第九話
結局、ベルには男の真意が最後まで分からなかった。
火炎はさらにその勢いを増し、吹き上がる煙が蒼い月明りを覆い隠す。
炎の赤と黒が支配する世界の中で白い服の男がベルを見上げていた。
「あれの額には小さい菱形の結晶体が三つ埋め込まれている」
ジルギアはそんな風に話を切り出した。
「その脚は頭蓋骨を貫いて脳に達し魔法の力であれの記憶を奪っている」
淡々と語るその声音には先程までの狂気は無く、それがベルの頭を激しく混乱させる。
ベルを見返す瞳はまっすぐでとても狂人とは思えないのに、少し周りを見渡せば辺りを満たしているのは目を覆いたくなる様な地獄絵で、それを作り出したのは紛れも無くこの男なのだ。
「記憶?」
「そうだ。詳しい説明をしている時間は無いが…結晶体は脳死状態の脳を再活性化し、新しい人格を上書きして私の命令に忠実な兵器に仕立て上げる…そのはずだった」
過去の実験体は全て完全に死亡した魔法使の身体を繋ぎ合わせたものだった。組織の結合も循環も魔法によって行われる疑似的なもので、完全に脳死した脳からは全ての記憶は失われていた。
ジルギアとしては生命維持と戦闘に関わる一部の記憶、そして破壊衝動のみを持った人格を植え込むだけで事は足りていた。
しかし死後間もない状態で保存されていたシルフィーは、言わばギリギリ生と死の間に存在している状態だった。なので脳内には生前の記憶はある程度残っている可能性が大きかった。
鍛えられた人間の運動記憶よりも優れた制御装置などは存在しない。シルフィーの持っている戦闘の記憶はどうしても利用したかった。
しかし記憶とは単体で存在するものでは無い。どんな記憶も経験と言う鎖によって繋がっている。
結局、最後までシルフィーを『人間』として考えなかった事。それがジルギアが犯した最大のミスだった。
「戦闘記憶に引っ張られる形であれの記憶の一部が蘇っている事が分かった。当然本来その記憶を持っているべき人格は既に消滅している。そして上書きした人格には人間的な記憶も感情も無い。だが経験した事の無い記憶だけが残っている。記憶と人格は不可分だ…。そのままでは暴走する危険性があった」
そこで不意に言葉を止めジルギアは瞳を伏せた。
「私は脳の記憶領域のみを潰しその分の記憶能力を肩代わりする様に結晶体を設計しなおした。それならば余分な記憶だけが削除され、新しい記憶は結晶体に蓄えられる。…だが、それでもあれを完全に押さえ付ける事は出来なかった。不完全…いや、人が自分であろうとする力には敵わなかったと言う事か…」
その姿を見た瞬間、ベルの中に抑え切れない怒りが生まれた。
「あんたは…なんて事を!」
噴出そうな怒気を必死に抑えて言葉を絞り出す。これ以上一言でも発したらこの男をバラバラに吹き飛ばしてしまいそうだ。
ジルギアはベルを見るでも無く視線を伏せたままその言葉を受け止めていた。
「そうだ、私は愚かだった。あんなものを作る事が自分の力を示す事だと本気で信じていた」
その姿は背負う十字架の重みに耐える罪人の様で、ベルは噴き上がっていた感情が萎んでいくのを感じた。
何が。
一体どれ程の事があれば人はこれだけ変われるのだろうか。
「あんた一体…」
しかしベルの言葉は顔を上げたジルギアに遮られた。
「あれはもう私の設計の限界を越えた力を行使している。身体は崩壊寸前だろう。もう時間が無い。一度しか言わないから良く聞いてくれ。額の結晶体は三つあるが実際に機能しているのは一つだけだ。残りは単なる予備でしかない。万一結晶体が破壊される事があればすぐに予備に切り替わる様になっている。結晶体の能力は全て同じだが相互に情報のやり取りなどはしていない、それぞれが独立したものだ。つまり今メインで働いている結晶体の機能が失われてしまえば、結晶体に保存されている暴走の記憶も、そのきっかけになった記憶も含め全て消失する事になる。結晶体を破壊してくれ。それで暴走は止まる」
「壊すったって…」
どうやって、聞こうとしたその時ふとベルは先程シルフィーに攻撃を受けた瞬間を思い出した。
こちらを向いた一瞬、全身を彩る結晶体の中で額のものだけが不自然に明滅していた気がする。
あれは一体?
「どうした?」
急に考え込んだベルの様子にジルギアが訝しげ眉をひそめる。
「いや…実は…」
ベルの説明を聞いたジルギアは少し考えてから顔を上げた。
「…もし君が見たものに間違いが無いならあれの結晶体は破損しているのかも知れない。だが完全に破壊されていれば結晶体の制御が切り替わっているはずだ。それが出来ていないと言う事は中途半端に破損した結晶体がその作用を阻害しているのだろう。確かに暴走しているとは言え今の状態は異常だ。破損した結晶体が何かしらの悪影響をあれに与えている可能性もある」
つまり最初の暴走とは別に今の暴走の原因が額の結晶体にあるのだとしたら、この破壊の引き金になったのは…。
ベルは思わず顔を背けた。
ウィラ…。
「…どうすれば結晶体を破壊できる?」
その問いにジルギアは不自然に広がった、焼け焦げた広場の真ん中を示した。そこには一振りの魔杖が転がっている。
「結晶体自体の容量は僅かなものだ。あの魔杖で外から強制的に呪文を送り込んでやればオーバーフローを起こすだろう。破損しているなら尚更だ」
魔杖を見つめるその表情をベルをどこかで見た様な気がしたが、思い出せない。
ジルギアは視線を戻しもう一度まっすぐベルの目を見た。
「こんな事を言える義理では無いのは分かっている。だが、頼む。あれを…彼女を救ってくれ」
その言葉は紛れも無くこの男の本心からのものだと分かった。だからこそベルは再び湧き上がる怒りを抑え切れなかった。
「何を…勝手な…!」
そう勝手だ。シルフィーを殺してあんな化け物にしておいて、それで自分は全部悟った様な顔をして。
「…頼む」
それでもジルギアは一言の言い訳も口にせず、苦渋に満ちていながらも決然としたその顔は―
「当たり前だ!」
気が付いたらベルは叫んでいた。
卑怯だ。他に選択肢なんて無い。
あんたは全部人に押し付けて。
…大人にそんな顔で頼まれたら、断る事なんてできないじゃないか。
ベルはジルギアを睨み返した。
「ジルギア。あんたには出るところに出てしかるべき裁きを受けてもらう。だから、こんな所で死なせない」
それだけ言うと答えは待たずにベルは背を向けた。
全体的に窪んで煤けた地面の真ん中にその魔杖は転がっていた。
誰の物で何の為にここにあるのかベルは知らない。
初めて手にしたはずの魔杖は不思議と手に馴染み、失血で冷えたベルの身体には熱い程の熱を持っている様だった。
そう、まるで誰かの遺志を宿す様に。
その時視線の先の建物の向こうから魔法の奔流が突然吹き上がった。
「シルフィー…」
ベルの身体を赤い呪文の光が流れ始める。
成功しても失敗しても、自分はもう一度シルフィーを消し去る事になる。
それでも良い。これ以上君に人を殺めさせたくない。
呪文の光はベルの全身を赤く染め、周囲の空間が陽炎の様に揺らぐ。
力強く魔杖を一閃した瞬間、圧倒的なフィールドの力によって圧縮された空間が解き放たれる。
衝撃波が身体を弾き飛ばすその瞬間、ベルは唐突に思い出した。魔杖を見たジルギアの表情。どこかで見たと思ったあれは自分と同じ、大切な人を永遠に失ってしまった者の表情だ。
思わず振り返って見たジルギアは胸に包みを抱いたまま俯いていた。ベルにはそれが泣いている様に見えて―
「ぐっ!」
次の瞬間、ベルの身体は意識を吹き飛ばされそうな衝撃に弾き飛ばされた。
地面に脚が着くと同時にもう一度魔法を放つ。
その度に魂ごと意識が身体から抜け落ちる様な悪寒が込み上げる。
「…時間が無いのは俺も同じか…」
染み出した血に塞がれそうな目を強引に拭う。
手加減はしない。
手加減?
誰に?
シルフィーに?
違う。
「自分自身に、だ!」
―Crystalline-Cell "SAGA"―
【いつか観た蒼月】
■第九話
『君と星空を』
◆
突然空から降って来た少年がジェシカの命を救った。
ジェシカ達の部隊を一瞬で壊滅させたターゲットは、不自然な角度で跳ね上がった少年の魔杖に脇腹を打たれ、骨の折れる鈍い音を辺りに響かせた。
その顔が苦痛に歪み、無秩序に放たれていた魔法が途端に統制を取り戻す。
ジェシカは咄嗟に後方に下がり身構えたところで自分の魔杖が折れている事に気付き、すぐそばに血溜まりに沈む別の魔杖を見つけると柄だけになったそれを投げ捨て飛び付く様に魔杖を握った。
自分に扱える物なのかを確認する気も回らず、慌てて魔杖を構え直す。
しかし少年に押される形で後退したターゲットはもうジェシカには見向きもしなかった。
見逃された?いや、
「…眼中にも無いってこと…かな…?」
何となく拍子抜けした気分で魔杖を下ろしたジェシカは、滑った手触りに気が付き、地面に伏した魔杖の持ち主を見下ろした。
避難誘導をしていたジェシカは突然王軍とおぼしき部隊に声を掛けられた。
それは奇妙な部隊だった。一目で軍属の人間だと分かる者から、明らかに一般人にしか見えない服装の者まで。格好は様々だったが、皆一様に魔杖を握り、その目や物腰は彼らがただの市民では無い事を示していた。
その部隊を率いていたこの男は一体何者だったのだろう。
―手を貸してくれ―
そう言った男の制服は確かに王軍の物だったが、男の動きは軍隊のそれとは明らかに違っていた。
もっと小規模での戦いに特化した者の動き。特殊部隊…テロリスト…。
「I.C.E?」
ジェシカの知識でその条件に当てはまる組織は他に無かった。
軍警察の中でその存在がまことしやかに噂されている、旧アルストロメリア王国隷下の特殊部隊。
それが何で?
ふと通りを見渡せば声を張り上げて避難を誘導しているのは軍警察と王軍の混成部隊だった。
傷付いた魔法使に肩を貸すのは軍属ですらない一般市民。
―ホントに人を思いやれる人間の力が国を守るんだと…―
アーリッシュの言葉を思い出す。
結局人間はどうしようも無くなった時には組織も理念も越えて手を取り合うものなのだろう。
この男もそんな『人間』の一人だったのだろうか。バラバラに砕けてしまった姿からはもう何も意思を感じる事は出来ない。
少年に目を戻す。正にあの一撃が状況を一変させていた。
それは鬼神のごとき猛攻だった。地を這う獣の様に追いすがり、ジェシカの目では捉えられない速度で繰り出された攻撃は、ターゲットのフィールドを引き裂き破けたフィールドから叩き込まれた魔杖が誰も傷つけられなかったターゲットの身体を殴打していく。白かった肌は赤黒く腫れ上がり、飛び散った血がフィールドの内側にへばり付いていた。
「あれは…」
ジェシカは少年が振るっている魔杖に気が付いた。
間違い無い。それはアーリッシュの魔杖だった。
首都アルストロメリアに下りてからすぐ分かれた彼女は、結局約束の時間になっても合流地点には現れなかった。
その彼女の魔杖が目の前の少年の手の中にある。
その瞬間、何故かジェシカにはアーリッシュがもうこの世にはいない事が分かった。
だが不思議と悲しみは無い。
その魔杖の輝きはアーリッシュの強さそのものの様に見えた。
「アーリー…あなたはそこにいるのね」
彼女の魔杖は、彼女以外の誰も扱う事が出来なかった。
その魔杖が彼を選んだなら間違いない。
ジェシカは手にした魔杖の血を払う様に振るうと、まだ生き残っている隊員の元に駆け寄った。
「さあ、今のうちに逃げよう!」
しかし隊員はジェシカに袖を引かれても立ち上がろうとしない。
「何してんの!早く逃げないと死んじゃうよ!」
隊員は尚も強く袖を引くジェシカをのろのろと見上げた。
「逃げるって、どこに?どこに逃げたって、皆あいつに殺されるんだ」
憔悴しきったその顔にジェシカは笑って頷いた。
「大丈夫、もうすぐ終わるわ」
自信たっぷりなその表情を見上げ、隊員は首をかしげた。
「…何で?」
「そんなの決まってるじゃない。私のアーリーは絶対に負けた事が無いんだから!」
自慢げに言い切った言葉に分かった様な分からない様な表情を浮かべた隊員を強引に立ち上がらせて、ジェシカはその場を離れ始めた。
少年には悪いが既にその戦いはジェシカが立ち入れないものになっている。
それならば少年が作ってくれたこの時間を使わせて貰う事にする。
ジェシカにはまだやるべき仕事が残っているのだから。
―この杖はね、私の大切な人から貰った杖なの―
ポーカーフェースの彼女にしては珍しく満面の笑みで語るその姿を思い出し、ジェシカの頬を一筋だけ涙が伝った。
◆
―逃げた…良かった―
目まぐるしく流れる視界の隅に、取り残されていた魔法使二人が路地から離れて行くのを確認してベルは内心で安堵の溜め息を吐いた。
もちろん今のベルに本当に息を吐く余裕などは無い。衝撃波を放つ度に肺は押し潰され喉からは空気の漏れる呻き声に似た音が出るだけだ。
急激な加速に圧迫されて、視界は既に色彩を失っている。魔杖を握る手の平が滑る。皮が向けて血が滲んでいるのだろう。
しかし痛みは感じない。
お互いの一撃が致命的な一撃になるに違いないこの状況で、そんなものが入り込むゆとりなどは無い。
それはシルフィーも同じなのか身体のあちこちから血が滲み折れた左腕は力無く垂れ下がっているが、その瞬間こそ苦痛を示した表情は今や元の無表情に戻っている。
―いや、上気した白い頬やこちらを睨む瞳からは明らかな意思を感じた。
憎悪。
植え付けられたが故の純粋な憎悪をまとう彼女が、ベルにはとても人間らしく見えた。
魔杖を振り抜いた反動を利用して右脚を振り上げる。
結局、自分が何が出来るのかなんて分かっていたんだと思う。
それはもうずっと前から。
それに立ち向かわなかったのは、やっぱり甘えていたのだと思う。
逃げていたのだと…思う。
ベルの魔法は強力だ。それはもう比類の無い程に。
魔法とは魔法学フィールドごと世界の状態が変化したものだ。例えば『氷』の魔法ならそれは『氷』であり同時に『魔法学フィールド』でもある。
だから魔法は魔法使のフィールドを突破出来る。
魔法使だけが魔法使を殺せる。
魔法学フィールドを変化させているのは呪文だ。
呪文は単語の集まりでは無い。
空気中の水分を集め、熱量を奪い温度を下げて初めて『氷』が生み出される。その為の手順が呪文に記されている。文法が意味を繋ぎ、物語を紡ぐように。
一人の魔法使が使える魔法は一種類。例え魔法を生み出す過程に別の呪文、文字列が含まれていたとしても、それを単独で使う事は出来ない。『氷』の例で言えばその魔法使は熱量を『奪う』事は出来ても『再び入れる』事は出来ない。集めた水を『水』の魔法として使う事も出来ない。全ては魔法を発生させる為の段階でしかない。
だがその不文律を越えなければ強化はできる。
氷→硬い氷→硬い槍状の氷。
魔法を強化すれば単純に呪文の文字数が増える。どれ位の文字を扱えるかがそのまま魔法使の強さのレベルに繋がる。
そしてそれを左右しているのは結晶体の保有量だ。
結晶体を多く保有していれば当然それだけ多くの文字を扱える。
ベルの身体に宿った魔法が有り触れたものであったなら、或いはそこまで悩む事は無かったのかも知れない。
だがベルが得た魔法は空間を圧縮する力だった。
高性能の天体望遠鏡で星を見れば、強大な質量を持った星の周りでは空間が捩じ曲がっている場所がいくつも観測できる。
質量とエネルギーは等価だ。空間を圧縮させる為には強大なエネルギー、つまり長大な呪文が必要だった。
ベルの魔法は強力だ。
それはもう、比類無い程に。
圧縮された空間は開放された瞬間に衝撃波を生む。それは高性能爆薬の数十倍のエネルギーに相当し、通常の魔法使のフィールドなど紙よりも簡単に引き裂いてしまう。
そこに威力の調節などと言うものは存在しない。
空間を圧縮できる最低限の出力はそのまま魔法使を確実に吹き飛ばせる威力を持ってしまう。
逆にそれより出力を抑えれば一切の魔法が行使出来なくなる。
実用レベルで魔法を使おうと思えば、ベルは確実に対戦相手を殺してしまうのだ。
通常の魔法使は言うに及ばす。増して未熟な学生同士なら間違いなく。
王立魔法使学園は正確には学校ではない。王軍の兵士としての技術知識を身に着ける訓練所だ。
人ならざる力を持つ者同士、時には訓練中の事故で命を落とす者もいる。少なからず。
だがベルはそんな現実から目を背けた。無意識に自分の力を封じ込め、強くなる努力を放棄した。
人を殺してしまう可能性から逃げたのだ。
自分の手は汚さない様にしながら、シルフィーを守りたいなどと、のうのうと…。
今なら分かる。シルフィーも、いや同じ様に結晶体の力を持って生まれた者なら誰しも同じ苦しみを味わうのだと。
―僕らは簡単に人の命を奪える―
望んで結晶体の力を得た訳では無い事は問題ではない。
どうせ人は自分の道しか歩けない。望もうと望むまいと、誰しも可能性を持って生まれる。その中の一つとしてたまたま持っていたのが結晶体の力だったに過ぎないのだ。
可能性を育てる義務は誰にも無い。だが権利はある。その身に力を宿す事を許された人間は少ない。
力は使う為にある。
少なくとも自分が正しいと思える事に。
ベルはシルフィーを守りたいと思った。
その為に力を使いたいと思った。
そう、自分が何が出来るのかなんて最初から分かっていた。
―あの日君を殺した技で―
「シルフィー、君を助ける!」
絞り出す様に叫んだベルの脚が今、流れる呪文の光で赤く染まる。
衝撃波が絶対に相手の命を奪ってしまうのなら、衝撃波そのものを当てなければ良い。
だから衝撃波の力を打撃に上乗せする事でベルはその破壊力を『適度な』ものに下げていた。
しかしシルフィーのフィールドを突破する為にはどうしても衝撃波そのものを当てる必要があった。
だが空間圧縮の魔法はベルの結晶体を持ってしても、その発動に必要な呪文に対してギリギリの容量しか無かった。数メートル先の空間に圧縮空間を発生させる為にはそこまで魔法学フィールドを広げる必要があり、フィールドを広げる為にも『フィールドを広げる』と言う呪文が必要になる。
その僅か数メートル先に広げて薄くなったフィールドの密度が、書き加えられる呪文の文字数が魔法の発動を阻害する。比類無い程に強力だが大雑把で融通が利かない。兵士として、兵器として、それは明らかに失敗作だろう。
ベルは内心で苦笑する。何が絶対兵器だ。
だがベルに与えられたのはこの力しか無く、そして今はそれを与えてくれた誰かに感謝していた。お陰で世界でただ一人自分だけが今のシルフィーに対抗する事が出来る。
魔法の遠距離発動は出来ない。だからベルは出来るだけ自分の身体の近くの空間を、出来るだけシルフィーのフィールドの近くで圧縮し衝撃波をぶつける必要があった。
近くて遠い。一種矛盾したこの要求を満たす術をベルはたった一つだけ持っていた。
結晶体を流れる呪文に従い、魔法が空間を圧縮していく。圧縮された空間は解き放たれた瞬間には復元され、同時に強力な衝撃波を生んだ。
下腿の後ろから打ち出された衝撃波はベルの脚を後押しし、その蹴りを決して常人では有り得ない速度にまで一瞬で加速させる。
加速した蹴り脚は例え予期していても絶対に避けられない、相手が結晶体を持たない普通の人間なら、いや通常レベルの魔法使であっても一撃でフィールドを突破できる威力を持ってシルフィーに襲いかかった。
シルフィーはベルの蹴りに付いていってはいない。しかし障壁状態に集中したフィールドをその蹴りで突破する事は不可能だ。
そして、ベルの目的は蹴りを当てる事では無かった。
魔法を発動し終えて流れ切るはずの呪文の光が、脚の末端に達した文字から順に再びその身体を流れ始めた。
大容量の魔法は必然的に呪文が長くなる。だから魔法が発動されるまでにはどうしても僅かなタイムラグが生まれてしまう。
しかしベルは魔法の発動が終わる前に次の呪文をループさせる事でそのタイムラグをゼロにしたのだ。
蹴り出したのとほとんど同時にフィールドに到達する、その瞬きにも満たない一瞬の間にベルの脚の周りの空間が圧縮される。
臨界に達した空間が衝撃波を打ち出すのはベルの脚の後ろでは無く正面。ほとんどシルフィーのフィールドと接触している僅かな空間に。
打撃に変換されていない純粋な衝撃波が、絶対的な強度を誇るシルフィーのフィールドを引き裂く。
予期せぬ方向から予期せぬ衝撃を受けたシルフィーが、おののいた様に破れた自らのフィールドを振り仰いだ。額から飛んだ血の飛沫がフィールドの内側に張り付く。
―っ!―
心が痛い。身体は痛みを感じなくなっているのに、心だけがそれを拒否している様に。
振り抜いた魔杖を握る左手の甲から衝撃波を放ち、慣性で左に流れていた魔杖を強引に弾き飛ばす。目の前を流れる左手が握った魔杖の柄が右手に滑り込んだ。
その柄をしっかり握り込みベルは魔杖を上段に構えた。腕を流れる呪文がループし腕の周りの空間が圧縮される。
生半可な攻撃は防がれてしまう。
矛盾しているようだが、シルフィーを助ける為にはシルフィーを殺すつもりで攻撃を仕掛けるしかないのだ。
「うおぁぁぁ!」
その瞬間こちらを見たシルフィーと目が合い、再び痛んだ心を無視しベルは破れたフィールドの中に魔杖を叩き込んだ。
◆
なんでこの人は泣いているんだろう、とシルフィーは思った。
事実"そいつ"の攻撃は凄まじいものだった。振り切ろうにもそのゼロ距離加速はシルフィーを上回っており、それと同じ速度で放たれる蹴りはシルフィーの目ではまったく捉えられない。
フィールドを介せばそれも可能なのだろうが、"そいつ"の攻撃を防ぐには能力のほとんどを障壁に割り当てねばならず、感覚圏を広げる余裕などは無かった。
三発食らった段階で"そいつ"が空間圧縮の衝撃波を直接フィールドにぶつけているのは分かった。その威力は驚異的ではあったが、それでも意識を集中すれば何とか防げないものでは無いだろう。
だが厄介なのは戦法が変わっても最初と全く変わらない速度を持つ蹴り脚の方だった。
別の生物の様に縦横無尽に軌道を変えるその脚がシルフィーが全く予期していない角度から衝撃波を叩き込んでくる。
もはやその脚は直接打撃を与える為の武器では無く、効率的に衝撃波を打ち込む為の道具に全くその役割を変えていた。
「ぐぅっ!」
激しい衝撃がフィールドを揺さぶる。叩き付けられたであろう蹴り脚はやはり瞬間移動にしか見えず、残像すらシルフィーの目には止まらない。
左上のフィールドが破れ焼けたアルストロメリアの熱気が流れ込む。思わず振り仰いだ瞬間、今まさに魔杖を振り下ろそうとしている"そいつ"と目が合った。
泣いている。裂けた額から流れる血に塞がれた片目からも、こちらを見つめる片目からも、子供の様な顔で、情けないくらいの涙を流して。
―なんでこの人は泣いているんだろう―
叩き込まれた魔杖がシルフィーの左鎖骨をへし折る。鋭い痛みが脳を貫き、左腕の感覚が消失する。元々折られていた左腕はこれで完全に使い物にならなくなった。
この距離では右手のガングリオンは使えない。そもそもガングリオンを起動させる余裕などは与えてくれないだろう。
ただでさえ強引に起動させ続けたガングリオンからは先程から不自然な動作音が響いている。
壊れてしまった。自分と同じ様に。
状況は圧倒的に不利。だがそれなら何故"そいつ"は自分にとどめを刺さないのか。
魔杖を振り抜いた反動を利用して"そいつ"の身体が回転する。
隣りの脚に体重が移る一瞬向けた背中にシルフィーは魔法を放った。
大した威力も無い、牽制にもならない攻撃。普段の"そいつ"なら避けるまでも無くフィールドで弾かれてしまう様なその攻撃が、"そいつ"の背中を切り裂き浅い傷を付ける。
そうシルフィーの攻撃は、当たる。例えダメージとも言えない傷しか与えられなくても、"そいつ"が負っている傷を考えればそのまま食らい続ければいずれは危険になるかも知れない程度の傷を。
回転の途中で加速された蹴り脚がシルフィーのフィールドを引き裂く。また左側から来るかと思ったら今度は直上だった。
魔杖が叩き込まれるのは必ずフィールドが破れた所だから蹴り脚と違ってその軌道は読めるのだが、既に身を守るフィールドは突破されている為シルフィーは甘んじてその攻撃を受けるしかない。
それでも何とか身を引いたシルフィーの頬を魔杖が掠める。ただそれだけで頬の肉が簡単に裂けて血が吹き出す。
例えば、今この瞬間に魔杖から魔法を放てば、それで全てが終わる。フィールドの内側に入られてしまえばいくらシルフィーでも、それは普通の魔法使と変わらない。
だが"そいつ"はあっさり魔杖をフィールドから引き抜くと、その瞬間には打ち出されていた蹴り脚から放った衝撃波をフィールドにぶつけていた。
そうか。魔杖では威力が高過ぎで"そいつ"の魔法を受け止める事が出来ないのだった。
突然頭に割り込んで来た見覚えの無い思考に彼女は殺意を覚える。
憎い。
時々現れて知った様な口をきくこの声が憎い。
自分をこんな姿にした白衣の男が憎い。
学園を襲ったあの化け物が憎い。
自分を受け入れない世界が憎い。
憎い。全てが憎い。憎む。
絶え間ない衝撃にフィールドごと揺さぶられその度に身体を魔杖が打ち据える。
甘い、と思う。
一撃で自分を葬れないなら、この期に及んでまだ手加減をしていると言うなら。
「それが…甘いと言っている!ベル!!」
それを聞いた"そいつ"の顔が声を出して無く寸前の様に歪む。
「ああぁぁ!」
悲痛な叫びを上げ"そいつ"は魔杖をシルフィーの身体に叩き込み続けた。
私は全てを破壊する。
全てを憎む。
憎悪。私にはそれしかないのだから。
だったら…なんでわたしは涙を流しているのだろう…。
◆
いつの間にか分厚い雨雲に覆われ始めた空をジルギアは呆然と見上げていた。雲間から漏れる弱々しい月の蒼い光が首都アルストロメリアを包む煙に幾筋かの線を引いている。
雨の様に降り注いでいた魔法弾も実験体が地面に叩き落とされた事でピタリと止んだ。この近辺の避難は差し当たり終了、もしくは放棄されたのか先程まで慌ただしく誘導の声を上げていた人達の姿も見えなくなり、そこだけが忘れられた様にぽっかりと奇妙な静寂の中にあった。
先程からすぐそばの建物が軋みを上げている。心なしかこちらに角度を傾けている様にも見えたが、ジルギアにはどうでも良い事に思えた。
何でこんな事になったのか。どこで間違えてしまったのか。
全てが間違いだったとしか思えない。
全てが…間違いだったのだろう。
だが、それでもきっかけを見出だすとするならば…それは四年前。レイシア研究所になるのだろう。
アーキタイプミオル…そして『扉』を巡る事件。
この世界には対を成すもう一つの世界があると言う。両者は普段は交わる事は無いが、研究所で、戦場で、大きなエネルギーが生まれる場所でその現象は報告された。
二つの世界を繋ぐ空間の穴。それはいつしか『扉』と呼ばれる様になった。
『扉』からもたらされる異世界の技術は『こちら』の概念を逸脱した異常な物で、軍はその力を欲した。『扉』を自由に開けられる術を探した。
そしてジルギアの研究は利用された。後に次世代魔法使構想と呼ばれる、悪魔の研究が始まった。
ジルギアは研究に取り付かれた。本来の目的を見失い、ただ強い魔法使を作り出す事に没頭した。
それまで日の当たらなかった研究が突然許可された事の裏にどんな思惑があったのか、曇った目では見えようはずが無かった。
気が付いた時は全てが遅かった。ジルギアの研究結果は秘密裏に別の機関に流され彼の意にそぐわない形で一つの完成をみた。
そして四人の少女達が作られた。
少女達はただ『扉』をこじ開ける為だけに生み出され、死んだ。
最終実験は強行され、そして失敗した。
未熟な次世代魔法使構想では『扉』をコントロールする事が出来なかった。
暴走し『扉』に飲み込まれようとしていた世界を救ったのは少女達だった。自分達を救いの無い身体にした者達を救う為、そんな者達を生み出し、自分達には何も与える事の無かった世界を救う為、彼女達は命を引き換えた。
ジルギアはたった一体完成していた実験体を使い実験装置ごと『扉』を破壊し、そして彼女達が命懸けで救った者達を殺した。
実験体は『扉』の中に消え、ジルギアだけが残された。
事件は一人の勝利者も生み出さないまま終結した。
首謀者が全員死亡した事で事件の背景は分からなくなり、ジルギアは単なる被害者として別の研究所に異動した。
それからのジルギアは一層研究に打ち込んだ。その姿は正に狂人じみていた。
ただ次世代魔法使構想の完成を目指した。
ただ絶対的な力を望んだ。
世界を救う為に、世界を滅ぼせる程の力を。
ジルギアは辺りを見渡した。
燃え盛る街。散らばる死体。
死んだ。
沢山死んだ。
いつからだろう。目的と手段が入れ替わってしまったのは。
次世代魔法使構想はこうでは無かった。彼女達が望んだものはこれでは無かった。
魔法使と一般人との垣根を取り去る事こそが。愛に満ち溢れた世界こそが―
「ジルギアっ!」
自分の名を呼ぶ声があった。
煙る街の中。瓦礫に塞がれた灼熱の道の先で。
ボロボロの格好で金髪の少女に肩を預けて。
「…カイン…」
自分と一緒に運命を狂わされた親友の姿がそこにあった。
「建物が崩れる!早く逃げろ!」
もはや肩を借りて立っている事もできず、ほとんどウィラにぶら下がる様な状態でレオンは叫んだ。
止どまる事を知らない血が背中を支えるウィラの肩から身体を伝いズボンを流れ落ちる。
道を塞いだ瓦礫は乗り越えられる状態では無く、いや例え平坦な道であってももはやレオンにこれ以上足を進める体力は残っていなかった。
ジルギアはそんな二人の姿を見ながら、しかしその場を動こうとはしない。すぐ隣りの建物は軋みを上げながらゆっくりその角度を傾け始めている。
「何やってる!今なら間に合う!早くこっちに来い!」
レオンの言葉にジルギアは視線を伏せて首を横に振った。
「…もう手遅れだ…。そっちには行けない。沢山殺してしまった…。彼女も…アーリッシュ…」
その名前を聞いた瞬間レオンの身体がビクリと震えた。蒼白を越して土気色の顔が悲しげに歪む。
力を失いかけた瞼をキツく閉じ、叫んだ。
「馬鹿野郎!お前の罪が死んで償えるほど軽いものかよ!」
俯いていたジルギアの顔が跳ね上がる。
建物はさらに傾きを増し、ジルギアの頭の上からパラパラと破片が降って来る。
「逃げるな!簡単に楽になろうとするなよ!生きるんだよ!生きて…お前が踏みにじった人達の恨みを背負って、苦しんで生きろ!」
声を出す度に傷口から血が噴き出し、背中に回したウィラの腕が血に染まる。
ガクンと身体から力が抜け、倒れそうになったレオンをウィラは血まみれの腕に力を入れて必死に支えた。
もう顔も上げられなくなったレオンは、それでも叫んだ。心臓を突き刺す様な痛みに顔を歪め、魂を吐き出すように声を張り上げた。その男の心に届けと。
「そしてその手で…もっと沢山の命を救えっ!!」
その瞬間、降り注ぐ破片が一気に大きさを増し、根元から倒れかけていた建物が自らの重みに耐え兼ねた様に全高の真ん中から二つに折れ、大小様々な破片を撒き散らしながらジルギアの頭上を覆った。
ジルギアはその光景を呆然と見上げた。
もうさっきまでの幸運は自分には訪れないだろう。
あっけない…余りにあっけない死が目の前に迫っていた。
押し潰される一瞬の間にジルギアは胸の赤ん坊の重みを思い出した。
せめてこの子だけでも助けるべきだった。アーリッシュの行為は全て無駄になってしまった。
自分はまた人を殺す。この胸の小さな命も、自分を助けようとした人の、そして今自分を助けようとしてくれた親友の思いも、全て無駄にしてしまう。
一つの命が果てるだけでは無い。その命に関わった全ての人の思いを、一瞬で殺す。
これが死か。
無意識に胸の包みを強く抱き締めた。一瞬後に訪れる衝撃を待った。
「ジルギアっ!!」
レオンはウィラに預けていた拳銃をもぎ取り、左腕の先に僅かに残された結晶体に押し当てた。呪文に集中する。
―ふざけんじゃねぇ!やっと見つけたんだ!四年前に届かなかった手がやっと届く所まで来たんだ!俺の前から二度も居なくなるなんて許さねぇ!―
しかしその腕を赤い光が流れる事は無かった。
もはや生命機能を維持するギリギリの力しか残っていないレオンの身体に魔法を使う余力は残されていなかった。
目を見開くレオンの顔の前を、血に汚れた細い腕が横切り拳銃の上に手の平が添えられた。
ウィラの首筋の結晶体が輝き、フィールドを介して流れ込んだ呪文が拳銃に装填された結晶体弾頭を赤く染めた。
揺れる視界を堪え、レオンは引き金を引いた。
雷鳴にも似た炸裂音。赤い光の線が幾筋も空中に引き残され、建物の壁面に突き刺さる。
弾のフィールドはそれぞれ繋がり合い、壁に魔法陣を描く。
しかし、その時降り落ちる破片がその勢いを増した。魔法発動のトリガーとなる一発が着弾するはずの場所が、人一人分はあろうかと言う大きさの破片が遮る。
弾はその表面に小さな火花を散らし、ただけだった。
「…くそったれ…」
不完全な魔法はショートした様に虚しく明滅しただけで、建物は何事も無く崩れ落ちた。
絶対的な質量を持つ瓦礫の滝が真下に座り込んでいたジルギアの白い人影を押し潰し、爆発的に吹き上がった土煙が全てを覆い尽くした。
◆
「っ!?」
その衝撃はベルの身体にも響いた。
何度も聞いた建物が崩れる音と、そしてその直前に聞こえた銃声は…。
魔杖を振り抜いた反動で回転する視界の中に先程までジルギアと自分がいた辺りの建物が一つ無くなっているのが見えた。その下から激しく土煙が立ち上っている。
嫌な予感がした。
―ジルギア、まさか…―
だが次の瞬間見えてきたものに、ベルは自分の目を疑った。
瓦礫に塞がれた道の向こう。金髪の少女と、少女に肩を借りた銀髪の青年の姿が確かに見えた。
「は…ははっ…」
状況も忘れてベルは思わず笑ってしまった。もちろん超加速中では声を出す余裕など無いが、それでも笑わずにはいられなかった。
生きてる…生きていた。
そう、まだ何も終わって無い。シルフィーもまだ生きている。まだ間に合う。
まだ、間に合うんだ。
「おあぁぁ!」
回転したベルの蹴り脚が加速しシルフィーのフィールドを蹴り飛ばす。
シルフィーは顔をかばう様に腕で覆い、しかし途中で軌道を変えた蹴りはそのシルフィーの頭上に叩き付けられた。
実際にはジェシカやシルフィーが思っていた程には圧倒的に有利な状況では無かった。
呪文をループさせ、ほとんど同時に魔法を発動させる為には単純に二倍の負荷をフィールドは負う事になる。その分の容量は調達する為、ベルはフィールドのほとんどの能力を攻撃に割り当てなければならなかった。
シルフィーが牽制で放った魔法がベルの身体を切り裂く。
普段なら避けるまでも無いその魔法を防ぐ事が今のベルには出来ない。
噴き出した血がシルフィーのフィールドの表面を汚す。
障壁状態のフィールドを発動出来ない今、ベルの身体を守るものは何も無い。シルフィーが相打ち覚悟で魔法を使えば、それこそその辺の建物から落ちて来る破片の一つでも直撃すれば、それで全て終わってしまう。
それだけでは無い。人間の運動を完全に無視した機動を行う度に普通の人間部分である筋肉や腱が音を立てて千切れていくのが分かる。
もう脚には感覚が無い。漠然と何かがぶら下がっている感覚しかない。もはや脚は脚としての機能を果たせないだろう。
腕も、振り回された頭も、身体のあちこちが魔法を使う度に壊れていく。
ハードパンチャーは自らの打撃で拳を壊してしまうという。
この状況が長引く事。このまま魔法を使い続ける事。それはそのままベルの死を意味していた。
それでも、例え自分の魔法が自分自身を壊そうとしていたとしても、ベルはこの状況を保ち続けなければならなかった。
いつか訪れるはずの、本当に訪れるのかも分からないそのチャンスの為にこのギリギリの均衡を保ち続ける必要があったのだ。
フィールドの間隙から叩き込んだ魔杖がシルフィーの眼前を擦り抜け、掠めた頬が破けて血が噴き出す。
感覚の無い脚を無理矢理踏ん張りシルフィーに追いすがりながら振り抜いた魔杖を構え直そうとした瞬間。
突然、白と黒に塗り分けられていた視界が真っ黒に染まった。
何も見えない。
―な…―
ガクンと身体が力を失い前のめりに倒れて行くのと同時に全身の感覚が消失した。
―なんてこった―
血を流し過ぎた。
ついに身体が限界を越えてしまった。
残された僅かな意識が急速に薄れていく。
恐怖も後悔も無かった。ただ無力感だけがある。
自分は死ぬ。
レオン、ウィラ、シルフィー、ジルギア。誰の期待にも答えられないまま、こんな中途半端なところで。
何も残せないまま。誰も救えないまま。
その時、消えてしまったはずの右手に、温かい感触がした。
魔杖を握る右手に誰かの手の平が添えられた様な、柔らかくて温かい感触が。
漆黒に染まった視界の一点から光が噴き出し、視界の端に長い黒髪が横切ったと思った瞬間。
「!!」
唐突に全ての感覚が戻ってきた。
すぐ目の前には凄まじい速度で流れる地面が迫っていた。
「くっ!」
ベルは魔杖の柄の先を地面に突き立てると、ガリガリと激しく地面を削るそれを支えに一気に身体を引き起こし即座に右脚を叩き付けて勢いを殺した。
数メートルも滑走し、魔杖全体があやしい軋みを上げ始めた頃ようやく停止した。
意識を失っていたのはコンマ何秒か。
だがその間にシルフィーは充分な距離を取り、既に空中に浮き上がり始めていた。
もう追いかけて間に合う距離では無かった。学園の時と違い今のシルフィーにはあの大砲が握られている。
前の様にただ追いかけるだけでは音速を遥かに越えると言うその弾で狙い打たれるだけだ。
均衡は崩れてしまったのだ。
ベルは魔杖を左手に握り代えると右手を真っ直ぐ伸ばして意識を集中した。中指と人差し指の間に急速に高度を上げていくシルフィーを捉える。
結局待っているだけではその機会は訪れなかった。いや、何度もあった決定的な機会をあえて放棄してより厳しいやり方を選んでいたのだ。
だから、この程度の不利などは不利の内には入らない。
必要なのは勝機だ。向こうから訪れないならば自分で引き寄せるしかない。
呪文が流れる。右手の平の前の空間が圧縮されていく。
実際にはベルは完全にフィールドの能力を攻撃に割り当てていた訳では無かった。
だがこの期に及んで手加減をしていた訳では無い。
例えば衝撃波を使った打撃の加速。あれをそのまま自分の身体に当てたとしたら、その部分は加速するまでも無く吹き飛んでしまう。だからベルは衝撃波を打ち出すと同時に自分の身体に障壁状態のフィールドを張り、さらに衝撃波そのものは身体とは反対の方向に指向性を持たせて打ち出していた。
それだけでは無い。外側に打ち出していると言う事は周囲に衝撃波をばらまいていると言う事だ。それでは一発魔法を放つ度にどんどん街を破壊する事になってしまうので、ベルは打ち出した衝撃波にも障壁状態のフィールドを当ててその威力を相殺し余計な被害を出さない様にしていた。
そう言った、戦いの上では無駄とも言える処理の一切をベルは止めた。
呪文をループさせる為に二分していたフィールドを、身を、そして周囲を守る為に使っていたフィールドを、今度こそ掛け値無く全て魔法発動に。
それまでの限界点を軽く越えて空間が圧縮されていく。
ベルの魔法は車で言えば常にアクセルを全開にしている様なものだ。割り振られたフィールドの容量から出力を調整する事など出来ない。常に攻撃はフィールドの容量限界の目一杯だ。だから手加減する事なんて出来ない。
その代わり、フィールドの容量の上限さえ上がってしまえば威力の強化はいくらでも出来た。
アクセルは常に全開なのだから。
シルフィーが折れていない右腕に抱えた大砲を構えた。高度は尚も上がり続けている。
命を吸い出されている様な異様な感じがした。今や通常の三倍以上の容量を得たベルのフィールドは、ベルの身体の正面にこれまで見た事が無い程の巨大な圧縮空間を生み出していた。フィールドは空間と混じり合い、フィールドごと圧縮され、圧縮されたフィールドは衝突し合いいつしか圧縮空間は強烈な光を放つ球体と化していた。
その圧縮空間が生み出す強烈な吸引力にベル自身の身体がズルズルと引き込まれていく。
「くっ…」
このまま圧縮空間に吸い込まれる訳にはいかない。
ベルの魔法を失えばその瞬間に圧縮空間は解き放たれ、膨大なエネルギーを持った衝撃波は四方にまんべんなく拡散してしまう。
それではダメだ。衝撃波の使い方は『そう』ではない。
シルフィーの大砲全体にモノグラムの様な赤い光のラインが引かれた。手順を飛ばして強引に起動させられた大砲から稲光に似た紫の雷光が幾つも散っている。
その三枚の装甲板が爪の様に開き、真っ赤に染まった内側からフィールドで形作られた二本の砲身が宙に伸びるのと、魔杖を握った左手を添えたベルの右手からフィールドの板が伸びたのは同時だった。
板の数は四枚。手の平の上下左右からそれぞれ伸びた四枚の板は、その長さを四メートル程にまで伸ばしたところで止まった。
誰に教わった訳では無い。成功する保障などはどこにも無かった。
だがシルフィーが人間を越えた存在になっているなら、自分も自分の限界を越えなければならない。
そこに成功する保障などはありはしない。
限界を越えると言うのは多分そう言う事だ。
そうやって、レオンも生き残ったに違いないのだから。
「うおぉぉぉ!!」
今、真ん中に光の球を持った巨大な花弁の様になったフィールドの板が、その球を上下左右から挟む様に折れていく。フィールドと触れた球はそれ以上の圧縮を拒む様に激しく光を放つが、ベルは強引にそれを押さえ付けるとついに板はそれぞれの側面をピタリと接触させる事に成功した。
今や全長四メートルの巨大な四角柱は、いやその存在の意味を考えれば長大な砲身と呼ぶべきその柱は、抱え込んだ力に崩壊寸前になりながらもその照準をピタリとシルフィーに合わせていた。
この圧縮空間の大砲がどれくらいの威力を持つのか、ベル自身にはもう想像がつかない。もしかしたら即席の砲身が耐えられず自分の身体ごと吹き飛んでしまうかも知れない。
でも出来ると信じる。自分なら出来ると言ってくれたシルフィーの言葉を信じる。信じた。
―だから―
―あの日君を殺したこの技で―
「シルフィー!!!」
燃え盛る首都アルストロメリアの街に二本の美しい赤い光の棒が生み出されたのはほんの一瞬だった。
ベルよりも僅かに早く発射の準備を終えたシルフィーのガングリオンは、しかしその二本の砲身から電磁加速された弾体が打ち出される事は無かった。
限界を越えた起動を強いられたガングリオンからは動作不良を示す不協和音に似た振動が響き、全身に刻み込まれた結晶体のラインから漏れ出したフィールドが空中に散っていく。
ベルを照準していた四角いディスプレイの中心に『Abnormal situation outbreak. reset a discharge sequence.』の文字が流れた。
それは発射不能を示すメッセージだった。
シルフィーはガングリオンを投げ出すとその場から全力で離脱した。
その判断は正しく、しかし決定的に手遅れだった。
シルフィーはベルが意識を失っていた間に攻撃を仕掛けているべきだった。
接近戦で殴打され続けた恐怖からガングリオンで射撃を行おうとしたのが間違いだった。
合理的でリスクを冒さない事。それが実験体としての、所詮借り物でしか無いシルフィーの人格の限界だった。
ベルは圧縮空間を解き放った。
限界以上に圧縮され、さらにフィールドで押し潰されていた空間は、解き放たれた瞬間、喜びを示す様に爆発的にその質量を復元させ、その反動でベルは後方に吹き飛ばされたが、既に全ての条件は整っていたのでそれ自体は何の問題にもならなかった。
ベルの魔法が出来るのはただ空間を圧縮する事だけ。衝撃波は単なる結果でしかないのだ。
フィールドの砲身の根元で膨れ上がった光の球が、周りを覆っていたフィールドを吹き飛ばした。そこから生み出された衝撃波は砲身を激しく破壊させながら上っていき、辛うじて指向性を保ったままその威力を夜空に踊らせた。
光の奔流となった空間圧縮の衝撃波は大気に衝突し威力を減衰させながら、しかしフィールドを打ち破るには充分過ぎる威力を保ったまま空中のシルフィーを襲った。
奔流に飲み込まれたガングリオンは一瞬で形を失いその姿を塵に変えた。
辛うじて直撃は避けたシルフィーだが、それはもはや避けたからどうと言う問題の威力では無かった。
余波を食らっただけであれ程絶対的な強度を誇っていたシルフィーのフィールドが紙の様に引き裂け根こそぎ引き剥がされていく。
後に待っていたのは身を守るものの無い、純然たる生身へのダメージだった。
それは尋常なものでは無かった。
一瞬で身体が崩壊寸前のダメージを受けたシルフィーの身体はきりもみを打ちながら空中に投げ出された。
身体が動かない。辛うじて意識はある。だが全身が痺れた様に全く言う事を聞かない。
まるで、そうまるで他人の身体の様に。
回転する視界の中に蒼い月明りは見えなかった。
誰もがその光を見た。
避難の誘導をする者も、その列に混じっている者も、瓦礫の下の声に呼び掛けていた者も、無人の商店から食料を盗んでいた者も、焼けただれ道に倒れ伏した者も…。
誰もが等しく夜空を見上げた。
漆黒に塗り込まれた夜空を一つの光が上っていく。
それは余りに強く、余りに白く、余りに美しい光だった。
やがて光は力を使い果たした様に輝きを失うと、その姿を轟音に変え夜空に散っていった。
地平線にまで届く様なその轟きを聞きながら、人々の心には何故か『終わった』と言う思いが沸き立った。
もちろん彼らにはこれから永遠に終わりなき戦いが待っているのだが、それでも、自分達を置き去りにして何か決定的な局面が過ぎ去った事を悟った。
一つの悲しい事件が終わりを迎えようとしていた。
「がはっ!」
倒れ込んだベルの腹からおびただしい量の血液が溢れ地面に広がっていく。激しく咳き込んだ喉から溢れた血液はもはや喀血などと言う生易しいものでは無く、決定的に致命的な何かだった。
衝撃波の反動で吹き飛ばされたベルが叩き付けられた瓦礫の山から突き出した鉄の構造材の先端から血が滴り落ちる。
身体から急速に力が抜けていく。流れ落ちる様に命が失われていくのが分かる。
「…くそっ」
何とか頭を動かしてシルフィーを見る。
いた。
衝撃波が破壊したフィールドの砲身の破片が舞う空の向こう。
身体を回転させながら落ちていく。
機会は訪れた。
ついに待っていたチャンスが訪れた。
なのに、身体が動かない。手足は虚しく地面を掻くだけでちっとも地面を捉えてはくれない。
まだだ。まだ終わって無い。まだ何も終わって無い。
ベルは頭の上に放り出していた魔杖を、血で汚れた手で握った。
これからだ。本当にやらなきゃいけない事はこれからなんだ。
まだ始まってもいない。
動け。
動け。
今動かなかったら。今動けなかったら、全部終わりなんだ。
そんなのはもう嫌なんだ。
自分の弱さで誰かを失うのは嫌なんだ。
だから動け。
動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け…
「ぅ動けぇぇぇ!!!」
その身体を、失われていた光が満たした。
瓦礫の山を吹き飛ばし、ベルの身体が一気に加速した。血の色より鮮やかな呪文の光に染まった身体が一陣の風の様に燃えるアルストロメリアの街を走り抜けた。
魔杖を下段に構え、ベルは見えない階段を駆け上がった。
足から打ち出された衝撃波の余波を食らった建物の壁が砕け散る。
腹から流れる血も、喉の奥から溢れる血ももう気にはならなかった。
後少し。もう一度だけ魔法を放つだけの命が残っていればそれでいい。
最後の衝撃波の階段を蹴りベルは魔杖を振り上げた。
透明な長い髪を宙に散らしたシルフィーは脱力した様に空中に横たわり、虚ろに漂わせた視線は、それでもベルの姿を認めると焦点を合わせ、跳ね上がった髪が身を守ろうと呪文を流し、そんな抵抗を全て無視して振り下ろされたベルの魔杖は、シルフィーの額に埋め込まれた小指の爪程の大きさの小さな菱形の結晶体の内、その真ん中辺りまでヒビを走らせた、不規則に明滅を繰り返すその一つを目掛け、魔杖の先端に埋め込まれた結晶体をぶつける様に、叩き付けられた。
魔杖を介して流されたベルの魔法が魔杖の結晶体に呪文を流し、接触しフィールドを共有したシルフィーの額の結晶体に強制的に呪文を流し込んでいく。
「あああああああ!!」
その小さな結晶体の中を膨大な量の呪文が飛び交う。
四肢を引きつらせたシルフィーは目を見開き、声と言うには余りに悲痛な叫びを上げた。
魔杖の結晶体を流れる呪文はさらに勢いを増す。
残された力の全てを流し込む様に、ベルは魔法を使い続けた。
まだか。
まだなのか。
早くしろ。早くこんな時間終わっちまえ!
負荷に耐え兼ねた様に魔杖全体が激しい軋みを上げた。
ダメか。
そう思った瞬間、シルフィーの額の結晶体が光を失った。
―パキッ―
それは事態の終結としては余りに小さくあっけない音だった。
その時シルフィーは状況とは全く関係の無い、あるはずの無い光景を視界に捉えていた。
仰向けで宙に横たわったシルフィーをそいつは見下ろしていた。
腰まで届く様な長い透明な髪を持った少女。
何故か悲しげな顔で自分を見下ろしている。
―やっと会えたわね。もう一人の私―
少女の声はシルフィーの声と良く似ていた。
―ずっと、あなたと話をしたいと思ってた―
違う。
私はお前とは違う。
―いいえ同じよ。あの日、あの男を殺そうとした私の憎しみそのまま―
……。
―もう充分でしょ。私の中に戻ってきなさい―
…違う。
私には何も無い。
お前の様に生きる意味も…守るものも…守られるものも無い。
少女が伸ばした手がシルフィー頬を両方から包んだ。
―死んで分かる事なんて無いわ。生きましょう。私と一緒に―
その時、シルフィーの頭の中で決定的な何かが途切れたのが分かった。
少女の手に吸い込まれる様に急速に意識が遠のいていく。
何故この少女は泣いているのだろう。
何故あの少年は涙を流しているのだろう。
何故私は…。
私は…。
こんなに悲しいと…。
手の中から魔杖を握っている感覚が消えた。
バラバラに砕けた魔杖の先端に埋め込まれていた結晶体が、そのヒビ割れの隙間からフィールドを溢れ出させ、次の瞬間、破裂した。
「つっ!」
ベルとシルフィーのちょうど真ん中で破裂した結晶体の衝撃は、ベルの身体を上に、そしてシルフィーの身体を地面に向けてそれぞれ押し出した。
二人の間を、絶望的に分かつ。
飛び散った破片に傷付けられてもシルフィーはもう全く反応しない。
死んだ様に、力無く地面に向かって落下していく。
「っシルフィー!!」
ベルの身体を一際強い光が駆け巡った。
―あの日、僕の手は君に届かなかった。だから、今度こそ―
その時、ベルはこの戦いが始まって以来一番強く空間を蹴った。
流れ星にも似たその赤い光は暗い夜空を斜めに横切ると建物の影に入り見えなくなった。
少し遅れて何かが落下した衝撃が地面を伝わってきた。
「終わった…か」
ジルギアは夜空を見上げながらぽつりと呟いた。
崩れ落ちた建物の瓦礫が散乱する道の真ん中でジルギア直前と変わらない姿勢のまま座り込んでいた。
その身体の周りには小規模のフィールドが展開していて、彼を押し潰そうとしていた瓦礫からその身を守っていた。
「君か…」
胸に抱いている赤ん坊の閉じられた左の瞼が赤く輝いている。
魔法使の持つ結晶体は人の能力を最大限に具現化すると言う。
ジルギアが諦めてもこの子は生きる事を望んだ。
誰に教わる訳でも無く、自分の可能性を精一杯に使って。
瞼の光が消失すると同時に周囲を覆っていたフィールドも消えた。
途端に熱気が身体を襲い、ジルギアは赤ん坊を強く抱き締めた。
「…行こう。君はここに居ちゃいけない」
立ち上がり、一度だけ振り返って見た通りに、もう銀髪の青年の姿は無かった。
その頬を一滴の雨粒が打った。
ぽつぽつと焼けた地面に黒い染みを作っていく雨粒が首都アルストロメリアの街を灼熱から解放していく。
ジルギアは雨から守る様に布の包みを直すと、もう振り返る事無く首都アルストロメリアの街を後にした。
隕石が落下した様に窪んだクレーターの真ん中で、少年が少女の身体を抱き留めたままうずくまっていた。
頬に落ちる冷たい水の感触に、少女はゆっくりと瞳を開いた。
雨が。自分を抱き絞めながら嗚咽を上げる少年の涙の様に、少女の頬を次々と濡らした。
「…ベル…泣いてるの…?…」
少女の右手が少年の黒髪を撫でる。
「…悲しいの…?」
「ううん…嬉しいんだ…」
少女は「そう」と呟くと夜空を見上げた。
「…夢を…見ていた気がするの…とても…悲しい夢…。でも…何も思い出せない…」
「良いんだよシルフィー。それで良いんだ…」
そう言うと少年はさらに強く少女の身体を抱き締めた。
もう二度と離さない様に。
少し驚いた様に少年を見つめた少女は、やがて瞳を閉じた。
「…うん」
髪に触れていた手を背中に回し、濡れたシャツを握った。
涙の様な雨が降り注ぐ中、二人はお互いの存在を確かめる様にいつまでも抱き合っていた。