信長続生記 首巻 その1
「首巻」という見慣れない単語がありますが、これは「信長公記」の1巻より前の部分、いわゆるプロローグにあたる部分を書き記したもの、という所から拝借した書き方で、作者のつまらないこだわりです。
気にせず読み進めて頂きますようお願いします。
信長続生記 首巻 その1
時は天正十年。
戦国時代の始まりと言われた、応仁の乱が終結して既に百年以上が経過した時代である。
室町幕府より日本中の国々の統治を命じられた数多の守護大名が、自らの生き残りをかけて戦国大名へと転化し、他者の領地を奪い、自らの家臣に裏切られ、殺されて断絶する家系が日本中で後を絶たない、そんな混迷の時代。
それまでの価値観が覆され、多くの命が戦によって消費され、他者から奪わなければ生きていく事すら出来ない、そんな暗黒の時代。
そんな時代にも、ようやく終焉が見え始めていた頃。
一人の英傑による様々な革新的にして残虐、合理的にして冷徹な行動が、少しずつではあるが確実に、戦国乱世という目に見えない悪夢を霧散させていった。
高い目的意識を持つが故の躊躇わなさは、多くの人間の恐怖と反感を買った。
遠くを望めるからこその明晰な思考は、多くの人間の無理解と裏切りを生んだ。
自らを第六天魔王とうそぶき、より効率的な支配を望んだが故の行動の数々は、その存在自体を疎む多くの敵対勢力をはびこらせた。
それでも進み続ける事を選んだからこそ、その男は英傑として後の世まで名を遺す事となった。
男の名は、織田信長。
生まれた時はまさに戦国乱世の只中にある時代、生まれた地はその影響を強く受けた土地、尾張国。
信長は尾張国の本来の支配者である守護大名・斯波家の家臣である織田家の一員にして、そのさらに分家の一つである織田弾正忠家の嫡男として生を受けた。
父である織田信秀は分家でありながら織田本家・さらに主家である斯波家すら凌ぐ力を持つ尾張随一の実力者であった。
本来の身分制度であれば決して持つことの出来ないその支配力は、戦国乱世であるからこそ発揮されるモノでもあった。
父・信秀の死後、信長は若くして数々の裏切りと離反、それによって起こる戦に臨み、最終的にその全てを乗り越え、父の土台を引き継いでそのまま尾張国の統一を成し遂げる。
さらにその後も駿河国を治める大大名・今川義元、美濃国を治める斎藤龍興をはじめとする、自らに敵対した勢力を次々と討ち果たし、信長は京都へと上洛を成し遂げ、天下にその実力を示した。
しかしその後も信長には次々と敵対する者が現れ、自らが提唱した『天下布武』の道程の厳しさを味わうも、あらゆる手段を尽くして数々の困難を乗り越えた。
常人には決して真似の出来ない発想力と行動力、さらに鍛え上げた武力と作り上げた財力。
それら様々な形の力、そして実力ある者の積極的な登用により、織田家の勢力は天下随一と呼ばれるまでに成長した。
同盟者・徳川家康の援護もあって数々の戦いを生き抜いた信長は、武力をもって支配した土地であっても、その土地を治める上では穏便なやり方を取るなど、硬軟使い分けた様々な手法をとって、『天下布武』へと着々と足場を固めていった。
そんな信長にある時、遠いヨーロッパからキリスト教布教のために、はるばる日本にまでやって来ていた宣教師達から、一つの珍しい献上品がもたらされた。
それはいわゆる地球儀というもので、当時の世界を球体に描いた、西暦1500年代の日本には全く出回っていない、新たな世界観をもたらした品物だった。
それを見て、さらに宣教師からの詳しい話を聞き、信長がどう思ったかは分からない。
しかし、その球体に描かれた日本の国の小ささを、信長がどう思ったかは想像が付く。
『自分達が命を賭けて奪い合っている国は、世界から見ればこんなにも小さい所なのだ』と。
宣教師たちの話を信じるのであれば、自分たちはその球体で米粒ほどの大きさの領地を手に入れたことで浮かれ、日本中に数多の勢力が入り乱れたまま纏まる気配すらない。
織田信長という人物は、非常に頭の回転の速い人物としても知られている。
そんな人物が、海の向こうからはるばるやって来て、今まで聞いた事も無い神を崇める教えの布教を許可してもらうために、珍しい品物を献上してくる者を相手にした場合。
そこまでしてくる者が果たして自分に嘘を吐く必要があるのか、を総合的に判断して出した結論は、否だ。
様々な知識、文化、教えなど、自らの知らない情報を数多く持つ者が、それらを提供してまでこちらに付きたい嘘が「お前の住んでいる国は小さい」などというものであるはずがない。
当時の織田家の勢力は、確かに全国を見回しても屈指の国力、領土を誇っていただろう。
だがそれでも信長の立場は一地方領主であり、国の王でも何でもない。
そんな人間を騙すために数多の情報を寄越すなど、あまりにも勘定が合わない、いやむしろ勘定自体が破綻している。
合理的にして冷徹な信長という人物の判断は、実は損得勘定に因って占められている部分が多い。
肉親・友人・主従など、人間には様々な相互関係はあるが、そういった損得勘定を超える間柄が存在する一方で、一族肉親同士で殺し合い、明日には敵対しているかもしれない友や、下剋上が横行する時代の主従などを経験している信長は、そういった心情的・感情的なものをほとんど信用出来なくなっている。
信長の怜悧な思考回路はそこまでを計算し、自らの視点を遠くへと移す。
日ノ本の国、朝廷を頭に置き、公家や幕府がその下に付き、形式上はその家臣であるのが武士である。
それをもう一つ高みから見る、すると海を越えた先にある別の国が見えてくる。
千年ほど前にこの国に仏教という教えを伝え、その後も数々の王朝が取って代わるも、未だ文化先進国である現国名「明」国。
その国からこの国に向かって伸びた半島を治める、明国の半属国である朝鮮国。
その先など、せいぜいが天竺くらいしか無いと思っていた先に、その遥か先にはどうやらこの国よりも、おそらく明国よりも進んだ知識・モノが存在する南蛮の国がある。
その国から来たという宣教師、しかもそれまでこの国には無かった、仏などとは違う新たな神を崇めるという教え。
新しいものを好み、常人には理解の及ばぬ革新的な考えを持つ信長が、その存在に心惹かれぬ訳がなかった。
自らの足元、統治している領内、敵対勢力が治める他国、そして海の向こうに存在する、未だ知らぬ数多の国々。
信長はその時、自分が新たに見据えるべきものを悟ったのだ。
そして、そうと決めた場合の信長の行動は早い。
織田領内のキリスト教の布教を許可する一方で、宣教師たちの持つ全く新しい知識や価値観など、ありとあらゆる事を吸収して、自らに活かすことに決めた。
自らに利するものであれば、それがなんであろうと構わない。
常に敵対者と裏切りに責められ続ける信長に、立ち止まることは許されない。
そうして戦国乱世の世を駆け抜ける信長は、気が付けば日本一の大勢力を築き上げていた。
父・信秀の死後、家督を継いだ信長は30年ほどの間に清州城、岐阜城、そして京都にほど近い琵琶湖東岸にそびえ立つ安土城、と3回にわたって本拠地を変えている。
尾張国の中心地である清州城、これは尾張国を統一した者が居城とするのは当然の成行である。
そして自らの義父である斉藤道三の居城であった稲葉山城、それを攻め落として名を改めた難攻不落と名高い山城・岐阜城。
そして戦の為ではなく、自らの権勢を誇示するために建てた、とされる安土城。
京都を目と鼻の先に捉え、琵琶湖を船で渡ることでわずか1日で京都に出向くことができたと言われる安土城は、機動力を重視する信長にとって理想の城だった。
自らが擁立した第十五代室町幕府将軍・足利義昭を、信長はその手で京都から追放し、室町幕府そのものを消し去った。
信長の手を借りて将軍職に就いた男は、己が権勢を誇りたくて信長と対立し、ついには敗れ去って追放されたのだ。
だがそれによって信長は、京都という一大戦略拠点を内に抱え込む必要が出来たのだ。
それまでは形だけとはいえ、信長の援助あっての室町幕府が存在していた京都に、いわば朝廷や公家衆に対する楔としての役割を果たしていた幕府が無くなった事で、彼らに対する抑えが弱くなったのだ。
岐阜では京で変事があった際に遠すぎる、と考えた信長はさらに京に近い場所として、安土城を建てたのだ。
これによって京の朝廷や公家衆に対し、しっかりと睨みを効かせる一方でその権威を利用する事すらも可能となるだろう。
幕府が無くなったことで、全国規模でその権威を利用できる存在は朝廷だけとなっていた。
その朝廷を抑え、しっかりと内に抱え込むことで、信長は常に織田家を「官軍」として扱わせることが出来たのである。
事実この「官軍」、朝廷などの権威による後ろ盾、というものはこの時代に於いて並々ならぬ影響力を持っていた。
事実信長は、かつて何度か訪れた危機の際には朝廷や幕府を担ぎ出し、その名を持って窮地を凌ぐなどの外交戦略も行い、その後勢力を立て直して反撃に出るという行動を取っている。
本能寺の変が起こる直前、天正十年三月にはそれまで自分を幾度となく苦しめた、甲斐国に本拠を置く武田家を滅ぼして、織田家の勢力はついに関東まで及んだ。
尾張国から始まり、支配地は十ヶ国を超え、二十ヶ国も越えてさらに膨らんでいく織田家。
その勢いは留まることを知らず、信長を新しき世の支配者、天下人であると誰もが思い始めていた。
信長の掲げた『天下布武』は、間もなく達成されると誰もが思わずにはいられなかった。
安寧に浸らず、立ち止まることを許さず、常に先へ、高みへ、次へ。
そういった信長の目的意識の高さは、あらゆる面において発揮された。
十一年の長きに渡って信長に抵抗を続けた一大宗教勢力・石山本願寺の一向宗。
その石山本願寺の包囲網の総司令官を務めた重臣・佐久間信盛は、本願寺を降伏させたことで褒賞をもらうどころか、降伏させる年月の長さを職務怠慢となじられ、追放という処分を受けた。
もはや長年仕えていた家臣でさえも、信長の目標に向かっての足枷になるのならば要らぬ。
そしてその苛烈な人事は他の家臣たちを震え上がらせ、信長の目標達成までの時間短縮に更なる心血を注がせる事となった。
しかしその一方で、信長という存在を危険視した者たちも数多く存在した。
その内の一人は信長の元で出世を果たし、後の世にも名を残した英傑の一人。
明智惟任日向守十兵衛光秀、本能寺の変の実行者・明智光秀その人である。