六十、黄竜の笑い、麒麟の憂い
――法国大神殿 法王の間――
法国大神殿の「法王の間」は、建国以来三百年変わらない。
白亜の柱は天へ吸い込まれるように伸び、床を走る金糸の紋は香煙の揺らぎに合わせて淡く脈打つ。ステンドグラスから零れた七色の光は、砕けた虹の粉になって宙を漂い、祈りの声は遠く、甘い香は静かに満ちていた。
――そこにいるだけで、心が鎮まる。
だから人は安心する。
「ここだけは変わらない」と、信じていられる。
……本来なら。
だが、近づくほどに、“違う”と分かる。
この空間は清められているのではない。
最初から汚れの存在を許さぬように――空気そのものが、固められている。
法王座の前には、侍従、神官、聖騎士が並んでいた。
本来なら各々が持ち場へ散り、歩き、声を交わし、細かな雑務に追われているはずだ。
だが――その場は「並びすぎて」いた。
礼の角度が揃い、靴音が重なり、呼吸の間さえ重なる。瞬きの回数まで似すぎている。疲れた顔も焦った声も、どこか“用意された表情”みたいに整っていた。人間が本来持つはずの、微細なばらつきがない。
――中身だけが、別のものに差し替わっている。
そう考える方が、よほど筋が通った。
だが、異変はそれだけではない。
列の外――“揃いきれていない”動きが点在している。
回廊の端に立つ巡礼。献金箱を抱えた商人。地方から呼び寄せられた使節。外から流れ込んできた人間たちだ。
目は開いている。だが、焦点が合わない。
視線は人を通り越し、壁の染みに吸い寄せられ、床の模様を追う。歩き出したかと思えば同じ場所へ戻り、口の中だけで祈りの文句を反芻している者もいる。返礼の仕草も、呼吸も、どこか半拍遅い。
――空っぽだ。
正確には、空っぽに“されかけている”。
催眠。
あるいは、信仰の形を借りた上書き。
彼らは、自分が何を見ているのか理解できていない。
いや、理解できないように整えられている。
そして、その中心。
玉座に――法王ユリウス・ヨハネ・クレメンスが座っていた。
黄金の法衣。眩しい宝飾。慈悲深い微笑みまで、法王という名に相応しい“形”をしている。
だが、違う。これは威厳ではない。圧だ。
人間が背負う重さではない。
重いのは衣ではなく――そこに“いるもの”だ。
玉座の下、法王より一段低い位置に、西聖騎士団長レオン・ド・ヴァルモンが立っている。
光を弾く鎧姿は祈りの場にもよく馴染む。だが、その目だけは違う。静かに据わっているのに、どこか人ならぬものが滲んでいた。
そして玉座の前――儀礼の線の上に、白衣めいた法衣の男が最初から立っている。
眼鏡の奥の目は冷たく、祈りより分析に近い視線で広間を測っていた。
枢機卿オスヴァルド・バスティエ。玄武と呼ばれる男だ。
「……報告いたします」
オスヴァルドが一歩だけ前へ出る。
磨かれた石床に、靴音が澄みすぎるほど落ちた。
「王国の勇者ジークは王都へ帰還。大賢者リゼリアはセレノスに残留。双方、戦力を再編中です」
「そして、白虎と青龍は討滅。朱雀は――東方より未帰還です」
――ここで、この内容を“報告”できる。
それだけで、この場がすでに人の場ではないと分かった。
地下ではない。公の法王の間だ。
本来なら言葉を選び、声を落とし、儀礼の幕が一枚挟まる。誰かが咳払い一つして、空気を整える。
だが、何も起きない。
誰も止めない。誰も顔色ひとつ変えない。
この場を満たしているのが――人ではないものばかりだからだ。
玉座の法王が、ゆっくり頷く。
それだけで侍従たちの背筋が揃った。――いや、揃え“させられた”。
「ふぅん。二枚落ちたか。……派手にやってくれるねぇ」
声は柔らかい。聖堂でよく聞く説法の調子だ。
なのに、その一言が落ちた瞬間、広間の空気は一段沈む。呼吸が浅くなり、沈黙が“正しい形”へと矯正されていく。
「それで……“金剛鏡”が持ち出した神滅聖剣は、結局――勇者の腰」
「神宝聖珠は、賢者の手……」
淡々とした確認。
だがその確認は、天秤に重りを置くみたいに場を重くした。
「で――神護聖盾は?」
レオンが淡々と返す。
「王都。国宝として、玉座の背にあるはずだ」
その瞬間、法王の視線がレオンへ刺さった。
――なぜ、まだ手を打っていない。
言葉にならない圧だけが、確かにそう告げる。
レオンは眉ひとつ動かさず、答えを続けた。
「奪取には“聖なる形式”が要る。力ずくで奪えば、教会そのものが魔に堕ちたと騒ぎになる」
「そうなればーー大陸が敵に回る」
法王と団長が、儀礼もなく言葉を交わしている。
礼の前置きも、呼吸を整える間もない。まるで長年連れ添った参謀同士だ。
本来なら侍従の誰かが咳払いを一つ入れる。神官が一歩前へ出て、順序を整える。
――けれど、誰も動かない。
ただ揃ったまま、黙っている。
“これが当然”だと言わんばかりに。
オスヴァルドが続けた。
「我等も手を尽くしましたが、正面戦闘は推奨しません。勇者の雷は脅威です。大賢者も同様」
「現時点の勝ち筋は、行動制限です。守る対象を増やせば、あの手の輩は自ら手を縛る」
「いいねぇ。そういう読みは好きだよ」
法王が軽く笑う。
「人は“守るもの”があると、動けなくなる」
笑いが広間に落ちると、数十の微笑みが同時に生まれた。
人間の笑い方ではない。――形だけをなぞった、模写だ。
その微笑の波の中で、法王は独り言のように呟く。
「……勇者は王都。聖盾も王都……丁度いいかもねぇ」
法王は肘掛けを指で叩いた。乾いた音がひとつ。
それだけで、広間の空気が「次」に流れだす。
「聖女がねぇ――一度、“勇者を見てみたい”ってさ」
レオンの眉が、ほんの僅かに動いた。表情は崩さない。崩れない。
ただ、声だけが一段低くなる。
「危険だ。勇者は神級に達している」
「王都へ戻った以上、狙いも聖盾だろう。……三聖具が揃うと見て動くべきだ」
オスヴァルドも頷いた。否定でも同意でもない。検査結果の提出だ。
「セレノスには大賢者がいます。王国へ向かう気配を掴まれれば、即座に動くでしょう」
法王はそこで、小さく笑った。
笑い声は柔らかいのに、喉の奥が乾く。
「勘違いしてるねぇ。占領? 殴り合い? 物騒だなぁ」
肩をすくめる。
まるで説教の途中で、子どもの勘違いを正すみたいに。
「聖女が“祈り”を授けに行くのさ。祝福、慰霊、祈願……ほら、人間は好きだろう?」
「そういう、きれいな言葉の馴れ合いが」
その声音は、あまりにも容易い。
近場へ散歩にでも出る話みたいに、軽かった。
レオンの顎が僅かに締まり、オスヴァルドの眼鏡の奥が細くなる。
どちらも口を開きかけ――言葉になる前に、法王が続けた。
「聖女のしたいことを、出来る形にする。――それが私たちの役目だろう?」
軽い。なのに、退けない。
慈悲の言葉で包み、反対そのものを“不忠”に変える――この男は、そういう締め方を知っている。
レオンは一拍、息を吐いた。
止める言葉は喉まで上がって、そこで止まる。――それな私たちの役目だろう、の一言が、慎重論を“背任”に塗り替える。
「……道理だ。だが」
譲ったのではない。引いた瞬間に、盤面を数え直しただけだ。
「勇者は聖女の正体には気づかないだろう」
「だが、大賢者は違う。五百年前の“器”を知る人物だ」
法王は、待っていた答えをなぞるように頷いた。
「そうだねぇ。なら、念には念を入れよう」
「大賢者の視線を聖女から剥がせばいい。――守るものを増やせば、動きは鈍るんだろう?」
レオンが即答する。無駄のない声だった。
「いいだろう。西聖騎士団をセレノスに動かし、大賢者を“縛る”」
「民を盾にする。……あの女は無視できん」
法王は満足そうに指を鳴らした。
合図ですらない。空気が、そう受け取って動く。
「では、私と聖女はセレノスを迂回し、王都で祝福を整える」
「聖盾は……まあ、ついでだ。あれば“祝福の証”として持ち帰ればいい」
オスヴァルドの声が、刃のように冷えた。
「聖盾は暗影に反応します。奪取を狙うなら“暗影を使わない”のが理想です」
「祝福。儀礼。事故。――聖女であれば成立する。疑われにくい」
法王は喉の奥で笑う。柔らかい声なのに、空気の方が先に縮む。
「いいねぇ。事故も神のせいにできる」
「もし勘づいて勇者が噛みついてきたなら――なおさら好都合だ。教会の聖女に手を上げた異端者。そう“物語”にしてしまえばいい」
レオンの声が落ちた。低く、硬い。感情ではなく、線を引く声音だった。
「それは無しだ」
「……あの勇者は、何かがおかしい。約束しろ。戦闘行為は禁ずる」
一拍。法王は肩をすくめた。軽い仕草のくせに、そこだけ妙に重い。
「心配性だねぇ」
「聖女が負けるわけないのに……まあ、いいよ。少し様子を見たら、ちゃんと帰る。――約束だ」
レオンは頷く代わりに、腕をひと振りした。号令でも合図でもない。ただ“決定”を場へ落とす仕草。
「決まりだ」
その瞬間、オスヴァルドを筆頭に侍従たちが一斉に動き出した。
祝福の名目が書き換えられる。使節が選別される。宿場が押さえられ、関所の通行札が用意される。祝福の台本が編まれる。
誰もが同じ速度で、同じ角度で、同じ呼吸で。
その時、外から来た巡礼の男が、ふと玉座を見上げた。
焦点が合いかけて、合わない。理解しかけて、理解しない。
次の瞬間、男は自分でも分からない笑みを浮かべ、祈りの言葉を唱え始めた。
違和感を覚えたはずだった。
だが、その違和感は祈りの一息で薄められ、次の瞬間には“最初から無かったこと”にされた。
法王の間の光が、さらに白くなる。
眩しく、聖なる光――のように見える。
だが、その光は救いではない。
行く道を消すための光だ。
舞台を整え、主役を呼び寄せ、物語で首を絞めるための幕だ。
法王は最後に、楽しげに言った。
「――さぁて。聖女は、現世の勇者を見て……どんな顔をなさるのかな」
レオンは黙って踵を返し、オスヴァルドは侍従が用意していた使節団の名簿へ視線を落とす。
その末尾に、追加された名があった。
『聖女レイ』
祈りの光の中で、その文字だけが静かに輝いていた。
祝福の証のように。
――災厄の印のように。
麒麟も黄竜も玄武も、主を「聖女」と呼ぶ。
それが、器を得た“御方”の命だった。
この世では、聖女として立つ。
聖女として呼べ。
聖女として扱え。
“真の名“は、まだ早い――と。
そして白い幕は、何事もなかったように動き出す。
――王都へ。




