熱
「38℃…」
朝から身体がだるいと思って早々に仕事を切り上げて帰って来たものの、見事に発熱している。しかも38℃という結構な熱。お陰で関節が痛いし、目の前もふらふらと覚束ない。インフルエンザの類ではないと思うものの、とりあえず安静にしていなければいけないと思ったので早々にベッドに入った。
幸いにして水などの摂取品目は買いおきしておいたもので間に合うし、もしも何か足りない物があったら下のコンシェルジュか、実家に電話して渡瀬に頼めばいいと思い、そのまま目を閉じた。
それから暫くすると、ピンポーンとインターホンが鳴る音が聞こえた。
ここまで入って来るのは限られている。もしかしたら翼も熱を出したのかもしれない。それで母辺りが訪ねて来たのだろうか。あいつも自分と同じタイミングでよく熱を出していた。それも大人になるにつれて自然となくなっていたが、それでもどこかで繋がっているのだとわかるのはさすがだなと思うほかない。
重い身体を無理矢理起こすと、全身汗だくで着替えてシーツも取り替えなければいけないなと思ったのだが、正直しんどくてそれどころではない。本格的に渡瀬を呼んだ方がいいのかもしれない。
それでもなんとか玄関まで辿り付き、ドアを開けると、小さな人影が心配そうに自分を見上げていた視線とかち合った。
「先生、大丈夫?わ、すっごい汗、着替えないと…」
「何でお前…」
「早乙女先生から聞いたの。先生が熱あるみたいだから早く帰ったって。あのね、すぐ帰るって約束するから、少しだけいてもいい?」
「…すぐ帰るんだな…?」
「うん。約束する。」
そう言うなり亨を寝室まで連れ戻った唯は、手際よくシーツを替えて着替えを出してくれたりしたので、気兼ねなくそれに甘える事にした。洗濯をするために濡れた物を持って行ったがうちには乾燥機もあるので、帰るまでには乾くだろう。
さらりとした感触に一新したベッドと着替えて幾分気持ち悪さからは解放されたものの、熱を計ってみるとまだ熱は引いていないようだ。心配そうに体温計を見ていた唯が慌てたように水で塗らしたタオルを亨の額にあてた。
「まだ熱が引いてないみたいだから、寝てたほうがいいよ。私、先生が起きた時に食べられるように消化のいい物作ってるね。何かあったら呼んでくれればいいから。」
「ん。」
水で冷えた指がひやりとした感触を持って頬に触れているのが気持ちいい。そのまま目を閉じると、あっさりと眠りの中へと引きこまれた。
次に目を覚ましたのは辺りが暗くなった頃だった。時計を見るとすでに夜になっていて、なるほど、それで暗いのかと思い部屋の明かりを絞って点けた。
薄暗い枕元には既にぬるくなったタオルが落ちていて、それに熱を奪われた自分の体温はというと、それなりに下がったように感じる。念のため体温計で計ると37.3度。微熱にまで下がったようだ。幸い明日から連休で、急ぎの仕事もない。連休中にゆっくり休めば、休み明けに無事に学校に行けるだろう。
とりあえずベタつく身体をなんとかしたい。シャワーでも浴びて汗を流そうかと思って、ふと動きを止めた。そういえば唯が来ていた事を今更ながらに思い出したのだ。
しかし既に時間は夜、さっきもすぐ帰ると言っていたし、もう帰っただろうと思って寝室のドアを開けてリビングに入ると、ソファーに横になって眠っている唯が目に入って来た。
帰っていなかったのかと呆れたが、それでも嬉しいと思うのはきっと心身ともに弱っているからなのだろう。キッチンを見ると鍋に入っている野菜スープらしき物も見受けられる。美味そうだが、一先ずこの汗を洗い落としてから食いたくて、寝ている唯を起こさないように静かにバスルームへと移動した。
さて、あいつをどうすればいいだろう。
未だ熱の引かない身体では運転もままならないし、かと言って一人で帰らせるという選択肢もない。となると、桐生家の誰かに迎えに来てもらえばいいのかと思ったのだが、彼等全員が今こちらにいないと言うのを昨日唯から聞いていたのを思い出した。
「どうすっかな…」
正直言えば泊めてあげたい。しかし、この部屋に泊まる事で自分の風邪もどきをうつすのは可哀想だし、いくら空気清浄機をかけているとは言えそれも万能ではない。うつる可能性は無きにしも非ずなわけだ。
まあ、タクシーでも呼んでやればいいかと思ってシャワーを浴び終えリビングに戻ると、唯はまだ眠ったままだった。
気持ちよく寝ているのに起こすのは可哀想だが、起きて貰わなければ困る。華奢な肩を揺すってやると、むにゃむにゃと寝言を言いながら目を開けた。
「ん………あれ…?」
「あれ?じゃない。もう夜の十時過ぎてるぞ。」
「え!?本当!?」
唯がすぐさま携帯を確認すると、亨の言ったとおりの時間だ。開け放たれたカーテンの向こうは、夜景がキラキラと煌いている。…綺麗だ。
「タクシー呼ぶから帰れよ。風邪じゃないみたいだけどうつすのは嫌だからな。」
「……ぅん…」
「そんな目しても無駄だからな。」
上目遣いで自分を見上げてくる唯を、牽制の意味も込めてそう付き放す。どうも桐生家の三人から甘やかされて、愛情たっぷりで育てられたこいつはおねだりが上手い。と言うか、上目遣いをするタイミング、角度、涙目具合。それらが複合的になった唯のおねだりに勝てた事がない。
だからこそ厳しい態度で接しなければ。万が一うつったりしたら、気の毒すぎる。
未だにソファーから自分の背中に注がれている視線を感じながらキッチンに移動し、作ってあったスープを温めようとすると、背中にどんと衝撃が走った。
原因は見なくてもわかる。
「…いちゃ、駄目?」
「駄目。帰れ。」
「…どうしても…?」
「どうしても。うつったら嫌だろ?」
「…いいもん…」
きゅうぅっと抱き締めている手に力が入って腰が締まる。まあ微々たる力だが、いつまでもこうしているわけにも行かない。腕で解いて振り向くと、その破壊力満点な視線と目が合ってしまった。
「だめ?」
「………かえ」
「とおる、だめ?」
卑怯すぎる。
こんな時に名前を呼ぶなんて反則技だ。誰が教えたんだ、こんな技。
ぐっと言葉に詰まった亨は、自分が結局は泊めてしまうだろうな…と下がったはずの熱が再び上がるような錯覚を受けた。
三日後。
結局、休み全部を亨の部屋に入り浸って、亨の世話を焼き続けた唯が風邪で学校を休むはめになった。
「だから言ったのに」
「……ご…めんな…さぃ…」
「大人しく寝てろ」
亨は思った。
連戦連敗の唯のおねだり攻撃にそろそろ勝てるようにならないと…と。
「とぉ、る…おみずのみたい…」
無理か。




