第一章:舞い戻った少女
男が自前の研究所の設立を決意したのは、今から少しの前のことである。
設立場所は、男が所有する残り少ない土地の一つである、町に隣接した小さな丘だ。
町の名前はからすヶ丘だが、この丘には名前はなかった───大昔はこの丘こそが本来の「からすヶ丘」だったのだが、自分の先祖が森を拓いて町を作った時に、丘は名前を奪われたのだ。
そういう意味で、からすヶ丘飛行研究所の建設地としては、これ以上ないほどふさわしい立地であった。
地主の末裔たる男にしてみれば、先祖が盗んだ名前を返すようなものである。
だから町の人たちが、頼むからもう変な真似はしなさんなよと善意から声をかけても男は大義ぶって答えたものだ。
これは正当なる名前の権利を大地に返還するための盛大な儀祭なのだ、と。
そう言われては仕方がない──というわけもなく、単に(やっぱり言っても無駄か)という感想によって、研究所の建設はさしたる障害もなく進んだ。
最初に動き出したのは書類であった。
男は町の役所に赴き、丘一帯の用途変更申請書をはじめ、よくわからない図面の束をどさりと机に積み上げた。
役人たちは迷惑そうに書類の内容を吟味したが、税も地目も問題がなかったためにすんなり裁可を出してしまった。
町は初戦で敗北した。
次に動き出したのは地面である。
丘の上の一角に杭が打たれ、縄が張られた。
歴史ある男の屋敷の修繕を代々担ってきた大工の当代は、最初こそ「新しい倉庫ですかい?」と気楽に引き受けたのだが、渡された設計図を見て困惑した。
梁が無駄に高いし、壁は妙に薄いし、扉も異常に大きい。
何よりも、天井の4分の1が最初から存在しない。
「.....雨はどうするんで?」と訊けば、男は胸を張って「ここは逃げ込む場所ではなく、飛び出すための場所なんだ」と答える。
意味は分からないが支払いは確かだったので、とりあえず人手を集めにかかった。
材料は動くことなく最初からそこにいた。
男の屋敷の倉庫には、まるでこの日のためであったかのように様々なものが揃っていた。
先祖が買い溜めておいた古い梁木、どこかの工場から半端物として回されてきた布や鉄板、時代遅れで売れ残っていた飾り入りの板ガラス。
屋敷の修繕用の煉瓦や漆喰もふんだんに備蓄されていた。
そして何よりも、男が長年収集してきた多種多様な機械類(またはその残骸)。
男は宿命を感じながら、それらの一山一山に「これは空の肘掛け」「これは翼の寝床」「これは観客用ブランコ」とそれらしい名前をつけて回った。
やがて丘の上に足場が組まれていくにつれて、見慣れた景色に少しずつ新しい輪郭が現れていく。
それを見やりながら人々は、どうなることやらと噂した。
***** A Short History of Crow Hill /
1904年3月。
着工からふた月が過ぎた頃には丘の整地が進み、すでに建物も骨格だけは出来上がりつつあった。
根太の上に柱が立ち、梁がかけられ垂木が並ぶ。
正面から見ると納屋に似ているが横から見ると細長く、上から見れば教会に似ていたかもしれない。
どこからどの様に眺めても、なにかが足りない建物だった。
作業員たちはいまだに建築の目的がわからないまま、言われたとおりに働いていた。
そのころ町の屋敷の裏庭では、男が払い下げの発動機と格闘していた。
発動機は故障しているが、こいつを分解すればまだ使えるシリンダーが手に入る。
だが自分の手が大き過ぎるがため、奥まった場所にあるネジの一つにどうしても、あと半インチだけ工具の先が届かない。
手首をひねり、肩と腰を曲げ、首をねじり、必要もなく表情まで歪めて唸る男の背中に、鈴の音のような声がかけられた。
「よろしければ代わりましょうか?」
変な顔のまま振り向いた男の前には、日傘も差さず大きな旅行カバンを携えた少女が立っていた。
体つきは華奢で線が細いながら溌剌とした印象で、歳の頃は十三、四といったところだろうか。
久しぶりに会った自分の娘は髪が伸び、数年間だけ妻だった女に少し似てきていた。
「...丁度よかった、代わってくれ。」
感動の再会には程遠い素っ気ない対応だったが、娘は自分が愛されていることを確信した。
たまの面会希望を拒否されたことは1度もないし、養育費だって法律上の上限額で自発的に支払われている。
何と言っても、機械を触らせてくれるのだから。
この父は、信用しない相手には自分のコレクションを絶対に触らせない。
少女は旅行カバンを足元に降ろすと、ためらいなく発動機の側に膝をついて工具を受け取った。
男が半刻ほど唸っていたネジを1秒だけ見やると、袖を捲った細い腕を差し入れる。
次の瞬間には、発動機の奥に隠れていたネジは待っていましたとばかりにあっさり外れてしまった。
ネジの落ちる乾いた音が裏庭に鳴る。
「すごいな。」
「わたしの手が小さいだけよ。母さんがたまに言ってるわ。“あの人は真っ先に自分の手を突っ込もうとするから、いつも失敗してるんだ”って。」
男は顔をしかめながら笑ってみせた。
あの女の意見は間違っていないし、自分としても同意見だ。
ただその意見に辿り着くタイミングが、女の方では早すぎて、男の方では遅すぎる。
だから今は別れて暮らしているわけだ。
「──ところでお前、なんでここにいるんだ?」
面会の時はいつも手紙での連絡があったはずだ。
いや、今回も手紙は来たのだろうか。
ずっと忙しかったから、きっとどこかに埋もれているか、あるいは設計の走り書きにでも使ってしまったかもしれない。
娘の方もどうせそんなことだろうと思い、手紙のことは何も言わない。
「世界を相手に一刻を争う父親の道楽を、娘が手伝いに来たのよ。飛行機を作ってるんですってね? 隣町まで噂が届いてきたわよ。“からすヶ丘のあの好事家が、とうとう全財産を賭けた博打に出た”ってね。それで母さん慌ててるわ。父さんが新発明か何かで爆発でも起こして遺産を作ってくれるのを待ってたのに、その前に破産されちゃうって。だからわたし──じゃあ自分が行って、破産する前に事故を起こしてきましょう──ってね。」
男はあまり人間に興味のあるたちではなかったが、この娘だけは特別だった。
自分の血を分けたからではない。
こうまで母親に似ない娘というものがあるのだろうかという、純粋な理性の驚異である。
物心つく前から屋敷内に飾った無骨な機械類に興味を示し、フォークとナイフよりも先にネジ回しの使い方を覚えていた。
あの妻が出ていったのも、単に自分の知的幸福を理解できなかったからだけではあるまい。
病の感染源から遠ざけたくて、娘を連れて逃げたのだろう。
だが娘の方も手遅れだったとわかる日が来る。
生まれながらに自分と同じ「飛行」に取り憑かれていたのだ。
空ばかり見上げ、鳥たちに憧れ、ついには「わたしも飛びたい」と言いだした。
よくもまぁ父親の良くない部分だけを器用に受け継いだものである。
彼女もまた「ペテン兄弟」の噂話を、好意的に受け入れた人間の一人であった。
「母さんは、お前の言葉を信じたのか?」
「どうかしら。丸くなったのか、最近は半分諦めてるような気もするけど。“希望があるなら...”って感じだったわね。」
世間が自転車屋兄弟をあざ笑う方向に歩を揃えたことで、母があからさまに安心し喜んでいたことを娘は口にしなかった。
意外性のあるニュースではないし、父にとっても気分のいい話ではないだろう。
娘にとってもそれは同じだし、母を悪者にする気もなかった。
だが母の油断は突かせてもらった。
攻勢をかけるなら今、この時しかないでしょうと説得したのだ。
獲物を見つけたら周りの安全も確認しつつ素早く飛び込むんだ──。
ずっと見上げてきた、空で生きる鳥たちから自然と学んだことだった。
あんなふうに飛んでみたい。
これはもう、病ではなく血の呪いと思って諦めてもらうしかない。
「ふぅん.....ところでお前、ただ手伝いに来たのか。それとも飛ぶ気で来たのか?」
「もちろん飛ぶために来たわよ。操縦役が必要だろうし、飛ぶなら“軽さが正義”でしょう? わたし、90ポンドもないんだから。怪我して当然の操縦役なんて誰もやりたがらないし、ましてや飛行の基礎知識があって90ポンド以下なんて、そう簡単には見つからないわよ?」
娘の言うことはいちいち正しい。
特に、軽さは正義───これこそ男は大いに同意するところであった。
娘の母親とのわかりやすい差は、自分と同じ意見に辿り着くまでの早さがずっと近いことだ。
軽い身なりに軽い舌、命の使い方まで軽そうだ。
どれもこれも自分が欲しいものばかりであった。
だがこの男でも流石に悩む。
娘の気持ちはわかるし心では全てが正しいように思えるのだが、一方で頭の良識で考えれば、自分の娘にそんなことをさせるのが大人として許されるわけがない。
逡巡した男は娘の美しい髪を見ながら、一つだけテストを仕掛けることを思いついた。
「お前その髪、少し長くないか?」
「実はわたしもそう思っているの。母さんの言いつけで伸ばしているのだけれど、この髪を切ってしまえばわたし、1ポンドは軽量化できるわよね。」
──あぁ、この娘は自分のことを飛行の部品としか見ていない。
それは120点の回答である。
男は全てを受け入れることにした。
これはやはり、宿命なのだと。
男は娘を促して共に屋敷への道を歩き出した。
話すことが、たくさんある。
***** 続く *****




