に屈せざるを得ぬ立場にまで追い込まれた北条家は、かつての同盟相手であった今川の支配下武将であった徳川家康との婚姻関係によって、その命脈を保とうとしている。
徳川家康は独立してから三十年にも満たぬその間に、その力を既に日ノ本第二位にまで押し上げ、関東随一の勢力である北条家の命綱にさえ成り得る存在となったのだ。
無論これには様々な要素が絡んできている話であり、全てが徳川家康の手腕によるものでは無い。
だが徳川が凄いという訳ではない、と断じてしまうにはあまりに今の徳川は強大な勢力となっている。
北条と徳川が、互いに全兵力を以て正面から当たれば確かに勝敗は分からない。
だが実質的にそれは不可能と言える。
徳川の領地が接しているのは織田家と上杉家、そして北条家だ。
織田と上杉が徳川と敵対していなければ、徳川は全戦力をこちらに向ける事が出来るだろうが、北条家には関東の諸勢力という存在がある為、そちらへの防衛戦力を無くす事は出来ない。
風魔からの報告によれば、徳川は一万を超える兵力を四国へ向かわせたと言うが、それでも向こうの残存兵力とこちらが徳川に回せる全兵力をぶつけた場合、五分が良い所ではないか、と北条家は見ていた。
そこにもし織田や上杉からの後詰めが来れば、状況は一気に厳しいものとなるだろう。
ましてやかつての本能寺の一件直後の混乱時、いわゆる『天正壬午の乱』において、北条は大軍を擁したにも拘らず、寡兵であった徳川を相手に煮え湯を飲まされている。
あの時に比べ徳川も総兵力は増えただろうが、主力は不在となっている。
ならば「やれるか?」という疑問が頭の中に常にある。
氏政はじめ、その弟たちも出来れば信長の要求になど屈したくは無かった。
故に屈さずに済む方法を模索してはいたが、今の所妙案は浮かばない。
幻庵の言葉に必死に頭を巡らせてはいるものの、妙案が浮かばず押し黙るしかない一同である。
そんな中で、意を決したように氏直が口を開いた。
「わ、わしは恭順の道を取りたく思います…」
「氏直ッ!?」
驚いたように声を上げ、氏政が隣に座る息子を見た。
三人の弟たちも瞬時に氏直に顔を向け、その真意を問うような眼で見続けた。
幻庵が「ではその存念を申してみぃ」と、幼子を見守る目付きで言った。
「わ、わしの奥は督にございます。 しからば徳川家康にとってもわしは娘の夫、少なくとも相模一国が安堵となれば、無碍に取り潰される事は無かろう、と」
「甘いぞ氏直! 彼奴の、織田信長の所業を知らぬのか! 奴は同盟相手である徳川の正妻と嫡男を斬れと命じた男ぞ! さらに徳川は言われるがままに妻と嫡男を斬り捨てた! 信長はもとより、言われるがままの徳川も信用ならぬ! 相模一国安堵と見せかけて、こちらの抵抗する力を削いだ後で取り潰す策略に相違ない! ならばむしろ、今の内に一戦した方がまだ勝機はあろう!」
氏直の言葉を一蹴し、かつての信長と家康との間にあった話まで持ち出した氏政は、思わず声を荒げて言い放った。
さらに三人の弟たちも「左様ですな」「確かに、織田も徳川も信用能わぬ」と、氏直の恭順派の意見に反発し、抗戦派な意見を展開し始めた。
父や叔父から一斉に攻め立てられて、当主と言えどもこの中で最も若輩な氏直は、段々と肩身の狭い思いをして縮こまった。
なまじ真っ先に発言してしまったがために、思わぬ総攻撃を浴びる羽目となった現当主は、先程の意を決した顔はどこへやら、今ではすっかり意気消沈といった風情であった。
対してその父氏政は苦々しい表情を隠しもせず、意見なのか独り言なのかも分からぬ声量で口を開く。
「大体、武田を潰す際に協力した我らを蔑ろにしたのはあちらが先ではないか。 ならばせめて関東切り取り自由、関東管領の職をこの北条に寄越すなどとすれば、このような事にはならなかったのだ」
「相模、伊豆、武蔵、下総、上総の五ヶ国、さらに上野、下野、常陸のそれぞれ南半国…そこに関東管領の職などが合わさるなら、織田に付くもよろしいかとは存じますが…」
「宇都宮と佐竹にそれぞれ下野、常陸の北半国、さらに里見に安房国を認めてやるとは、兄上はなかなかお優しい所がお有りですな」
氏政の言葉に氏照、氏邦が続く。
「北上野は真田や他の諸勢力もありますし、上杉とも領地が接することになりますからな、そういう意味では氏照兄上の申される所が一番良い落とし所にござりましょう」
さらに氏規もうんうんと頷きながら口を開いて、そこに幻庵の叱責が飛ぶ。
「無い物ねだりをするでない、今は織田からの要求を如何にするかじゃ! お主らはすぐに話を別の方に向ける傾向がある、そのような事では危急の時にいつまで経っても物事が決まらぬで、苦労をするぞ」
先代当主の兄弟が、揃って気まずそうに肩をすくめた。
現状抗戦派が氏政とその弟たちの計四人、恭順派が氏直ただ一人という有様のようだ。
だが幻庵は既に、腹の底では恭順以外の道はないと考えていた。
無理に戦えば恐らく北条は滅ぼされる。
敵対する姿勢を明らかにすれば、敵は徳川だけではない。
今までは北条に対して防戦一方だった宇都宮、佐竹、里見などの関東の大名家は反撃に転じ、今でこそ服従を誓っている各地の小領主たちが、より大きな庇護を求めて織田家に寝返った場合、北条は支配地としていた所領すら敵に回しかねない危険性を孕んでいるのだ。
北条は氏政の先代、相模の獅子とすら謳われた北条氏康の代に、その卓越した民政手腕でもって大きく名を上げた。
現在もかつての氏康を慕う者達が多ければ、そう簡単には織田にはなびかないだろうとは思いたいが、やはり無条件に信じ切る事は出来ない。
織田と敵対すれば、西からの徳川、北からの宇都宮と佐竹、東からの里見といった北条包囲網が出来上がってしまうのはまず間違いない。
そして現時点ではどう動くか分からぬ上杉や真田の存在も不気味であった。
北条家を取り巻く状況を鑑みると、これはどうやら早目の恭順が吉であると、幻庵はそう結論付けてはいたのだ。
氏直の正妻が家康の娘であることを最大限利用し、徳川と親密な関係を築いていけば、信長とて手は出し辛いであろうという計算もある。
だがあまり徳川との親密さが増すと、今度は徒党を組んで自らの追い落としを画策しているのでは、と信長に要らぬ勘繰りを入れられる恐れもあるため、その辺りのさじ加減は慎重に行っていく必要もある。
そのような事態を引き起こさぬためにも、やはり信長へのご機嫌伺いも欠かさず、関東平定のために北条は身を粉にして働いた、という実績も作る事が肝要だろう。
関東の他の諸大名や奥羽の諸大名達も、信長再臨を聞き付けてそれぞれに動きを見せている事はまず間違いない。
それぞれに臣従の証として進物を送り、攻め込まれぬように努めていたとしても、一寸先は闇であるのがこの世の常だ。
北条はその中でも明確に織田に敵対した過去がある。
であればここで恭順を示すためには、最悪の場合人柱、つまり人身御供となる者が必要になる可能性もあった。
責任をその者に全て負わせ、詫びの印としてその者に腹を斬らせて首を信長の元へ送るのだ。
幻庵自身既に老体であり、いざとなれば北条のためにその人柱になる覚悟も決めているが、老人一人で誤魔化そうとは、と却って怒りを被ってしまう場合も考えねばならない。
当主である氏直は妻が家康の娘、という事もあって腹を斬らせる候補に挙げることはない。
となればやはり一番の候補は先代・氏政であろう。
氏政は先程の滝川への態度で見せた血気に逸る気性を持っているため、先の本能寺直後に滝川に襲撃をかけてもおかしくない人物だ、という印象を持たせるには十分な仕込みをしておいた。
これが幻庵のもしもの場合に備えて仕込んでおいた策とは、当の氏政ももちろん滝川も気付いてはいないだろう。
もし氏政一人の首で足りぬなら、氏照や氏邦にも腹を斬らせる必要があるかもしれないと考える一方で、本人たちがまずそれを了承しないだろう、という悩みもある。
幻庵が考えている事は、まず結論として降伏・恭順の道を選ぶ事であるが、そこに行くまでの過程に問題があるのだ。
どのように氏政たちを説得し、恭順の道を選ばせるか。
幻庵は風魔の忍びに命じ、京・大坂の信長たちの状況を、分かる範囲で逐一知らせるよう命令を出してある。
一益にせめて五日待ってくれ、という話にしたのはその間に少しでも最新の情報を手に入れるための時間稼ぎの意味合いもあった。
現時点では未だに徹底抗戦を唱える氏政の勢いは強いため、結論は明日以降という事で、幻庵は夜が遅い事を理由にこの場は解散させた。
氏直は結局父と叔父から反対されて以降、一言も言葉を発せず肩を落として寝室へと向かった。
その後ろ姿を見て幻庵は、出来るだけあの若い当主を見守っていてやりたい、という考えを新たにし、自らも寝室へと向かった。
そして明くる日、一益に約束通り腰痛に聞く温泉などを案内し、自らも共に浸かって酒や膳なども振る舞い、箱根の湯を堪能させた。
一益ももちろん表面上は楽しみ、その実警戒を続けてはいたが、幻庵自らが毒見や率先して案内役を務めて先を歩くなどをして、徹底した歓待の姿勢を取り続けたため、内心では困惑していた。
そうして五日の期限の前日、ようやく風魔が京・大坂の最新の報告を持って来た。
幻庵は夕刻前に一益の前を辞して、風魔からの報告を受け取った。
以前の報告では、信長は近い内に朝廷へ参内する、という話があった。
そして今日はその結果がもたらされたという事だ。
信長は朝廷に参内し、どうやら満足のいく成果を得られたらしい、とのこと。
京の民衆に祝いの酒や米などが振る舞われ、信長の評判はさらに上がったという事だった。
京の朝廷を手懐け、民衆からの支持も取り付ける。
全くもって隙のない男だ、と苦笑した幻庵はさらに報告書を読み続ける。
報告書には朝廷とどのような交渉をしたのか、といった詳細までは調べようも無かったが、どうやら日ノ本の政を信長に委譲させるのではないか、といった想定も書き加えられていた。
さらに権力も信長とその周辺に集中させるための、何らかの方策も取られた可能性が高いと記されており、氏政らに見せて説得が楽になる一方で、厄介な事になったと幻庵は人知れず溜め息を吐いた。
明日には滝川一益に信長からの要求を、呑むか断るかの返答をせねばならない。
であれば今夜の内に氏政らを説得しなければならぬと決めた幻庵は、足を速めて昨日までと同じ部屋へと向かう。
部屋に入ると既に幻庵以外の者たちは集結しており、全員が一斉に幻庵に向かって会釈をする。
そして幻庵がいつものように空いている席に腰を下ろすと、氏政が咳払いを一つして口を開いた。
「いよいよ明日には織田からの通告に返事をせねばならぬ、故に今宵は我ら北条家の総意としての結論を出す。 各々方、己の中で答えは決められたな?」
氏政の言葉に幻庵以外の四人が一斉に頷いた。
そして唯一頷いていなかった幻庵に視線が集まり、氏政が訝しげな顔を向けた。
「長老殿、未だ御心が定まりませぬか?」
「いや、定まってはおる。 が、結論を出す前にまずはこれに目を通してはくれぬかのぅ」
言いながら幻庵は先程懐にしまった報告書を、氏政の前に置いた。
この期に及んで一体何か、と問いたい気持ちを抑え、黙って氏政はその報告書を手に取り、眉間にしわを寄せながら読み進めていく。
やがてその眉間のしわが深くなり、口元を不機嫌に歪め、読み終わるなり氏直にそのまま渡し、問いたげな視線を幻庵に向けた。
「信長子飼いの忍びがあちらこちらにおったそうでな、さすがに委細漏らさずとはいかなかった様じゃが想像は付くな? 朝廷は既に信長に取り込まれておる…これと敵対すれば朝敵の誹りすら受ける恐れがあるが、それでも徹底抗戦を貫くか?」
『朝敵』という単語に、氏政の三人の弟たちが明らかに狼狽える。
氏直も読み進めながらも身体をビクリと震わせ、さらに報告書を読む速度が上がる。
「……本能寺より以前から、朝廷は信長にいい様にされておりました。 今更信長が朝廷を取り込もうとも、それが必ずしも北条にとって悪い方へ向かうとは――」
「さらに朝廷への支配力を盤石にした、とは考えられぬか? 敵対する者には、信長の意のままに朝敵の汚名を着せる事すら可能とするほどに、な……北条が織田の風下に立つを良しとはせぬ、その気概も分かるし気持ちは汲んでやりたい、が今度ばかりは難しかろうな」
幻庵が語るのとほぼ同時に、氏直も読み終わってそれを叔父らに渡す。
氏照らは三人揃って顔を並べて、その報告書を目を皿の様にして読み回す。
「坂東武者はかの平将門公・源頼朝公を信奉し、畿内の取り決めに唯々諾々と従わぬ、独立独歩の精神を育んできた。 じゃが日ノ本は広い、関東と畿内だけで世は収まるものでは無い。 そして唐天竺や南蛮まで含めれば、この世はもっと広い。 もはや関東だけを見て物を考えられる時世ではない、という事よ……分かるな、新九郎?」
幻庵の眼は、屈辱を抑え込もうとして拳を握り、身体を振るわせる氏政をじっと見続けた。
北条氏政は決して暗愚でもなければ、感情だけを優先する猪武者ではない。
先代・氏康の評判が高ければ高いほど、それに比較されてしまうせいかあまり高い評価を出してもらえぬ、いわゆる苦労人としての側面も持ち合わせている男であった。
だが今日まで北条家をしっかりと関東随一の勢力として栄えさせてきた実績もある男である。
それ故に氏政自身にも、自分と信長の力量の差を理解出来てしまうのだ。
信長が家督を継いだ直後、その家は尾張一国どころか、その半分すら満足に治められていなかった。
信長の父である信秀が、その手腕でもって尾張随一の実力者の地位を築いてはいたが、その信秀が亡くなり信長が家督を継いだ途端、離反者が相次いでいた。
それらの勢力を討伐、従属、吸収して信長は尾張統一を成し遂げた。
そして一代で今や朝廷すら取り込もうという所まで勢力を伸ばした、まさに稀代の英雄である。
だがそれに比して自らはどうだろう、と氏政は自問する。
北条早雲を初代とし、『後北条家』と言われる家の三代目・北条氏康の次男として生を受け、兄が亡くなった事で嫡男となり、四代目当主の座に就いてから今日まで、果たして何を成せたのか。
上杉や武田と熾烈な争いを繰り広げ、その中でも北条家を守り抜いたのは確かに功績と言えよう。
だが父・氏康の代に比べ、勢力の伸長具合は明らかに伸び悩んだ。
仁君と謳われ、その一方で戦でも多くの勝ちを収めた、未だ関東において名君の呼び声高き父を持ち、それを超える事すら出来ぬ己は、やはり信長に頭を垂れるしか生き延びる道はないのか。
ましてや相模一国のみを安堵、という事はあれだけ父が心血を注いで拡大した領国は、そのほとんどを没収されるという事だ。
父を越えられぬ、父に追い付けぬだけならばまだ良い。
だが父が得た物を、自分の代になって失わせるという事が何より父に対して申し訳無くて仕方がない。
気が付けば、皆が自分を見ていた。
息子や弟たちから、まるで労わるような、憐れむような視線を向けられている。
自分がこんな視線を父に向けた事があるだろうか、父は身内からこのような視線を向けられた事があるのだろうか。
「……事ここに至ってはやむを得ぬ…北条家の家名を絶やさぬ事を第一とし、織田に頭を垂れる…」
搾り出すような声音でそう言った氏政に、氏照らが「兄上!」と声をかける。
氏直はどこかホッとしたような顔で「承知致しました」と頷いた。
そして幻庵はゆっくりと頷いて、この場の誰よりも細く長く息を吐いた。
氏政の中では、相当な葛藤はあったのだろうという事は想像に難くない。
なまじ氏政は父である氏康を傍で見続け過ぎている。
それ故に氏政は己が父・氏康程の器を持たぬ、という事に苦悩している事を、幻庵はとっくに見抜いていた。
だがそれを指摘した所で、氏政自身の器を却って狭めてしまいかねない、と思った幻庵はなるべく見守る方針であり続けた。
いずれ自分にも死期が訪れ、北条家の未来を氏政や氏直らに託さねばならぬ日が必ず来る。
その時に安心して父や兄、甥らがいるあの世とやらに逝けるよう、出来得る限り見守るつもりだった。
だがその一方で、北条のためとなれば氏政らに腹を斬れ、と迫る覚悟も持ち合わせている。
もしも今回この報告が間に合わなければ、長老として敬われている立場を利用して、半ば強引に恭順の意見でまとめざるを得ないか、とまで思っていた。
しかもその際に絶対に恭順の道を取らぬ、と頑として譲らぬ様なら今夜の内に風魔に命じて、氏政を切腹に見せかけて暗殺する手筈すら整えていた。
氏政の切腹、そしてその首を手土産として滝川に恭順の意を伝え、若き当主・氏直の下で北条は織田家の一家臣として生きていく、そういう絵図すら用意していたのだ。
だがそれはあくまで最終手段であり、幻庵としても極力取りたくない方法でもあった。
そんな事をしてしまえば老い先短い己が北条の支配者として君臨する恐怖政治の始まりであり、氏直などはただのお飾りでしか無くなる。
自らが生きている内はともかく、死んだ後は必ずロクな未来が待っていないだろう。
北条家の内部で内輪揉めが始まり、下手をすればそこに付け込まれて結局は家自体を失う事になりかねない。
ましてや先代当主暗殺となれば、風魔としても今後の運営に支障をきたす恐れがある上に、幻庵の命と明らかになれば幻庵の息子たちにまで類は及ぶだろう。
どこを取ってもその場しのぎ、さらに状況は悪くなる可能性すらある悪手と言える。
そのような事態とならず、苦渋の決断をした氏政を今はただ褒めてやりたかった。
「よくぞ決断した。 氏直も承知という事じゃが、お主らはどうする?」
幻庵が氏政を褒め、氏直に視線を向けた後、氏照らに目を向けた。
三人が三人とも、主戦論者筆頭であった氏政が恭順を口にしたため、完全に勢いを失い互いに目を合わせ始める。
そして誰ともなく幻庵に向かって頭を垂れ「我らも、恭順の道を」と、力なく呟いていた。
こうして北条家の意見はまとまり、その場を解散とした。
解散した後で、幻庵は氏政の部屋を訪ね酒を酌み交わした。
自らの武名を誇るより、家名を護る事を最優先させた英断を手放しで褒めた。
皆が敬う長老にそう言われ、氏政は「御言葉、誠に忝く」と深々と頭を下げた。
その下げた頭の下の畳に、いくつかの水滴の痕が出来た事を、幻庵は墓の中にまで持っていくと決めた。
そして期限となっている日の朝、北条家の中枢の者らが待つ部屋に滝川一益が通された。
氏政は挨拶の後で立ち上がり、そのまま上座を降りて下座に座る滝川一益のすぐ前まで歩み寄り、その場で腰を下ろして深々と頭を下げた。
「我ら北条は織田様に恭順の意を示しとう存ずる。 何卒よしなにお取り計らいの程を」
落ち着いたその行動に、却って面食らったのは一益の方だった。
先日あれだけ感情を表に出した振舞いをした男と、到底同じ人物とは思えないほど、その態度は神妙なものだった。
思わず一益の視線が幻庵に向くが、幻庵はこの日もまるで置物のようにじっと目を閉じ、微動だにしていなかった。
釈然としないものを感じながらも、目の前でこうまでされてしまっては一益としても返答をしなければならない。
「承り申した。 されば北条の方々には、召し上げとする所領にまつわる情報の一切の開示、さらに先代当主・氏政殿と現当主・氏直殿は上方へ上って頂き、上様に拝謁して頂く。 さらにこちらにおられる方々の妻子を大坂城へと送り、質とさせて頂く。 委細、ご承知と思ってよろしいな?」
「は…承知仕りました」
そう言って氏政は再度頭を下げる。
それに合わせて他の五人も一斉に頭を下げた。
こうして北条家は相模一国の所領を安堵とされ、それ以外の所領を召し上げとなった。
新たな領地を手に入れた織田家は、その領地に誰を配置するかでまたも多大な手間を擁する事になるが、実はそこにも幻庵は一石を投じていた。
上野・下野・常陸・上総の国などは、北条家も完全には支配下に置けていない土地が無数にあり、その権利保障や石高なども、現地を見てみなければわからない事がたくさんある。
さらに常陸の佐竹家、下野の宇都宮家、上総の里見家などとは常に戦で互いの領土の境界線が曖昧になってしまうのだが、その曖昧な地域も北条家の所領として、織田家に申告するように仕向けるのだ。
織田家は当然その地域も召し上げとなったと思い、支配下に置こうとするだろう。
だがその地域をそれぞれの大名家が所有権を主張すれば、そこでまた火種が生まれる。
遠くから現地を見た事も無く来た領主が、手に入れたばかりの所領が実は隣国の大名家も所有権を主張するような土地であったならば、果たしてどのような事になるか。
そこに混乱が起きれば、また付け込む隙もあるというもの、というのが幻庵の考えた埋伏の毒とも言える策であった。
今この場で、それに気付ける者は己以外誰一人いない。
ただ幻庵のみが己の肚の内で、じっくりと行おうと思っているその策が実を結ぶ頃には、果たして世の中はどうなっている事やら。
(まだまだ死ねぬのぅ……長生きはせぬと、な…)
老獪極まる長老は、頭を下げたその時以外置物のようにじっと目を閉じて、ただその場に在り続けていた。
巻の七以降長めな話が続いてしまい、却って次話投稿までに時間がかかってしまう事態となっております。
短めな話をこまめに、とは思ってはいるのですがどうにもなかなか…ご覧頂いている皆様方には、何卒ご容赦下さいませ。




