第二話
首都アルストロメリアから五十キロ。
エルセンの町の郊外の廃墟に偽装した研究所で、ジルギアは激怒していた。
様々な試薬や資料が散乱した机をなぎ払う。
貴重な試料の入った試験管が次々落下し、床で粉々に砕け散る。
甲高い破砕音が鳴り響くのにも構わず、今度は椅子に手を掛けた。
「ぬおぉぉぉ!」
壁に叩き付けられた木製の椅子は、一瞬だけ衝撃に耐えた後、次の瞬間にはバラバラに砕け散った。
試験は成功だった。
ジルギアの生み出した実験体を相手に、魔法使学園の連中は手も足も出なかった。
実質的に軍の戦力をも上回ると言われる魔法使学園がだ。
やはり自分の理論は間違っていなかった。
これで自分を狂科学者と蔑み、追放した軍に知らしめる事ができる。
国を守る為には自分の力が必要だと認めさせる事ができたはずだった。
「何なのだあの小僧は!!」
両の拳を力任せに机に打ち付けた。
机が軋む乾いた音の余韻が消えると、部屋には静寂が残された。
荒い息を整え、その視線を部屋の隅に移す。
そこには天井まで届く程の大きさの培養槽が据え付けられていた。
薄桃色の溶液に浮かぶのは学園を襲撃したあの男だ。
土気色の体のど真ん中には手の平を広げたくらいの穴が空いている。
戦死した魔法使の身体を繋ぎ合わせ、結晶体の力で強引に代謝させていた肉体は心臓部の結晶体を破壊された事で急速に腐敗が進んでいた。
「…屍体を使ったのでは駄目だ」
魔法の同時起動は肉体にも精神にも大きな負荷をかける。
もっと強靱な献体が必要だ。
魔杖の補助無しに複数の魔法を扱えて、絶対的な敵にも恐れずに立ち向かえる精神力を持った…そんな肉体が。
「あの娘…」
ジルギアの瞳に光が戻る。
皮肉にも狂気の研究だけがジルギアの精神をこちらの世界に繋ぎ止めていた。
「あの娘の身体が欲しい…」
実験体の口角から消え残る命を示す様に気泡が一粒浮かび、消えた。
―Crystalline-Cell "SAGA"―
【いつか観た蒼月】
■第ニ話
『ソレブリアの下町』
一体どこをどう進んだのか。
自分が走っているのか歩いているのかも分からない。
ただあの場所から逃げたかった。
怖くて怖くて仕方が無い。
ただ本能の赴くまま、走って走って、疲れても止まらず歩き続けた。やがて力尽きて地面に倒れ、それでも這って這って…。
少しでも、ほんの一メートルでも遠くへ行きたかった。
かつてこれ程の恐怖を味わった事があっただろうか。
かつてこれ程の痛みを感じた事があっただろうか。
絶望とは。希望を全て刈り取られる事とは、こんなにも人の心をズタズタに引き裂いてしまうものなのか。
見えない。
何も見えない。
冷たい暗闇の中を彷徨っているようで、自分と言う存在そのものが希薄になってしまったように。
世界に寄る辺など無い。
世界には絶望しかない。
考えたくないのに。動きたくないのに。
それでも立ち上がるしかないベルをさらなる絶望が襲う。
暴力と言う名の絶望は、ベルに残された僅かな理性を確実に刈り取っていった。
◆
王都アインツは今から200年前、小国ライルと十二諸国との連合国家『アインツ』としてその歴史の幕を上げた。
当時絶大な勢力を誇っていた魔法大国アルストロメリアを長い侵略戦争の末に下したアインツは、アルストロメリアの持つ魔法学と連合国家の持つ軍事力とを融合し、独自の発展を遂げてきた。
そして現在。
王都と名を変えたアインツは国土総面積2187平方キロメートル、人口1200万人を有する魔法国家に発展した。
国土はほぼ十二方位に区分され、それぞれが一国に匹敵する軍事力と経済力を有する。
その行政区画を統率するのが首都アルストロメリア。
放射状に区画整備された美しい町並みを分断する様に、巨大な鉄道陸橋が街の中心から十二方に伸びる。
十二の行政区とアルストロメリアを繋ぐ輸送の要。そして世界最強近衛師団『航空師』と呼ばれる魔法使隊と並び称される拠点防衛兵器『装甲列車』の軌道としても用いられる、片道800キロメートル、総延長9600キロメートルに及ぶ巨大鉄道『空中鉄道』がアインツを遥か地平線の彼方まで貫いている。
そして空中鉄道の基点、アルストロメリアの中心にそびえ建つのが司法立法行政の全て司るアインツの中枢『司法局』
世界一の軍事力と経済力を誇り、諸国に絶大な支配力を持つアインツの司法局は、正に世界の中心と言って過言では無かった。
そのアルストロメリアの外縁。
市街地から離れた小高い丘の上にひっそりとたたずむ古い王城と、それを中心に広がる集落があった。
ソレブリア地区。
またの名を旧アルストロメリア王国と言う。
首都に名を奪われ、ソレブリアと改名された、それがかつて栄華を極めた魔法国家の現在の姿だった。
旧アルストロメリア王国解体後、首都機能は司法局に移され旧アルストロメリア王城は放棄されたが旧国民、現在はソレブリア派と呼ばれる人々が王城の周りに作った集落。それがソレブリア地区だ。
ソレブリア地区の住人はほぼ全員が反アインツを掲げている。
正に目の上の瘤と言えるソレブリアをしかしアインツが解体出来ないのには理由がある。
旧アルストロメリア王国の象徴、そして現在のアインツが最強たる所以である世界では数少ない魔法使の育成機関『魔法使学園』
旧アルストロメリア王国解体時に最後まで抵抗したのが、この魔法使学園の教官達だった。
魔法使育成のノウハウを持った彼らを無下に殺す事もできず、長い交渉の末に旧アルストロメリア国王の開放。そして魔法使学園の運営権を与える事にアインツは同意してしまった。
国王を失わなかった国民の力は強く、200年経った現在もソレブリアは半独立自治区の立場を守っている。
実質的にアインツのアルストロメリア王国攻略は失敗に終わったとも言えるかもしれない。
ソレブリアは密かに装備を整え、アインツが隙を見せるのを虎視眈々と狙っている。
アインツが共同研究の名目で学園内に軍の研究機関を、半ば強制的に設けたのもそうした動きを監視する意味合いが強い。
お互いがお互いを牽制しあう。
皮肉にもそれがアインツの軍事力を世界最強に押し上げた現状がそこにはあった。
さらにかつて連合国として同等の立場だったのにもかかわらず現在は使役されている状態の、十二の行政区に散らばった各国の不満も強く、常に内乱と侵略の危険にさらされたギリギリの緊張の上に成り立つかりそめの平和。
それがアインツの秘めたる現状だった。
そのソレブリアの下町に迷い込んだベルがアルストロメリアの住人と間違われ、ならず者に絡まれたのもそれはそれで無理からぬ話ではあった。
◆
「くっそ!重い!」
両手に山の様な買い物を抱えてソレブリアの下町を歩いていたレオンは、あまりの荷物の重さに思わず空に向かって叫んだ。無駄な事とは知りつつ。
妻のジェニファーは気立てが良く美人だがとにかく人使いが荒い。
ポケットでクシャクシャに丸まった紙屑…もとい買い物メモを開くと、そこにはまだ山程の買い物がリストされている。
まだあんのかこんちくしょう。
レオンはしばらくメモを眺めると、やがて何かを決心したように大きく頷いた。
「…良し」
そのままメモを握り潰す。
見なかった事にしよう。
何が良しなのかは過分にして分からないが、とにかくレオンはそれ以上買い物の事を考えるのをやめた。
途中で買い物をサボった事を知った妻がどんな事になるかは精神衛生に悪いので考えない事にする。
…いや、そう言う訳にもいかないか…。
妻への言い訳を必死に考えてうんうん唸るレオンの耳に、何やら商店街の喧騒とは別の騒がしさが伝わって来た。
またケンカか。
発祥が発祥だけにソレブリアは潜在的に反アインツを掲げる者の街だ。それ故に荒っぽい者も多く、ケンカは日常茶飯事でさして珍しいものではない。
レオンは嘆息すると人垣に近付いた。
覗き込むとそこには大柄の男が三人、一つの人影を取り囲んでいる。
一方的なそれはケンカと言うよりもはや暴行に近い。
レオンは我ながら人が良いと内心嘆息しながら人垣に分け行った。
「おい。もうそれ位で良いだろう」
突然割り込んで来た声に驚いたのも一瞬、男達は一気に色めき立つ。
「なんだてめぇは!?」
「口出すんじゃねえすっこんでろ!」
「てめぇもやられてぇかああ!?」
まあ、この手の奴等が言いそうな事は大体こんなもんだろう。
レオンは地面にうずくまる人影に視線を移した。
ソレブリアでは手に入りにくい上等な衣服はアルストロメリアの住人の物だが、首に掛けたネックレスに刻まれた紋章には見覚えがある。
王立法使学園。
「子供相手に大の大人が三人掛かりとはな。恥ずかしく無いのかよ?」
顔は少年に向けたまま瞳だけが男達を睨む。
「んだとてめぇ!!アルストロメリアの野郎がのこのこ現れんのが悪りぃんだろうが!!」
ソレブリアと魔法使学園の関係を知らない者はこの街には居ない。
やはり、こいつらは単なる暴れたいだけのならず者だ。
「やめないのか?」
荷物を右腕に抱え直したレオンは左腕を軽く持ち上げた。
肘までを覆う黒い手袋からツヤを消した鈍い光が放たれる。
「ったりめぇだ!!」
言うやいなや殴りかかってきた男の拳を手袋の左手で跳ね上げたレオンの身体が、滑る様にそのがら空きの懐に入り込む。
素早く引き戻した左の掌が腹に添えられた瞬間
「ぐぇっ!?」
カエルをつぶした様な声を上げて男の身体が宙を舞った。
受け身も取らずに地面に落ちた男は、ガクガクと痺れるように痙攣しながら不様に地面に張り付いた。自分に何が起きたかも分からなかっただろう。
「!?」
「まだやるか」
構え直したレオンの静かな言葉は圧倒的な威圧感を持って男達の耳に響いた。
お互い顔を見合わせたのも一瞬、男達は地面に転がった仲間をおいて一目散に逃げ出した。
「おらぁどけどけ!!」
「ぶっ殺されてぇか!」
野次馬を掻き分ける怒声が空しく遠ざかって行った。
「いいぞー!レオン!」
取り囲んでいた野次馬達から一斉に歓声が上がった。
皆口々に今の技はどうだのと検証しながら三々五々に散って行く。
三度の飯よりケンカの好きな連中だ。大方レオンが現れた段階で懸けでも始まっていたのだろう。
無論レオンが介入した時点で勝負は決していたのだが。
「懲りないやつら…」
軽く鼻を鳴らす様に嘆息したレオンはまだ地面にうずくまっている人影に近付いた。
「よぉ兄さん。大丈夫か?」
ビロードの様に深いツヤのある黒髪から、予想していたより遥かに幼い顔が覗く。
怯えを含んだ黒い瞳と目が合った時レオンは息が詰まる様な感情に襲われた。
いかん。
いかんぞレオン。
今はやっかい事を抱えている余裕は…
レオンは頭を掻いて嘆息した。まったく、まだ買い物も残っているのに。
サボろうとしたのを棚に上げてそんな事を考える。
「…来いよ。メシくらいは食わせてやるから」
まったく人が良い。
「お前も荷物を持つんだぞ。まだ買い物が残ってるんだ」
だがそう言った時の少年の顔は中々見物だった。
良い荷物持ちができた。