五十七、消された痕跡
王都を発ってから二日。
馬車の中には、俺とエリシア、グラトス、そしてリュシアン。
外は栄皇騎士団の護衛が固めていた。御者がひとり、護衛の騎士が三人、さらに左右を馬で並走する二騎。以前、追手に追われながら南へ向かった時と、妙によく似た布陣だった。
道中、馬車の中ではいろいろな話をした。
リュシアンは聞き上手で、俺たちの旅の出来事を自然に引き出してくる。グラトスはすっかりその気になって、俺とリゼリアの活躍を大げさなくらい誇らしげに語っていた。
「魔王など、勇者殿とリゼリア殿がいれば楽勝でしょうな! はっはっは!」
グラトスが胸を張ると、リュシアンは上品に笑った。
「殿下のお話は、ぜひダリウス閣下にもお聞かせしたいですね。ジーク殿の強さも、リゼリア様と合流された件も、きっと驚かれるでしょう」
和やかな会話だった。
少なくとも、傍から見ればそう見えたはずだ。
この金ピカ馬車を見るたび、追手から逃げながら山村へ転がり込んだ時のことを思い出す。
あの時は、まだ笑う余地があった。
だが今日は違う。
山の稜線が見え始めたあたりで、胸の奥のざわつきが少しずつ輪郭を持ちはじめていた。
見慣れたはずの道だ。
川の曲がり方も、丘の高さも、木々の並びも、身体のどこかが覚えている。子供の頃、カミナと競争みたいに駆け上がった斜面。父さんに木剣を持たされ、息を切らして走った道。母さんと一緒に買い物へ向かう時、何度も通った細い坂道。
なのに――近づくほど、何かが噛み合わなかった。
人の気配が、ない。
畑は耕されず、道端の草は膝の高さまで伸びきっていた。
荷車の轍が何本も刻まれていたはずの土道は、半分が雑草に呑まれている。
風は吹いているのに、生活の匂いがしなかった。煙も、煮炊きの気配も、子供の声もない。
馬車の窓を開け、リュシアンが静かに手を上げた。
「失礼。村へ入る前に周囲を確認させます。盗賊や魔物が潜んでいるやもしれません」
それだけで馬車は止まり、御者台の前後を固めていた二騎が、示し合わせたように同時に動いた。
一騎は村の外縁を大きく回り、もう一騎は井戸や納屋の陰を確かめながら、通りの奥へ消えていく。残る一人は御者台にとどまり、手綱を握ったまま周囲へ視線を配っていた。
しばらくして戻ってきた二騎は、短く報告した。
「獣の気配、不審者ともになし」
「進路上、異常なし。安全です」
無駄がない。
同じ“三人護衛”でも、以前グラトスについていた連中とはまるで別物だった。あちらが騒がしくて見ているだけで胃が痛くなる手合いだったとすれば、こちらは静かすぎるくらい完成された護衛だ。
リュシアンが優秀なら、部下もやはり優秀らしい。そう思わせるだけの手際だった。
「……勇者殿。おつらいようでしたら、リュシアン殿と某で先に見てまいりますが」
グラトスの声が、いつになく低い。
「いや、いい」
短く返す。
「自分の目で確かめるために来たんだ」
言い切って、俺は先に飛び降りた。
足元で、乾いた草がぼそりと鳴る。
その音だけで、胸の奥が嫌なふうに冷えた。
ミルテ村。
俺とカミナが生まれ育った村。
父さんの道場があって、カミナの鍛冶場があって、夕方になれば母さんの飯の匂いが通りに流れてきて――そういう、家族で過ごした村だった。
だが今、そこにあったのは“村だったもの”だった。
家々は半ば崩れ、壁は黒く煤け、戸板は外れている。
窓枠は割られたまま、そこから草だけが伸びていた。
人が住まなくなった家というのは、こんなにも早く“穴”になるのかと、妙に冷静なところで考えてしまう。
村の中心へ向かう道すがら、俺は何度も足を止めた。
隣の老夫婦の家。
オルダ爺とシルフィ婆の家だった場所は、屋根の半分が落ち、入口には蔓が絡みついていた。
あの二人は、俺が村を出る時に「戻る場所はここだぞ」と言ってくれた。
その戸口は今、風に軋むだけで何も返してこない。
雑貨屋。
ベルナおばちゃんの声が一番でかかったあの店は、看板だけが斜めにぶら下がっていた。
板壁には深い裂け目が走り、棚の跡だけが妙に綺麗に四角く日焼けしている。
王都で変な女に騙されるんじゃないよ――そう笑っていた顔が、妙に鮮明に浮かんで、余計に息が詰まった。
鍛冶屋。
ドラン爺とカミナの鍛冶場だった場所は、他よりわずかに頑丈に残っていた。それが逆に痛かった。
炉は崩れ、煙突は割れ、打ち台の横には折れた鉄棒や砕けた鉗子が転がっている。
それでも、ここだけはまだ“仕事場”の骨が残っていた。最後まで、簡単には折れなかったみたいに。
カミナはここが好きだった。
父さんの道場と同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に。
鉄を打つ音が鳴るたびに目を輝かせて、ドラン爺に怒鳴られながら勝手に手を出して、また怒鳴られて、それでも翌日には平気な顔で戻ってくる。そういう場所だった。
俺が村を出る朝、あの爺さんはぶっきらぼうに言った。
――あいつはな、ずっとジークの背中を見て追いかけてた。
――もし目標を失い、立ち止まることがあったら、ワシがカミナの背中を押してやる。
その約束を、爺さんはきっと最後まで守ろうとしてくれたのだろう――そう思いながら、俺は打ち台の端へそっと触れた。
冷たい鉄の感触が、指先から骨まで染みていく。
何も残っていない。
なのに、ここだけはまだ、カン、カン、と鉄を打つ音が耳の奥に残っていた。
俺はゆっくりと手を離し、その先へ視線を向ける。
道場。
父さんの声が染みついていたあの木の床は、半ば焼け落ち、残った梁にも草が巻きついていた。
風が吹くたび、壊れた板がかたかた鳴る。
それが、夜の立ち会いで木剣のぶつかる音に一瞬だけ聞こえた。
――本気の力を見せてみろ。
――王都で、勇者としてやっていける。
最後に父さんが笑った夜のことを、嫌でも思い出す。
そして――家。
俺たちの家があった場所には、土台の石と、黒ずんだ柱の名残だけがあった。
母さんが毎朝掃き清めていた縁側も、父さんが無造作に積んでいた薪も、カミナが勝手に作って怒られていた変な鉄くずも、もうない。
ただ、草だけが伸びている。
そこで、ようやく足が止まった。
目が霞み、喉が鳴る。
息を吸おうとして、うまく入らない。
帰ってきたかったのは、ここじゃない。
俺が思い描いていた“帰る場所”は、もうどこにもなかった。
「……ジーク様」
エリシアの声がした。
近い。だが、近づきすぎない距離だった。
振り向けないままでいると、彼女は静かに続けた。
「無理に、言葉にしなくて結構です」
いつものきっぱりした声音より、少しだけ低い。
「ここで何が奪われたかは……見れば分かります」
慰めじゃない。
ただ見たままを、見たまま認める言い方だった。
その静けさが、今はありがたかった。
グラトスは逆に、俺の横まで来ると拳をぐっと握った。
「ひどい……でありますな」
怒っている。
分かりやすいくらい、まっすぐに。俺の代わりみたいに、腹の底から怒ってくれているのが伝わった。
「こんなこと、許せないであります。帝国め……!」
その憤りが、少しだけ救いだった。
自分の代わりに怒ってくれる声が、今はありがたい。
後ろで、リュシアンが足音もなく近づいてきた。
白手袋のまま、焼け跡と草むらを見渡す。表情は崩れない。
「……以前、私たちが入った時よりも荒れていますね」
静かな声だった。
「私たち栄皇騎士団が駆けつけた時には、すでにひどい有様でした。帝国兵は、これでもかというほど村人を虐げ、村を焼き払い、ここを陣地としていた」
一拍。
「《暁の牙》という義賊の一団も戦ったようですが、歯が立たなかったのでしょう。村の規模と被害状況を見れば、そう考えるのが自然です」
その言葉を、俺は正面から聞かなかった。
焼け跡を見たまま、口だけが先に動く。
「……そうは思えない」
三人の視線が、こちらへ向く。
喉が少しだけ熱を帯びる。
「この村には、戦える人間がいた。何もできずに踏み潰されるような村じゃなかった」
一拍置いて、焼け跡へ視線を落とす。
「普通の帝国兵相手なら、ここまで一方的にやられるはずがない」
そこまで言って、自分で口をつぐんだ。
だが、胸の奥から浮かんだ名前は、勝手に口を突いて出た。
「……ヴォルグが相手なら、分からないか」
風が、ひとつ止まった気がした。
「あの時、俺が仕留めきれていれば――」
最後まで言い切れなかった。
自分で口にしたくせに、その重みが遅れて胸へ落ちてくる。
ヴォルグを知っているからこそ、その可能性は笑えなかった。
リュシアンは、ほんの一呼吸だけ間を置いてから言った。
「私たち栄皇騎士団が到着した時には、七神将の姿は確認されておりません」
丁寧で、澄んだ声だった。
「ですが――可能性として、捨て切れるものではないでしょう」
グラトスが悔しそうに歯を食いしばる。
「もし本当に七神将が出ていたのなら、なおさら許せんでありますな……!」
エリシアは、焼け跡を見つめたまま口を開いた。
「いずれにせよ、ここで起きたことが、ただの“帝国兵の略奪”では片付かない規模であることは確かです」
静かな断定だった。
俺は返事をしなかった。
できなかった。
家を失った。
村を失った。
父さんも、母さんも、カミナも、仲間たちも、ここで何を見て、何を守ろうとして、何を失ったのか。
その全部が、もう目の前の草と灰の下へ沈んでいる気がした。
風が吹く。
焼け跡の草がざわざわ鳴る。
その音だけが、誰もいない村でやけに大きく響いた。
俺は、焼け残った道場の柱へそっと手を置いた。
冷たい。
それだけで、どうしようもなく現実だった。
⸻
俺たちは数日をかけ、バストリアへ向かう道すがら、目につく周辺の村を一つずつ当たっていくことにした。
生き残りはいないか。何か見た者はいないか。あの日ここで起きたことの欠片でも拾えないか――じっとしているより、足を動かしていた方がまだましだった。
リュシアンにも付き合ってもらった。
本来なら一刻も早く持ち場へ戻りたい立場のはずだ。それでも彼は、嫌な顔ひとつせず「同行いたしましょう」と言ってくれた。正直、申し訳なさはあった。
そうして、いくつかの小村を回った末に、俺たちは川沿いのサルテ村へ辿り着いた。
村へ入る前にも、リュシアンはいつも通り静かに手を上げる。
「失礼。少々お時間をいただきます。山際ですので、盗賊や獣が潜んでいてもおかしくありません。先に周囲を確認して参ります」
それを合図に、三人の騎士が散った。
一人は川沿いを、一人は家並みの裏手を、もう一人は村はずれの畑の方まで見て回る。
しばらくして戻ってきた三人は、やはり何事もなかったような顔で、異常なしとだけ告げた。
徹底している。
こういう慎重さが、王国最強の騎士団たる所以なのかもしれない。
痩せた畑と、川魚が売りの小さな村だった。
低い屋根が肩を寄せ合うように並び、川沿いには干し網が何本も張られている。規模は小さいが、どこかしぶとく生きている村――そんな印象だった。
戸口の前で網を繕っていた女が、こちらへ目を向けた途端、手を止めた。
「……あれ?」
まじまじと俺の顔を見る。
その目が、驚きと戸惑いのあいだで揺れた。
「兄ちゃん……いや、違うのかい?」
その声で、家の奥から男が出てくる。
こちらを見て、一瞬だけ目を見張り、それから「ああ」と息を吐いた。
「なんだ。あの時の兄ちゃんじゃねぇのか」
胸の奥が、どくりと鳴る。
男は帽子をいじりながら、気まずそうに笑った。
「前にうちの村を助けてくれた兄ちゃんたち、いただろ。顔がそっくりだからな。……雰囲気が暗かったんで、一瞬もう一人の方かと思った」
そこでようやく思い出す。
サルテ村。
狼型の魔獣が出るってんで、俺たちが防衛に入った村だ。
この村の村長だ。
つまり――俺を知っている。もう一人のことも知っている。
「……あの時の、ってのは」
俺が低く聞くと、夫婦は一瞬だけ目を合わせた。
それから、女の方が声を潜める。
「三年前の、一番寒い時だったかねぇ。川で流れてきたんだよ。あんたじゃなくて、もう一人の兄ちゃんの方が」
耳の奥が、じんと熱くなる。
「でかい剣と鎧を抱えたまま、半分死んだみたいに流れてきてさ。あんな寒さの中だ、もう駄目だと思ったよ」
「それでも息はあった。村の連中で引き上げて、寝かせて、粥を食わせようとしても全然起きなくてな」
村長が、少しだけ声を落とした。
「結局、二か月も寝込んでた。寒さが抜けて、ようやく暖かくなってきた頃だったよ。急に目を覚ましたのは」
その瞬間だった。
胸の奥に張りつめていたものが、少しだけ緩む。
……二か月後に目を覚ました。
つまりカミナは、少なくともミルテ村襲撃のあともしばらくは生き延びていたということだ。
しかも、暖かくなる頃まで。
すぐに死んだんじゃない。
あの日、あの場所で、全部終わったわけじゃなかった。
女は続ける。
「起きた時も、最初は本当に別人みてぇだった。前に来た時の、あの真っ直ぐでうるせぇ兄ちゃんとは、まるで違ってな」
胸の奥が、強く脈打つ。
……生きていた。
だが、なぜ川を流れていた?
「……そいつは、どうして川を流れてきたんだ。……それで、どこへ行った?」
自分でも驚くくらい、声が前のめりになっていた。
村長は帽子のつばをいじり、こちらを見た。
「なんだ。まだ会えてねえのかい」
一拍。
「流れてきた理由は聞かなかったよ。……泣いてたんだ。あれじゃ、とても聞ける雰囲気じゃなかった」
「でも行き先は言ってた。ミルテ村へ向かうってな。家族がいるからって」
まじか、と思った。
喜びより先に、眩暈みたいな安堵が来た。
……生きていた。
流されても、眠り続けても、立ち上がって、ここから歩いていった。
同時に、腹の底が冷える。
じゃあそのあと、ミルテ村を見て何を思った。
焼け跡を見て、どこへ向かった。
生きているなら――なぜ、何の音沙汰もない。
その時だった。
横で、リュシアンの白手袋が、不自然なほど深く皺を刻んだ。
指先が止まる、なんて生やさしいものじゃない。
何かを握り潰しかけて、寸前で堪えた――そんな硬さだった。
整いきった横顔から、色だけがほんのわずかに抜ける。
だが次の瞬間には、もう戻っていた。
指はほどかれ、口元にはいつもの行き届いた笑みが置かれる。
「……弟君でしたか。良かった」
声は、いつも通り澄んでいる。
「生きておられたのですね」
完璧に整えられたその声音が、かえって妙に耳へ引っかかった。
グラトスが、ぱっと俺を見る。
「つまり……弟のカミナ殿は、少なくとも襲撃のあともしばらくはご無事だったということですな!」
エリシアも静かに頷いた。
「少なくとも、生存の証言ではあります」
俺は、すぐには返事ができなかった。
喉の奥が詰まって、うまく声にならない。
ようやく絞り出した声は、思ったより低かった。
「……ありがとう。助かった」
夫婦はきょとんとしたあと、少し困ったように笑った。
「いや、礼を言われるほどでもねえよ」
「前に助けてもらった恩があったからな。今度はこっちが返したってだけさ」
その言葉が、また胸へ沈む。
カミナは生きていた。
流されても、折れずに立ち上がって、ここから歩いていった。
だったら――まだ、追える。
⸻
ミルテ村の焼け跡と、サルテ村で聞いた話を胸に残したまま、俺たちはバストリアへ入った。
城塞都市バストリア。
王国北部の要。石壁と見張り台に囲まれた堅い街だ。
俺が王都へ向かう前にも何度か足を踏み入れたことがある。帝国と噛み合う最前線だけあって、人の出入りも多く、荒っぽい代わりに活気もあった。
だが今のバストリアは、記憶の中にあった張り詰めた前線都市ではなく、戦勝に酔う祭りの街に近かった。
人がいる。荷が動く。笑い声がある。
広場には露店が立ち並び、焼いた肉の煙と酒の匂いが漂う。兵士たちは肩の力を抜き、町人たちは声高に勝利を語っていた。
ダリウスと栄皇騎士団の名は、この街では王都以上に重く、そして明るく響いている。
長く怯え続けてきた街なのだ。こうなるのも無理はなかった。
そして今の俺は、その熱気を少しだけ心地よく感じていた。
サルテ村で聞いた話が、胸の底でまだ消えていない。
カミナは生きていた。少なくとも、あの日のすべてがそこで終わったわけじゃない。
そう思うだけで、止まりかけていた足がまた前を向く。
この街のざわめきさえ、今は悪くなかった。
門をくぐる前にも、例によってリュシアンは三人へ視線を送った。
「確認を」
三人は即座に城門脇の詰所へ向かい、常駐の盾皇騎士団と短くやり取りを交わす。
ほどなく戻ってきた彼らは、簡潔に告げた。
「異常なし」
「市内、平常です」
それだけで十分だった。
前線都市たるバストリアでは、こうした確認もまた日常の一部なのだろう。
そして、俺たちがまず向かったのは、かつてよく知っていた裏路地だった。
細い石畳。洗濯物の縄。酒と油と、少しだけ下水の匂い。
覚えている。ここだ。
この角を曲がって、二件目。看板の歪んだ店の裏手から入る。
そういう場所だった。
なのに――
「……違う」
そこにあったのは、古びた雑貨屋だった。
戸口には吊るしランプが並び、入口脇には干した薬草。中からは、小銭を数える音と、子供を叱る女の声まで聞こえてくる。
人が暮らしている。
普通に。
まるで最初から、そこが普通の店だったみたいに。
あんなに人がいたのに。
あんなに笑い声も怒鳴り声もしていたのに。
父さんがでかい図体で通るたびに狭そうにして、セリオスが頭を抱えて、リサが奥から冷たい目で見ていて、カミナが真ん中でやたらうるさかった場所なのに。
何も残っていなかった。
グラトスが周囲を見回して眉をひそめる。
「……知っている店なのですか?」
「いや。昔、立ち寄ったことがある場所なんだが……もう変わってるみたいだ」
俺は短く答えた。
間違いない。
なのに、街の方が「そんなものは最初からなかった」と言っているみたいだった。
雑貨屋の店主にそれとなく話を振ってみたが、返ってきたのは怪訝そうな顔だけだった。
「前は何だったかって? さあねぇ。うちは二年前にここ借りただけだよ」
「それ以前のことなんざ知らないよ」
誰に聞いても、口を閉ざすというより、最初から興味がないみたいに薄い反応しか返ってこない。
人の出入りが激しい街では、空いた部屋に別の人間が入るのも早い。
昔の話は、都合よく削れていく。
それから俺たちは、酒場、鍛冶屋、通りの露店、荷運びの親父、古道具屋――手当たり次第に聞いて回った。
三年前、この辺りで大きな騒ぎはなかったか。
ジルヴァンという老人や、セリオスという若い男に覚えはないか。
返ってくる答えはどれも似たり寄ったりだった。
「さあな」
「昔のことは忘れた」
「ここじゃ毎日何か起きてる」
「盗賊だの義賊だの、似たような話は多すぎる」
バストリアは、そういう街だった。
戦と交易と流民と傭兵で膨れ上がり、昨日の騒ぎが今日には別の騒ぎに塗り潰される。
誰も何も知らない、というより――知っていても、わざわざ抱えておくには雑音が多すぎる。
途中、三人の騎士は何度か俺たちより先に店へ入り、主人や露店の親父と短く言葉を交わしていた。
街に不慣れな俺たちが相手では警戒されるだろうから、先に話を通してくれているのだろう。そういう配慮にしか見えなかった。
それでも、夕刻近くになって、ようやくひとりだけ引っかかる男がいた。
城壁近くで荷車の車輪を直していた、中年の職人だった。
俺は何となく気にかかって声をかける。
男は手を止めず、こっちを見もせず、ぼそりと言った。
「……三年くらい前だったか」
俺たちは一斉にそちらを見た。
「確か、王都へ抜ける街道で、栄皇騎士団が道を封鎖してたことがあったな。でけえ騒ぎだった。何でも“大物を捕まえた”とかで、騎士が触れ回ってた」
金槌の音。
男は淡々と続ける。
「王都で処刑するだの、反逆者を裁くだの……そんな感じだったか。名前までは覚えてねえが、やたら偉そうに喋ってた騎士がいたのは覚えてる」
胸の奥が、どくりと鳴る。
「……どこでだ」
「西門の先だ。王都へ行く幹線のほう。街道を丸ごと塞いでてよ、商人連中が散々文句言ってた」
そこまで言って、男はようやくこちらをちらりと見た。
「ま、昔の話だ。今さら掘ってどうするって話だがな」
俺は返事をしなかった。
今さらじゃない。
むしろ今だからこそ、ようやく届いた話だ。
その横で、リュシアンが思い出したように口を開いた。
「ああ、その件なら記録にあります」
自然な声音だった。
「王都で処刑されたのは、たしか――“ジルバード”でしたか。北方で盗賊団を率いていた首領です」
白手袋の指先が、軽く顎へ触れる。
「正式には、王国北部にて略奪と反乱扇動を行った賊徒の頭目。王都でも一時は話題になりました」
俺はその名を、胸の中で繰り返した。
ジルバード。
ジルヴァンじゃない。
似ている。だが、違う。
ただの聞き間違いか、別人か、それとも――。
グラトスは横で腕を組み、うーむと唸っている。
「名前が似すぎていて、嫌な感じでありますな……」
エリシアは、街道の方角へ視線を向けたまま言った。
「少なくとも、栄皇騎士団が何らかの“大物”を捕らえ、王都へ送った事実はありそうですね」
それは事実だ。
だが、その事実の上に乗っている名前も、罪状も、どこまで本物なのか分からない。
俺は、バストリアの石畳を見下ろした。
街はいつも通り動いている。
荷車が通り、鍛冶屋が槌を鳴らし、酒場では笑い声が上がる。
ここでは、どれだけ大きな出来事も、三年も経てば“昔あった騒ぎ”のひとつに沈んでしまうらしい。
だが、こっちにとっては違う。
ミルテ村の焼け跡。
サルテ村へ流れ着き、生き延びていたカミナ。
バストリアであまりにも綺麗に消された痕跡。
ばらばらだったはずのそれらが、今は一本の線として繋がりかけている。
俺はそこで、ようやくカミナの足取りを追うみたいに考え始めた。
カミナなら、どうする。
なぜ川を流れていたのかは分からない。
だが、ミルテ村の惨状は見たはずだ。
自分の家が焼け、家族が消え、仲間たちまでいなくなったと知った時――あいつがそこで黙って立ち尽くすだろうか。
いや、ない。
あいつは考え込んで動けなくなるタイプじゃない。
傷を抱えたまま、じっと隠れていられる男でもない。
怒ったら前へ出る。殴られたら殴り返す。喪ったなら、喪わせた相手へ噛みつきに行く。そういうやつだ。
なら、向かう先は――
帝国。
もし生きているなら、あいつはもう帝国へ潜り込んでいる。
復讐の機会を、どこかで狙っている。
俺に報せがないのも、単に連絡の手立てがないか、あるいは――巻き込みたくなかったのかもしれない。
それでも、あいつが取る道筋としては、それが一番しっくりきた。
「……帝国だな」
気づけば、そう呟いていた。
エリシアとグラトスが、同時にこちらを見る。
心配そうな目だった。
リュシアンが静かに問いかける。
「王国での聞き込みは、いったんここまでに?」
「どのみち、辿る先は帝国だ」
俺は顔を上げた。
「アマテリアの件もある。予定通りオルタへ行く。ダリウスに会おう。帝国なら、まだ拾える情報があるかもしれない」
リュシアンは短く頷いた。
「承知しました。」
エリシアも静かに言う。
「ここで足を止めるよりは、前へ進んだ方がよさそうですね」
グラトスが拳を握る。
「でありますな! ここまで来た以上、中途半端では終われませんぞ!」
城塞都市の夕暮れが、ゆっくりと石壁の上へ落ちていく。
バストリアの喧騒は消えない。
けれど俺の耳には、その中に別の音が混じって聞こえていた。
まだ途切れていない、誰かの痕跡が――先へ進めと鳴らす音だ。




