第四章:しあわせの白い鳥
1904年5月。
五月の薫風がよく晴れた空に満ち、丘の上の建物は印象的に明るく照らされていた。
「からすヶ丘飛行研究所」──屋根の四分の一が最初から存在しないその建物は、ようやく完成の日を迎えている。
今日はこの奇妙な箱を作り上げてくれた大工や作業員たちへの慰労会だ。
研究所の前の開けた空き地に長テーブルが並び、樽ビールと軽食が用意された。
ばあやの手料理に加え、町のパン屋からも差し入れがある。
祝いの席としてはまずまずだ。
だが、空気がどうにもぎこちない。
作業員たちはビールを手にしつつ、互いに目配せしながら、何かを探り合うように小声のままで話している。
無理もない。
町に広まった「あの旦那の娘さんが髪を切った」という噂は、今や「あの娘は悪魔憑き」という話に変わりはじめていた。
おまけに今日は、研究所の脇に大きなシートをかけられた、いかにもな何かが鎮座していて、不穏さに拍車をかけていた。
そこへ噂の本人が登場だ。
ざわめきが波のように広がっていく。
上品で質素な白いドレス。
しかし、その上に乗っている頭はまるで少年のそれだ。
短く切り揃えた髪は風に跳ね、今日も小鳥の尾のように揺れている。
「お嬢さん、本当に髪を切ってる.....」
「都の方とかの流行りかな.....」
「まぁ、あの旦那の娘さんだからな.....」
私は聞こえないふりを楽しみながら、大工の棟梁の元へまっすぐ歩いていき、ジョッキを手に取って彼のグラスに追加のビールを注いであげる。
「棟梁、素敵な建物をありがとうございました。風通しが最高で、天気のいい日には空がそのまま天井になるの。最高だわ。」
棟梁は引きつった笑みで挨拶に応じてくれた。
「あぁ、うん.....あの天井は、やっぱり最初から開けとくのが正解だったんですかい...?」
「もちろん。だって蓋を開けたまま飛び出すのと、わざわざ蓋を開けてから飛び出すのとでは、手間も気分も違うでしょう?」
棟梁はそれ以上は何を言えばいいかわからない様子で、曖昧な笑顔を作り直してビールで口を塞ぐことにした。
他の参加者の所も回るが、みんな似たような反応である。
そんなふうに宴が進んだ頃にだ。
ほろ酔いの父さんが、空の木箱を一つ引きずってきた。
よいしょと踏み台にして登り、ジョッキを高く掲げてスピーチを始めた。
「みなさん! 今日はまことにありがとう! この堅牢なる梁! この滑らかなる床! そしてまっすぐ伸びたレール! みなさんのご協力のおかげで、我々はこれから心置きなく挑むことができるのです──この青い空へ!!」
沈黙が落ちた。
ビールを口に運びかけていた作業員たちの手と、肉を頬張っていた顎が止まった。
飛行機作り───。
なんとなくは予感していながらも、そうじゃありませんようにと願い、考えないようにしていた可能性が、ついに現実として宣告された。
みんなの顔から酔いが引いていくのがわかる。
彼らの脳裏によぎったのは、これからこの建物を中心に繰り広げられる「墜落」「爆発」「悲劇」の予感だ。
若い作業員の一人が棟梁の袖を引いて囁いている。
「俺たち、未来の事故現場を作っちまったんですか...?」
棟梁は無言でビールを飲み干した。
「せっかくなので余興を用意してあるんだ。」
父さんの一言で、みんな再び硬直した。
余興?
この人が使う言葉には、普通の人間が想像する意味を期待するべきじゃないことを、みんなはもうわかっている。
箱から飛び降りた父さんが研究所の脇に歩み寄り、大きなシートの端を掴んだ。
私がもう一方の端を持ち、二人で「せーの」と一気に引き剥がした。
そこに現れたのは、台車に載った一隻のボート。
屋敷の倉庫から掘り起こしてきた朽ちかけのボートである。
ただし、私と父さんの手で“翼”を生やしておいた。
いじらしい船体の両側に、木の骨組みと余っていたシーツで拵えた翼を、ちょっと無理目にくっつけた。
一目見ただけで「飛ぶ気がないな」とわかる。
正確に言えば「飛ぶ気だけ」はあるのだけれど、でも飛行の科学っていうのはそういうものじゃないからね。
そして、ボートが載っている台車がまた異様に見えることだろう。
こちらも古馬車の下半分だけを残して改造したもので、サスペンションに使われる多層板バネが、ぎちぎちに引き曲げられた状態でセットされている。
今にも弾けそうな鉄板の束が、押し殺した怒りのように身を縮めていた。
「名前は、あー...そうだな.....じゃあ、ハッピーダック号だ。」
父さんは別に笑わせたかったわけではないだろうし、もちろん誰も笑わなかった。
なにが「じゃあ」なのかと言えば、テーブルの上に盛られたローストダックが目に留まっただけだと思う。
それに今日はおめでたい日だし、じゃあハッピーダックで間違いない。
でもアヒルもまさか、空を飛ばされるとは思わなかっただろうな。
「理屈はこうだ。ソリの後ろにロープが結ばれているな? ここの斜面を下って加速する。所定の距離でロープが張って、固定ピンが抜け、板バネが一気に開放される。バネの力でボートを、いやつまり飛行機を、空へ押し出すんだ。」
誰かが「要するに──投石機ですか?」と言った。
「.....なるほど、それだ。人間を乗せて飛ばすようなやつだが。」
まるで悪びれない父さんは、さて、と一同を見渡した。
「誰か乗ってみたい者はいるかな? 歴史に名を残さないか。」
再びの沈黙。
誰も目を合わせなかった。
鳥のさえずりだけが、のどかに響いている。
楽しい。
「──冗談だ! 今回は無人だよ。落ちることなんか分かり切っているからな。“空へ飛び立つ”ということが一体どういう感覚なのか、まずは目で見ておきたいだけだから。」
これは笑わせたくて言ったのだろうけど、もちろん誰も笑わなかった。
***** A Short History of Crow Hill /
丘の斜面に敷設された簡易レールの上に、台車に載ったハッピーダック号がセットされた。
参加者たちは事故を恐れて、結構な距離をとって見守っている。
私が台車の輪止めに繋がれた縄に歩み寄ると、棟梁が悲痛な声で叫んだ。
「お嬢さん! 危ないですよそんな近くで──!」
「大丈夫よ、アヒルの前にいなければ危なくないわ。たぶん。」
「たぶん!?」
思い切り縄を引っ張った。
支えを失ったハッピーダック号はゆっくりと斜面を滑り始め、離れて見ていたみんなが心配そうに駆け寄ってきた。
台車がずずず...と地面を唸らせながらレールの上を加速していく。
ボートの両翼がぱたぱた頼りなく揺れていた。
風を受けて、ほんのわずかに浮き上がろうとしているように見えなくもない。
坂の終わりが近づくにつれ速度と共にその揺れが徐々に大きくなっていく。
台車は平らな直線に移っても勢いを失うことなくなお突き進み──
(え、もしかして...)
その思いが頭をよぎった、まさにその瞬間。
レールの終端に達した台車のロープが、ぴんと伸び切り、固定ピンが吹き飛んだ。
圧縮されていた板バネが、待ってましたと跳ね上がる。
ぱこん!──と大きな、しかし想像していたよりもうつろな音が丘に響いた。
翼は急激な別方向への加速に屈し、付け根からべりべり引きちぎれて地面に置き去りにされた。
骨組みとキャンバス布が哀れな残骸となって散らばった。
バネの力があまりに強すぎたのか、ソリ台車の方もひしゃげているようだ。
そしてボート本体だけが──ただのボートが──まるで砲丸のように、ほとんど真上へ跳ね上がった。
ボートは空に浮かんだ。
少しだけ残ってへばりついた布地がはためいて、羽ばたいているように見えなくもない。
青空を背景に、わずかな間だけそこに静止した。
不格好な飛べない鳥が、一瞬だけ空にいる。
そして、ふわりと放物線を描いて戻ってきたボートはぐしゃりと、丘に突き刺さって盛大に砕けた。
木片が四方に飛び散り、小さな土煙が立ち上る。
どこかで鳴いていた小鳥たちは驚いて飛び去ったようだ。
またも沈黙───。
作業員たちはもう乾杯どころではない。
帰りたい。
みんなの顔にそう書いてあった。
一方で私と父さんは、土煙の晴れつつある墜落地点を眺めながら、手帳を開いてメモを取るのに忙しい。
「うん、想像通りダメだったな。バネ式はやめようか。」
「ええ、“飛ぶ”ってこういうことじゃないもんね。やっぱりこれは違ったわ。次は高床飛び出しか、ゴム牽引にしましょうか。」
「高床は、あのレールの先の地面を掘り下げるだけで作れるな。ゴムも面白そうだ。」
「バネってね、力の開放が急すぎるんじゃないかしら? ゴムなら伸びがある分、もう少し穏やかな加速になるかもね。」
「しかしいい実験だったな。データが取れたし、邪魔だったボートも楽に解体できた。」
私は頷いた。
地上から飛び立つ瞬間に必要な速度や角度が、理屈ではなく“感覚”として理解できた気がする。
次から引く図面はきっと、今までとは何かが違ったものになるだろう。
失敗は失敗だけど“何がダメなのか”が分かる失敗なら、ただ座って考えているよりずっと価値があるはずだ。
もう一度、坂の向こうの空を見てみる。
ハッピーダック号が一瞬だけ飛んだあの高さ。
ほんの数秒、ほんの十数フィート。
でも確かに空にいたんだ。
その後の慰労会はなぁなぁでお開きになった。
お招きしたみなさんは、逆に疲れてしまったかもしれない。
後に残ったのは拾い集めたボートの残骸と、それを焚き火にくべながら次の実験について話し合う親娘だけ。
ばあやが呆れ顔で毛布を持ってきてくれたが、私たちは日が暮れてもまだ帰る気にはなれなかった。
今夜はこのまま屋根のない研究所で寝てみようか。
もしかしたら、アヒルが空を飛ぶ夢を見られるかもしれない。
***** 続く *****




