第三章:心臓と翼
父さんが都へ発った翌朝から、私は屋敷の書斎を借りている。
そこに据えられた大きな古い製図机は、かつては祖父が建築図面を引いていたものだそうだ。
今はその上に、私のスケッチブックと三角定規と、図書室から引っ張り出してきた飛行に関する文献が山になっている。
飛行機を作る。
言葉にすればそれだけだが、いざ形にしようとすると途方もない数の問いが立ちはだかる。
どんな形にすればいい?
胴体の長さは? 翼の厚みは? 尾翼の角度は?
操縦は体重移動のままでいいのか、それとも何か新しい方法が必要なのか?
発進は丘の斜面を利用するのか、崖を利用するのか?
父さんは、「考える人」だ。
理論と数式と文献の海を泳ぐのが得意で、いや、結局は我慢できずに行動を始めてしまうのだけど、でも何時間でもそうやって泳ぎ続けられる。
でも私は違う。
私は「触る人」なんだ。
手を動かして、形にしてみないと、分かることはほとんどない。
だから私はまず、紙の上に鳥を描いてみた。
からす。
私が一番好きな鳥だ。
黒くて、かっこよくて、愛嬌があって、どこにでもいて逞しい。
飛ぶことにおいて、からすは決して優雅な部類じゃない。
ツバメのように風を切るわけでも、タカのように高く舞うわけでもない。
だけど、あの鳥には一つだけ他の鳥にない長所がある。
どんな天候でも、どんな風向きでも、しぶとく飛び続ける。
記録的な強風の日に、危ういバランスで飛んでいたからすを眺めていたら、急な突風に吹き飛ばされていったのを見てしまったことがある。
大笑いしてしまったが、それでもそのからすは姿勢を立て直して飛び続けていた。
優雅さを捨てた代わりに、からすは“落ちない”という一点だけを完璧にした鳥なのだ───多分。
これはもう、事実かどうかは関係ない。
私にとってのからすとは、そういう願いや信念の象徴となっている。
だから私たちの飛行機は、もしかしたらあの鳥に似るかもしれない。
きっと優雅ではないだろう。
でも、1秒でも長く落ちなければいい。
どうせ私たちは飛べるようには生まれついていないんだから、少しだけ飛べればそれでいいんだ。
まずはそこから始めよう。
先人たちの試作品や資料を見ながらいろいろな考えをまとめていく。
頭の中で風を掴むイメージをしてみる。
スケッチブックに大まかな形を描き出し、たまに紙飛行機を作って指の上でバランスを見る。
その繰り返し。
翼は幅広で頑丈に。
長くしすぎれば風に煽られそうだから、幅で揚力を稼ぐ。
胴体は短く、ほとんど翼の付属物のように。
でも尾翼は少し大きめに取って、安定性を確保する。
操縦者──つまり私──は、翼の下にうつ伏せで寝そべる形がいいかな。
体重移動で姿勢を制御する。
余計なレバーやシャフトなんて積まなくていい。
軽さが正義だ。
発進については、丘の斜面を利用するのが一番楽だし自然だろう。
丘の坂を整備して緩やかな下り坂を作れるけど、でも滑走用のソリが重い気がする。
ガイドレールは絶対必要として、それを土台にしつつ、速度がついてからソリだけ切り離せばどうだろう。
そのための装置が必要だけど、その辺りは父さんが詳しいはずだ。
私はほとんど書斎から出なかった。
我ながら、よくも飽きないものだと思う。
ばあやが食事を運んできてくれるのを「ありがとう」と受け取って、片手で食べながらスケッチを描き続けた。
「今のあんた、食べ方が父親に似てるよ。」
ばあやに呆れ顔で言われてしまったが、褒め言葉として受け取っておく。
***** A Short History of Crow Hill /
二日後の夕方前。
父さんが帰ってくるのはさらに二日は先だろうと踏んでいたのに、玄関の扉が勢いよく開かれた。
その音だけで父さんが帰ってきたんだと知って、私は階段を小走りに下りていく。
「父さん、ずいぶん早いじゃない。どうしたの?」
父さんはコートも脱がないまま玄関ホールに立っていた。
大きなカバンは出発した時よりもぺしゃんこで、その代わり、筒状に丸めた紙の束を脇に抱えている。
顔は疲労で青白いくせに、目だけが異様に爛々と輝いていた。
私はこの目を知っている。
新しい“おもちゃ”を見つけた時の顔だ。
「座って話しなさいよ。お茶を出すから。」
「お茶はいい。いや、やっぱりくれ──いや聞いてくれ、発動機の件だがな。」
私はばあやにお茶を頼みながら、元気な小鳥みたいにそわそわしている父さんを居間のソファに座らせた。
父さんはやっぱりコートは脱がないまま、早口でまくし立て始めた。
「結論から言うと、都の工場はお話にならない!」
やっぱりねという思いが半分。
もう半分は、じゃあなんでそんなに興奮しているの、という疑問。
「いや三つ回ったんだがな、どこもダメだ。最初の工場は“技術的に不可能”と言い切りやがった。なにが不可能なもんか、考えてから口を開けと言いたかったが我慢したよ。二番目は“作れるが商売にならない”とくる。それを商売にするのがお前たちの仕事だろうが! 三番目じゃあ門前払いだ。“飛行機に関わるなんてごめんだね、評判が落ちる”とぬかしやがる。」
「...それで?」
父さんの目がいっそう輝いた。
「──その三番目の工場から帰る時だ。門を出て角を曲がったところで、後ろから走ってくる足音が聞こえた。振り向くと、焦った顔の若い男が息を切らして追いかけてきてたんだ。作業着のまま。」
父さんは、ばあやがいつの間にか静かに置いていってくれていたお茶を一口すすり、一息ついてから再び話を始めた。
「ふぅ.....お前、髪を切ったのか?」
「それはあとで!」
「あ──あぁ...彼は、その工場の技師だったんだよ。さっきの商談を陰で全部聞いていたらしい。“飛行機の話をしていたのですよね”と訊くから、そうだと答えた。するとな、彼はこう言ったんだ。“夕食をご一緒できませんか。お話ししたいことがあるんです”と。」
ばあやがドアの隙間からそっと顔を覗かせ、そしてまた引っ込んだ。
「もちろん応じたさ。予感だか確信だかわからんが、始まったぞと思ったんだ。泊まってた宿の食堂で落ち合ったんだが、あの青年は何杯もスープをお代わりしながら話し始めた。」
「どんな話だったの?」
「つまりだ───彼には飛行機用発動機の構想があったんだ。半年ほど前から温めていた設計だ。だが職場の上司たちが誰も相手にしてくれない。試作はおろか、研究の許可もダメなんだと。“飛行機なんてまともな会社のやる仕事じゃない”と上に言われ続けてきたそうだ。まぁったく、どこも同じだな!これだから世の中ってやつは。」
父さんは苦笑いしながらお茶を啜っている。
機嫌良く小指までピンと立ち上がって、まるで「私は“全てを知る者”です」と言わんばかりの表情だった。
「...それで、つまり父さんは彼をどうしたの?」
「出資してきた。」
さらりと言ってのけられたが、まぁ驚くまい。
この人はいつもそうだから。
気に入ったものには迷いなく手形を切るんだ。
「概要を聞いただけで分かったぞ。発動機もあの青年も本物だ。細かい部分まで理論がしっかりしてた。それに何より、自分の設計を語る時の目がよかったな。あれは嘘をつける目じゃない。」
「父さん、人を見る目は確かなのかもしれないわね。」
今言った褒め言葉には、正式には「相手が技術者である場合だけは」という但し書きが必要になる。
いったい今までどれだけ詐欺師にお金を持ち逃げされてきたのやら。
でも確かに、今回は本物かもしれないと不思議と期待してしまう自分がいた。
父さんは私を連れて書斎に移り、丸めた紙の束をほどくと、その一つを製図机の上に広げた。
「これがな、彼から預かってきた写しだ。」
私は机の前に立ち、広げられた図面を覗き込んだ。
一見して妙な点はなく、即座に(よくある古い水平2気筒だ)と分類できる。
だけどそれを口に出す段になると、どうにも躊躇したくなる。
それは、まさしく鉄の“心臓”だったからだ。
真ん中の塊が、それこそがむき出しの鼓動を無理やり固めた心臓だ。
そこから左右に出ている円い部分は、息をするたびに膨らんだりしぼんだりする肺のように見える。
そこには機械というより、以前に博物館で展示されているのを見た心臓と肺の模型に近い、どこか生々しいものが感じられた。
本物の心臓のような温かさはなくて、冷えたままの鼓動だけを形に残したような印象を放っているのだけれど、見れば見るほどに心臓だった。
「...まるで、胸の中から取り出してきたみたいな形ね。」
「ああ、他の飛行機用のものとはちょっと違うよな。自動車用のエンジンを元にして考えた結果らしい。パワーよりも、発動機そのものの軽さを重視しているんだ。」
「ふぅん──?」
確かに飛ぶなら軽さは大事だけど、パワーがなくては話にならない。
2気筒だけで大丈夫なのだろうか?
私はしばらく無言でスケッチを見つめた。
何度も間違えている綴りやにじんだインクの跡は、きっと夜遅くまで描き続けた証拠だろう。
そして図面の片隅に、数字と計算式がぎっしり書き込まれた余白があった。
頑張ってその内容を解きほぐし、かろうじて意味を断片的に読み取っていく。
「予想排気.....約3~4リットル──目標出力.....25馬力──推定重量..........えっ、105ポンド?!」
「どうだ?」
父さんはイタズラっぽく笑っていた。
私はすぐには言葉を継げなかった。
確かに小型の発動機だ。
それに軽さは大事だけど.....でも、それにしたって軽すぎる。
書き込まれた数式に間違いはないように思われるけど、本当だろうか。
この前に裏庭で破壊した中古品なんて、たった10馬力でも250ポンド以上だったのに。
それが私の体重と大差ないなんて、いったいどうやっているんだろう。
まさかアルミニウムでも使ってるの?
.....いや、間違いなくそうとしか考えられない。
そんな高価な材料じゃ、上司から許可がもらえないのも当然だ。
父さんの口から聞いた範囲では“健気な若者”という印象だったが、今の私の中では、この図を引いた青年技師はむしろ相当な野心家なんじゃないかと思える。
あるいは父さんの同類かも...。
なんにしても、まずはこの発動機が手に入るかもしれないことが重要だ。
もし本当にこの重さと出力で作れるなら、それは革命的なものになるはず。
...だとしてこの先、飛行機というものは一体どうなってしまうんだろう。
私の中の、この世界の前提となる薄い壁のような何かに、ヒビが入って崩れた気がした。
すっかり落ち着いた父に変わって今度は私がそわそわしながら、脇に寄せておいた自分のスケッチブックを取り上げた。
「ねぇ、ちょっと見てほしいの。もしこの発動機で行くなら、こっちも考え方を合わせないといけないわ。ほら父さん、私が二日間で考えていたこと。」
父さんが身を乗り出した。
私はスケッチブックのページを一枚ずつめくりながら説明した。
「翼の形はこうよ。幅広で少しだけ長めに。からすの翼をお手本にしたの。美しくはないけど、頑丈で落ちにくいから。」
「からす? 悪くないな。」
「胴体はできるだけ短く。操縦者はここ、翼の下にうつ伏せ。姿勢の制御は他と同じように体重移動で。」
「前に言っていたレバー式は?」
「1ポンドでも削りたかったの。それに、体で感じた方が反応が速いから。頭で考えてからレバーを引いてたんじゃ、間に合わないかもしれないし。」
父さんは顎に手を当てながら、じっくりと考え込んでいるようだ。
「──それで発進はここ、研究所の前の斜面を利用するつもりよね? ずっと先まで開けてるとこ。木製のソリ式台車に乗せて加速して、速度がついたら切り離す。」
「レールは?」
「そっちも必要。ソリと組み合わせた方が手軽で、失敗してもすぐやり直せるわ。でもその分重くなるから、分離式を考えていたんだけど───」
父さんは私のスケッチを一枚一枚、じっと見つめていた。
その目が時折、私の方にも誇らしげに向けられることに気がついたけれど、今はあえて何も言わなかった。
「だけど父さん、この発動機の重量と出力を前提にするなら、ここまでのいろんな計算は全部やり直したほうがよさそうね。」
「ああ。プロペラの厚みと強度だって、発動機の回転数と突き合わせてやる必要があるしな。」
「取付位置も、もっと考えてみていいよね。前に積むか、後ろに積むか。重心がずれすぎてたら、私がいくら体重移動しても補正しきれないわ。」
父さんは立ち上がり、青年の図面と私のスケッチブックを並べた。
二枚の紙が製図机の上で初めて隣り合う。
心臓と、翼が。
「面白くなってきたな。」
父さんは呟いた。
私も同じことを思っていた。
ばあやが二杯目のお茶を運んできた時には、製図机の上は隙間なく紙の山で埋まりつつあった。
三杯目の時には二人とも床で書いていた。
四杯目の時には、ばあやは黙ってお茶とサンドイッチを置いて出ていった。
窓の外はいつの間にか暗くなっている。
ランプの暖かい光の下で、父さんと私は向かい合い、計算し、描き、消し、また描いた。
「翼弦をもう少し伸ばしたらどうだ?」
「伸ばすと重くならない? それより翼端の反りを変えて...」
「いや待てよ、ケイリー卿の言ったことでは確か...」
「キャンバーを変えると、発進速度も変わるから、斜面の角度で...」
話は終わりが見えなかった。
一つの問いに答えが出ると、その答えが新しい問いを二つ生む。
でもそれが楽しくて仕方がない。
この感覚は、きっと父さんがずっと追い求めてきたものなのだろう。
一人では辿り着けなかった場所に、二人で手が届きそうになっている。
頭と体。
理論と直感。
考える人と、触る人。
夜更けにばあやがドアを開けた。
「いい加減にしなさい。明日も朝は来るんだからね。」
父さんと私は顔を見合わせ、子供のように笑った。
「「あと少しだけ。」」
ばあやはため息をつき、そっとドアを閉めた。
彼女には分かっていたはずだ。
この「あと少し」がまったくの嘘であることを。
窓の外では、からすヶ丘の夜空に星が瞬いていた。
同じ星の下で、どこかの青年もまた夜を徹して、夢の続きを描いているのだろうか。
私たちの飛行機はまだ紙の上の線に過ぎない。
でも今夜、その線の指先ぐらいは心臓の鼓動に触れたはずだ。
***** 続く *****




