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第七話

 長い、無機質な廊下を規則正しい靴音がコツコツとリズムを刻んでいる。

 人の姿は無い。両側のコンクリートの打ちっぱなしの壁にはこれまた無機質な扉がいくつも並んでいる。

 靴音は感情を押し殺す様に規則正しく、ただ歩みを進める。

 やがて廊下の突き当たりに、不釣り合いに高級感のある木製の扉が現れた。

 靴音が止まる。差し上げた手が逡巡した様に一旦止まり、次の瞬間意を決した様に扉を叩いた。中身が詰まった重い音がする。

「入りたまえ」

 扉の中から入室を促す声が聞えて来た。深く、よく通る声だ。

「失礼します」

 重い扉を押し開けて入った室内は応接間程の広さか。毛足の長い絨毯や調度品の数々はどれも高級な物に見えた。

 部屋の側面の壁には分厚い本がいくつも詰まった書棚。奥には日当たりの良い大きな窓。そしてその前には人を威圧する為に作られた様な巨大な机が一つ鎮座している。

 机の隣には士官の制服を着た男が一人、こちらを睨み付けて立っていて、そして机に着いている男は、こちらは打って変わって穏やかな表情で頬杖などを付きながらこちらを眺めていた。だが薄く開いたまぶたの奥の射抜く様な瞳は、隣の男など比較にならない程鋭いものだった。

 レイモンド・フェッツナー署長。

 紛れも無いこの部屋の主だった。

 踵を揃え背筋を伸ばし、手刀に似た形で固定した右手を額に当てる。

「アーリッシュ・ミラナート少尉です」

 直立不動で敬礼をするアーリッシュをフェッツナーは面白そうに眺めていた。




「有り得ん馬鹿馬鹿しい!」

 コニン副官は神経に触る甲高い声でまくし立てた。手にした書類の束を机に叩き付ける。この男の人を見下した様な態度がアーリッシュは嫌いだ。

「何故です?魔法使学園にあれだけの被害を出したんです。当然の処置と考えますが?」

「犯人が死んでいる以上これ以上の処置は必要ないと言ってるんだ!」

 話し合いは大体こんな感じで始まった直後から平行線を辿ったままだ。

 コニンが叩き付けたのはアーリッシュが提出した嘆願書だ。興奮したコニンがまくし立てる度に彼の手の下の書類がガサガサと抗議の声を上げる。

 ある程度は覚悟していたがここまで聞く耳を持たないとは思わなかった。と言うかここまでコニンとしか話をしていない。何とか辛抱していたアーリッシュだがそろそろ限界が近かった。

 大体何なんだこいつは。その書類を作るのにどれだけ時間がかかったと思ってるのだ。

「ですが犯人の死体は見つかっていないはずです。万一犯人が生きていたら…」

「現場に残された血の量は致死量を超えていたんだ!」

 コニンは力任せに両の拳を机に叩き付けた。骨折でもしたんじゃないかと思う鈍い音が響き、弾みで書類の束が宙に舞い上がり、バラバラになった書類がコニンとアーリッシュの間の空間をヒラヒラと舞った。

「…犯人は学園に保存されていた魔法使の遺体を盗んでいきました。もし背後に何か組織があるとして何らかの方法でその遺体を兵器に活用する術を持っているとしたら。三度目の襲撃は十分考えられると思いますが?」

 アーリッシュはもうコニンは相手にせずフェッツナーの方に視線を向けて言った。だがフェッツナーは最初から変わらずただこちらを眺めている。その表情には掴み所が無い。

 その視界をコニンの瓜に似た、間延びした顔が割り込んで遮った。

「死体を蘇らせる技術があるとでも言うのかね?馬鹿馬鹿しい。マンガの読み過ぎだミラナート少尉!そんな絵空事を聞かせる為にわざわざ尋ねて来たのかね!?私は忙しいのだ!これ以上無駄な話を続けると言うならそれなりの処置を取らねばならないぞ!」

 アーリッシュは顔をしかめた。立場を利用して高圧的に来るのがこの男が得意なパターンだ。大体コニンに話をするつもりなど始めから無い。

 頭に血が上っているコニンは気付いていないがアーリッシュは既に彼女が知るはずの無い情報をいくつか口に出していた。今のままでも十分危険なのだ。

 だが…このままではらちが開かない。

 アーリッシュは最後のカードを切る事にした。

 なおも何事かわめいているコニンの目を、アーリッシュはこの日始めて真っ正面から見た。コニンは怯んだ様に息を詰まらせ黙る。

「お言葉ですがコニン副官。ジルギア・アランドナウ博士の提唱した次世代魔法使構想。その技術を使用すればその件、不可能では無いと思いますが?」

 その瞬間、場の空気が変わった。黙って成り行きを眺めていたフェッツナーの頬がピクリと動いたのを見た。

 コニン顔からみるみる血の気が引いていく。

「き…貴様…何を言う」

 これは賭けだった。ジルギアの次世代魔法使構想は立案当初から極秘だった。半年前のジルギアの脱走事件後は完全にその記録を封印され、今やその存在を知っているのは軍の、いや国の上層部でもごく一部の人間だけだ。当然今回の事件との関連性など一警官であるアーリッシュが知っているはずが無い。

 これが呼び水となって状況が動けば良し。駄目なら情報をリークして世論を動かす。最悪十二自治区やソレブリアに情報を持ち込んででも司法局を動かす覚悟がアーリッシュにはあった。

 もちろんこんな情報を出してしまった以上、ただで済むとは思っていない。良くて懲戒免職。殺される事は無いと思いたいが…どちらにしてもアーリッシュが元の生活に戻る事は無いだろう。

 出世は出来なかったわね。アーリッシュは心中で自嘲気味に笑った。

 ジョーカーは双方にとって、間違なく致命的なカードだった。背中を冷たい汗が流れる。

「貴様…我々を脅迫するつもりか…」

「私の要求を飲んで下されば何も起きません。現在のアインツの内外交事情を鑑みれば…悪い取引だとは思いませんが?」

 コニンの青い顔が今度は見る見る赤くなり屈辱に顔が醜く歪む。

「しかし首都アルストロメリアの全員避難など…有り得ん。もし何も起きなかったら我々のメンツは丸潰れだ…それに一体いくら金がかかると…」

「国民の命がかかっている時にメンツや金なんて気にしている場合ですか!!」

 歯切れ悪く呟いていたコニンは、アーリッシュの一喝にぐっと息詰まり、黙った。

 コニンの勢いを止めた。アーリッシュが手応えを掴みかけたその時。

「少尉」

 これまで黙って場を見ていたフェッツナーがついに口を開いた。落ち着いているが深く重い声。コニンの安いメッキなどとは違う本物の威圧感に、アーリッシュは一瞬で場の主導権を持って行かれるのを感じた。

「聡い君の事だ。自分が言ってる事の意味を分からずに言ってる訳じゃあるまい。我々としてもその情報を漏らされるのは確かに困る。いたずらに市民の不安を煽りたくもない。それに君のような優秀に部下を失うのは惜しい。悪い事は言わん。考え直さないかね?」

 アーリッシュは沈黙を否定にして返した。フェッツナーは肩をすくめて軽く溜め息をついた。

「そうか…残念だよ少尉。君は確か郷にご家族を残していたね」

 その瞬間アーリッシュの頭から血の気が引いた。心臓が跳ね上がる。頭が真っ白になる。

「…家族は関係無いはずです」

 絞り出した声は自分でも驚く程小さく弱々しいものだった。

「もちろんそうだ。君がこのまま黙って引き下がれば何も起きない」

 アーリッシュの言葉を真似たフェッツナーの皮肉な切り返しに言葉が詰まる。

 このままじゃ駄目だ。何か言わねば。何か言い返さなければ。焦る程に思考が堂々巡りを繰り返し言葉が出てこない。耳元で鼓動が早鐘の様に激しく脈打っている。

 フェッツナーは組んだ両手の平の上に顎を預けた。

「分かってくれたようだね。私としても手荒な事はしたくないんだよ。君が機密情報をどうやって入手したのかは今回は不問にしよう。下がりたまえ」

「しかし…」

「下がれ少尉」

 短く切った言葉の裏にはこれ以上の反論を許さない絶対的な威圧と、脅迫の色が隠れていた。

「くっ…」

 アーリッシュはうつむき、歯を食いしばる。怒りを抑えるように身体が震え、今にも飛び掛かりそうに身もだえした。

 やがてに意を決したように顔を上げると、叫んだ。

「分かりました。失礼します!」

 額に叩き付けるように敬礼したアーリッシュはそのまま退室した。

 扉が締まる寸前に見たフェッツナーの笑みとコニンの勝ち誇ったような表情が目に焼き付いた。

 窓の無い廊下は薄暗く、いやアーリッシュの心境がただの廊下を余計に陰鬱に見せているのか。

 今頃扉の中ではコニンがせせら笑っているのだろう。

 その考えに至った瞬間怒りと屈辱が身を貫いた。色が変わる程に強く握り締めていた拳を、アーリッシュは自分でも分からない叫びを上げながらコンクリートの壁に叩き付けた。

 噛み締めた唇から血が滲む。 

 負けた。

 情けなくて悔しくて、溢れた涙が頬を伝った。

「レオン…ごめんなさい…」




―Crystalline-Cell "SAGA"―

【いつか観た蒼月】



■第七話


『蒼い月の下』




     ◆




 月が。

 深い闇に半分スッパリ切り取られた夜空に青く鈍く光っている。

 学園の中に人の気配は無く、ただ瓦礫の山があちこちに連なっているだけ。

 内側から照り返す光も無いから、敵の侵入に何の効果も発揮しなかった外壁は、その威容をもってひたすら深い闇を作り出していた。

 月明りを拒む様に。

 しかし闇の境界線を越えれば、そこには無数の光が輝く幻想的な星空が広がっている。

 明かりが無ければ夜空はこんなにも美しい。闇が光を際立たせるのだとベルはこの時初めて気がついた。

 それでもあの月は悲しい色に見えた。

 青。深い蒼。落ちそうな程に。

 こんな月の夜は彼女の髪は青く美しく輝いて、それを彼女は自慢にしていた。夜は外出禁止なのにこっそり二人で寮を抜け出してはこの中庭で遊んでいた。

 彼女はいつも楽しそうに踊っていて、その自慢の髪は宙に広がって、彼女が舞う度にキラキラと月明りを反射して青く鈍く。その厳かとも言える姿にベルは目を奪われた。

 それを伝えると彼女は白い肌を真っ赤に染めて、少し怒った様な照れている様な…それでも嬉しそうに微笑んでいた。

 シルフィー。 

 警察署から飛び出したベルは屋根を伝って首都アルストロメリア中を駆け回った。しかし行く宛などは無く、気が付いたら日はすっかり落ちていて、そして魔法使学園に辿り着いていた。

 三日振りに訪れた学園に人の姿は無かった。

 二度の襲撃で人死にが出過ぎた。学園は緊急措置として取りあえず生き残った学生を全員一時疎開させた。廃校の可能性もあると言う。

 ぐるりと見回せば空を塞ぐ様に立ち並んでいた校舎はことごとく焼け落ちていた。

 痛い程の静寂。

 かつて1000人からの魔法使を有し、アインツの国防力の象徴の一つと言われた姿はここには無い。

 吹き付けて来た風は生温い。瓦礫の下敷きになった人達は皆発見されたのだろうか。

 そう思うと風に異臭が混じっている様な気がして、ベルは少し涙が出てきた。

 その時、ふと何気なく振り向いたベルの視線の先に人影があった。

 人影はちょっと驚いた様に目を見開いた。

「驚いたな。足音はしなかったはずだが。なんで分かった?」

「レオン…。分からない。分からないけど、分かったんだ」

 レオンはそうか、と呟くと今度はちゃんと足音を立てて歩いて来た。ベルの隣に腰を下ろしたその横顔は少し疲れている様だった。芝生がカサリと音を立てる。

「随分探した」

「うん。ごめん」

 言葉は短かったが、それだけにいかにレオンが心配していたかを感じさせて申し訳ない気持ちになる。

 ベルの力ない声を聞いたレオンは、まあいいと軽く笑った。

「さっきのはお前のフィールドが俺のフィールドと接触したから分かったんだよ」

 ベルは目線だけレオンの方に向けた。

「気配って事?」

「気配ってより感覚…かな。気配よりもっと深い」

 分かんないや。レオンの独特の言い回しで煙に巻かれた様に思い、ベルは体育座りの自分の膝に顎を沈めた。

 レオンはベルの頭に手の平を乗せた。今はそれで良い。

「俺でもその感覚を覚えるのに二年はかかった。お前は天才かも知れないな」

 ベルは悲しげに笑って目を伏せてしまった。

「ホントの天才ならあの時シルフィーを守れたはずなのに…。今更こんな力あったって意味無いよ」

「……」

 それきりレオンは黙ってしまった。気まずい沈黙が続いた。ベルにはすごく長い時間に感じたが、実際は一分か数秒だったのかも知れない。

「…昔話をしよう」

 不意にレオンは口を開いた。

「俺の母親は、俺がまだ物心付く前に内乱に巻き込まれて死んだ。女手一つで俺と兄弟二人を育てていた…らしい。俺はもうほとんど覚えていないが。覚えているのは生まれ育った村が焼け落ちる匂いと、真っ黒に煤けた地面の周りに散らばる兄弟達の身体。…そして下半身を丸ごと吹っ飛ばされた母親の姿だ」

 ベルは思わず息を飲んでレオンの横顔を見つめた。

「俺は止まらない血を流し続ける母親の身体にすがって、ただ謝った。俺は家族を守りたかった。何に変えても守りたかったんだよ…。母親はそんな状態でも生きていて、驚く事に笑っていた。今まで見た事が無い…嬉しくて仕方ないと言う顔だった。幼かった俺にはその笑顔の意味が分からなかった。俺は自分の弱さを呪った。今家族を守れないならこんな力はいらない、そう叫んだ」

 レオンは言葉を切ると遠くを見つめていた瞳をベルに向けた。

「その時母親が最期に何て言葉をかけてくれたか分かるか?」

 突然の問いに戸惑ったが分からないのでベルは素直に首を振った。レオンは少し微笑んで話を続けた。

「生きていて良かった…だよ」

「…それだけ?」

「ああ」

 ベルは驚いた。言葉の短さもそうだが、何よりその言葉に失望している自分に気付いて驚いていた。

 今の自分の心を晴らしてくれる魔法の言葉でもかけられたのかと思っていたのか…。

 レオンはその様子に気付いている様だった。

「それから十年以上経って俺は軍警察に入った。戦う意味なんて分からなかったが、力が欲しかった。そしてレイシアの研究所である四人姉妹に出会った。彼女達は恐ろしい実験の被験者達だった。実験の為に生まれて実験の為に死ぬ、可哀相な子達だった。俺は最終実験の前に彼女達を助け出す約束をしていた。だが予定より早く実験は始まっちまった。そして…実験は失敗した」

「しっぱい?」

 レオンは無言で頷いた。

「暴走した彼女達の魔法学フィールドはついに“扉”を開いてしまった。俺は世界か、姉妹達かを選ばなきゃならなかった…。だが彼女達は身を裂かれる様なフィールドの嵐の中必死でコントロールを取り戻し、何とか末の妹だけ引きずり出す事ができた。俺に妹を託した時の、彼女達の表情が、あの日の母親の顔とタブって見えた。その時俺は母親が何で笑っていたのかが突然分かった。あれは満足の顔だったんだ。俺が家族を守りたかったみたいに、母親も俺を守りたかったんだよ。俺は守れなかったが…母親は家族を守る事ができた。それが嬉しかったんだと思う」

 ―生きていて良かった―

 その言葉の重みがベルにはようやく分かった。

 シルフィーはどうだったのだろうか。

 命を賭して自分を助けて、悔いは無かったのだろうか。

 あの時の彼女の顔は…

「…レオン。生きてる意味って何だろう」

 レオンは、難しい事を聞くんだなと苦笑した。

「俺にはお前が何の為に生きるのかは分からない。それは自分で見つけろ。だから…それまでは生きろ」

 ちょっと突き放す様な言葉に今度はベルが苦笑した。

 優しいんだか冷たいんだか分からない。

 前にも同じ様な言葉をかけてくれた人がいた。

 優しい瞳に心配そうな色をたたえながら。

 暖かい気持ちに包まれる。

 シルフィー。どうやら僕は居場所を見つけたみたいだ。

 ベルは何かを言おうと口を開きかけ…

「!?」

 その表情が突然凍り付いた。月の方。まだ遠いが…何かが来る。

 気配とも違う、“それ”は唐突にベルの感覚に現れた。これがフィールドが接触した“感覚”か。

「レオン…」

「ああ」

 レオンも立ち上がり先程とは別人の様に険しい表情で月を睨んでいる。

 始めて自覚した感覚なのにベルはそれが何なのか分かった。

 自分では気付かなかっただけで、ずっと昔からそれを感じていたのだとベルは唐突に理解した。

 見る聞くを越えて“感じる”

 “それ”が目指しているのは間違ない、ここだ。

 月とコントラストを成す様な紅い小さな点がぽつんと光っている。

「レオン。ごめんね、こんな事に巻き込んじゃって。もし二度と聞けなかったら嫌だから聞いておくんだけどさ、“扉”って…」

「やめろ」

 レオンの鋭い声に身体が凍り付く。

「本当に言いたい言葉は取っておくんだ。生き残った時の為に」

 紅い光点は見る間に大きくなっていき、それに連れてフィールドに感じる気配も強くなっていく。

 レオンは手袋を外し、拳銃を左手に持ち替えた。肘の少し上までに及ぶ結晶体が月明りを受けて夜に、凶悪に映える。

「ベル。俺は母親も姉妹達も守る事が出来なかった。だから俺は母親から貰った命で姉妹から託された大切な人を守る為にこの力を使うと決めた。弱くても良い、力は使う為にある。お前は何の為に戦うのか…いつか俺に聞かせてくれ」

 これがフィールドの接触した感覚だと言うなら“それ”は桁外れな魔法の力を持っている事になる。

 レオンは振り向かず口元だけで微笑むと掌中の拳銃に右手を添えた。引かれたスライドが元に戻る重い金属音が響き、ソーコムピストルの薬室に初弾が装填された事を伝えた。

「…それに俺の戦いでもある」

「え?」 

 レオンがぼそりと漏らした呟きはその音にかき消されてベルには良く聞こえなかった。

「この戦いが終わったら…教えてやるよ。この世界の真実も、全部だ」

「…うん」

 それまで真っ直ぐこちらに向かっていた気配が不意に速度を落とした。

 レオンは凶器の様な殺気を身にまとい、ベルが息を飲み注視する先で、星空と闇の境から“それ”はゆっくりと現れた。

 白く細い手足には無数の結晶体が埋め込まれ、月明りに照らし出されたしなやかな肢体が病人用の薄い貫頭衣から透けている。

 整った鼻陵の上の理知的に広がった額には菱形の小さな結晶体が三つ、何かのアクセサリーの様に輝いている。

 空中に広がり、紅い呪文の光りの脈動に合わせてたゆたう透明な髪も彼女のものに違いないが、切れ長の瞳も、柔らかい唇からも一切の感情が欠落していた。

 物を見る目。だがベルは場違いにもその姿を美しいと思ってしまった。

 全身に配された結晶体も、その間を時折脈動する紅い呪文の光も、彼女の美しさを引きたてこそすれ損なうものでは無かった。

 生前のものとは違う、寒気のする様な美しさを彼女は放っていた。

 ―闇が光を際立たせる―

「シルフィー…」

 ベルは悲しげに彼女の名を呼んだ。




 悲しい。

 何かに引き寄せられる様に辿り着いたこの場所で、その少年を見た瞬間その感情が湧き上がって来た。

 悲しい。

 この場所が瓦礫に覆われているのが、何故だかとても悲しい。

 悲しげに自分を見上げる少年の瞳が、肩に手を置いて何事か囁く青年を見る少年の信頼しきった瞳が悲しい。

「シルフィー…」

 そう呟く少年の声がひどく心を揺さぶる。不快だ。落ち着かない。

 だから…殺す。

 彼女は身の内にある唯一の行動指針である破壊衝動に従い、全身の結晶体に呪文を送った。

 流れた呪文がまばゆいばかりに紅く、その姿を闇から浮かび上がらせる。

 長い髪が天使の翼の様に広がっていく。頭頂部から先端に向けて、それまで脈動する様に断続的だった呪文が光の奔流に変わり、もはや真紅に染まった髪から魔法文字で編まれた呪文が物語を紡ぐ様に、現実を捩じ曲げていく。

 呪文が流れ込んだ大気が陽炎の様に激しく揺らぐ。

 その揺らぎが臨界まで達した瞬間、その華奢な体を弾き飛ばす様に激しい爆発が彼女の周囲で起こった。その衝撃波に後押しされた彼女の身体が猛烈に加速した。

 紅い呪文の光が、その身体の周りを妖精の様に舞う。

「殺す!!」

 唖然とした顔で空を見上げる少年に向かって彼女は猛然と落下して行った。

 地面が抉れ、土煙が吹き上がり、衝撃が瓦礫を吹き飛ばす。

 蒼い月の下。

 死の天使は舞い降りた。

 そして学園三度目の戦いが始まった。




 その荘厳とも言える姿に目を奪われたのも一瞬、電撃的に動いたレオンの蹴りが問答無用でベルの横腹を蹴り飛ばした。

 予期していない方向からの攻撃に声も出せなかった。ダメージ以上の衝撃が身体を突き抜ける。

「!!」

 痛みで我に返ったベルは蹴り飛ばされた勢いのまま地面を蹴った。

 次の瞬間、濃い輝きを放っていたシルフィーの身体が突如加速した。魔法学フィールドに呪文の光を従えながら砲弾の勢いで突っ込んで来るとそのまま地面に突き刺さった。

 それは“落下”と呼ぶにふさわしい何の工夫も無い突貫だった。爆音と衝撃が身体の芯に響く。土煙が吹き上がり、一瞬前までベルが立っていた地面が抉れ、弾け飛んだ砂粒が身体に降り注ぎチクチクと刺さる。

 身をよじってその光景を見たベルは戦慄した。冷たい汗が背中を伝う。

「呆気に取られてるんじゃない!来るぞ!」

 既に体勢を立て直していたレオンは素早く距離を取りながら叫んだ。むき出しの結晶体の左腕に流れた呪文の光が握った拳銃に流れ込んでいく。

 ベルは二歩目が地面に着く前に魔法を発動させた。皮下に淡い呪文の光が流れ、その身体が横から弾かれた様に加速した。不自然な体勢からの急激な加速に頭がクラクラする。

 その場を離脱したベルの目の前で土煙のカーテンが左右に切り裂かれた。飛び出した不可視の力が地面に深い傷を刻みながらベルの身体を掠める。上腕の皮膚がパックリ裂け血が噴き出す。

 風!?

 鈍った頭でそこまで考えた時、切り裂かれた土煙のその間隙をシルフィーが突き破った。

 速い。

 安定翼の様に水平に髪を広げたシルフィーは、文字通り飛ぶ様に走る。

 瞬きをする程の時間で距離を詰めたシルフィーの四方に散った後ろ髪の先端には既に真っ赤に燃える火球が生み出されていた。

「っ!!」

 横様に飛び退いたベルの数十センチ横を火球が通過した。

 地面に触れて急激に膨張するのを、覚醒したベルの魔法学フィールドは確かに捉えていた。

 頬を灼熱が焼いた。爆風に脚を取られ大きくバランスを崩した身体が軽々と宙を舞い、そのまま地面を転がる。

 背筋が凍り付いた。立ち上がっている余裕が無い。やられる。

 四肢を着いたベルは回転の勢いを殺さず、全身をバネにして無我夢中で地面を突き放した。

 手足が地面から離れる瞬間打ち放った空間圧縮の衝撃波がベルの身体を弾き飛ばし、その鼻先に光をまとった結晶体の髪が突き立った。先程まで翼だった髪が今は剣に変わっている。地面が一瞬で蒸発する。

 避けられたのはほとんど奇跡だった。

 だが魔法発動までの時間が短か過ぎて充分な威力を発揮出来ない。距離が足りない。

 僅か二メートルを移動した程度の距離はシルフィーにとってはゼロと同じだった。

 地面に突き立てた方とは逆の翼が素早くほどけると再び寄り集まった髪の束が全く別の呪文の組み合わせを生み出した。

 地面に髪を突き立てた低い姿勢のまま、その髪に身体を引き寄せたシルフィーの左側頭部から伸びた荷電粒子の光が、まだ姿勢を直し切れていないベルの右肩から左脇腹に抜けるコースを正確に辿った。

 物質が衝突したのとは違う、空気が連続して爆ぜる様な音が響く。

 荷電粒子剣はベルの身体の数十センチ手前で動きを止めていた。

 魔法学フィールド。荷電粒子剣に触れた境界面が激しく明滅している。

 動きを止めた剣は、しかし白く輝くその刀身よりも強く発光する赤い光を内側から滲ませた瞬間爆発的に輝きを増した。空間をも圧縮させるベルのフィールドをじりじりと引き裂いていく。

「な…なんだこりゃあ…!」

 ベルは我知らず呻いた。シルフィーは魔杖の補助無しに複数の魔法を行使できる強力な魔法使だ。だが魔法力を分割して使っているに過ぎない彼女の魔法は、一つ一つの威力は一般の魔法使のそれよりも劣らざるを得ない。

 だから対魔法使戦闘の時はまず接近して相手のフィールドを引き剥がしてから攻撃を加えるのは、確かに彼女の常套手段だ。

 それはいい。

 引き千切れたフィールドは輝きを失いながら空中に四散していく。

 圧力すら感じさせる光がベルの視界を埋め尽くしていく。頭の芯がじわりと灼熱する。

 最初に放たれた火球もこの荷電粒子剣にしても、本来の彼女の能力では複数の魔法を行使している限りベルのフィールドを突破する事は有り得ない。

 そう、今のシルフィーの魔法は強力過ぎるのだ。

 ついに荷電粒子剣の先端がフィールドを突破した。硬い熱気がベルの顔に降り注ぐ。

 無意識に震えた唇から絶叫がほとばしる寸前、シルフィーは突然弾かれた様にその場を飛び退いた。

「退いた!?なんで!?」

 ベルの眼前を一条の赤い光が横切った。次いで雷鳴に似た銃声が三発。

 移動するシルフィーの未来位置を正確に予測し放たれた赤い光の線は、呆気なくそのフィールドを突破して彼女の身体に吸い込まれて行く。

 この時初めてシルフィーに表情らしい表情が浮かんだ。目を見開いたシルフィーは迫る弾丸を一瞬の判断で髪で叩き落とすと、後方に流れた身体が不自然な機動を見せた。

 ベルの魔法の動きに似ているがもっと短距離を小刻みに移動する動き。空間圧縮では無い。空気が弾ける音が連続で響く。恐らく圧縮空気の復元力を加速装置に使っているのだ。

 シルフィーは追いすがる弾丸を紙一重で避け続けながら、右腕を下段から上段へ素早く振り抜いた。同時に腕が抜けた空間が破裂し、飛び出した空気の刃が地面を深く刻みながら一直線にレオンに向かって行く。

 レオンは最低限の動作で刃を避けると銃を構え直し、眼前に接近していた次弾に今度こそ地面に身を投げ出した。

 先程の刃より異常に速度が速い。耳元を“しゅばば”と空気を巻き込む様な音が過ぎる。逃げ遅れた上着の裾に一センチ大の穴が開く。

 弾丸!?

 しかし地面を抉ったそこには弾丸その物は無い。

 シルフィーはそれだけなら指でピストル遊びをしている様な、人差し指と中指と親指を同じ方向に伸ばし薬指と小指だけは丸めた形で固定した手をレオンに向けていた。

 使っているのは変わらない。空気だ。だが先程は真空波を生み出す為に使った圧縮空気を、今度は回転を与えて圧縮空気その物を打ち出しているのだ。

 折しも不可視の弾丸が次々と指の間から放たれ、火薬の炸裂音の代わりに空気を巻き込む“しゅばば”と言う音が連続して耳を突く。

 ベルは歯がみした。空気だけでこれだけ戦えるなんて。

 所詮数週間前に能力が開花したベルと何年も学年トップを維持し続けて来たシルフィーとでは経験値が圧倒的に違う。

 彼女の強さは能力に頼ったものでは無かった。 一つの魔法の能力を、その可能性の範囲内で最大限に引き出す。

 精緻に計算された戦術と、それを可能にする変幻自在の魔法こそが彼女の強さの本質だった。

 この時ベルは初めてシルフィーに対する認識の誤りに気が付いた。

「くっ」

 ベルは奥歯を噛み締め全身の結晶体に呪文を送った。

 ベルの意志に従いその頬を、手足を魔法文字で編まれた呪文の赤い光が流れて行く。

 今の戦いで分かった事がもう一つある。

 シルフィーがどう言うつもりで接近戦を仕掛けているのかは分らないが、遠距離からでも有効な攻撃が放てる以上彼女がこのまま接近戦を続けている道理は無い。

 それに比べてこちらには遠距離攻撃が可能な魔法は無い。距離を離されたらもう打つ手が無い。

 シルフィーを飛び立たせちゃいけない。

 地上にいる今が最初で最後のチャンスなのだ。

 呪文の力で圧縮され、解き放たれた空間は、瞬時に復元され発生した衝撃波がベルの背中を強く後押しした。

 衝撃波が発生するまでの一瞬、胸にチクリと浮かんだ迷いはその衝撃波に吹き飛ばされ、次の瞬間にはベルの頭の中から消えていた。




 回転を与えられて速度と威力が増している事に気を付ければ、空気の弾丸を避けるのはそう難しい事ではなかった。

 フィールドに意識を集中し、の感覚圏で世界を“観る”。

 フィールドで感知した世界はシンプルだ。それはさながら0と1だけで世界を表した様な、“見る”や“聞く”を飛び越して直に知覚している様な不思議な感覚だった。

 レオンを中心にした半径数メートルの空間の情報が残らずレオンの感覚に取り込まれていく。

 感覚圏を最大に広げても、レオンの能力ではベルの三分の一の範囲も感知する事が出来ない。

 感覚圏も魔法も障壁も全て魔法学フィールドを媒介としたものだから、感覚圏を最大にしている今レオンは魔法を行使する事も障壁を張る事も出来ない。

 レオンの魔法は接近戦で最大の効果を発揮するものだし、そもそもレオンの能力では魔法でシルフィーのフィールドを突破出来ない。方法が無い事も無いのだが…。

 同じ理由で障壁で攻撃を弾く事も出来ない。

 感覚圏が広がっていくに従いレオンの頭の中に鮮明に映し出されていた世界の情報が不明瞭になっていく。

 感覚圏だけにフィールドを集中してるとは言え、限界はある。

 最大感知圏を越えた能力を引き出されたフィールドは、もはや感覚圏としての機能もほとんど保っていなかった。

 魔法使としては致命的なまでに能力を奪われた形だが、レオンにはそれで充分だった。

 シルフィーはピストル遊びの様に突き出した指をこちらに向けている。どうやら指の間からしか空気の弾丸を放てないらしいこの事実が、活路になる。

 シルフィーはレオンの拳銃の弾を避けて流れた不自然な体勢ながら、その細い指は動き続けるレオンの位置を正確に追っていた。

 その指が僅かにブレた様な気がした瞬間、にわかに空気を切り裂く“しゅばば”と言う音が響き始めた。

 一つ?いや、音が重なっているだけで二発以上。

 空気の弾丸はレオン自身の目ではその姿を捉えられない。

 だが拳銃の弾を避けるのと要領は同じだ。銃口の向きと空気を切り裂く音から、シルフィーの狙う位置を大体予測する。

 空気を切り裂く音は急速に音量を増しながら接近してくる。

 今その先端が、もうほとんど何も映っていないフィールドの端に達した。障壁としての機能を持っていないフィールドは何の抵抗も無く空気の弾丸を通してしまう。

 弾丸の威力は凄まじく、まばらに広がったレオンのフィールドを吹き飛ばしていく。

 ほとんど何も映っていないが、それでも僅かに世界を映し出していたフィールドの中に、何も映らない空白の線が生まれた。

 分厚いフィールドの感覚圏で弾丸の形を完全に映し出すのか、何も映らない部分を作るのかはこの際問題ではない。

 要は相手の攻撃を完璧に読み切れるかが問題なのだ。

 フィールドの中に針で突き刺した様にポッカリと空いた空白の線が三本。二つは僅かな間隔を開けて横並びに、もう一つは数十センチ下に。それぞれはシルフィーを支点に空中に鋭角な円錐を描きながら徐々にお互いの距離を離して行き、レオンの身体まで到達する頃には正確に急所を貫く位置になっている。

 機械的なまでに正確な射撃。だがレオンは今やシルフィーを攻撃のラインを完璧に捉えていた。

 フィールドの端からレオンの身体に到達するまでコンマ数秒。その間に僅かに後方に移動したレオンはそれまで弾丸の射線に対して直角に構えていた身体を、平行に構え直した。

 左足前。僅か一メートル下がっただけで弾丸の位置関係は狂う。両の頚動脈を切り裂くはずだった二発はレオンの首の両脇数センチの空間を掠め、内蔵を引き裂き腹大動脈を貫くはずだった一発は背中側の空間を通り、どれもがレオンの身体に傷一つ付ける事もかなわず後方に消えて行く。

 レオンはそのまま左腕に握った拳銃に呪文を送った。

 通常の魔法使にすれば多いと言える保有量を誇る結晶体も、シルフィーやベルに比べればいくらのものでもない。

 単純な力比べならレオンが彼らに勝つ事は出来ない。

 だが、戦場では戦力の差は関係ない。

 魔法文字で編まれた赤い呪文の光が拳銃に流れ込み、薬室の隙間から淡い光が染み出す。

 ―必要なのは勝機だ― 先程の弾丸以来攻撃が止んでいる。

 瞬間的に加速したベルが速攻しシルフィーの攻撃を防いでいた。

 繰り出した打撃がそのまま次の打撃の予備動作に繋がるベルの攻撃は、魔法で加速される事で隙の無い、そのどれもが必殺の一撃となる威力を持ってシルフィーに襲いかかる。

 だが一秒間に何度も繰り出されるその必殺の一撃が、当たらない。

 シルフィーのガードをかいくぐった打撃は必ず僅かにその身体から離れた空間を素通りしてしまうのだ。

 レオンは顔をしかめた。

「…まったく世話の焼ける…」

 片手に握っていた拳銃に右手を添え構え直す。

 シルフィーの攻撃力は絶大だ。接近戦で使うには無駄な程に。

 恐らく生前のシルフィーにはここまでの攻撃力は無かったのだろう。だから彼女の持っている戦術と実際の能力が噛み合わず、シルフィー自身戸惑い気味だった。

 だが元々応用力の高い娘だ、すぐに戦術を修正して来るに違いない。

 距離を離され遠距離攻撃に専念されたら勝ち目がない。

 その時攻撃を外したベルの体勢がついに崩れ、隙を突いたシルフィーの髪が翼の様に大きく広がった。

「そんな事はさせない!」

 結晶体の腕が一際強く輝き、レオンは引き金を引いた。

 障壁化したフィールドを突破するには先程のシルフィーの様により高威力のフィールドをぶつける必要がある。

 当然レオンのフィールドにはそこまでの能力はないが、例外がある。

 結晶体はとても強いフィールドの塊でもある。

 僅かな量の結晶体でも並以上のフィールドを突破する力があるのだ。

 そしてレオンの手の中にはその結晶体で成型された弾頭を持つ弾とそれを打ち出す機械がある。

 正眼に構えた銃口から赤い光をまとった弾丸が連続して打ち出された。重い手応えが身体を震わす。

 弾丸は光の軌跡を夜の闇に引き残しながら、今まさに飛翔しようとしていたシルフィーのフィールドをあっさり突破した。

 弾丸はそれぞれがフィールドを共有して繋がる事で魔法を生み出す事ができる。

 フィールドのバリアが無い魔法使はただの人間に過ぎない。

「!?」

 シルフィーは弾丸に気付き叩き落とそうと髪の毛の一部がほどけ蛇の様に鎌首をもたげたが、遅かった。

 共有したフィールドの間を呪文の光が流れ、空中に赤い幾何学紋様を描き出し次の瞬間、赤熱した空間が弾けた。

 これがあの日ジルギアから貰った武器、結晶体(クリスタラインセル)弾頭の力だった。

 数個の結晶体の共有だけで生み出した魔法ではシルフィーに致命傷を与える事は出来ないが、彼女を地面に叩き落とす事は出来る。

 そして彼女のすぐそばにはそれが出来る人間がいた。

 レオンの動きを読んだベルは一瞬早くその場を離脱し、空中に飛んでいた。

「やれ!ベル!」

 地面に倒れ伏したシルフィーの無防備な後頭部に向けベルの踵落としが唸りを上げる。

 その踵がシルフィーの頭を粉砕すると思われた瞬間、動きを取り戻したシルフィーの髪がベルの踵を受け止めた。

 互いに拮抗するフィールドが激しい光を上げて明滅する。だがその均衡も長くは続かなかった。

 鎌首をもたげた他の髪が呪文を流し、その先端から無数の光弾が速射砲のごとく打ち出された。

「うわっ!」

 フィールドを展開してガードしたベルを素早く立ち上がったシルフィーが蹴り飛ばした。

 通常の蹴りならベルのフィールドに威力を吸収されてしまうが、障壁状態のフィールドを脚にまとったシルフィーの蹴りはフィールド同士の干渉と反作用で思いがけず大きな力でベルの身体をフィールドごと押し出した。

 僅か数メートル。時間にしてほんの何秒か、その間ベルは完全に状況から離れてしまった。

 そしてシルフィーの狙いはベルではなかった。

 怒りの光をたたえた瞳が次弾を放とうと身構えていたレオンを睨んだ。

 緩かに持ち上げられた腕が指差す様にレオンに向けられる。

 また風の刃かと思ったが、違った。

 シルフィーの背後で一瞬チカリと赤い光が瞬いたと思った。

 瞬間、飛び出した赤い光は空中に軌跡を引き残し辛うじて身をかわしたレオンの頬を切り裂いた。

 空気で切り裂かれたのとは明らかに違う硬質的な痛み。

 その瞬間通常の範囲に戻していたフィールドの感覚圏、レオンの頭上に突然、何の前触れも無く無数の小さな物体が現れた。

 頭上を振り仰ぎ、その光の正体に気付いたレオンは思わず感嘆似た声を上げてしまった。

「そんな事が可能なのか…」

 視界一杯を埋め尽すのは先程レオンが打ち出していた結晶体弾丸だった。

 指先程の大きさの弾頭はここからでは夜空に広がる星と変わらず、それだけなら美しいと言える、しかし禍々しい光を瞬かせている。

 原理は今しがたベルを蹴り飛ばしたのと同じなのだろう。フィールドの境界面の干渉と反作用を利用して空中に弾頭を固定しているのだ。

 理屈では分かる。しかしレオンとシルフィーの距離は二十メートルでは利かない。そんな広範囲でしかも結晶体弾頭に呪文を送り込める程の有効範囲を持ったフィールドなど聞いた事が無い。

「化け物め」

 その呟きを合図にした様に頭上に静止していた結晶体弾頭が一斉に動作を開始した。

 圧縮空気の力に弾かれ、一瞬で最高速に達した弾頭の雨がレオンに降りかかった。

 レオンは左腕を頭上に掲げフィールドを集中した。

 耳を弾頭が行き過ぎる音が震わせ、土砂降りの地面に打ち付けられた雨粒に似た音と衝撃が地面から響いた。

 もはや射線を予測して避けるとかそう言うレベルを越えていた。致命傷を避けられただけでも奇跡的で、レオンの腕や太股は弾頭で容赦無く貫かれていた。

 しかし打ち出されたのは単なる弾頭ではない。

 結晶体弾頭。その目的は二つ。

 結晶体の持つフィールドの力で敵のフィールドを突破する事。

 そして、フィールドの共有を用いて遠隔で魔法を発動させる事。

 膝を着いたレオンの周囲の地面がにわかに光り始めた。

 穿たれた穴と穴を繋ぐ様に赤い呪文の光が流れ、その身体の周りに魔方陣を描いた。

 徐々に強さを増す光にが顔を照らし出す。

「…ちくしょう…」

 光は臨界に達し、レオンの視界を白く染めた。



 凄まじい爆音と衝撃を伴って、火柱が十数メートルの高さまで噴き上がった。地面が激震する。

 火柱は頂点まで達すると先端の形をバラバラと崩し、周囲に溶けた岩の色の雨を降らせた。

 噴き上がっているのは熔岩だ。

 地面が破裂したのだ。

 熔岩は未だどうどうと噴き出しているが背丈はみるみる下がっていく。

 だが爆心にいたはずのレオンの姿が無い。

「レオン!?」

 ベルは凍り付いた。パニックに陥りそうな頭を必死に抑える。

 落ち着け、落ち着け、レオンが死ぬ訳ない。

 改めて辺りを見回すと爆心地から数メートル離れた所に人影があった。

 レオンだ。しかしレオンは倒れ伏してピクとも動かない。

 だがあれだけの爆発で人間の形を止どめていると言う事はレオンは何かしらの対策を講じたのだろう。

 大火傷を負って絶命している可能性とかは取りあえず考えない事にした。

 レオンが脱落した以上ここからはベル一人でやらなくてはならない。

 レオンの妨害が無くなればもはやシルフィーの飛翔を妨げるものは何も無い。

 シルフィーは長い髪を翼の様に大きく広げた。

 髪に呪文が流れ、赤い光が脈動するのに呼応してゆらゆらと揺れる。

 光は髪の先端まで到達するとそのまま空間に溶け、空間は陽炎の様に揺らいでいる。

 蒼い月と表裏を成す様にその姿が赤く…紅く染まる。

 紅の戦乙女の二つ名に相応しく、それは破滅的なまでに美しい姿だった。

 一気に高度を上げるシルフィーをベルは追った。

 ベル自身も赤い呪文の光を全身からほとばしらせながら、脚から連続で打ち出した空間圧縮の衝撃波に後押しされ常軌を逸した速度で追う。地面が抉れて土がベルの足跡を追って次々に跳ね上がる。

 しかし相手は空へ。こちらは地面を這うしかない。 

 距離は縮んでいるはずなのに相対距離はむしろ開いていく。

 その時、上空のシルフィーから一つの火球が投げ落とされた。火球はベルの未来位置、即ち進行方向の少し先目掛けて落とされていた。

 ベルは歯がみした。シルフィーの狙いは恐ろしく正確だ。このままでは間違なく火球に頭から突っ込む。だが止まるにしても迂回するにしても速度が出過ぎている。

 なら選択肢は一つだ。

 ベルはフィールドの全能力を魔法発動に集中した。身体を覆っていたフィールドの障壁が消える。

 障壁が無くなれば火球から身を守る術はもう無い。万一失敗すれば一瞬で蒸発してしまう。

 だが身を守ったところでシルフィーの次の魔法に焼かれるだけだ。

 今これを乗り切る以外に道はない。

 ―レオン、覚悟を!―

 身体を巡る呪文の光が強さを増す。

 直後、ほとんど大爆発と言って良い威力で空間が破裂し、ベルの小柄な身体がそれまでの倍する速度で加速した。

 それまで脚からのみ打ち出していた衝撃波を背中全体から打ち出したのだ。

 ほとんど地面に腹を擦る程低い姿勢で、ベルは一直線に火球に突進した。

 シルフィーの読みより僅かに早く火球に到達したベルは、低い姿勢のまま火球と地面との僅かな隙間に頭から突っ込む。

 凄まじい熱が全身を炙ったのも一瞬、火球と地面が触れるコンマの差で突破したベルは身を反転させると障壁状態のフィールドを再び展開した。

 地面に触れ爆発的に膨張した火球の衝撃波が、一瞬早くフィールドを展開したベルの身体を舐める。

 激しい爆圧に足を取られ、転倒したベルの目にシルフィーの姿が映った。真上にいる。

 激しく地面に背中を打ち付け、結晶体の骨格でなければバラバラになってしまう程の衝撃が身を貫くが、構ってなどいられなかった。

「うあぁぁぁ!跳べぇぇぇ!!」

 祈りにも似た叫びに、限界の力を出していた結晶体は答えた。

 呪文が巡る。背中と地面に挟まれた僅かな空間が圧縮される。

 垂直に衝撃波を食らった背骨が軋む。

 それはベルを空中に打ち出すのに十分な威力を持っていた。

 容赦無く身体を押し潰そうとする信じられない程のGにベルは耐えた。

 一瞬の浮遊感。いつの間にかきつく瞑っていたまぶたを開くと息が触れそうな距離にシルフィーの顔があった。

 蒼い月明りを背負った紅いその姿はまるで飛ぶ為に生まれた様に優雅で美しく、それに比べればあまりに無様な格好で宙に投げ出されたベルは上下の感覚も定かで無いまま、二人はほんの一瞬だけ目線を交わした。

 ベルは心臓が跳ね上がるのを感じ、シルフィーの光の無い瞳には何の感動も映っていない。

 刹那、結晶体の埋め込まれた手の平がこちらに突き出された。

 全身の結晶体が輝き手の平に魔法が生み出される…それよりも早くベルの脚が振り上げられていた。

 この距離なら、今のベルは絶対に攻撃を外さない。

 空間が破裂する音を響かせながら蹴り足が爆発的に加速して、蹴りの軌道を遮る様に動いた髪が弾かれる。

 脚は確かな柔らかさを持つ胸の膨らみに吸い込まれていく。シルフィーの肌の甘い香りが鼻孔をくすぐり、思わず彼女の顔を見たベルは…

「…えっ?」

 目と口をぽかんと開けてしまった。

 ―な…何で…!?―

 一秒の何十分の一の動揺が、戦場では決定的な隙になる。

 必殺の蹴り脚が宙を切った。

 しまった。その瞬間我に返ったベルは、しかし全てが手遅れだった。

 元々無理な機動をしていたベルの身体が今度こそバランスを崩した。蹴りの勢いに引っ張られて空中で身体が回転する。

 シルフィーの手の平から光の奔流が放たれ、とっさにフィールドを展開したベルの身体を吹き飛ばした。

 重力も手伝ってベルの身体は取り返しのつかない勢いで落下していく。

 シルフィーの姿が遠ざかる。

 何で…シルフィー…。

 もう一度浮かんだ疑問は、屋根を突き破り建物の床に墜落した瞬間、意識と一緒に消し飛んでしまった。




     ◆

 レオンが力尽き、ベルが墜ちた。その行方を見つめ、放心した様に宙に止まっているシルフィーを、少し離れた校舎の崩れて下半分だけ残った窓枠から彼女は狙っていた。

「ベルトラル君…」

 緩かにウェーブした金髪が微かに揺れる。

 彼女は唇を噛み締め、腕に抱えた金属塊の表面を撫でた。

 スベスベとした質感の中に時折混じるザラついた感触は、こびりついて固まった血痕だ。その感触が彼女に力を与える。

 今自分がこの場にいる事は誰も知らない。

 事件の鍵を握っているのは間違いなく自分だと分かっていた。

 その為に最高機密を持ち出し学園を脱走すると言う軍法会議ものの所行を犯し、雑草を食らい、トカゲを貪り、三日間も腐った廃屋に身を潜めたのだから。

 自分の扱いは無数に転がった性別も定かではない遺体の一つになったか、あるいは単なる行方不明者の一つとして処理されたか…

 だが今の彼女にはどうでもいい事だ。

「…許さないわ」

 今成すべきは復讐だった。

 あの日と同じ殺気に導かれてここまで来たが、現れたのがあの男では無くシルフィーだった時はさすがに驚いた。

 目の前で繰り広げられた戦いは、凄まじいものだった。

 常軌を逸した攻撃力はまさにあの男の再来と言えた。

 姿形は違えど中身が同じなら、やる事は同じだ。

 今ここで、自分の手で全てを終わらせる。

 教官が残したこの魔杖ガングリオンで。

 一抱えもある魔杖を握るウィラ・フォーサイスの瞳に迷いは無かった。

 窓枠にガングリオンの砲身を載せると慎重にシルフィーを照準した。

 肩に食い込んだ革のベルトが軋み鈍い痛みが走る。

 その異形の魔杖には、もはや『杖』と言う呼称は当てはまらない。

 形状は大砲のそれに近いが引き金は無く、砲口にあたる部分には三枚の装甲板が先端を合わせて塞いでおり、砲身から砲口に至るラインはそれだけなら大砲見えなくも無い。

 銃身から小さい板状の物がポップアップした。淡く光るその板の中にシルフィーの無防備な姿が映し出されている。

 意識を集中する。

 白い魔杖全体をモノグラムの様に覆う結晶体のラインを赤い呪文の光が彩る。

 圧倒的に能力に差がある魔法使のフィールドを突破する方法は二つしかない。

 結晶体で中和させるか、力ずくでフィールドごと吹き飛ばしてしまうかだ。

 三つの装甲板がスライドし爪の様に開いた装甲板の内側を呪文の光が流れている。その中心で弾体が形成された。

 三枚の装甲板の内側から魔法学フィールドが伸び、そのフィールドの中を呪文の光が舞うと、空中にガングリオンの真の砲身である二本の赤い棒が現れた。

 それまで放心していたシルフィーが魔法の気配に気付き、弾かれた様にこちらを向いた。

 肌が泡立つ。しかし今更気が付いてももう遅い。

 魔法は臨界に達した。ガングリオン全体が身の内に生まれた力に歓喜する様に打ち震えている。

「当たれぇぇ!!」

 ウィラの意志に従いガングリオンの銃身を流れる呪文の光が一際強く輝きを増した。

 ガングリオンの砲身に雷光に似た電気が走る。魔法で形成された二本の砲身には電位差があり、伝導体である弾体を流れる電流の磁場の相互作用によって弾体は爆発的に加速された。

 打ち出される瞬間、電気抵抗で弾体は瞬時に蒸発しプラズマ化したが、伝導体の特性を持っていれば弾体はプラズマでも関係が無い。

 本来それが存在するはずの世界では起動する為の莫大な電力を確保できない問題が解決できず実現する事の無かったこの兵器は、魔法と言う無限の力を得てこちらの世界に具現した。

 魔機融合構想の元、対魔法使の切り札の一つとして生み出されたそれが対魔法使用試作兵器魔杖ガングリオンの正体だった。

 僅かな手応えが身体を伝わる。爆発音は無い。

 発射までの一瞬の間にシルフィーが両手の平を広げて突き出し、周囲に浮いていた結局体弾頭を集め射線上に小規模で高密度のフィールドの障壁を張るが、八キロメートル毎秒の速度を持つ光の弾丸を無力化するには、熱束砲に耐えた時の数倍の能力を持つシルフィーのフィールドでも少々薄かった。

 光の尾を引いて飛ぶ弾体が結晶体弾頭が集中していたフィールドに触れた瞬間、ほとんど抵抗する事も出来ないまま結晶体弾頭が四方に弾け飛び、弾体は充分な威力を維持したままシルフィー自身のフィールドに突き刺さった。

「!!」

 フィールドを紙の様に引き裂き、目を見開くシルフィーの両手の間を抜け荒れ狂う熱量を発する弾体がその額を直撃した。

 何かが砕ける鈍い音が学園の中庭に響き渡った。

 四散した結晶体弾頭は赤い光の尾を引きながら墜ちていき、その向こうを髪の光を失いながら、シルフィーはのけ反った姿勢のまま地面に落下していった。




     ◆




 魔法使学園で異常あり。

 この一報以降軍警察署内は上へ下への大騒ぎだ。

 情報収集能力を失った今のアーリッシュには飛び交う切れ切れの情報から推測するしかないが、どうやら三度目の襲撃と見て間違ない様だ。

 今頃青くなっているだろうフェッツナーとコニンの顔を想像してアーリッシュは少し胸がすく思いがした。

 機動部隊は既に装備を固めて出撃の準備をしている。

 市中警備部隊であるアーリッシュも部隊長に指示を仰ごうと立ち上がったその時、

「総員整列!」

 突然怒声が響き渡り、部屋は水を打った様に静まり返った。

 いつの間にか部屋に入っていたコニン副官に続いて入って来たのはレイモンド・フェッツナー署長その人だった。

 隊員が一斉に踵を合わせる音が響く。

 フェッツナーは部屋全体を一瞥するとやおら口を開いた。

「魔法使学園で三度異常事態が発生した。状況から考えて過去二度の襲撃と同一の手合いである事は間違ないと推測される。犯人の正体も目的も不明だがその戦力は侮れず、残念ながら我々が対応出来るものではないと判断した。そこで司法局は王軍に出撃の命令を出した。これよりこの件は王軍の管轄に入り、我々もその指揮下で行動する事となった」

 ざわっと部屋全体が揺れた。

 王軍、即ち航空師が出ると言う事は、今回の件は単なる事件では済まされず、大規模な軍事行動になった事を意味していた。

 王軍指揮下に入った軍警察はもう警察では無い。治安維持の役目は終わり単なる軍隊の一部隊となるのだ。

 これから戦争が始まる。

 誰かが喉を鳴らした。

「機動部隊は王軍の支援に回る。戦闘装備のまま別命あるまで待機の事。市中警備部隊は警察署に残り情報処理に当たる様に。なお念を入れての戦争配備とは言え敵は少数だ。王軍が討ち漏らす事は有り得ない。よって不要な混乱を避ける為にも住民への情報公開は行わず、避難誘導等も行わない事とする」

「待って下さい!」

 アーリッシュは自分の立場も忘れて叫んでいた。冗談じゃない。

 フェッツナーは舌打ちでもしそうな顔でアーリッシュを睨んだ。

「何かねミラナート少尉」

「敵の戦力は未知数です。前回と同じとも限りません。念を入れると言うなら全住民の避難を…」

「君は王軍航空師が敗れるとでも言うのかね?」

 言葉を被せたフェッツナーがアーリッシュの言葉を押しつぶす。

「一国の全兵力に相当すると言われる我が首都の航空師がたかだか一人の魔法使に敗れるとでも言うのかね?」

 アーリッシュは言葉に詰まった。

 アーリッシュのアキレス腱を握るフェッツナーの目が言外に黙れ小娘と言っていた。

「これは司法局直接の命令である。変更は無い。以後この件に関しての一切の意見を禁ずる。以上だ」

 フェッツナーはアーリッシュを一瞥すると、そのまま部屋を出ていった。

 にわかに騒がしさを取り戻した部屋の中でアーリッシュは立ち尽くしていた。

 この期に及んでまだ体面を気にしていると言うのか。

 この国は腐っている。怒りで白くなる程唇を噛み締めた。

「アーリー大丈夫?」

 アーリッシュの背中に手を置いたジェシカが心配で仕方がないと言った面持ちでアーリッシュを見つめていた。

 その大きくて綺麗な瞳を見つめ返したアーリッシュはふと部屋を見回してみた。

 誰もが困惑と不安の色を浮かべながらもその表情に迷いは無かった。

 そうか、守りたいのは皆同じなんだ。

 指揮系統が変わろうが関係ない。彼らの仕事は住民を守る事なのだ。

 アーリッシュは無言で踵を返した。

「ちょっ、ちょっとアーリーどこ行くの!?」

 速足で歩くアーリッシュにジェシカが困惑の声を上げる。

 そのままロッカー室に入ったアーリッシュは自分のロッカーを開けた。取り出した物を見たジェシカが悲鳴に似た声を上げた。

「二種装備じゃない!!」

 機動部隊の使う一種装備は市中警備部隊には認められていない。だからこの二種装備が彼女達の戦闘装備だった。

 一種と比べれて軽装な戦闘服と豊富な非殺傷武器を持つ二種装備だが、魔法使であるアーリッシュにはあまり意味が無い。ロッカーから一本の魔杖を取り出し、手に馴染んだ感触を確かめる。

「ねぇアーリー、どうするつもりなの?」

 ジェシカが不安げな声でアーリッシュの服を引っ張る。

 アーリッシュはジェシカの肩に手を置き、その大きくて綺麗な瞳を見つめた。

「聞いてジェシカ。私はこの事件の真相を知ってる。いえ、私だけじゃない。署長も副官も…軍や司法局の上層部の人間も、皆知ってるの。私は署長に情報の公開と住民の避難を要求したけど、ダメだった。この国の真ん中は国際的な地位とか、そんな下らないものの為にこの事件を利用しようとしてる。体面を保つ為に捕まえるべき犯人も捕まえず、何の罪も無い人達を危険にさらしても構わないと思ってる。でもそれじゃダメなの。あなたや署の皆みたいに、ホントに人を思いやれる人間の力が国を守るんだと私は信じたい。だから…私は私の仕事をするわ」

 ジェシカは大きな瞳をさらに大きくした。

「ジェシカお願い、私を信じて力を貸して。街の人達を避難させるのよ」




     ◆




「やった!」

 思わず身を乗り出す。

 脱力したシルフィーの体が空中でゆっくりと翻りながら墜ちていく。

 重力に従い体が地面に叩きつけられた衝撃がウィラの所まで伝わってきた。

 立ち上る土煙がシルフィーの姿を隠す。

 息を飲んで見つめる視線の先、土煙の向うで…光が見えた気がした。

「え?」

 煙が晴れていくに従ってシルフィーの姿が見えてきた。

 ちょうど腹ばいの形で地面にうずくまって…いやその四肢は獣の様に折れ曲がり衝撃に耐え、大地を掴んでいた。

 俯いていた頭がゆっくり持上がり、乱れた髪の毛の隙間から一対の瞳がウィラを睨んでいた。

「ひっ!」

 失敗した!?何で!?逃げなきゃ!!瞬間的に頭の中を思考が駆け巡ったが体が動かない。

 シルフィーの髪に光が戻り死神の翼の様に空中に伸びた。

 その背後から炎が吹き出し、地面を飛ぶ様に駆け抜ける。

 一気に間が詰まる。

「いやぁぁ!来ないでぇ!」

 恐怖で打ち出したガングリオンは、しかし充分な加速を得られなかった弾体を今度はシルフィーは腕の一振りで弾き飛ばしてしまった。

 瞬きすら許されぬ間にシルフィーはウィラの顔前にまで迫る。

 ウィラは渦巻く髪が自分に振り下ろされるのをただ待つしかなかった。

「!?」

 だが、そのシルフィーのさらに後ろ、未だグズグズと熔岩を吹き出している地面の方角から神速で迫る影があった。

 体中を血で濡らした銀髪の…

「うぉぉぁぁぁ!」

 レオンの接近に気付いたシルフィーがとっさに髪で薙ぎ払う。

 しかし発動中だった魔法に力を裂かれ十分な威力が得られない。

 レオンは左腕の結晶体で強引に髪を弾き、その腕をシルフィーの魔法学フィールドに叩き付けた。

 呪文の光が宿り、左腕から彼本来の魔法である稲妻がほとばしる。

 レオンの能力ではシルフィーのフィールドを突破できない。

 しかし圧倒的なフィールドの塊である結晶体その物をぶつければその限りでは無い。

 激しい稲光がシルフィーのフィールドを引き裂いていく。髪の毛が恐れる様に身を引き、遂に拳銃を握った左腕がフィールドを突破した。

 キレイな円を描く額に銃を押しつける。

 いかなる障壁でも防げない絶対ゼロ距離の…

 だが、レオンは引き金を引く事が出来なかった。

 自分が見たものが信じられないと言う様に、何かに驚いた様にその瞳が見開かれる。

 一瞬の致命的な隙…

次の瞬間銃を振り払ったシルフィーの凄まじい蹴りがレオンの腹に突き刺さった。

「ぐぁ!」

 大柄な体が軽々と弾き飛ばされる。

 シルフィーはその場でターンすると軽く身を屈め、爆発的に加速してレオンの後を追う。

「あっ!」

 その瞬間ウィラの手にしていたガングリオンがもぎ取られた。細身に似合わない怪力に成す術も無く引き剥がされ、それでも腕を伸ばし身を乗り出したウィラの頬にポタリと、何か熱い物が落ちた。

「え?」

 手で触れるとそれは透明な液体で、汗の様にベトついている訳でも無くサラサラした感触をしていた。

「涙…何で…?」

 ウィラは膝を折った。

 何かが壁に衝突する様な美的で残酷な音が聞こえた。




 しくじった。

 学園の壁に衝突するまでの僅かな時間、レオンの心を占めていたのは後悔だった。

 シルフィーが地上にいて、かつ自分が気付かれずに接近できる状況である事が最低条件だった。

 あれ以上は無い千載一遇のチャンスだった。

 それなのにシルフィーの顔を見た時、いや彼女の頬を流れる涙を見た瞬間、引き金を引くのをためらってしまった。その結果がこのザマだ。

「くそっ…俺とした事が」

 だがレオンは妙な安堵感を持っていた。もしあの涙が彼女自身の意思で流れたものだとしたら、まだ元に戻れる可能性があるのかも知れない。

「撃たなくて良かった」

 とんでもない考えだとは分かっていたが、どうせ後数瞬の内に自分の体は堅い壁に叩き付けられるのだ。この勢いだ、命は無い。なら最期くらい愚かでも自分の取った行動が間違いでは無かったと信じたい。

 ふと地面とほぼ平行に飛ぶ自分の脚先を見てみた。翼を広げたシルフィーが、あの少女が持っていた大砲の様な武器を抱えて追って来ていた。

 レオンは苦笑した。念入りな事だ。

 それにしても、あの武器はずっと前に見た事がある。あれはレイシア研究所だった。あの時はまだ未完成で封印された状態だったが…確かガングリオンと言った。

 シルフィーと結晶体弾頭とガングリオン。皮肉な巡り合わせだ。どうやら自分はあの事件の呪縛から逃れられないらしい。

 ジル…どこにいる?あれからお前はどうしたんだ。これがお前の、俺達が望んだものの結末なのか?こんなやり方でしかお前は力を示す事が出来なかったのか?心を持たない魔法使はただの兵器でしかない。そんな物が国を守る力足り得るのか?親友を殺す様な兵器が…

 身体から力が抜けて行く。

 もういい。疲れたんだ。

 思えば自分の人生はいつも戦いの中にあった。母親を失ったあの日から。任務で赴いた数知れない戦場。そして、レイシア研究所。ジェニファーを救ってからの四年間は常に追っ手に怯えながらの生活だった。

 だが今思えばその四年間がレオンの人生の中で唯一心穏やかな時だったのでは無いだろうか。

 ジェニファーを守るための、彼女と二人だけの生活。

 ―お願いカイン。その子だけは幸せにしてあげて。約束よ―

 走馬燈の様に流れる意識の中でレオンは懐かしい響きを持つその声を聞いた。記憶の底に封じたはずのもう聞く事の出来ない声を。

「…ああ…約束だ…」

 脱力した身体に力が戻って来る。

 死ねない。まだ死ねない。

 彼女達と約束したのだ。必ず助けると。全員で助かって、幸せになると。

 約束は果たせなかった。だからこの約束を果たすまでは、死ねない。死ぬものか。

 レオンは奥歯を強く噛み締めるともう一度シルフィーを睨んだ。

 ガングリオンからは今まさに光る弾体が撃ち放たれたところだった。八キロメートル毎秒の速度を持つ弾体は、この奇妙に引き伸ばされた時間の中でも捕らえ切れない程速い。

 避けられない。受け止めるのも無理。

 レオンは結晶体の左腕を射線に置いた。シルフィーの狙いが相変わらず機械的に正確なのが唯一の好材料だった。

 あの威力では結晶体でも止めなれない公算が強い。だから止めない。

 弾体を受け止めた結晶体が破壊される瞬間、あえて結晶体の中に魔法を発動させ爆散する力で威力を相殺させる。

 完全に勢いを殺すのは無理でも僅かに射線をずらせられれば良い。

 荒唐無稽な作戦だ。上手くいく保証なんか何も無いとか、例え上手くいっても結晶体とフィールドも失った状態でどうやって壁に叩き付けられんとしている身体を止めるのか、と言った問題はもう考えても仕方なかった。

 弾体に貫かれるのが先か壁に叩き付けられるのが先か。生き残る可能性なんかほとんど無い。

 だがやらなければ確実に死ぬのだ。

 見る間に迫って来た弾体が絶対的な強度を持っているはずの結晶体の腕にあっさりとめり込んで行く。

 腕に呪文が流れ砕け散る間際、脳裏に最近できた弟の悲しげな顔が浮かんだ。そうだ、こいつとも約束していた。

「そんな顔すんな。すぐ戻るから…」

 次の瞬間左腕が破裂する感触と、背後から襲った壁に叩き付けられる衝撃に刈り取られたレオンの意識は、深い闇の底に永久に引きずり込まれた。




     ◆




「がっ!?」

 ガングリオンの弾体がレオンを打ち抜いたと思った瞬間シルフィーの身体が突如強張った。空中でビクンとのけ反ったまま速度を緩める余裕も無く地面に落下した。

 叩き付けられた身体は激しく地面に引きずられ、何メートルも滑走して止まった。

 ふらつく足取りながら何とか立ち上がったシルフィーを今度は激しい頭痛が襲った。

「あああぁぁ!!痛い!!頭が痛い!!」

 頭を抱えてうずくまる。

 今その額に三つ埋め込まれた菱形の小さな結晶体の内、中心に据えられた結晶体の真ん中にごく小さなヒビが入っていた。

 結晶体全体がショートした様に赤い呪文の光と黒い地の色を明滅させ、その度に忘れてしまったはずの記憶がフラッシュバックする。それがそうだと自覚し全てを思い出した瞬間に記憶は消え失せる。一秒間に何度も同じ事が繰り返され気が狂いそうになる。

 そしてその度に頭を太い釘を打ち込まれる様な激しい頭痛が襲うのだ。

 シルフィーは堪らず地面に頭を叩き付けた。何度も何度も繰り返し叩き付ける。血が吹き出し美しい顔を汚していくが、頭痛は消えないばかりか激しさを増していく。

「ぐ…消える…私が消える!!」

 ついに地面に額を着けたまま動かなくなったシルフィーの目から感情とは関係無く、単なる生理現象としての涙が溢れ出る。

「ぅ…怖い…痛いよ。誰か…」

 救いを求めて伸ばした指に触れてくれる人は、居ない。そう、ついさっき自らの手で…

 シルフィーの記憶が辿り着いてはいけないところに辿り着きそうになった。

「!?」

 その時、強い魔法を感知した身体がシルフィー自身の意識とは無関係にガングリオンを手に取り、砲身を頭上の空間に振り上げていた。

 圧倒的な魔法力を持って一瞬で起動したガングリオンから放たれた光の弾体は重力と空気を引き裂き、今まさに魔法を放とうとしていた人影のど真ん中に命中した。

 月明りに照らされた身体がパッと花開く様に四方に散った。

 降り注ぐ赤い雨に打たれながらシルフィーは上空を仰ぎ見た。

 そこには蒼い月光に染められた白銀色の鎧に身を固めた魔法使達が無数に浮かび、そのどれもが手にした魔杖をシルフィーに向けている。

 シルフィーの唇がきゅうっと吊り上がる。

 そうだ迷う事はない。自分の身の内にある衝動に身を任せてしまえば良い。

「私は全てを破壊する為に作られた」

 光を取り戻したシルフィーの髪が翼の様に宙に広がった。

 頭痛はもうしない。

 一瞬力を溜める様に身を屈めたシルフィーは、爆発的な加速力を持ってその身体を空中に踊らせた。




     ◆




 激しい衝撃が半壊していた建物を揺らした。屋根に新しく開いた穴から土煙が吹き上がる。

「げほっ!げほっ!」

 魔法で身体にのし掛かっていた瓦礫を吹き飛ばしたベルは、舞い上がった煙を吸って激しくむせた。

 あの状況ながら幸い大きな怪我はなかった。脇に突き立つ鉄の棒の一つでも腹を貫いていたらお終いだった。

 だが頭がクラクラする。全身の骨格が結晶体のベルは骨折などには無縁だが、後頭部に受けた衝撃は頭蓋骨に納められた脳を突き上げ、頭蓋骨の天井に豆腐の様に柔らかいその身を叩き付けダメージを与える。

 生きていたのは奇跡だ。

 ふらつく足取りで瓦礫を踏み締めて外れた扉から外に出た。

 中庭を見回すが焦点が定まらず視界がブラつく。

 妙に静かだ。

「レオン?」

 最後にレオンが倒れているのを見た辺りに視線を送るがそこに姿はない。

 良かった。やはり生きていたか。だが姿が見えないのはどう言う事だ。

 明瞭になってきた目をもう一度巡らすと一ヵ所だけ途切れた壁の前に座る人影があった。

 いくらも近付くまでも無くレオンで無いのはすぐに分かった。彼にしては小柄過ぎる。女性だ。ウェーブした金髪が夜風に揺れている。

「ウィラ?何でここに…」

 近付くと壁は完全に崩れ落ちていた。瓦礫と化した壁の下から液状の何かが染み出している。赤黒いそれは明らかに血液だった。

 悪寒が走る。まさかこれは…

 両手で顔を覆い細い肩を震わせていたウィラは、ベルに気付き泣き濡れた顔を上げた。

「ぁ…ベルトラル君…ごめんなさい…ぅ…あの人が…ゎ…私のせいで」

 しゃくり上げながらの言葉は要領を得なかったが、それが誰を指しているのかは分かった。

「レオン…そんな…レオン!レオン!!」

 腰から下の力が抜け、ベルは膝を着いた。

 自分のせいだ。

 あの時、シルフィーとの攻防の時自分にはシルフィーに攻撃を当てるチャンスがいくらでもあった。

 なのに、決定的な一撃を繰り出そうとする瞬間になって、ほんの少しのためらいが生まれた。

 それは一瞬の隙となり、当たるはずの攻撃はことごとく空を切った。

 まただ。また自分の弱さのせいで大切な人を失ってしまった。

 その時フラッシュの様な白い光が地面に光り次いで雷鳴に似た音が轟き、ベルは頭上を見上げた。

 月明りで意外に明るい夜空に一個の黒い星があった。目をこらす。星は徐々に大きさを増しながらこちらに近付いていき…

「ウィラ!!」

 ベルは放心して気付かないウィラを慌てて突き飛ばした。

「きゃ!!な、何!?」

 ウィラが一瞬前まで座り込んでいた地面に黒い星が落下した。

 ベルは息を飲んでその物体を凝視した。各部からぶすぶすと煙を上らせるそれは間違ない、鎧を身に着けた人間だったのだ。ウィラも恐る恐る首を伸ばし、それに気付いて「ひっ」と小さい悲鳴を上げる。

 良く見れば黒く煤けた鎧には模様が刻まれていた。幸福の葉に囲まれた飛龍の紋章。

「こ…航空師だわ…」

 全身を小刻みに震えさせたウィラが両手で塞いだ口から漏らした。

 ベルはもう一度空を見上げた。

 ここからでは豆粒程度の大きさにしか見えない高さに無数の航空師が隊列を成しているのが見えた。

 その前方には強く輝く紅い光の点が浮いていた。航空師達が手にした魔杖の光が一瞬脈打つ様に瞬き、無数の魔法が紅い点に打ち込まれる。

 紅い点は空中動物よりも優雅な機動でその絶妙な波状攻撃をかわすと無駄のない動作で航空師隊の隊列の側面に回り込んだ。

 その全身が一際強く輝きを放つ。

「っ!?ダメだ…止めろシルフィー!!」

 ベルの叫びは、全身を砲身にして打ち出された熱束砲の轟音にかき消された。

 至近距離で直撃を食らった航空師隊の一角は骨も残さず一瞬で蒸発した。少し離れ直撃を逃れた一団も数千キロの放射熱を全身に浴び、瞬時に骨まで炭化した身体が次いで訪れた衝撃波によって打ち砕かれ宙に散っていく。

 直視するのが危険な程の光が降り注ぐ。目を庇ってかざした腕を下ろすと白く焼き付いた夜空から次々と黒い星が落下していくのが見えた。

 首都アルストロメリアから伸びた航空師の隊列が紅い光の川を夜空に描き出している。

 その川を登る様に隊列に切り込んだシルフィーの姿は、もう点程にしか見えない。

 その姿を目で追ったベルの手が何か温かい物に包まれた。見ると崩れた壁から流れ出たレオンの血液がベルの手を濡らしていた。まだ暑いその血液に背中を押された気がした。

「…分かってるよレオン」

 血溜まりから引き抜いた手の平をシャツに押し当てて拭う。白いシャツの胸に赤黒い一本の傷跡の様な線が引かれた。

 その手の平を拳に握り換えベルは夜空を睨んだ。

 その瞳に迷いは無かった。

「今度こそ…殺す」

 戦いはまだ終わっていない。

 月が蒼かった。


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