第四話
どん、と音が出る程強く地面を蹴りベルは走り出した。
彼我の距離は10メートル程。ベルは全力疾走しているからその距離はどんどん縮まって行く。
風の音がバタバタと耳を打つ。
レオンは肩に棒を担ぎ、黒い手袋で肘まで覆われた左手を無造作に下げた姿勢のまま動く気配が無い。
その必要は無い。
ベルの魔法の射程は限り無く短い。ベルが攻撃を当てるには、誘われていると分かっていても敵に接近するしかないのだから。
だからベルは走る。
がむしゃらに走る。ほとんど特攻状態で肉薄してきたベルを、しかしレオンは顔色一つ変えずに迎え撃った。
無駄がない、むしろ緩やかに見える動作で振り下ろした棒がベルの頭を完璧なタイミングで捉える。
棒が頭を打ち据える瞬間、ベルは頭と肩を身体の下に入れ強く地面を蹴った。
直線だった勢いが変換され、前方宙返りをするベルのうなじすれすれを棒が凄まじい勢いで掠めていく風圧を感じた。
レオンの間近で踏み切ったその位置のままベルの身体が独楽の様に宙を回る。その時、ベルの頬を手足を、赤い呪文の光が駆け巡った。
瞬間、空を向いていた脚が何の前触れも無く加速され、ボッと言う炸裂音の尾を引きながら一気に蹴り下ろされた。
棒を振り下ろして体勢が崩れているはずのレオンの頭上に、加速されたベルの踵が襲いかかる。
完全に意表を突いた必殺の蹴りを、レオンは僅かに体を傾けただけでやり過ごしてしまった。
ベルの脚が頬の横数センチを凄まじい勢いで掠めても眉も動かさない。
中々ショッキングな光景だったが驚いている暇は無かった。
「うわわ!」
蹴りの勢いに引っ張られて大きく体勢を崩したベルを今度はレオンが狙う。
素早く棒を振り上げた瞬間、ベルの身体を再び光が走り、体勢を崩し地面に両手を着いたベルの左脚が爆発的な勢いで跳ね上がった。
顎を狙った蹴りを、しかしレオンはまたしても僅かに頭を傾けただけでかわした。そのまま素早く脚に腕を絡め膝を極めようとする。そのレオンの頭上で3度目の炸裂音が響く。
「っちいぃぃ!」
上下逆さの状態のベルの膝が一気に巻き戻り、その踵が再びレオンの後頭部を襲った。
「っとぉ!」
とっさに脚を離し身をひいたレオンの体勢が今度こそ崩れた。たたらを踏み地面に手をつく。
ベルは素早く身体を起こした。レオンは距離を取ろうと地面を蹴り始めていたが間合いは詰まっている。もはや左右後ろどこに逃げても一瞬で間合いを詰められる距離だ。
「もらったぁ!」
無防備なレオンの顔面に魔法で加速された拳を叩き付けようと打ち出した。勝利を確信する。
そしてレオンは横にも後ろにも逃げなかった。
前へ。拳を繰り出したベルの胸元にレオンの身体がするりと滑り込んだ。拳が掠めた頬から鮮血が舞った。
しまった、そう思った時はもう遅かった。
伸び切った腕を絡めとられたベルの身体は、繰り出した拳の勢いもそのままに一気にレオンの肩に担がれてしまった。一瞬の浮遊感。空が見えた。
「がはっ!」
美しい弧線を描いたベルは背中から容赦無く地面に叩き付けられた。肺の空気が一気に押し出される。
一瞬意識が飛びかけたが根性で踏みとどまり、慌てて起き上がろうとしたベルの視界が黒い手袋で覆われた手の平に塞がれた。全身が凍り付いた様に動かない。
「18勝目…か?」
レオンは少し得意げに微笑みながら言った。
ベルは大きくため息をついて頭を芝生に落とす。やられた。
「っくそう!」
悔し紛れに地面に拳を叩き付けたベルを「ふん」と軽く鼻で笑いながら見下ろしていた。
―Crystalline-Cell "SAGA"―
【いつか観た蒼月】
■第四話
『日が落ちる前には』
◆
レオンの家に来てから3週間になる。
始めの内は引きこもり泣き続けていたベルだったが、タダめしを食らい続けているのも悪いと家事を手伝い始めたのが三日目。レオンの妻のジェニファーに教わりながらようやく生活に慣れてきた頃、帰宅したレオンに『戦い方をおしえてやる』と庭に引きずり出され、いきなり殴られた。
始めは訳も分からず殴られ続けていたがいい加減腹が立って殴り返したのがきっかけでレオンとの修行が始まった。
ベルの魔法はすぐに見切られ指一本触れられない日が続いた。戦術を考え、苦手だった呪文も徹夜で練った。いつしかベルは修行を楽しんでいる自分に気付いていた。
あれ程言う事を聞かなかった魔法が嘘の様に操れていく。
『魔法なんてのは教えられて覚えるもんじゃない。大切なのはイメージだ。手足を使う様にフィールドを操れば良い』
レオンはあまり分かりやすく教えてくれる方では無かったが、実践=実戦と言う環境の中で出来ないと言う甘えは許されない。
殴られるとすごく痛いのだ。
空間圧縮の衝撃波に自分の打撃を乗せる技を思い付いた時は小躍りした。レオンの目を盗み夜な夜な密かに練習した。習熟し戦略も完璧に整えた。
そして今日、ベルは記念すべき18敗目を迎えたのだった。
「う…嬉しくない」
自信を持って放った技は初見でかわされてしまった。情けなくて涙が出る。
「お前はまだ魔法の力に頼り過ぎてるな」
レオンは頬の血を親指でぴっと弾いた。
ベルはそんなレオンの姿を見上げた。
レオンの技には隙が無い。素早く敵の懐に入り込み、打ち、投げ、極める。肉体の部分の操作が恐ろしく鍛えあげられている。
何しろレオンはベルとの修行の中でまだ魔法を使っていないのだ。使われていたら始めに攻撃を避けられた段階で勝負は決していた。
学園では魔法の強さが優れた魔法使の基準で、魔杖術などはあったが格闘技の指導などは無かった。
魔杖が使えないベルにも戦う術がある。
「…でも今日は掠ったよ」
それを聞いたレオンの頬が少し緩む。
「ふんっ。…恐れ入ったよ」
ベルは「へへっ」と少し照れた様に笑う。充実した疲労感が身体を支配しているのが分かる。
親が無く、幼い頃から絶対兵器と恐れられ、後年は欠陥品と蔑まれていたベルにはシルフィー以外に特に親しくできる人間は居なかった。
家族。生まれて始めてそんな物を得た様な気がしていた。
柔らかい風が汗ばんだ首筋を優しく撫ぜる。西に傾き始めた空はどこまでも青く澄んでいた。
◆
ベルの魔法が発動する度に家の壁がビリビリと振動している。
一際大きな衝撃が響いたと思ったらそれ以降は静かになった。
「18敗目かしらね」
そう呟きジェニファーは微笑んだ。
拾ってきた。そう言ってレオンがベルを連れて来た時は驚いたが、ベルの全てを失った様なその瞳の色を見た瞬間彼女はレオンの気持ちが分かった気がした。
幼い頃レオンはとある小国の内乱に巻き込まれ故郷、家族、名前。命以外のおよそ考え得る全てを失った。
パラダイスロスト=全てを失った者と人は呼んだ。
だからかつての自分の姿に重なるベルを放って置けなかったのだと思う。不器用だが根は優しいのだ。
かつてジェニファーを救う為に全てを失った時の様に…
ジェニファー自身も今の生活を楽しんでいた。彼女の身体は子供を宿さない。
「でも子供って言うよりは弟って感じかしらね」
ジェニファーは思わず微笑んだ。家族は良い。そう思う。
そろそろ二人がお腹を空かせて戻って来る頃だ。今日も存分に腕を振るった。
ふと窓を見れば雲間から漏れ出た陽光が祝福する様に首都アルストロメリアの町並みを照らしていた。
「…ん?」
その時、規則的に並んだ首都アルストロメリアの町並みの一角で何かが光った様な気がした。
気のせいか?
確かめようと目を凝らした時、今度こそ確かに光った。次の瞬間爆発的に立ち上ぼった煙と同時に膨れ上がった不可視の何かをジェニファーは確かに見た。
それは光の地点から同心円状に広がると、爆発的に半径を拡大しながら一気に瞬間アルストロメリアを覆ってしまった。
その勢いは止どまりを知らず、その禍々しい殺気にも似た何かは身動きも取れないジェニファーを飲み込もうと迫って来る。
これは死んだ。
そう思った瞬間、それに包まれたジェニファーの髪が強風に吹かれた様に激しくなびいた。
それは一瞬だけジェニファーをもてあそぶと何事も無かった様に吹き抜けて行った。
部屋は嘘の様に一瞬前と変わらず、火にかけた鍋がコトコトと平和な音を立てている。
ぺたんと床に座り込んだジェニファーの全身が汗に濡れていた。
身体の芯から引っ張られて行くあの感覚をジェニファーは知っていた。あれはフィールドだ。
しかもただの魔法使のものではない。
「あれは…造られた…」
その時勝手口の扉が叩き開けられ、少年が飛び込んで来た。ベルだ。
腰が抜けているジェニファーを尻目に窓に飛び付くと、どす黒い煙を上げる瞬間アルストロメリアを凝視した。先程より煙の量が増えている。火災が起きている様だ。
「…まさか…あれは…」
ベルの顔は青ざめている。我が目を疑うと言ったその瞳は一瞬の恐怖と、そして力強い光りがやどっていた。ベルの身体を呪文の光が駆け巡る。
「ベル君!?待ちなさい!」
窓枠に脚をかけたベルを慌てて呼び止める。手を伸ばしたジェニファーの視界を突然立ち上ぼった土煙が塞いだ。
反射的に顔を覆ったジェニファーが目を向けた時、ベルの姿はかなり小さく見える程になってしまっていた。
「…行っちゃった」
ジェニファーは呆然とその背中を見送るしかなかった。ベルの足跡を追う様に地面が抉れて土が跳ね上がっている。
「圧縮空間の衝撃波を脚から打ち出したのか。本気になればあんな事ができる能力だったとはな」
いつの間にか背後まで来ていたレオンが戦慄した様に呟いた。
その左手には黒い金属の塊が握られている。レオンはL字型の金属塊の上辺をスライドさせ動作を確認すると懐に入れた。
「夕飯には戻る」
ジェニファーは少し諦めた様に微笑んだ。この人はいつもこうやって戦いに出て行ってしまう。
「気を付けて」
軽く右手を上げて答えてレオンは扉を閉めた。
窓を見れば先程まで美しかった空がにわかに曇りはじめていた。まるでこれからの惨劇を予期するかの様に。
「…荒れそうね」
ジェニファーは祈る。
二人とも、どうか無事で。