イーリス
何処かから響いてきた女の悲鳴が聞こえなくなり、広間は沈黙に包まれた。兵士達の顔は青ざめ、シビルは俺の胸ぐらを掴んだまま怯えていた。相変わらず愉快な男だ。
そして、そんな沈黙を破ったのは人間ではなく魔獣だった。
何かが割れる音。割れたのは窓だった。
ここは二階だというのに窓を破って入ってきたのは、俺の三十倍以上の体重を有していそうな四足歩行の魔獣だった。
兵士の中で優秀な者が即座に反応し、魔法を放つ。
兵士の放った魔法が獣の頭部を半分吹き飛ばした。しかし、それだけだった。獣は倒れない。血すら流さない。獣の巨大な頭部が、魔法を放った兵士へと向けられる。
「ひっ……!」
誰かが小さく悲鳴を漏らす。
「う、撃て!」
兵士の一人が叫ぶ。魔術師の証である腕輪が光り、恐怖に支配された兵士達が半狂乱に魔術を発動させていく。それと同時に魔獣は突進を開始する。その巨大な体躯による突進は、接触しただけで人を殺せることだろう。
誰かが展開した防御魔法が魔獣の突進を阻んだが、それも徐々に壊されようとしていた。 獣の白い牙が、人類の努力の結晶を乱暴に食い破っていく。
俺は、恐らく自分は攻撃されないだろうと頭の中の冷静な部分では考えていた。
だというのに、巨大な獣が死を恐れず襲いかかってくるという状況には、本能的な恐怖を覚えさせられた。
やがて、
「待て、魔力を無駄遣いするな!」
我に返った兵士の一人がそう叫ぶまで、恐怖にかられた兵士達は魔法を放ち続けた。魔獣は兵士達の集中攻撃を受けてさすがに力尽き消滅したようだった。
勝利の余韻などまるでない重苦しい雰囲気が、荒れ果てた広間を包んだ。兵士達の顔は憔悴しきっていた。
危うい所でどうにかなったが、獣が一匹ではなく二匹か三匹だったら終わっていた事だろう。
他人事のようにそう思う。
一人の兵士が口を開く。
「シビル様もう屋敷は放棄して逃げましょう……! 防衛は不可能です!」
必死の形相でそう訴える。
「駄目だ駄目だ駄目だ! 絶対に死守せよ! 逃げ場などない!」
「しかし……!」
「従え! 命令に!」
シビルと兵士は言い争う。
ある意味、両者の言い分はどちらも正しかった。つまり、防衛は不可能であり、かといって逃げ場など何処にもなかった。
「もういい」
兵士の中では一番階級が高い者がそう言い、残りの兵士に目配せする。そして、屋敷外に続く扉へと顎で促した。兵士達はうなずき合い、小走りで屋敷からの脱出を始める。
「おい待て何処へ行く逃げるな!」
シビルがそう怒鳴るがもはや反論どころか反応する者すらいなかった。
兵士達が完全に居なくなるまでシビルは怒鳴り続けたが、完全に権力を失ったシビルの声は誰にも届かなかった。
「クソッ」
「……」
血走った目のシビルと目が合う。
「何故だ、何故お前だけそんなに落ち着いている!」
そうシビルが俺に怒鳴る。
「何故って、そりゃ俺はこの町がどうなろうと構わないしな。どっちみち、俺の寿命もそう長くないし」
「……それだけではないな、お前、こうなることを知っていたな……!」
シビルにしては勘がするどい。まあこうなることを知っていた訳ではないが。
「分かったぞ。これはお前が仕組んだことなんだな……! 何が目的だ」
錯乱した、正気ではない表情のシビル。
彼の推理、というか妄想は加熱する。さすがにそこまではやっていない。
「金か、自由か、それともイーリスか!」
ん……? イーリス? 金や自由はともかく、イーリス? なんだそれは?
そんな事を考えていた時だった。
破壊音。
広間のドアが破壊される。壊したのは4匹の魔獣だった。
魔獣達は狭そうに扉を通る。
それは、部下に逃げられたシビルにとっては絶望的と言える数だった。
シビルは防御魔法を周囲に展開し、戦闘を諦め逃げだそうとする。しかし、彼の足ではとうてい逃げきれず魔獣達に退路をふさがれてしまう。
「イーリス! 助けてくれイーリス!」
シビルがそう叫ぶ。
するとシビルの周辺に黒い桜吹雪の様なものが局地的に発生した。そしてそれは黒い小太刀へと姿を変える。
シビルは現れた小太刀を掴み魔獣を斬り付ける。小太刀はまるで雪でも斬るかのように容易く魔獣を切り裂いく。しかし、多勢に無勢だった。
「いやだ……失いたくない。俺にはまだ可能性――」
それが俺をこの世界に召喚した男、シビルの最後の言葉となった。
いや、それはいい。どうでも良い。
問題は魔獣が喋らなくなったシビルの胴体に噛みついた直後それは起こった。
「なっ……!」
突如シビルがもっていた黒い小太刀が爆散した。刃の中に爆発物でも仕込んであったかのように、鋭利な破片を殺人的なスピードで撒き散らした。撒き散らしたという表現は適切ではないかもしれない。
破片は周囲に自然と飛び散らかるのではなく、明らかに俺を狙ってショットガンの弾のように飛散した。
それを見て、俺は死を予感した。しかしそうはならなかった。欠片は体に突き刺さらなかった。その直前で急停止した後にゆっくりと俺の右腕を覆い尽くし、浸透していった。
それは雪の欠片が肌に触れて溶け消える様子と少し似ていた。数秒後には欠片は浸透しきり、その痕跡をまるで残しさず消えた。
俺の右手は見た目も、感触も昨日までとまるで変わっていない。
「何だったんだ……」
刀が巻き起こした現象に俺が困惑している間に、魔獣達はシビルへの関心を失ったようだった。死体を残して屋敷から出ていこうとする魔獣。
予測してはいたがやはり魔獣の攻撃対象に俺は入っていないようだった。
自らの右腕に目を落とす。
イーリス……シビルが死ぬ前に叫んでいた単語。それが【これ】の名前だろうか。何十秒か自分の右手を見つめた後、視線を広間全体に移す。
どうしようか。
破壊の惨状生々しい広間で、生きているのは俺だけとなった。窓の外ではいまだ戦闘が続いていた。
(とりあえず、イーリスとやらについて調べてみるか)
この無駄に広い屋敷には書斎もある。あそこでイーリスとやらについて書かれた本がないか探してみるか。
そう思いシビルの死体を残して広間を出た。
広間の外、屋敷の廊下を歩いていく。
魔獣から狙われないようにと明かりを落とされた廊下は暗く、今にも何か飛び出してきそうな雰囲気があった。
そして到着した書斎で本を物色する。
普通の百科事典の様なものにはイーリスの事は記載されていなかった。
魔術専門の辞典にイーリスの情報は乗っていた。
そこにはこう書かれていた。
【イーリスまたはグレイス•イーリス
実在が疑問視されている短剣。
神が残した異物、限りなく無限に近い可能性を内包した短剣、国宝級の欠陥品、使用者を発狂させる呪われた武器、などの異名を持つ。
空間を斬り、グレイス•イーリスへと向かう事で、あらゆる世界のあらゆる物を作り出す事が出きると言われている】
「……イーリス」
意志を込めてそう呼んでみる。
黒い吹雪のようなものをまき散らしながら刀は俺の呼び出しに応じ、現れた。