第八話
切り裂かれた航空師がまた一人、断末魔の叫びを上げながら地面に落下して行った。
シルフィーは髪に纏った荷電粒子の光を一閃すると新たな敵を探したが他に動く者の姿は無い。
既に全ての航空師を倒してしまったのだと知って、彼女はつまらなそうに空を見上げた。
世界最強の航空師隊も存外呆気ないものだ。
それが今の彼女が持っていないはずの知識である事に彼女は気付かない。
気が付けば随分高くまで来ていた。ここには虫の声も届ない。不気味な静寂の中で聞こえるのは風の音だけだ。
先刻より幾分大きさを増したように見える月は、満天の星空に悲しげな蒼い光を放っている。
その光を見ていると彼女の心はざわめき、記憶が暴れ出す。
痛み始めた額を片手で押さえたシルフィーは月を睨んだ。
気に食わない。
ガングリオンの砲身を月に向ける。
「私を…見下すな…」
ガングリオンに力を込める。
その時、フィールドの感知圏に大質量の何かが引っ掛かった。
それはフィールドで『観』なければ認識できない速度で一直線に彼女を目掛けて飛来すると、彼女の身体の数メートル手前で見えない壁に阻まれて砕け散った。
炸薬が起こした炎と煙がフィールドの表面を舐め、不可視のフィールドの球形が空に浮かび上がる。炸裂音に肌が震え、少し遅れて発射音が耳に届いた。
射線を辿り地面を見下ろすと、そこはもう首都アルストロメリアの領内だった。
視界いっぱいに広がる、もう一つの星空のように瞬く街の光の一つ一つが、掛け替えのない人々の営みなのだとシルフィーの心の奥の声が叫んでいる。
その声を聞く度に頭痛が酷くなる。だから彼女は考えるのをやめた。
司法局を中心にした首都アルストロメリアの、同心円と放射線が組み合わさった特長的な街路を縫って軍の部隊が素早く展開して行くのが見える。
その一つ一つを追ったシルフィーは街の中心辺りまで視線を移して目を止めた。
威容を誇る司法局を中心に首都アルストロメリアを地平線まで十二方位に貫く空中鉄道の架道橋の、その西側の一本の上に細長い影が横たわっている。
架道橋に敷かれた上りと下り四本のレール全てに車輪を乗せる巨体は、横幅は倍あるのに高さは通常の列車と変わらないので全体としては重心が低い。被弾効率を考慮して曲面で構成された外装とあいまって地面を這う両生類の様に生物的なシルエットを持っている。
両生類で言えば横腹に当たる車体側面は大きく架道橋からはみ出し、『あちら』の世界で言えば跨座式モノレールの様に橋そのものを挟み込んでいる。
牽引する貨車の車体側面には十門、両側で二十門の機関銃が据え付けられそれぞれがシルフィーの方に銃口を向けている。
そして先頭車両には機関銃の他に主砲が一門。全長十メートルの車体の前三分の一程の位置から突き出している。
王都アインツの闇を抽出した様に黒い車体が、首都アルストロメリアの営みの光の中にぽっかりと影を落としていた。
シルフィーは素早く身をひるがえすと、ほぼ同時に撃ち放たれた砲弾が空を切り裂いた。
至近距離を貫いた砲弾が乱した気流をフィールドに感じながらシルフィーはその身を空中に踊らせる。
翼状に散った髪に呪文が走り、一条の赤い光となった身体が一直線に首都アルストロメリアの中心部を目指し加速した。
照準を失った主砲に代わり無数に並ぶ機関銃が火を吹く。
銃口からほとばしる青白い炎が瞬き、土砂降りの雨が地面に打ち付けられる音に似た強圧的な銃声が月夜に轟く。
数発に一発ずつ含まれる曳光弾の光がオレンジ色の奔流となってシルフィーに集中するが、彼女はフィールドの表面に散る火花にも一切頓着する事なくまっすぐに突っ込んで行く。
そうだ。それでいい。
戦っている時だけがバラバラだった心が一つになる。生きていると実感できる。
誰でも良い…。もっと私を感じさせてくれ!
シルフィーは空中でガングリオンの射撃態勢を取った。白い銃身に呪文の光が走る。
発射の瞬間解除したフィールドの隙間から滑り込んだ機関銃の弾が病人服を破り皮膚を掠める。
「はっ!!」
壮絶な笑みを浮かべてシルフィーはアインツの国防の象徴と言われる装甲列車の、十両編成の三両目に直撃したガングリオンの弾体が穿った穴に頭から突っ込んで行った。
一人殺せば人殺しであり
千人殺せば英雄である。
そして人類全てを殺せば
それは神である。
生まれてより初めてその身を貫いた衝撃に、装甲列車全体が悲鳴に似た軋みを上げた。
横殴りの激しい衝撃に隊員達はことごとく座席から投げ出され、若しくは壁に叩き付けられ、等しく床に倒れ伏した。
機器がショートする音と、破片に身を貫かれ、吹き上がった炎に巻かれた隊員の低い呻き声があちこちから聞こえる。
無事だった隊員達は立ち込める爆煙の中に赤い光を見た。
絶対的な強度を持つはずの装甲列車の複合装甲をいとも簡単に破壊した『それ』は、未だ収まらない揺れなど意に介さない様子で煙の中から歩み出る。
青く透明な髪に呪文が脈打つ様に流れ、その赤い光が巡る度に髪がゆらゆらと揺れている。
ボロボロに破れた患者着から覗く肢体には傷一つ負う事は無く、驚く程白かった。
這い付くばる隊員達を見下ろすその姿は恐ろしい程に美しく、隊員達は状況も忘れてその神々しさすら感じる姿に魅入られた。
「…死神」
それが彼らの最後の思考だった。
―Crystalline-Cell "SAGA"―
【いつか観た蒼月】
■第八話
『アルストロメリア炎上』
◆
内側から膨隆した光の奔流は、装甲列車の車体を引き裂きながら首都アルストロメリアの夜空に高々と吹き上がった。
アーリッシュは突然頭上から襲った今までに経験した事のない衝撃に、思わず急ぐ足を止めた。
「なんて事…」
吹き付ける強い風にもてあそばれる髪を抑えながら、アーリッシュはその現実感の無い光景を見つめた。
普段は夜の闇に溶け込んで見えない空中鉄道の架道橋がはっきりと浮かび上がっている。
吹き上がった光は装甲列車を上下に貫いていて、当然列車の下にある物、つまり空中鉄道の架道橋その物をも打ち砕いていた。
ちょうど橋脚と橋脚の中間の位置に停車していた装甲列車の重みに耐えられず、架道橋が音を立てて崩れ始める。
完全に前後に分断された装甲列車の無事だった二両目から前と四両目から先が、落下を始めた三両目に引きずり込まれる様に架道橋の中心に向かって沈んで行く。
先頭車両の動輪が落下から逃れようと全速で回転する。しかし貨車の重みに引っ張られた車体は少しずつ後ろに下がって行く。
ギイィィーン!
それは断末魔の悲鳴にも似た悲痛な音だった。動輪から煙が吹き上がる。
そしてついに重みに耐え兼ねた架道橋が橋脚の部分から崩壊した。虚しく動輪を回し続ける装甲列車もろともに激しく構造材を撒き散らしながら住宅街に落下して行く。
「っ!!」
アーリッシュは目を背けた。あそこにはまだ避難していない人達が…。
地上数十メートルから投げ落とされた数百トンの物体の前に、一般住宅の壁などはいくらのものでもなかった。
ろくな抵抗も示せないまま、装甲列車の直撃を食らった建物が積み木を崩す様に瓦解していく。
直撃を免れた建物も、次いで襲った振動と衝撃に耐えられず次々に崩れていく。
既に就寝をしていたほとんどの者は自分の身に何が起こったのか知る間もなく建物と供に押し潰され、一瞬で絶命した。
運悪く即死できなかった者は瓦礫に押し潰された恋人や家族の姿を、自分の体を建材が貫いている光景を見た。
理不尽に命を奪われる者達の呪詛の叫びが、今まさに死に行く者達が上げた断末魔の叫びが、砕け散る装甲列車の爆音に混じって首都アルストロメリアに響き渡る。
そんな彼らの苦しみも長くは続かなかった。
装甲列車の燃料庫の中で起こった小さなスパークが液体燃料に引火した。一瞬で膨脹した炎は衝撃波と共に装甲列車の中を走り抜け、生き残っていた兵隊を消し炭に変えていく。
数秒の間に弾薬庫に到達した炎が新たな誘爆を引き起こした。
今までに倍する衝撃に今度こそ装甲列車の外装は耐えられなかった。
巨大な爆弾と化した装甲列車が溶けた鉄と衝撃波と炎をまき散らしながら四散した。
生み出された熱量に、瓦礫の下で悶える者達は一瞬で苦しみから開放された。衝撃波が新たな崩壊を生み出す間に音と同じ早さで噴き出した炎が、首都アルストロメリアの画一化された街路を走り抜けていく。
瓦礫から這い出した者、たまたまその場を歩いていた者を等しく炎が巻いていく。
炎は衝撃波を纏い、貪欲に命を食らいながら一瞬で通りを駆け抜けた。
炎が過ぎ去った通りのあちこちに、バラバラになった人の身体が煙を上げて噴き溜まっている。
通りに面した家々から次々に火の手が上がる。
たった一瞬で装甲列車を中心にした半径百メートルの街は焦土と化してしまった。
アーリッシュは鼻孔にへばり付く臭いに顔をしかめた。焼けた空気と人が燃える臭い…それは戦地の臭いだった。
どす黒い煙が夜空に立ち上ぼっていく。
炎に浮かび上がる煙のすぐ脇、先程まで装甲列車があった空間に一つの人影が浮いている。
煙と対なす様な白い病人服をはためかせながら無表情にこちらを見下ろしている。
「あれが…」
アーリッシュは音が出る程強く魔杖を握り締めた。怒りが身を貫く。叶うなら今すぐこの手で破壊してやりたい。
だが…。
アーリッシュは通りを見渡した。先程の爆発の直後から通りには不安げな表情を浮かべた人が集まって来ていた。
事態を把握した人達の間から徐々に混乱が広がっていく。
アーリッシュはもう一度空を見上げた。あんたを倒すのは後。
口の中で小さく呟いて再び走り出した。
目指すは市内に数十ヵ所設置されている地下シェルターの入口。
頭に地図を浮かべ、担当区域にある全ての入口への最短ルートを確認した。
他の区域にもアーリッシュと同じく入口の鍵を持った仲間が駆け付けているはずだ。
街の人を避難させなければならない。一刻も早く。一人でも多くだ。
「お願い…間に合って。神様」
アーリッシュは祈りにも似た気持ちで灼熱の道を駆け抜けた。
◆
その爆発は明らかに今までより低い位置で起こったものだった。
直後、足下に微かな振動を感じたのとほぼ同時に丘向こうから黒い煙が立ち上ぼるのが見えた。
間に合わなかった!?
ベルは顔をしかめた。更に加速しようと疲労過多で軋む結晶体に呪文を送ろうとしたその時、後ろから引っ張られた様にガクンっとスピードが落ちた。
ベルは足を止め手を引いていた少女を振り返った。
「ウィラ急いで!始まっちゃってるよ!」
しかし金髪を乱した少女はフラフラとその場にへたりこむと動かなくなってしまった。
「はぁ…はぁ…。…私はもうダメ…っ…ベルトラル君は先に行って…」
ウィラは肩で息をしながら何とかそれだけ絞り出した。
「…分かった。でも、出来れば来るなよ」
ベルの言葉にウィラはうつむいたままヒラヒラと手を振って答えた。
次の瞬間、独特の振動が身を包んだ。何とか顔を上げるとぼやけた視界の先に、小さくなっていく背中が見えた。
「…まったく…何であんなに…タフなのかしら…」
あきれた様に呟く。
ウィラはその場であお向けになった。
心臓がうるさいくらいに脈打ち、肺は取り込んでも取り込んでも足りないとばかりに空気をむさぼる。
うっすらと開いた瞼の先で満天の星空がゆっくりと回転している。身体が地面に沈んで行くような感覚は子供の頃にふざけて回転し過ぎた後に良く似ていた。
吹き付ける夜風はきな臭い。
大体何で自分はベルの後を追いかけていたのだろう。
杖も無くしてしまった。もう自分に出来る事なんて何も無いのは分かっている。
では何故?
ようやく落ち着いてきた呼吸を整えてからウィラは芝生に座り直した。
ベルの小さい背中が消えた方を眺める。
何故あの人は走れるのだろう。
あんなに恐ろしいのに。それは…愛する人を殺す事になるのに。
ウィラは、恐ろしかった。復讐で心がいっぱいだった時が嘘のように怖くて怖くて仕方がなかった。
なのに気が付けばベルの後を追いかけていた。
何故?
「…だって、放っとけないじゃない…」
ウィラはぽつりと呟いた。
きっと人間は何も知らず罪も無い人々が、ただ死んでいくのを黙って見ている事が出来ないものなんだろう。
偽善と言われても良い。何もしないよりはずっと気の利いた事だと思った。
「よっ…と」
力の入らない脚に力を込めてウィラは立ち上がった。
とにかく先に進まなければ。この丘を越えれば首都アルストロメリア市街はすぐそこだ。
今のウィラには永遠の様に続く坂を上り始めて、しかし数歩も行かないうちに物陰から飛び出して来た人に突き飛ばされてしまった。
「きゃっ!?何なのよも〜!!」
脚に力の入らないウィラは再び尻餅をついてしまった。思わず毒づいてしまう。
だが彼女を突き飛ばした男は、そんな彼女の状態など目に入らない様で何事か呟きながらフラフラと首都アルストロメリアに向かって行く。
「ちょっとあなた!!今アルストロメリアに行くのは危ないわよ!!」
「…素晴らしい…素晴らしいぞ…」
しかし男は、どこにそんな力があるのか頼りない足取りに似合わないスピードで、あっという間にウィラの視界から消えてしまった。
「…ホントに何なのよ…」
再び一人取り残されたウィラは呆然と男が消えた丘を眺めた。
はためくボロボロの白衣が妙に記憶に残っていた。
◆
ジルギアの頭上を一発の魔法弾が掠め背後の宿の壁に大穴を穿った。
振り返ったジルギアと慌ててベランダに飛び出して来た男の目が一瞬合ったが、そのまま成す術も無く崩れた宿の上げた土煙の中に消えていった。
ジルギアが到着した時、既に首都アルストロメリア市街は激しい炎に包まれていた。
航空師を失った首都アルストロメリアはあまりに呆気無く陥落して行く。
実験体を包囲した魔法使隊は建物を盾に巧みな波状攻撃を繰り返す。しかしことごとくが実験体のフィールドに弾かれ、打ち出された魔法弾で身を隠した建物ごと消滅した。
通りには逃げ惑う人々が溢れている。突き飛ばされた老婆が転倒し後ろから続く人の脚に踏まれボロ屑と成り果てる。
作戦遂行に邪魔な市民を、本来彼らを守るはずの軍隊が薙ぎ倒す。
混乱に乗じて商店から金品を盗み出す者。
そんな彼らを流れ魔法弾は等しく焼き払った。
黒く煤けた地面にうずくまる消し炭と化した身体を、更に後ろから続いた人々が踏みつぶして行く。
辺りに満ちるのは、人の声とは思えない獣のそれに似た叫び。混乱は混乱を生み、街は阿鼻叫喚の地獄と化していた。
そんな中、ただ一人ジルギアだけが恍惚とした狂喜の…いや狂気の表情を浮かべていた。
「…素晴らしい。予想以上だ…」
実験体の完成度はジルギアの予想をも遥かに上回っていた。
航空師を全滅させたと聞けば喝采を上げ、装甲列車を破壊したと知れば踊り出さんばかりだった。
絶え間なく続く振動と炎が渦巻く街のただ中で、両手を広げジルギアは夜空に向かって叫んだ。
「さあ!もっとだ!もっと破壊しろ!愚かな者達に私の力を示してくれ!」
「何だって…?」
その時、いつの間にそこにいたのか、ジルギアの背後に黒髪の少年が立っていた。
幼さの残る顔は煤に汚れ、破れた服から覗く手足からは決して浅くないだろう傷から血を滲ませているが、歳に似合わぬ大人びた表情からは苦痛の意を読み取る事は出来なかった。
「あんたが…。そうかあんたが全部!」
少年は裾から滴る血が白衣を汚すのも気にせず、ジルギアの胸倉に掴みかかった。
「な、何だ貴様は!?」
「答えろ!どうやったら彼女を救える!?」
「彼女?実験体の事か?」
「違う!!あれはシルフィーだ!!」
思いがけず強い力にジルギアの脚が地面から浮いた。少年の目がジルギアの目を真っ直ぐ睨み上げる。
「俺のシルフィーだ!」
ジルギアは見知らぬその少年の決然とした態度に、訳も無く懐かしい友の面影を重ねていた。
絶え間なく魔法が降り注ぎ、炎と熱気が渦巻いた地獄の様な街の一角で黒髪の少年と白衣の男が睨み合っていた。
「何故だ!何故こんな事をする!?」
「何故?そんな事は決まっている」
男は蔑む様に笑った。
「王都アインツに真の平和をもたらす為だ」
悪びれる様子も無く言い放った男の言葉に少年は耳を疑った。
「平和!?平和だって!?あんたがやってるのは殺戮じゃないか!」
「黙れ!貴様に何が分かる!」
男は襟を掴む少年の腕を逆に握り返した。細い腕がみしりと悲鳴を上げ少年の顔が苦痛に歪む。
「貴様にこの国が直面している危機が分かるか!?本来統一されるべき国土は十二にも分断され、首都は常に内乱と侵略の恐怖にさらされている!恐怖は武力による統治に姿を変え、抑圧はさらなる憎悪を生み出し、目に見えない歪みとなって人々の心を浸蝕する!そしてそれは新たな恐怖と憎悪を生み出す!無限に続く悪循環の末にこの国が辿り着く未来とは何だ!?」
男の掌のはいよいよ少年の腕にめり込み、少年の腕は見る間に色を失っていく。
「このままでは待っているのは破滅だけだ。今、この国は必要としているのだ!悪しき循環から逃れ、新たな流れを生み出すものを!何だか分かるか!?」
近付けてきた男の顔にぽっかりと空いた虚無に繋がる二つの穴が少年の目を正面から見据えた。
「力だよ。絶対的な力だ!魔法使派遣などと言う中途半端な武力抑圧では無い!全人類を抹殺できる力を持つ兵器だけが世界を統治する抑止力足り得るのだ!」
ついに力を失った少年の手がゆっくり引き剥がされていく。
「だが愚かな司法局は私を認めようとはしなかった。私の研究を冒涜し、有ろう事か私を抹殺しようとしたのだ!このジルギア・アランドナウを!!」
男の顔に凄惨な笑みが広がっていく。
「だから私は証明したまでだ!見ろ!実験体のあの美しい姿を!航空師も魔法使隊も、装甲列車ですらもたった一体の実験体に敵わないではないか!戦場で死んでいく何千と言うクズの様な魔法使の結晶体も私の手にかかれば美しく蘇る!死をも恐れぬ最強の兵士…いや、最強の兵器としてな!司法局は知っただろう。アインツには私の力こそ必要なのだと!素晴らしいぞ…次世代魔法使が完成したその時、首都アルストロメリアは今度こそ一つに統治され、真の平和と秩序が訪れるのだ」
「馬鹿な…」
少年は歯を食いしばり引き剥がされそうな腕を、再び男の胸倉を握り締めた。
「…それで、そうやって恐怖で十二自治区を統治して、その先に本当の平和があると思ってるのか!?それじゃあ何も変わらない!そこからまた新しい恐怖が生まれるだけで、今までアインツがやってた事と何も変わらないじゃないか!それじゃダメなんだ…ダメなんだよ!学園を守る事を、俺を助ける事を迷わなかったシルフィーみたいに!今もこの街を守ろうとしてる人達みたいに!本当に人を大切に思える人達の力が世界を作るんだ!どんな目的があったとしても、その為に何千人って人を平気で殺せる様な奴がどうして平和を導けるって言うんだよ!あんたがやろうとしてるのは思い通りにならない子供が駄々をこねてるのと同じだ!」
「はっ!まさしく子供じみた稚拙な考え方だな!人々をだと!?私はクソの役にも立たない無価値の人間を有効活用してやったのだ!称賛こそされ非難されるいわれは無い!所詮は身に迫る危機を知ろうともせず安寧にあぐらをかいて卑しく惰眠を貪っていたような奴等だ!おとなしく使い捨てにされているのが分相応と言うものだ!」
「黙れよ!!」
叫びに近い声を上げ、手を振り払った少年の拳が男の顔面に突き刺さった。
頬が裂けて血が吹き出すが、男は嘲りの表情を変えようとはしなかった。
「ふっ…私が憎いか?良いだろう!殺すが良い!だが今更私を殺したところで、もうあれは止まらん!!」
「貴様ぁ!!」
少年の激情に全身の結晶体が無意識に反応した。瞬間的に呪文の光が身体を走り、怒気を噴出する様に少年の身体の周囲の魔法学フィールドが揺れた。ザワッと髪の毛が逆立つ。
その瞬間、通りの向こうに浮かび魔法使隊に攻撃を加えていた上空の人影が少年のフィールドを感知し、弾かれた様にこちらを向いた。
「っ!?」
少年の唇から、しまったと小さく漏れた時既に人影から放たれた魔法弾はすぐ横の建物に直撃していた。
二階部分をほぼ破壊された建物が、内側から破裂する様に激しく炎と破片を吐き出しながらこちらに倒れ込んで来る。
動揺し力が抜けた少年の手を振り払って、男は強く少年を突き飛ばした。少年の小柄な身体が建物の落下点に向かって流れる。
「っ!ジルギアー!!」
「はっはっは!!」
少年の姿は、次の瞬間崩れ落ちた建物の中に消えて行った。
衝撃に脚を取られた男の目の前で建物が文字通り瓦解した。激しく粉塵が巻き上がり、大きい物では人の身体程もある大小の破片が男の身体に降り注いだ。
しかしそのどれもが男に直撃する事無く、やがて崩壊は収まった。
白衣に薄く積もった建物の破片を払い落としながら男は座り込んで崩れた建物を見上げた。
そこに少年の姿は無かった。向こう側に逃げたか、あのまま潰されたか。どちらにせよ男にとってはどうでも良い事だった。
今の一撃で建物の中に居た何人が死んだだろうか。
だが自分は無傷でここにいる。あの破壊でも小石一つ男の身体に当たる事は無かった。
「…くっくっく…」
片手で額を掴む。口から笑いが漏れる。
選ばれ生き残る者とそうでない者。この世の原理とは実に簡単だ。
「私は選ばれている」
肩を震わせて男は笑った。その時。
「ちょっとあなた!大丈夫なの!?」
「!?」
突然かけられた声に驚いて振り向いたその先に何か白い包みを抱いた女が未だ粉塵に煙る通りたたずんでいた。
◆
燃え盛る首都アルストロメリアの中でアーリッシュ達軍警察も必死に戦っていた。気まぐれに降り注ぐ魔法弾に命を散らしながら。
「落ち着いて!シェルターにはまだ余裕があるから、落ち着いて避難して!」
声を張り上げ市民を誘導しながらアーリッシュは心中歯がみしていた。
人々の混乱はいよいよピークに達しようとしていた。ほとんど暴徒と化して押し寄せる市民をアーリッシュは時に多少手荒な手段を用いて鎮静させた。
犠牲者の半分くらいがこうして暴走した市民によるものだ。市民だけでは無い。アーリッシュの様に避難の誘導を行っていた者までもが巻き込まれて死んでいる。
混乱とはここまで人の理性を奪うのか。
『あれ』が街に侵入してから既に小一時間。中央からの指示は無い。
装甲列車が破壊された事で縮み上がってしまったか、これを機に行動を起こした何者かに占拠でもされたか、とにかく司法局でも何か混乱が起きているのは間違いない。
だがどちらでも関係ない事だった。今重要なのは中央からの支援が無い以上この混乱を収められるのはアーリッシュ達以外に無いと言う事だ。
市街に展開した王軍はもはや周りに市民が居ようが居まいがお構いなしに魔法をぶっ放し、その度に市民を巻き込みながら『あれ』の魔法を食らって死んでいく。
自分達の魔法が『あれ』の攻撃を煽っているとなぜ気付かないのだ。
アーリッシュは無防備に道路に立ちながら、それでも声を上げ人々を誘導し続けた。諦めてはいけない。諦められない。
その時、路地から血まみれの魔法使が一人飛び出して来た。
「ちくしょう…殺してやる」
男は魔杖を振り上げた。
「ダメよワーグ!!」
アーリッシュは慌ててワーグの身体に飛び付いた。
「離せミラナート!!あいつは…!」
身悶えするワーグを必死に止める。
「ダメよ!今魔法を使ったらここに居る人達が巻き込まれちゃうわ!」
「しかし…!」
だがその時、『それ』は突然弾かれた様にこちらを振り向いた。
実を堅くしたアーリッシュを突き放してワーグが魔杖を空に向ける。
『それ』が放った魔法弾はアーリッシュの頭上を飛び越え少し先、ちょうどシェルターの入り口の真正面の建物のど真ん中に直撃した。
噴き出した炎と熱波が今まさにシェルターに入ろうとしていた人達を焼尽くしていく。
咄嗟に魔法学フィールドを展開して防御をしようとしたアーリッシュの真横を凄まじい熱気が通過し、そしてワーグの身体が破裂した。
ワーグの身体に直撃した魔法弾は周りにいた市民を巻き上げながら爆発的に膨脹した。
前後から襲った衝撃になす術も無く吹き飛ばされたアーリッシュは、身を包んだフィールドを引き剥がされながら数十メートルの距離を隔てた地面に叩き付けられた。
「くっ…ぅ…」
痛みに悲鳴を上げる身体を無理矢理起こし、見上げた通りにワーグの姿は無かった。地下に続くシェルターの入り口も、そこに避難しようとしていた人達の姿も、何もなかった。
辺りに散らばった煤けた塊からはそれが男だったのか女だったのかも判別は出来ない。
「あぁ…なんと言う事なの…」
アーリッシュは悲しみに声を上げた。ここは間違いなく地獄だ。
力無くうなだれたその時、馬鹿になりかけた耳に何か音が聞こえた。甲高い、これは泣き声?
アーリッシュは夢遊病者の様な頼りない足取りで音の源を探した。
道の脇に折り重なる死体の中に不自然に身体を丸めた姿勢の女性がいた。ゆっくりと身体を起こすとおびただしい血を流し力無く伸ばされた女性の腕の中に白い布に包まれた赤ん坊の姿があった。
抱き上げると奇跡的に傷も無く元気に泣いている。
「…お母さんが守ってくれたのね…」
いや母親だけではない。上に折り重なった人達皆がこの子を守ったのだ。
だがそんな命もここに居てはすぐに失われてしまう。
「ごめん…ごめんね…」
アーリッシュは赤ん坊を抱き締めながら泣いた。この子は必死に小さな命を燃やして声を上げているのに、それに答えてあげる事が出来ない。
自分の非力が、無力が情けなくて悲しくて、止どまる事無く涙が頬を伝う。
現実は残酷だ。個人の都合や苦悩などお構いなしに押し寄せる。
この子が、街の人達が何をしたと言うのだ。ただ日々の幸せに浸り、明日に希望を持ちながら生きていただけではないか。こんな風に死ぬ事が許される訳が無い。人には人の、礼節に乗っ取った生き死にと言うものがあるはずだ。
アーリッシュは未だ魔法を放ち続ける、見た目だけなら美しい少女の姿をした『あれ』を、そしてあんなものを作った者を激しく憎んだ。
もし今そいつを見つけたら、どんな言い訳をしようとバラバラに引き裂いてやるのに…
その時、先程崩れた建物の前に座り込む白い人影が見えた。まだ生きている…生きていた。
アーリッシュは思わず駆け出した。
誰でも良い、顔が見たい。話がしたい。人と触れ合う喜びを感じさせて欲しい。
「ちょっとあなた!大丈夫なの!?」
脚を止め安全を確認しながらアーリッシュがかけた声に、その白衣の男は驚いている様子だった。
だがアーリッシュは駆け寄ると有無を言わせず男の身体を撫で回した。
「良かった怪我は無いみたい。運が良かったのね」
暖かい体温に触れるだけで涙が出そうになる。
「…怪我が無いところでお願いがあるの。この子を…お願いできるかしら」
状況に付いて行けない様子の男は押しつけられた包みの中を確認するとさすがに驚いて声を上げた。
「こ…この子は…?」
アーリッシュは思わず微笑んだ。こうやって人の声を聞くのもすごく久し振りな感じがする。
「その子は…無慈悲な運命と必死に戦って、そして生き残ったの。何百人と死んだこの街に残された数少ない希望よ。今度は…あなたが守ってあげて」
男は小さな白い包みを抱きながらアーリッシュの目を茫然と見つめている。
「君は…」
「私?そうね…」
男の問い掛けにアーリッシュは立ち上がり夜空を見上げた。
「私はあれを止めるわ」
炎の照り返しを受けて浮かび上がったその小さな肩は、容赦無く迫り来る現実に対してあまりにも頼りなく、しかし決然とたたずむその背中がやけに力強く見え、地面にひざまずいた男の姿がひどく矮小に見えた。
◆
「止めるだと!?無茶だ!お前では叶わない!」
ジルギアにはこの女性が何故そんな事を言うのか理解できなかった。
だがこのまま行かせてはいけないと言う訳の分からない、焦燥感に似た強い気持ちだけがあった。
「馬鹿な…。何故お前がそんな事をしなければならないのだ…」
ジルギアの問い掛けに女性は少しだけ振り向いた。
「人間だから…かな?」
そう言って、驚く事に微笑んでいた。ジルギアが見た事のないそれは美しい微笑みだった。
「馬鹿な…有り得ん」
「そうかな。誰だって好きになったものは守りたいと思うじゃない?」
ジルギアは愕然とした思いでその優しい瞳を見つめた。
「それに、勝算が無い訳じゃ無いのよ。こんな時あの人はいつも助けてくれたから…」
あの人?その言葉にジルギアは何故かひどく打ちのめされた様な気持ちになり、そんな自分に驚いていた。
「さあ、早く逃げなさい」
彼女は顔を前に向け直した。
ジルギアは諦めたようにうなだれ、もう一度彼女の黒髪を見上げた。
「君の…名前は…?」
「私?」
彼女は少しだけ振り向いて、目だけで微笑んだ。
「アーリッシュ・ミラナート」
その時、遠くから何かが炸裂する音が断続的に鳴り響いた。
直後、夜空に浮かぶ実験体の周囲に幾つもの赤い光の線が飛来し、夜空に『・』を打った様に静止した。
生物としても物体としても余りに不自然な動きにジルギアは戸惑った。その動きには見覚えがあった。
次の瞬間、点と点はそれぞれ赤い光の線分で繋がり夜空に複雑で美しいパターンの魔法陣を描き出した。
それを見たアーリッシュの顔が微笑みに変わる。
「…カイン」
「え?」
その口から出た思いがけない名前にジルギアは思わず声を上げた。
しかし彼女は前を向くと決然と空を見上げ、そして二度と振り返らなかった。
駆け出した彼女が手にした魔杖が美しい呪文の光を放ちながら円弧を描き、全てを浄化する様な輝きが魔杖に収縮していく。
手を伸ばしかけたジルギアの目の前を吹き付けて来た炎が遮り、彼女との間を絶望的に分かつ。
次の瞬間、夜空に描かれた魔法陣に赤く強い呪文の光が走り、その内側、実験体か囲まれている空間が真っ白な光を放ちながら灼熱し、破裂した。
この距離でも感じる熱量と衝撃が威力の凄まじさを物語っていた。
その中から脱力した実験体が弾き出された様に飛び出した。焼けた患者着から上がる煙が放物線を描く。
アーリッシュは立ち止まり、魔杖を夜空に一直線に構えた。
臨界に達した魔杖の結晶体から紫電が迸る。
そして全てに決着を付ける一撃が放たれるその瞬間。
実験体から放たれた握り拳程度の光の玉が、アーリッシュの身体を貫いた。
身体から力が抜け人形の様に手足を踊らせたアーリッシュがバランスを失って倒れる前に、地面に接触した魔法弾は凄まじい勢い熱量を放射しながら爆発的に膨脹し全てを焼き尽くした。
手で覆った視界の先でアーリッシュの身体が光の中に溶けていくのをジルギアは見た。
声を上げる間もなく襲った爆風に吹き飛ばされ、ジルギアは地面を無様に転がった。
激しく身体を打ち付けそれでも何とか包みは胸に抱いて守っていた。
ようやく止まり、赤ん坊の泣き声に意識を取り戻したジルギアが顔を上げた時、そこにはあまりにも何もなかった。
瓦礫も何かもが吹き飛ばされ不自然に広がった空間に、彼女の姿は無かった。
「…死んだのか…」
あの美しい瞳も、艶やかな黒髪も、暖かなあの声も、一瞬で、永遠に失われてしまった。
ジルギアは呆然と辺りを見回した。
そこには焼けていく街と、累々と横たわる死体が並んでいた。
「何だ…これは…」
その時、カツンっと何かがぶつかる音がした。
視線を戻すとさっき彼女と話をしていた辺りに冗談の様に無傷な彼女の魔杖が落ちていた。
ジルギアは無意識に胸の包みを強く抱いた。
死んだ。
その事実だけがジルギアの心を満たしていた。
赤ん坊の泣き声が響き渡っていた。
◆
「なんなのよこれ…」
ようやく丘の頂上から顔を覗かせたウィラは眼下に広がる光景に言葉を失った。
灼熱の風が頬を焼く。巻き上がった髪が溶ける程に熱い。
そこにはもう見慣れた街並は無かった。あるのは文字通り一面に広がる火の海だった。
首都アルストロメリアの、司法局を隔てた西側、街全体からすると四分の一程の範囲が燃えている。
たったの四分の一では無い。アインツ最大の人口を誇る首都アルストロメリアの、最も人口密度が高いアルストロメリア市街の、その四分の一だ。
数百人から千人の人が住んでいるはずの範囲が渦巻く炎を上げて瞬く間に焦土と化していく。黒煙が月明りさえも奪う様に夜空を覆い隠していく。
ウィラ達がシルフィーを見失ってからまだ一時間と経っていない。早すぎる。
「…装甲列車が墜ちたの?」
陽炎の様に揺れる架道橋の黒いシルエットが、司法局に近い位置で途中から分断されているのが見えた。
火災はその真下を中心に激しく燃え広がっている。
装甲列車はオーバーテクノロジーだ。『こちら』の世界の技術だけでは新しく製造する事が出来ない。
アインツは世界に十二機しかない装甲列車の一つを永遠に失ったのだ。
だがそんな事をウィラは知らないし、例え知っていたとしても現状においては何の意味も持たない事だった。
恐らく航空師は全滅した。ただ飛べるから航空師になれるのではない。元々数の少ない魔法使のさらに選りすぐりのエリートを集めたのが航空師なのだ。所詮数としては一握りにも満たない。
そしてアインツにとって虎の子、世界最強の火力を誇る装甲列車ですらシルフィーを仕留めることはできなかった。
もう王軍にシルフィーを止める術はない。
ウィラの膝が先程とは別の意味で震え始める。
楽観するのは簡単だ。いかにシルフィーが驚異的な破壊力を持っていたとしても所詮は多勢に無勢。補給も無しにいつまでも戦っていられるはずはない。いずれは行動不能になるだろう。
だがそれはいつだ。明日かも知れない。一か月後かも知れない。
その間に一体どれくらいの街が、どれくらいの人が焼かれるだろうか。
少なくとも首都アルストロメリアは間違いなく壊滅する。
そうなれば首都を丸ごと失ったアインツはもう国家機能を維持する事は出来ない。
そして始まるのは予防行動の名目で進行して来るであろう十二自治区との抗争か、動乱を期に国中に潜伏していると言われる工作員を動かし、ソレブリアが本格的に侵攻を開始するのか、はたまた単に敵対国に攻め落とされてしまうのか…。
いずれにしろ、ろくでもない事になるのは間違いない。
緊張の名の元にギリギリのバランスを保っていたこの国の、そのバランスが一つ狂えばもう崩壊を止める事は出来ない。そして待っているのは最悪のシナリオ。
シルフィーは殺さなければならない。今ここで。
だがどうやって?
最高レベルの魔法使でもシルフィーのフィールドを突破する事は出来なかった。それができる数少ない武器の一つは今やシルフィー自身の手の中にあり人々の命を奪う脅威となってしまった。
そしてもう一つそれが出来た武器の唯一の使い手の青年は、もうこの世にはいない。
まただ。自分には何も出来ない。目の前で助けを求めている人がいても無力に立ち尽くすだけしか出来ない。学園でも、今も。
結局全て押し付ける事になってしまった。
もう彼以外にシルフィーを止められる者はいない。
「ベルトラル君…」
最強の力を持つが為に、愛する人を殺さなければならない運命を背負ってしまった少年。
彼は今、どんな気持ちで戦っているのだろうか。
首都アルストロメリア上空のシルフィーは、彼女を狙って打ち上がる魔法弾をフィールドで弾き、時にガングリオンで時に髪や身体の結晶体から魔法弾を放つ。その度に首都アルストロメリアからは新しい火の手が上がり、そして地上からの攻撃の数は徐々に減っていく。
ウィラにはそれが街の人達の命に見えた。
もう残された時間は少ない。
今彼には人々の叫びが聞こえているのだろう。
それがどれだけ酷な事かも分かっている。それでもウィラは祈った。
あなたはこれ程までに人々の希望なのだと。
その時、立ちすくむウィラの背後から街を焼く炎の音に混じって草を踏みしだく微かな音が聞こえた気がした。
「ひっ!?」
ウィラが振り向くよりも早く、突然何者かの手が彼女の肩に置かれた。
驚く間もあらばこそ、ウィラの手の中に素早く何か金属の塊がねじ込まれる。重い。
「…そいつを持ってろ」
気配の主は有無を言わせぬ口調で言った。
風が漏れる様な弱々しいが、その声には聞き覚えがあった。
「あなたは…!?」
硬直するウィラの目の前で声の主が右手に握った拳銃が火を吹く。
「っ!!」
間近でのいきなりの発砲にウィラ思わず耳を押さえてひっくり返った。
銃口から迸る青白い光に、くすんだ銀髪を持つ男の横顔が照らし出される。
肘の少し先で切断された左腕の先の、僅かに残された結晶体に右手の拳銃を押し当てて呪文を送り込んだ男は躊躇無く引き金を引き続けた。
雷鳴にも似た銃声が身体の芯を震わせる。
弾を打ち尽くすと空になった弾倉を素早く廃棄し、座り込んだウィラの手から予備の弾倉をもぎ取ると口にくわえた拳銃に弾倉を叩き込み再び引き金を引いた。その動作は恐ろしい程に正確だった。まるで戦う為に生まれた機械の様に。
発射された弾丸は夜空に赤い呪文の光をいくつも引き残しながら数キロ離れたシルフィーに向かい一直線に飛んで行った。
一瞬早く反応したシルフィーは障壁状態のフィールドを展開する。
結晶体で成形された弾丸は結晶体その物が持つフィールドの力によってシルフィーのフィールドに弾かれる事なくその表面を突破し、突き刺さって停止した。
次々に打ち出される弾丸がいくつもフィールドに突き刺さり、シルフィーの周囲に無数の赤い『・』を打っていく。
その顔に一瞬憤怒に似た表情が浮かんだ。フィールドを解除して振り落とせば直接身体を狙われる事が分かっているシルフィーには、男の狙いが分かっていてもそれが出来ないのだ。
そしてトリガーとなる一撃が打ち込まれた瞬間、点と点の間を魔法文字で編まれた呪文の赤い光の帯が繋ぎ、夜空に複雑で美しい魔法陣が描き出された。
魔法陣は一気に光の照度を増すと真っ白な光を放ちながらシルフィーが囲まれている空間を焼き尽くし、この距離でも熱を感じる程の光を放ちながら爆発した。
大量の熱と光が夜空を焼き、爆音が轟いた。
一瞬後に残された火球の中から放り出されたシルフィーは病人服から煙を上げ、脱力したまま落下して行った。
その手からこぼれた魔法弾が一つ地面に触れて新たな爆煙を上げた。
唐突に訪れた静寂の中、馬鹿になったウィラの耳の奥で耳鳴りの甲高い音が聞こえる。
その時、力を失った男の手から拳銃がこぼれ落ちた。
「ちょっ…」
ウィラは慌てて自分の方に傾いて来た男の身体を受け止めた。
「ぅ!重ぃ…」
力の入らない膝がへなへなと折れていく。
「…失礼な…女だな…」
ようやく地面に膝を付いた男のその声にはやはり力が無い。
「冗談なんか聞きたくないんです!あなたレオンさんよね!?あの状況でどうやって…」
「…弾を受け止めた瞬間…結晶体を暴発させて威力を相殺した…」
「相殺したって…ガングリオンの弾体は秒速八キロメートルなんですよ!?有り得ない…」
ウィラは愕然とした。一体どちらが化け物なのか。
「完全に…相殺する事は…腕一本使って…少し…軌道をそらす事しか…出来なかったが…漏れたフィールドがうまく身体を…包んでくれたらしい…。生きていたのは…奇跡だな…悪足掻きはしてみるもんだ…」
「なんて無茶を」
「…あれだけ…でたらめな奴が相手だから…こっちも無茶苦茶な事をしないと…釣り合わないさ…」
「呆れた…」
ウィラは嘆息してから首都アルストロメリアの上空を見た。そこには過負荷に耐えられずに砕けた結晶体弾頭が、光を失いながらゆっくりと落下して行く。
「…やったの?」
レオンは大儀そうに首を振った
「いや…。あの野郎…爆発の瞬間に魔法で威力を相殺しやがった…じゃなきゃ…形が残っている訳が無い…化け物め…」
それより、とレオンはウィラの肩に手を置いた。
「…俺をあそこに連れて行ってくれ」
ウィラは耳を疑った。
「ダメです!そんな身体で行ってどうするって言うんですか!?」
「頼む!」
レオンは下を向いたまま吐き出す様に叫んだ。
ウィラの肩を握る手に力がこもる。
「ジルギア…あいつは一人だ…。誰かが…手を差し延べてやらないと…」
「…」
ウィラは気が付いた。その身体からは未だ止まらない血が流れ続けている。ここでこうしている一分一秒が、発する一言一言がレオンの命を削っていくのだと。
ウィラは一本だけ残されたレオンの腕を首の後ろに回し、脇を支えて立ち上がらせた。背中に触れた指の間から血が滲む。
「…分かりました。だけど一つだけ約束して下さい」
レオンが怪訝そうにウィラの顔を見る。
「絶対に死なないで」
一瞬驚いた様に目を見開いたレオンは、次の瞬間「ふん」と軽く鼻を鳴らす様に笑った。
「当たり前だ…家族が待ってる」
その言葉にウィラは少し頬を緩め、グッと脚に力を込めた。
「さあ、行きましょう。時間が無いわ」
体重のほとんどをウィラに預ける様にしながらレオンは足を踏み出した。首都アルストロメリアを睨むその瞳が先程上がった爆煙を捉えた。
「…急ごう…嫌な予感がする…」
ぽつりと呟いた言葉にウィラは思わずレオンの顔を覗き込んだ。その瞳は例えようの無い哀しみの光りを湛え、燃え落ちる首都アルストロメリアの炎の色を写していた。
◆
そしてベルは暗い夢の中にいる。周囲には何も無く、ただ暗闇だけが広がっている、そんな感覚がベルを覆っていた。
以前にも同じ様な状況に置かれていた事があっ。
そう。あれは最初の学園襲撃の後、レオンの家に引き取られてすぐの事。
シルフィーを殺してしまった心傷からベルは部屋に閉じこもっていた。
暗い部屋の中、居間へと続く扉だけが四角い輪郭を光らせている。
流れて来る料理の香り。談笑するレオンとジェニファーの声。
この時のベルにはそのどれもが扉一枚挟んだだけで遠い別世界の様に感じられた。
その時不意に足音と声が近付いて来た。いつもの様に遠慮がちに扉がノックされる。ゆっくりと開かれた扉の隙間からまばゆい光が差し込まれ、ベルの暗闇の世界が外側の世界と繋る。
ジェニファーは料理を片手に持ち、逆光を背負ったその細いシルエットがいつもベルには天使の様に神々しいものに見えていた。
しかし今扉を開いた影はジェニファー本人よりもさらに線が細く、その卵型の小さい頭の周りには腰まで届く透明な髪が光を反射してキラキラと輝いていた。
「シルフィー…」
ベルは不思議と驚かず彼女の名を呼んだ。
―随分苦戦してるみたいじゃない?―
逆光に隠れてその表情は読み取れないが、その口調は間違いなく彼女のものだった。
何となくその事に安心してベルは答えた。
「ああ。やっぱり君は最強だ。僕なんかは足下にも及ばない」
―ふふん。そりゃそうよ。これでも何年もずっと地味な訓練を続けて来たんだから―
シルフィーは得意げに笑った。
―生まれた街を守る為。大好きな人達を守る為。そして…あなたを守る為に―
ベルは瞳を伏せた。
「僕も君を守りたかった。大切な…大切な人だったのに」
シルフィーは芝居掛かった動作でさも呆れたと言わんばかりに腰に手を当てると溜め息を付いた。
―まったくもう。せっかく強くなったと思ったのに、相変わらずなのね。でもね、ベル。そう言うのは手加減をして言う事じゃ無いわよ―
「僕は手加減なんて…」
ベルの言葉を遮る様にシルフィーは言葉を重ねた。
―ううん、してるわ。私には分かる。確かにあなたの力は過ぎたものだったかも知れない。でもその力はあなたが守ろうとしていたもの…私を…守る為には絶対に必要なものだったはずよ―
「シルフィー…」
―でもあなたはその力と真正面から立ち向かおうとはしなかったわ。なぜ始めからコントロール出来ないと決め付けるの?―
言葉の一つ一つがベルの心に突き刺さる。
「でもシルフィー!現に僕は君を…!」
―大丈夫。今のあなたなら出来るわ。私が好きになった人なんだから―
ベルは返す言葉を失いただうつむいた。
「………」
シルフィーは、まったくしょうがないなぁと、諦めといとおしさが入り交じった様な声で呟いた。
―まぁいいわ。それよりベル、あなた今自分がどう言う状況に置かれてたか覚えてるかしら?いい加減起きた方がいいわよ。落ちて来るわ―
「落ちて来るって…何が?」
―"光"よ―
今度は聞き返す時間は無かった。
シルフィーが言い終わるか終わらないかの瞬間、激しい震動が暗闇の空間を襲った。
「なっ!?何だ!?」
それをきっかけに身体を包んでいた闇にが霧を晴らすように散っていき、その隙間から白い光が次々に差し込んで来た。
―彼女が目を覚ますわ…時間切れね―
闇が薄くなるに従って彼女の声もどんどん遠くなっていく。
「シルフィー!」
ベルはシルフィーに駆け寄ろうと思ったが、腰から下が泥に漬かった様に重くちっとも前に進まない。
―ベル、私は強いわ。手加減して勝てる程甘くない。死力を尽くしなさい。…私を助けるつもりなら―
さっきまで暗闇で見えなかったシルフィーの顔は代わりに辺りを満たした光に遮られてやっぱり良く見えない。
「シルフィー!」
ベルはもう一度叫んだ。
―ベル…幻でも良い…もう一度……あなたに会えて……嬉しかったわ―
その声はほとんど光に遮られて途切れ途切れにしか聞こえなかった。
「シルフィー!必ず…必ず君を助けるから!」
光はさらに強さを増した。ベルの視界全てを光が覆い、―うん…待ってる―と辛うじてシルフィーの声が耳に届いた様な気がして、そして…。
意識は失った時と同様唐突に回復した。
夢の続きの様な振動が身体に響いている。
辺りを満たす黒煙と炎。ここは紛れも無く現実の首都アルストロメリアだ。灼熱の地獄に戻って来たのだ。
身体を起こすと不意に激しいめまいが襲った。
「つっ…」
額を手で押さえ、ベルは夜空を見上げた。
黒煙が汚すその場所にシルフィーの姿は無い。
「…」
―幻でも良い。もう一度あなたに会えて嬉しかったわ―
押さえた手のひらに熱く粘った液体が触れた。手を汚す血液を見つめ握り締める。
「俺もだよ…シルフィー」
◆
意識を失っていたのはどれくらいだっただろうか。前後の記憶がはっきりしない。
額の血を見るに大して時間が経っていないはずだが。
ベルが倒れていた場所に人の頭より少し小さい程度の大きさの破片が転がっている。
その角張った塊にへばり付いた血糊を見ながら
「…そうだ」
ベルの意識が一気に覚醒してきた。
ジルギアに突き飛ばされた直後、ベルの視界いっぱいを倒れかかる建物が覆っていた。とっさに魔法を放ったが降り注ぐ瓦礫を避けきる事は不可能だった。
その場を離脱したベルは受け身も取れないまま地面に打ち付けられ、次の瞬間襲った鈍い衝撃に意識を刈り取られた。
傷をそっとなぞってみる。
額の中心から少し右にずれた前髪の生え際から右眉の外端の辺りまで、長さは大体四センチ程。深さは分からないが直撃した破片の大きさと重さから考えるに骨まで達している可能性が高い。
結晶体の骨故に地面にあらぬものをぶちまける事態は避けられたが衝撃までは防ぎようは無く、脳を貫いたダメージはどれ程のものだっただろうか。
ベルは袖を破り取ると額に強く巻き付けた。本来は縫合が必要な程に深く割れた額の出血が簡単に治まるはずは無く、袖は一瞬で滴る程に赤く染まったが何もしないよりはまだましだろう。
ベルは何とか立ち上がる。目の前には見上げる程の高さの瓦礫が積み重なっていた。
崩れ落ちた建物の成れの果て。これにそのまま押し潰されていたらひとたまりも無かった。
その向こう側がどうなっているのかはここからでは分からない。
「…ジルギア…まさか死んじゃいないだろうな…」
冗談じゃない。ジルギアには出る所に出てしかるべき裁きを受けてもらう。流れ弾で楽に死ぬなんて許さない。
ベルは何とか向こう側に抜けられそうな場所を見つけると瓦礫を迂回する事にした。
一歩踏み出すごとに激しい吐き気と世界が丸ごと回転する様なめまいが襲った。
割れた額からは血が溢れ、右目はほとんど視界を塞がれている。
腕や脚もあちこち肉が裂け、骨折をしていないと言うだけでその身体は傷だらけだった。
ようやく反対側に回り込める位置まで来た時、その先に座り込む白い影を見つけた。
ベルが予想していたよりも随分位置が下がっている。
足音を消す事は出来なかったが、ジルギアはこちらに興味を示す事も無くただ呆然と前方を見つめていた。
「ジルギア…何があった…」
ベルはジルギアの視線を追った。そこにはつい先程まで転がっていたはずの死体も瓦礫も何もかもが無い、不自然にだだっ広い空間が広がっていた。
その中心には焼けた地面があって、丸く凹んだそこからは一筋の煙が立ち上ぼっている。
ジルギアに視線を戻すと、その腕の中に白い小さな布の包みがある事に気が付いた。
「あんたその子は…」
そこまで言った時、ジルギアが不意に
「…君なら…」
と口を開いた。
「え?」
「君ならあれを止められるのか?」
その喋り方は先程とは別人の様に弱々しく、口の中でボソボソと呟くものに変わっていた。
「何を…」
「答えてくれ」
戸惑うベルを見ようともせずジルギアは問い掛けて来た。
その真意はまるで見えなかったが、その雰囲気に妙に気おされたベルは気が付くと
「ああ」
と答えていた。
「そうか…」
ジルギアは目を伏せ、少しの間何かを逡巡し、そして決然と顔を上げた。
「良いか良く聞け」
ベルの目を真正面から見つめるその瞳に、もう曇りは無かった。
◆
夢を見ていた気がする。だが夢の常としてはっきりとは思い出す事が出来ない。
『やられた』と言う理解だけが何か他人ごとの様に頭に浮かんでいた。上空数十メートルから投げ出された身体は力を失い、重力に逆らう事無く真っ直ぐに落ちて行く。
「あっ…」
焦点が定まらない。世界が目まぐるしく流れていくこの感じ。
身体と共に魂が抜け落ちていってしまう様なこの感じを覚えている。
ガングリオンで撃ち落とされた時…いや、もっと前。
燃えている学園。異形の男。身体を貫く魔法。自分を見下ろす光。
赤と黒に占められた視界の中に一つの蒼い光が映った。そう…あの時も月は蒼く輝いていた。
「っっあああぁぁぁぁ!」
地面に落下する瞬間、翼状に広げた髪で空気をはらみ減速したシルフィーは、しかし激しい痛みが頭を貫き、充分に減速出来ないまま地面に叩き付けられた。
記憶が。
シルフィーが知らない何者かの記憶が溢れて来る。
鳥。空。雲。生まれた家。遊んだ道。学園。並んで机に向かう子供達の横顔。学食のにおい。実技試験。汗だくで寝転んだ芝生。頬を撫でる風。中庭。抜け出して踊った夜。
月。
蒼い月。
「知らない!知らない知らない知らない!」
誰かの記憶のはずなのにひどく心に突き刺さる。それがもう二度と戻らない日々だと。
「違う…違う!私じゃない!私はお前とは違う!」
頭を壁に打ち付ける。塞がっていた傷が開き血が飛び散る。
痛い。
心が痛い。
自分の物ではない、自分の内にあるもう一つの心が痛いと叫んでいる。
誰だ!お前は誰だ!
振り払う様に動かした腕が、ガングリオンの砲身に触れた。
すがりつく様に掴んだそれに埋め込まれている金属の部品が目の前に現れ、正面からそれを覗き込む形になった。
鏡の様に磨きあげられたその表面に見覚えの無い少女の顔が映っている。乱れた長い透明の髪の間から悲しげにこちらを見つめ、その瞳からは止めども無く涙が…。
「包囲!」
その掛け声と同時に、シルフィーが落ちた事を確認し間を詰めていた王軍の部隊が次々と物陰から飛び出した。
シルフィーがいたのは多少広めの路地の真ん中辺り。瞬く間に展開した部隊がその路地の前後を塞ぐ様にを取り囲む。
「武器を捨てて投降しろ!抵抗すればこの場で焼き殺す!」
隊長とおぼしき男は油断なく魔杖を構えながら警告した。口調こそ冷静だったが、その顔には多くの部下と住人を失った酷苦がありありと浮かんでいた。
他の隊員の顔を見渡せば皆一様に同じ表情を浮かべてシルフィーを睨んでいる。
「くっ…」
心が痛い。自分のものであって自分ではない誰かの心が痛い。
私は誰だ?
私は何だ?
何の為に生まれた?
それは全てを破壊する為に。
―違うわ!―
金属部品に映った顔が叫んだ。
頭痛が増す。
「…ろ…」
ふわりと持ち上がった髪に呪文の光が流れ出す。
「…えろ…」
異変に気付いた隊長が何かを叫んでいるが耳には入って来ない。
取り囲んだ部隊員達が魔杖に呪文を送った瞬間、シルフィーの中で何かが弾けた。
「消ぃぃえろぉぉぉ!」
瞬間、輝きを取り戻した結晶体の髪が跳ね上がり、瞬時に絡み合ったその先端から火炎弾が、荷電粒子の光が、氷が、風が、シルフィーの持つあらゆる魔法が一気に噴出した。
間近で直撃を食らった隊員は控え目に言っても消滅した。
距離を取りながら指示の声を上げる隊長は次の瞬間身体のど真ん中にガングリオンの弾体の直撃を食らいバラバラに弾け飛んだ。
圧倒的な魔法力により正規の出力を無視して強引に起動されたガングリオンから秒速八キロメートル毎秒の威力を持つ弾体が速射砲のごとき勢いで発射され続け、制御を失ったシルフィーの心を写し取ったように暴れる銃身が、プラズマの白い光の火線をうねらせて地面に壁に無数の深い穴を穿っていった。壁を貫いた弾体は全く威力を落とさないまま、避難する人々や走り回る兵士達を襲った。若い女、老人、青年、魔法使、一切の分け隔て無く、彼らは一瞬でもの言わぬ肉片へと化し、世界に何も残さない全く無意味な死を遂げた。
「あああぁぁぁぁ!」
シルフィーは絶叫した。
細胞が壊れていくのが分かる。
破壊された心肺機能を結晶体の『心肺機能を補う』と言う魔法で強引に代謝させているに過ぎない身体が、限界を越えた魔法の発動で枯渇し始めた魔法力に引きずられてその構造を維持できなくなりつつあった。
このまま魔法を使い続ければ危険だ。しかし絶え間無い頭痛と荒れ狂う記憶がシルフィーを襲い、増長する破壊衝動が身体を支配している。
全てを破壊するまで。シルフィーの身体が崩壊するまで。
もう止まらない。
もうシルフィーを止められる者は居ない。
そう、ただ一人を除いて。
「!?」
シルフィーが振り仰ぐより早く、"そいつ"は全身に赤い呪文の光をまとい、半壊した建物の屋根から垂直に落下して来ていた。
打ち出され続けているシルフィーの魔法がその頬や手足を切り裂く。
「うおおぉぉ!!」
頭上に振りかざしていた魔杖が振り下ろされる瞬間、爆発的に加速した。先端に埋め込まれた結晶体がフィールドを突破し、とっさに身を引いたシルフィーの鼻先をかすめて地面に突き刺さり…いや、地面に突き刺さる瞬間再び魔法で加速された魔杖がその軌道を突然変えた。
『レ』の字を描いて跳ね上がった魔杖の先端がついにシルフィーの脇腹に直撃する。
「がはっ!」
肋骨が折れる嫌な音が身体の中に響いた。
それはこの戦いが始まって以来シルフィーが初めて受けた有効なダメージだった。
無差別に魔法を乱射していた髪が一気に統制を取り戻した。素早く絡み合った髪が魔杖を振り抜いて無防備になった"そいつ"目掛け氷の弾丸を打ち放つ。
しかし発射の瞬間を読んでいた様に、魔杖を振り抜いた姿勢のまま"そいつ"の身体は何の予備動作も無く見えない手に弾かれる様に真横に吹き飛んだ。弾丸が空を切り地面に穴を開ける。
慣性を右脚だけで殺した"そいつ"は魔杖を下段に構え直し、距離を稼ぐ為に髪を翼状に広げたシルフィーを再び猛然と追跡した。
"そいつ"が蹴った地面が弾ける。
シルフィーの身体が加速を得るよりも速く加速した身体がコマ落としの様に、三メートルの距離を一瞬でゼロにした。
肉薄した二人の視線が交差する。
赤く染まった額の包帯の下に光る一対の瞳。
迷う事無く。疑う事無く。ただ真っ直ぐにシルフィーの目を見つめている。
こいつだ。
こいつがいるから…
下段に構えた魔杖が跳ね上がりシルフィーの身体に直撃する寸前、今度はそれを読んでいたシルフィーが展開したフィールドが行く手を阻んだ。
一瞬だけ拮抗した魔杖は次の瞬間、その圧倒的なフィールドに耐え切れず叩き付けられた時とほとんど同じ速度で弾かれた。
シルフィーの手が一閃し、生み出された空気の刃が魔杖に引っ張られる形でがら空きになった"そいつ"の胴体を斜めに切り裂く。血飛沫が舞いシルフィーのフィールドの表面を汚す。
障壁にほとんどの力を使っていたので致命傷とは程遠い、だが与えた傷は決して浅くは無い。足止め程度にはなる。
だが"そいつ"は魔杖を素早く引き付けると、弾かれた反動を利用し右脚を支点に身体を回転させた。
無駄だ。
魔杖だろうが蹴り脚だろうが同じ事、いかに魔法で威力を底上げしているとは言え『物理的な攻撃』では圧倒的に破壊力が足りない。
"そいつ"の魔法では障壁に集中させたシルフィーのフィールドを突破する事は不可能だ。
シルフィーは僅かに残したフィールドの容量を使って手のひらに魔法を発動させた。
超強力な魔法である必要は無い。この蹴りを受け止めた瞬間に胴体に直接振動波を叩き込み内臓を破壊すれば勝負は着く。これで終わりだ。
だが回し蹴りにつないだ"そいつ"の脚に赤い呪文の光が流れ込んだ瞬間、シルフィーの身体を今までに経験した事の無い衝撃が襲った。
「!?」
シルフィーのフィールドに叩き付けられたはずの"そいつ"の左脚は、加速すると思われた次の瞬間には何故か元の位置より少し上に移動していて、そして蹴り脚を受け止めるはずだったフィールドが大きく引き裂けていた。
穿たれた穴から叩き込まれた魔杖がシルフィーの頭を殴打する。
「がっ!!」
"そいつ"は左脚を地面に着くとすかさず右脚を振り上げた。
慌ててフィールドを集中したシルフィーの目の前で"そいつ"の右脚が今度は少し下に爆発的に『移動』した。
その瞬間には再びシルフィーの身体を衝撃が襲い、同じ様にフィールドには大きな穴が穿たれていた。
違う。『移動』している訳ではない。
凄まじい速さで蹴り出した脚が、凄まじい速さで引き付けられているので端から見ると一瞬で脚の位置が変わった様にしか見えないのだ。
だがそれではこの威力は何だ。
少なくともさっきまではこんな力は持っていなかった。
何だこいつは!?
激しく混乱する頭の中で、再びあの声が聞こえた。
―ま、せいぜい頑張りなさい―
魔杖がシルフィーの左腕を打ち砕く。
―全力で向かって来るわよ―
声の主は少し誇らしげに言った。