五十八、決別の黎明
夜明け前の空は、まだ青とも黒ともつかない色をしていた。
その薄明の下で、オルタはもう燃えていた。
帝国南方の前線基地都市――いや、今は王国が奪い取ったばかりの戦勝の街。城壁の上にはまだ王国旗が翻っているのに、その内側では黒煙が幾筋も立ち上り、鐘が途切れ途切れに鳴っていた。火の手は一箇所じゃない。北の外郭、中央市場、兵站庫の辺りまで、まるで街の中に別の夜明けがいくつも生まれたみたいに赤く明滅している。
焦げた匂い。
血の匂い。
砕けた石と鉄の匂い。
馬車が止まるより早く、俺は立ち上がっていた。
「……始まってる」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど低かった。
門前に転がり込んできた負傷兵が、石畳を血で滑らせながらこちらを見る。胸甲は割れ、肩のあたりには黒く丸い穴がいくつも開いていた。矢でも槍でもない。何か小さな塊に、鎧ごと抉られたような傷だ。
「ゆ……勇者様……」
兵はかすれた声で俺を呼び、震える指で街の中を指した。
「魔法が……効かなかったんです……」
「あまりにも速くて……見えない黒い玉や、突然の爆ぜる音が……」
その言葉に、嫌な予感が胸の奥で一気に形を持つ。
黒い玉。
魔法を弾く何か。
炸裂する衝撃。
俺は兵の傷口より先に、その周囲へ目を向けた。石壁には黒い裂け目が深々と刻まれ、その周りに焼けた金属片が散っている。王国の制式装備じゃない。もっと無骨で、もっと荒っぽい何か。
「……これは魔法の焼け跡じゃない」
膝をつき、砕けた鉄片を拾う。
「玉鋼……?」
玉鋼を、兵器に。
そんな発想をするやつを、俺は一人しか知らない。
その時だった。
リュシアンが、初めてと言っていいくらい切迫した声で言った。
「ダリウス閣下が前線中央におられます。敵の急襲を受け、押し込まれているはずだ」
白手袋の指が、煙の濃い方角をまっすぐ示す。
「勇者殿。来ていただけますか」
「ああ、もちろんだ!」
迷う余地なんかなかった。
迷っていられる状況でもない。
ダリウスには会わなければならない。
アマテリアが要る。
レイを助けるために。五百年前から止まったままの時間を、もう一度動かすために。
こんなところで死なせるわけにはいかなかった。
「某もおりますぞ!」
グラトスが声を張り上げる。
「負傷兵の手当ては任せるであります! 勇者殿、先に!」
エリシアは周囲を一瞥しただけで、すぐに進路を定めた。
「正面は瓦礫で詰まっています。横の路地なら、まだ抜けられるはずです。広場へ向かいましょう」
俺たちは走り出した。
朝焼け前の街は、戦場そのものだった。
焼けた建物の梁が傾き、兵士たちが怒号を飛ばし、住民が泣き叫びながら水桶を運んでいる。倒れた王国兵の脇を救護班が駆け抜け、ところどころで紅蓮と蒼氷の魔法光が激しく明滅する。
けれど――押しているのは、明らかに向こうだった。
帝国兵の足並みは乱れない。ただ勢いで雪崩れ込んでいるんじゃない。隊列そのものが、一つの生き物みたいに前へ出ている。
前列にいるのは、黒い大盾を構えた重装兵たち。
盾というより、もはや動く壁だ。
その少し後ろ、小高く組まれた瓦礫の上に、ひとりの女騎士が立っていた。
戦場には似つかわしくない、宝石めいた装飾を散らした淡い白銀の鎧。やけに目立つその姿で、女騎士はまるで舞台の指揮者みたいに細い剣を振るっていた。
だが、ただ目立っているわけじゃない。
剣先がひるがえるたび、聖光が細く尾を引く。
白、淡金、薄青――煙と怒号に埋もれた前線で、その光だけが妙に鮮明に走った。
次の瞬間、黒鋼の盾列が迷いなく動く。
右へ寄せる。
半歩止める。
そこから一気に押し上げる。
言葉じゃない。
だが、兵たちは誰ひとり迷わない。あの光そのものが命令になっているのだと、見ていて分かった。
普通なら、ああいう指揮官は真っ先に狙われる。
目立つやつから射抜かれて、前線ごと崩れる――戦場じゃよくある話だ。
なのに、あれだけ晒していて落ちないのは、悪運が強いからじゃない。
前線全体を見ている。
味方の壁がどこまで押せるか、敵の魔法がどこまで届くか、その境目を寸分違わず読んでいるからだ。
王国側の紅蓮も翠嵐も、その黒鋼の壁にぶつかった瞬間、威力をごっそり削がれる。炎は散り、風は殺され、直撃したはずの魔法が決定打にならない。しかも受けて終わりじゃない。壁はそのまま前へ出る。
王国兵が、魔法の効きが鈍いと悟った時にはもう遅かった。
いつの間にか間合いは詰められている。
慌てて槍を構え直した、その瞬間。
女騎士の細剣が高く跳ね上がり、蒼い光が扇のようにひらめいた。
黒鋼の盾列が、一気に踏み込む。
ぶつかる。
闘気を乗せた大盾が、一斉に叩きつけられる。猪の群れが突っ込んでくるみたいな圧に、王国側の前衛はまとめて弾き飛ばされた。隊列が割れ、開いた隙間へ帝国兵が雪崩れ込む。
ただの突撃じゃない。
魔法を殺す黒鋼の壁で押し上げ、間合いに入った瞬間、隊列ごと叩き割る。そんな戦い方だった。
だが、本当に厄介なのはそこからだった。
その黒鋼の壁の後ろ。
通りの奥、半壊した建物の陰や路地の曲がり角に、低い砲架がいくつも据えられていた。黒く鈍い砲身。無骨で、上品さの欠片もない代物だ。
そのさらに後方、先程の女と同じように瓦礫を積み上げた高所に、赤い鎧の男が立っていた。
あれだけ派手に動く女とは逆に、そいつはほとんど目立たない。
だが、片手をわずかに上げるだけで砲列の向きが揃い、次にどの防壁が砕けるのか、最初から決まっていたみたいに照準が定まる。
次の瞬間、腹に響く爆音。
黒い弾丸が、一直線に飛ぶ。
王国側が張った防壁を、まるでそこに何もないみたいに貫いた。迎撃の魔法が弾こうとして、逆に軌道を乱せない。魔法障壁も、蒼氷の壁も、剛岩の盾も、その”前提”ごと撃ち抜かれていく。
そして、それで終わりじゃない。
砲撃で壁が崩れた、その一拍後。
今度はその裂け目めがけて、後列に控えていた紅蓮の術師たちが一斉に詠唱を解き放った。
炎弾。
火槍。
爆ぜる火線。
砕けた防壁の穴へ、狙い澄ましたみたいに紅蓮が撃ち込まれる。
崩して、焼く。
受け止める間も、立て直す間も与えない。
一射目で壁を壊し、二射目で中身を焼く。
そんな手順が、まるで最初から決まっていたみたいに繰り返されていた。
要所要所で壁が吹き飛び、王国側の防御陣地だけが選んだみたいに崩れているのは、そのせいだった。
焼いたというより、砕いた痕。
魔法で制圧したというより、魔法の理屈そのものを外から殴り壊し、開いた傷口へさらに火を流し込んだ痕跡だった。
前で魔法を殺す黒鋼の壁。
後ろで魔法防御ごと穿つ黒鋼の砲。
しかも、そのあいだを繋ぐ指揮が異様なほど噛み合っていた。
戦場の理屈そのものが、王国側だけ古くなったみたいだった。
だから押し返せない。
だから、圧倒的に帝国有利だった。
王国兵は弱くない。
むしろ、よく踏みとどまっている方だ。
それでも崩れる。
魔法で止める。
障壁で凌ぐ。
隊列を立て直す。
その全部を、向こうは最初から折る前提で動いていた。
まるで誰かが、この街で栄皇騎士団をどう殺すかだけを考え抜いて、盤上で何度も組み直したあとみたいに。
嫌な汗が、背中を伝った。
こんな戦場を組むやつを、俺は一人しか知らない。
――地球の知識がなければ、こんな発想には辿り着かない。
火薬を使った黒い砲弾。
魔力を通さない玉鋼。
魔法の理屈そのものを外から叩き壊す戦い方。
ひとつひとつは別のものに見えて、全部が同じところを指していた。
胸の奥で、認めたくもない名前が何度も浮かぶ。
いや、そんなはずがあるか。
そんなはず――。
広場へ抜ける直前、前方からとてつもない衝撃音が響いた。
空気が震え、石畳が跳ね、建物の窓がまとめて砕ける。次の瞬間、曲がり角の先から焼けた瓦礫がいくつも飛んできた。
「伏せてください!」
エリシアの声と同時に身を沈める。頭上を石片と鉄片が唸りをあげて通り過ぎた。ひとつは後ろの壁へ突き刺さり、もうひとつは地面に転がって火花を散らす。
息を整える暇もなく、俺は角を蹴った。
そして――見た。
オルタの憩いの場だったはずの中央広場は、もう広場じゃなかった。
地面は抉れ、石畳はめくれ上がり、三つあったはずの噴水は見る影もなく吹き飛んでいる。広場を囲む建物も無事じゃない。壁は裂け、窓は砕け、二階部分ごと崩れ落ちている場所すらあった。
ついさっきまで街だった場所を、誰かが乱暴に戦場へ塗り替えた。
そんな有様だった。
その真ん中で、ひとりの男が立っていた。
――いや、立たされていた、というべきか。
ダリウス=グレイヴ。
灼嵐の軍神。
王国最強の騎士団長。
その王国最強の男が、三人の猛者に追い込まれていた。
翠の外套を翻す女が、両手の刀で風みたいな斬撃を撒き散らす。狙いは討ち取ることじゃない。正面から絶えず揺さぶりをかけ、ダリウスの意識を前へ縫い止めるための剣だ。
褐色の厚い鎧を纏った大男は、長斧を振るうたびに地面を盛り上がらせ、遮蔽物ごと戦場の形を変えていく。壁を作り、退路を塞ぎ、受け止める。正面の防御と拘束を一手に担っていた。
その二人が作った隙間へ、黒い影が滑り込む。
左右から。
背後から。
逃げた先へ先回りするみたいに。
鉄塊みたいな大剣。
外套も鎧も、煤と血で黒く沈んでいる。
翠の女が揺さぶり、重鎧の大男が止める。
そして最後に、その黒い影が断ち切る。
黒い影が一歩踏み込むたびに石畳が割れた。斬撃を振るうたびに、空気そのものが軋んだ。あまりにも重い。あまりにも荒い。真っ直ぐで一切ぶれない。
ダリウスは下がりながら紅蓮を放ち、翠嵐で体を滑らせ、紙一重で斬撃をいなしている。普通の相手なら、その場で三度は焼き払われている。なのに押されている。三人の連携が、噛み合いすぎていた。
「固めろ、ガルディオ!」
翠の外套の女が叫ぶ。
「はッ!」
次の瞬間、褐色の大男が斧の石突を地面へ叩き込んだ。砕けた石畳と周囲の瓦礫がごう、と盛り上がり、壁みたいな岩塊がダリウスを包み込む。
そこへ、女の二刀と大男の斧が左右から走る。
確実に仕留める一撃。
手応えがあった。そう見えた。
だが、割れた岩塊の中にダリウスの姿はなかった。
足元だ、と気づくより早く、包囲していた地面が紅蓮とともに爆ぜる。爆風が二人を弾き飛ばし、巻き上がった砂煙の向こうから、ダリウスが別の位置へ滑り出てくる。
だが、そこに――黒い影がもういた。
鉄塊みたいな大剣が、真上から落ちる。
ダリウスが剣で受ける。
火花が散る。
その一撃だけで、ダリウスの両足が石畳へ沈んだ。
「……ッ」
思わず息が詰まる。
あれはまずい。
誰が見ても、もうあと一手で詰む。
俺は考える前に走っていた。
雷鳴魔法を纏う。
血が沸く。
視界が白く裂ける。
世界が一気に近くなる。
踏み込み。
加速。
雷みたいな速度で、その間へ割り込んだ。
「うおおおおおッ!!」
振り下ろされる黒い大剣へ、俺は雷を纏わせた剣を横から叩き込む。
――ガァンッ!!
金属音というより、鐘楼そのものを殴ったみたいな音だった。衝撃が腕から肩へ、背骨へ、脳天へとまとめて突き抜ける。
重い。
いや、それだけじゃない。
纏わせた雷が、消える。
刃が触れた瞬間、雷鳴魔法がごっそり削がれた。火花みたいに散るんじゃない。喰われた。霧が風にさらわれるみたいに、魔力そのものが消されていく。
反魔法。
やはり、この黒鋼の正体は――ミルテ村でカミナが執着していた、あの屑鉄。玉鋼だ。
刃が噛み合った瞬間に走った違和感。魔力が散るんじゃない。削がれる。喰われる。その感触を理解した時には、もう背筋が冷えていた。
その重みと反発の先で、黒い影がこちらを見た。
外套の裂け目。
影の奥に覗く眼。
その輪郭を捉えた瞬間、時間がわずかにずれたような気がした。
「……カミナ」
名前が、勝手に口をついて出た。
相手の動きが、ほんの一瞬だけ止まる。
それで十分だった。
見間違いじゃない。
黒鎧の奥にいるのは、間違いなくカミナだった。
生きていた。
その一言だけで、胸の奥が焼けるみたいに熱くなる。サルテ村で聞いた話が、本当だった。焼け跡の向こうで、あの日全部終わったわけじゃなかった。
抱きしめたかった。
殴りたかった。
問いただしたかった。
何より、ただ生きていたことを確かめたかった。
でも次の瞬間、カミナの目が俺を見て、すっと細くなった。
「……へぇ。そう来るか」
低い声だった。
懐かしいはずなのに、昔のままじゃない。
「やっぱりお前は、そいつと並ぶんだな」
「……何を言ってる?」
問いかける自分の声が、情けないくらい揺れていた。
「カミナ、お前こそ何で帝国にいる? ミルテ村の惨状を見たその上で、帝国の側に立つのか!」
カミナの顔から、最後の温度が消えた。
「……帝国の側?」
低く、唸るみたいな声だった。
その瞬間、カミナの目の焦点がわずかに揺れた。怒りとも、呆れともつかない感情が、煉獄闘気と一緒にぶわりと噴き上がる。
「何言ってんだ、ジーク。ミルテ村を滅ぼしたのは――」
その瞬間、横から白い閃光が走った。
一直線の聖光。
熱線みたいに圧縮された光が、夜明け前の空気を焼き裂いてカミナへ突き刺さる。
「勇者殿! 助太刀します!」
リュシアンの声だった。
聖光がカミナの肩口を掠め、黒い鎧の表面を焼きながら爆ぜる。眩しすぎる閃きに、一瞬だけ視界が白く飛んだ。
「……ッ!」
カミナが何か言った。怒鳴ったようにも聞こえた。けれど、焼けた空気の炸裂音と遅れて響いた轟音に呑まれて、肝心の言葉だけが聞き取れない。
「待て!」
反射で叫ぶ。
「大丈夫だ、リュシアン! 下がってくれ!」
だが、もう遅かった。
「――邪魔をするなァ!」
黒い大剣が、怒りそのものを叩きつける勢いでリュシアンへ振り下ろされる。
リュシアンの防御が、半拍遅れた。
鈍い音。白い外套が宙を舞い、そのまま石畳の上を跳ねるように転がっていく。盾で受けたはずなのに、勢いを殺しきれていない。
そこへ、カミナが間髪入れず踏み込んだ。
追撃。
完全に仕留めるつもりだ。
考えるより先に、俺の身体が割り込んでいた。
剣を合わせる。
瞬間、足元の石畳が砕けた。受けた衝撃が腕から肩へ突き抜け、踵が半歩、地面へ沈む。
重い。
いや、重いだけじゃない。
怒りがそのまま質量を持って叩き込まれてくるみたいだった。
「お前、ほんとに何も見えてねぇんだな」
押し込まれる。
剣がきしむ。腕ごとへし折られそうになる。目の前で、カミナの目だけが異様なほど冴えていた。
「父さんも母さんも、村も、仲間も、全部なくなった」
一語ずつ、噛み砕くような声だった。
「その時、お前は何をしてた」
「勇者になって、何を守ってたんだよ!」
「魔族の暴走を止めてた!」
剣を噛ませたまま、俺は吠え返す。
「俺だって何もしてこなかったわけじゃない!」
押し返せない。それでも声だけは叩きつける。
「今は、どうしても助けなきゃならない人がいる! そのためにダリウスが持ってる盾が必要なんだ! こいつに今ここで死なれたら困る!」
言った瞬間、失敗したと分かった。
カミナの目が、底まで冷えきったからだ。
「……死なれたら困る?」
黒い刃の重みが、さらに増す。
「そいつが?」
「そうだ! 俺には必要なものなんだ!」
「そのために、そいつは見逃せって?」
低い。低いのに、その言葉だけが耳の奥へ真っ直ぐ刺さる。
カミナは吐き捨てるみたいに言った。
「父さんや母さんが死んで、村が燃えて、仲間が消えたあとで」
「お前が今、守るのはそいつか」
「違う! そういう話じゃ――」
「じゃあ何だよ!」
黒い大剣がさらに軋む。剣越しに怒りそのものを押し込まれているみたいだった。
「王国の騎士団が腐ってるのが、ダリウス一人のせいじゃないだろ!」
「責任を一人に押しつけるのは違う!」
一拍。
「……皆んなが殺されてもか」
その声音が、逆に冷たすぎて怖かった。
「お前が帝国にいる方が、お門違いだろ!」
「何が違う!」
剣が弾けた。
俺は後ろへ飛び、着地と同時に雷を走らせる。だが、カミナは真正面から踏み抜いてくる。黒い斬撃が地面ごと喰らいつき、俺はそれを風のように横へ抜けてかわした。
鉄塊みたいな大剣が横薙ぎに来る。受ければ終わる。俺は身を低くし、その懐へ斬り込む。だが玉鋼の籠手が俺の剣を受け、逆に肘打ちが胸元を抉った。
「がっ……!」
息が詰まる。
「お前こそ、何でそっちに立ってる」
カミナの声は、もう怒鳴り声ですらなかった。怒りが冷えすぎた時の声だ。
「何で今さら、王国の勇者なんかやってんだよ」
「好きでやってるんじゃない!」
咳き込みながら、俺は叫ぶ。
「俺には助けなきゃならない人がいる! そのために、今ここで――」
レイ。
五百年前。
アマテリア。
喉まで出かかった言葉を、翠の外套の女の斬撃が断ち切った。風の刃が俺とカミナの間へ割り込み、二人とも同時に下がる。
「カミナ! あたしたちはダリウスを撃つが、いいか!?」
「待ってくれ! オレがやる!」
「なら、さっさとそいつを仕留めろ!」
女が怒鳴る。長斧の大男も肩で息を吐き、低く構え直した。横で見ているだけでも圧がある。三人とも、ただ強いだけじゃない。戦場をどう畳むかまで頭に入っている動きだった。
だが、その声ももう耳に残らなかった。
俺の視界には、カミナしかいない。
黒い鎧。鉄塊みたいな大剣。
あの日から、どれだけの地獄をくぐれば、こいつはこんな顔になるんだろう。俺には分からない。分からないけど、ひとつだけはっきりしていることがあった。
――ここでは駄目だ。
何を言っても届かない。今のカミナは、言葉を聞く場所に立っていない。俺だって同じだ。
だったら、もうやることはひとつしかない。
一度気絶させてでも連れて行く。説得は、落ち着いてからだ。
そう腹を括った瞬間、逆に頭の中が静かになった。
剣を握る手に、もう迷いはない。肺の奥まで息を入れ、全身の魔力を一気に巡らせる。
「……ッ」
空が、鳴った。
朝焼け前の曇天が、まるでそこだけ思い出したように暗く沈む。雲の奥で、重たい雷鳴が何重にも転がった。
石畳の上を、白い稲光が這う。俺の足元から放射状に走ったそれが、割れた広場の縁まで一瞬で駆け抜け、空気そのものを焼いていく。
だが、変わったのは雷だけじゃない。
俺の内側から、膨大な魔力が溢れていた。
濁流みたいなマナが、音もなく広場を満たしていく。見えるわけじゃない。触れられるわけでもない。それでも、そこにいる全員が本能で理解する。今、この場の空気そのものが塗り替えられているのだと。
雷はただ光っているんじゃない。そこに”在る”だけで、周囲の理を塗り替えていく。
焦げた匂いも、血の匂いも、戦場に満ちていた汚れた空気ごと洗い流してしまいそうな、澄み切った破壊の気配だった。
俺の周囲だけ、世界の輪郭が研ぎ澄まされる。景色が白く縁取られ、瓦礫の角も、兵士の息づかいも、遠くで揺れる炎の先端すら、異様なほど鮮明に見えた。
周囲の兵士たちが、息を呑む音が聞こえた。
リュシアンは一歩だけ足を止めた。白手袋の指先が、わずかに強張る。
「……なるほど」
静かな声だった。静かすぎて、逆に底が見えない。
「確かに、これは……国にとって”勇者”と呼ぶに足る力ですね」
⸻
グラトスだけが、恐怖より先に熱を上げていた。
「おお……! おおお……っ!」
目を輝かせ、今にも両拳を振り上げそうな勢いで叫ぶ。
「これぞ! これぞ勇者殿……! 天を裂き、地を貫く神雷でありますな……!」
興奮のあまり半歩前に出かけ、エリシアに無言で袖を引かれて止められる。
けれど。
その真正面に立つカミナだけは、目を逸らさなかった。
むしろ――口の端が、わずかに吊り上がった。
黒い大剣を肩から下ろす。その刃先が、砕けた石畳を引きずって鈍い火花を散らす。
次の瞬間、カミナの足元で、赤黒い闘気がぶわりと噴き上がった。
それは俺の雷みたいに、世界を澄ませる力じゃない。逆だ。
空気を濁らせる。焦がし、汚し、息苦しくする。血と煤と怒りと痛みを煮詰めて、そのまま立ち上がらせたみたいな、熱くて汚い力だった。
赤黒い靄が、地を這う。割れた石畳の隙間へ潜り込み、焼け残った木材の表面をじりじりと焦がしていく。さっきまで白く光っていた雷の残滓が、その闘気に触れた端から食い潰されるように揺らいだ。
熱い。なのに、寒気がした。
見ているだけで分かる。あれは理屈で扱う力じゃない。傷ついて、壊れて、それでも立ち上がってきた生命力そのものだ。
セリーヌが、肩越しに吐き捨てる。
「……さて、勇者の雷にどこまでやれるか」
軽い口調に聞こえるのに、声の芯だけが硬い。
ガルディオも、長斧を握り直す。
「近くにいるだけで喉が焼ける。相変わらず、ひどい力だ」
グラトスだけは、さっきまでの熱を少し失っていた。
「な、なんというか……勇者殿の雷は神々しくて、カミナ殿のは……こう……近づいてはいけない感じでありますな……」
喉をごくりと鳴らす。
たぶん、それがいちばん正しい感想だった。
俺の雷の魔法は、空を裂いて世界を照らす。
カミナの焔の闘気は、地を這って世界を覆う。
昔なら、並んで立てた二つの力だ。今は、それが断絶そのものになっていた。
カミナが、赤黒い闘気の中で低く笑う。
「……来いよ、ジーク」
(なめるなよ、カミナ。目を覚させてやる)
俺は答えず、踏み込んだ。
雷が落ちる。
空中で生まれた白光が、一瞬遅れて広場を真昼みたいに照らし、次の瞬間には俺自身がその光の中からカミナへ突っ込んでいた。
「うおおおおおッ!!」
振り下ろした一撃を、カミナが大剣で真正面から受ける。
轟音。
雷鳴と金属音と、石畳の砕ける音がまとめて爆ぜた。
玉鋼の大剣が雷を散らすなら、散る端からさらに叩き込めばいい。押し切る。上から潰す。理屈ごと飲み込む。
手応えは、あった。普通の人間なら、これで終わりだ。
衝撃で広場の中央が陥没する。周囲の建物の窓が一斉に割れ、二階の壁がごっそり崩れた。
カミナの身体が吹き飛ぶ。
そのまま背後の建物へ叩き込まれ、石壁を突き破って瓦礫の中へ消えた。巻き上がる粉塵。潰れた屋根。飛び散る木材。
誰もが「終わった」と思った。
だが、次の瞬間。
瓦礫の山が、内側から膨れた。
黒い大剣が先に突き出る。続いて、赤黒い闘気をまとったカミナが、崩れた壁を押しのけるように立ち上がった。
口の端から垂れた血混じりの唾を、ぺっと横へ吐き捨てる。
「……きかねえ」
低く呟く。
その声を聞いた瞬間、背筋が冷えた。
この一撃まともに食らって、まだ立つのか。それに、立つだけじゃない。目が死んでいない。むしろ、さっきより火が入ってる。
カミナが、ぐるりと首を回す。骨が鳴る。肩を一度だけ落とし――次の瞬間、吠えた。
「うおおおおおおおおおおッ!!」
地獄の底から掘り起こしたみたいな咆哮だった。
赤黒い闘気が、一気に燃え上がる。背後に立ち昇ったそれは、ただの靄じゃなかった。羽を広げた不気味な不死鳥みたいに、紅黒い輪郭を描いて空気を揺らした。
カミナの姿が、消える。
見えない。
反射だけで剣を立てる。直後、黒い大剣が真横から叩き込まれた。
受けきれない。
俺はそのまま後ろへ吹き飛ばされ、石柱へ背中からぶつかった。柱が折れ、上から瓦礫が降る。落ちてくる石材を雷で砕きながら、どうにか体勢を立て直す。
そこへもう、カミナが踏み込んでいる。
速い。重い。なのに、躊躇がない。
黒い大剣と雷の聖剣がぶつかるたび、広場の形が変わる。石畳がめくれ上がり、壁が裂け、屋根が飛び、火の粉が舞う。
剣戟というより、災害同士がぶつかっているみたいだった。
子どもの頃と同じだ、と不意に思う。あの頃は、壊れるのが道場だけで済んだ。
「下がれ! 巻き込まれるぞ!」
誰かの怒鳴り声。王国兵が負傷者を引きずる。帝国兵ですら距離を取っている。
視界の端で、広場に面した家屋の壁が剥がれ落ちた。商家らしい建物だ。中から泣き声が上がる。逃げ遅れた人間がいる。
――まずい。
頭のどこかが冷静にそう告げる。このまま続ければ、街の人間が死ぬ。
だが、止められない。
俺が下がればカミナが前へ出る。カミナが下がれば俺が押す。そこに理屈はもうなかった。
剣を合わせる。弾く。雷が炸裂し、黒い斬撃が地を裂く。互いの一歩ごとに、広場が削れていく。
カミナの剣が真上から落ちる。受けた瞬間、両腕が痺れた。俺は雷を爆ぜさせて無理やり間合いを切り、逆に横薙ぎで斬り返す。カミナが身をひねってかわす。背後の建物の外壁が、代わりに斜めに裂けて崩れ落ちた。
今度はカミナが突っ込んでくる。剣を振るうたびに赤黒い斬撃が飛び、石畳を噛み砕き、地面そのものを抉っていく。俺はそれを雷で相殺し、蹴り込み、踏み替え、どうにか正面で止め続ける。
止めているだけなのに、街が壊れる。
セリーヌが舌打ちする。
「これ以上はやめだ! 街が壊れる!」
一瞬だけ、胸の奥がざらつく。
――やめだ、道場が壊れる。
昔、父さんが言った言葉と、あまりにも似ていたからだ。
けれど――だからどうした。
あの頃は、それで止まれた。父さんがいて、母さんがいて、道場を壊せば怒られるだけで済んだ。でも今は違う。
目の前にいるのは、もうあの頃のカミナじゃない。ここで止めなきゃ、またどこかへ消える。また手の届かない場所へ行く。
ふざけるな。
止める。引きずってでも連れて帰る。話は、それからだ。
俺は踏み込んだ。
雷を纏ったまま、剣を半歩引く。斬るためじゃない。殺すためでもない。この一撃で、意識を刈り取る。
「……寝てろ、カミナッ!!」
全身のばねをまとめて叩き込み、渾身の突きを胸へ打ち込む。
雷鳴が爆ぜた。
白い閃光が広場を塗り潰し、衝撃波が石畳をめくり上げる。まともに入った。手応えはあった。鎧ごと胸を打ち抜いた感触が、腕から肩まで突き抜ける。
カミナの身体が、大きくのけぞった。
黒い鎧が石畳を削りながら後ろへ吹き飛び、そのまま崩れかけた外壁へ激突する。石壁が耐えきれずに弾け、瓦礫と木材が雨みたいに降り注いだ。
決まった――そう思った。
だが。
粉塵の向こうで、黒い影は膝をつかなかった。
崩れた壁の中から、カミナがゆっくりと顔を上げる。
額が割れ、頬が裂け、胸甲は大きく陥没している。血が口元を伝い、顎からぽたりと落ちた。
それでも、立っている。
立って――笑っていた。
口の端から溜まった血と唾を、ぺっと横へ吐き捨てる。
「……だからきかねえっつてんだろ」
低く、掠れた声だった。なのに、その一言だけで背筋が冷える。
胸の中央に、俺の雷がまともに入った。普通なら心臓ごと止まっていてもおかしくない。少なくとも、人間なら立っていられる傷じゃない。
なのに、こいつは立っている。
カミナが首を鳴らす。肩を回す。陥没したはずの胸甲の下で、赤黒い闘気がどくどくと脈打つ。
傷口が焼ける。ひしゃげた鎧の隙間から立ち上る蒸気が、再生の熱そのものみたいに揺れていた。
カミナはそんな周囲の声なんて聞こえていないみたいに、大剣を持ち直した。
ぎし、と柄が鳴る。赤黒い闘気が、また背後で不気味に羽ばたいた。
その目は、俺だけを見ている。
俺も、剣を握り直した。
……やっぱり、駄目だ。理屈も言葉も、こんな場所じゃ届かない。
今ここにいるのは、カミナじゃない。目の前の全部を壊してでも前へ出る、止まらない怪物だ。
⸻
セリーヌが舌打ちした。
「チッ……ほんと、兄弟そろって面倒くせえな」
顎だけで、ガルディオへ合図を送る。
褐色の重鎧――ガルディオが、無言で一歩前へ出た。
長斧の石突を、割れた石畳へ深く叩き込む。
次の瞬間、俺とカミナのあいだの地面が盛り上がった。
剛岩の壁。
そこへ蒼氷が走り、岩肌を一気に凍てつかせる。
反射で俺は雷を叩き込み、向こう側ではカミナが黒い斬撃を振り下ろした。
壁はその一撃だけで大きく罅割れた。白く走る亀裂が、岩と氷の表面を蜘蛛の巣みたいに駆け抜ける。
もう一発で砕ける。
誰の目にもそう分かる、ほんの一拍を稼ぐためだけの壁だった。
だが、その一拍で十分だった。
「カミナ、目ぇ覚ませ」
セリーヌの声が、鋭く飛ぶ。
「狙いは果たした。退くぞ」
壁の向こうで、気配が止まる。
赤黒い闘気が、なおも不穏に脈打っている。
けれど、さっきまでみたいな爆発寸前の濁流じゃない。ほんのわずかに、流れが変わったのが分かった。
セリーヌが、さらに吐き捨てる。
「兄弟喧嘩で街を潰す気か。後で殺りたきゃ好きにしろ。今じゃねえ」
沈黙。
壁一枚隔てているだけなのに、やけに遠い。
その沈黙の向こうで、カミナがどんな顔をしているのか、見えないのに分かる気がした。
荒い息。
それから、赤黒い闘気がほんの少しだけ引いた。
低い、苛立ちを噛み殺した声。
「……ダリウスは殺す」
そのあと、壁の向こうから落ちてきた声は、さっきまでの咆哮よりずっと静かで、その分だけ冷たかった。
「止めるつもりなら、覚悟しておけ」
俺は反射で壁へ手をついた。
「待て、カミナ!」
雷を流し込む。
壁が白く光る。
だが、罅の入った岩と氷は最後まで持ちこたえた。
壊せる。
壊そうと思えば壊せるかもしれない。
でも、その瞬間、後ろで崩れかけた建物が悲鳴みたいに軋んだ。ダリウスも、グラトスも、エリシアも、まだすぐ後ろにいる。
ここで無理に叩き割れば、巻き込む。
その一瞬の理性が、足を止めた。
その時、帝国軍の角笛が鳴る。
短く、鋭く。
撤収の合図だった。
壁の向こうで足音がひとつだけ鳴る。
離れていく気配だった。
やがてガルディオが斧を引くと同時に、壁が崩れた。
砕けた氷が光を散らし、岩塊が土へ還るみたいに崩れ落ちる。
だが、その向こうにはもうカミナの姿はなかった。
セリーヌとガルディオを先頭に、帝国軍は整然と引いていく。王国側も追えない。街が半分壊れている。負傷兵もいる。ダリウスは瀕死だ。
追えば喰われる。
それくらいの理屈は、戦場に立てば嫌でも分かる。
それでも、胸の奥では別の声が叫んでいた。
追え。
今しかない。
今行かなきゃ、また取り返しがつかないぞ、と。
でも身体は動かなかった。
動けなかった、じゃない。
動かなかった。
俺は、立場を選んだのだ。
それが分かった瞬間、足元が妙に冷えた。
⸻
朝日が、ようやく城壁の上へ差し込んでくる。
夜が終わる。
世界は明るくなるはずなのに、胸の奥だけがひどく暗かった。
剣を握る手が、まだ震えている。
生きていた。カミナは確かに、生きていた。
でも、ただ再会を喜べる場所には、もういない。
俺たちは今、同じ朝の下に立って、まるで違うものを見ていた。
昔みたいに、また父さんが止めに入って、母さんに怒られて、それで終われる喧嘩じゃない。あの頃と明確に違う立場が原因だ。
兄弟としての何かが、あの結界を境に、確かに断ち切られた気がした。




