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雷の勇者と鋼の英雄 〜世界を変えると誓った兄弟は、やがて敵対する〜  作者: ちぇ!
法国編 ーー勇者の誓いと黒雷の器

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五十六、凱旋と違和感

王都ルクス=アーク


 やっと長旅を終えて戻ってきた王都ルクス=アークは、戦勝の熱に浮かされていた。

白い城壁には王国旗がいくつも掲げられ、広場では酒樽が開けられ、吟遊詩人が「北方大戦果」とやらを大げさに歌っている。通りを行き交う兵士たちの顔にも、ここしばらく見なかった種類の余裕があった。


 オルタ陥落。


 帝国南方の前線基地都市を、王国が奪った。

 それがどれほど大きいか、俺にも分かる。帝国は長年、王国北部の城塞都市バストリアを呑み込もうとしていた。その牙城のひとつを、今度は逆に食い破ったのだ。

 敵の牙をへし折った、なんて話じゃない。喉笛に手をかけたに等しい。


 分かる。分かるが――


 素直に、この浮かれ方へ混ざる気にはなれなかった。


 俺たちは今、法国で魔族から人を守るために戦っている。

 ダリウスもまた、帝国の侵略から王国の民を守った、その延長でオルタを落としたのだろう。理屈は分かる。戦として見れば、大戦果だ。


 だが、それでも。


 魔族から“守る”ことと、他国へ“攻め込む”ことは、俺の中ではまだ同じ場所に並ばなかった。


 歓声の向こうで、うまく飲み込めない何かだけが、胸の奥に残っていた。


 もっとも、今回の俺たちはお忍びだ。

 勇者が王都へ戻ったと知れれば、それだけで無駄に騒ぎになる。だから外套のフードを深く被り、目立たないように城へ戻ってきた。


「……勇者様らしからぬ顔をなさっていますね」


 隣を歩くエリシアが、淡々と言った。


「凱旋した英雄というのは、もう少し堂々と胸を張るものですぞ」


 なぜかグラトスが、俺の代わりみたいに胸を張る。


「こんなこそこそした勇者、聞いたことねぇよ」


 俺は鼻で笑った。


「そもそも、俺は自分のことを英雄だなんて思ったこともない」


 一拍置いて、肩をすくめる。


「死にかけた直後まで、綺麗に胸張って歩けって意味なら……あんまり好きじゃないな、そういうの」


 エリシアもグラトスも、そこで何も言わなかった。

 ただ、二人とも歩幅だけは少しだけこちらへ合わせてきた。


 城門を抜け、石造りの長い回廊を進む。


 グラトスと一緒に、そのまま玉座の間へ向かうのかと思っていたが、途中でエリシアが足を止めた。


「私とジーク様は、先に宰相ロイド様へ報告に上がります。殿下は王族同士でお話もあるでしょうから、先に陛下へのご報告をお願いします」


 そう言って、エリシアはグラトスを別の廊下へ促した。


「そ、そうでありますか! ならば母上――いや、まずは兄上か……! 兄上に、勇者殿との冒険譚をたっぷり自慢してくるであります!」


 グラトスはぱっと顔を輝かせ、そのまま楽しそうに駆けていった。


 ……あいつ、本当に分かりやすいな。


 残された俺は、そのままエリシアの後を追う。


「向かった先は、以前にも来たことのあるロイドの執務室だった。」



 宰相府執務室。


 以前も通されたことのある部屋だが、あの時より空気が二段ほど重い。

 扉を開けた瞬間、その理由が分かった。


 机の上も脇の棚も、書簡と地図と報告書の山だ。

 南方、北方、国内諸侯、兵站、民政――紙の束が戦線みたいに積み上がり、その間を縫うように赤と黒の糸が地図へ走っている。まるで、王国そのものを紙の上へ解剖して並べたみたいだった。


 その中心で、ロイド=フォン=アークは座っていた。


「戻ったか、ジーク君」


 声は落ち着いている。

 だが、目元にだけはっきりと疲労が滲んでいた。寝ていない顔だ。しかも一晩や二晩ではない。


「ご無事で何よりだ。……まずは、座ってくれ」


 俺とエリシアが腰を下ろすと、ロイドは手元の紙を閉じ、無駄なく話を切り替えた。


「順に聞こう。……と言いたいところだが、君たちの方はエリシアから概略を受けている」


 ロイドはそう言って、机の上の書簡をひとまとめに揃えた。

 それだけで、話の重心が“こちらの報告”から“情報交換”へ移ったのが分かる。


「まずは確認だ。こちらで把握しているのは、白虎撃破までだ」


 淡々とした口調。

 だが、無駄を削いで本題へ入るその早さに、この人らしさがよく出ていた。


「その後、法国で何が起きた?」


 エリシアが一歩前へ出て、法国で起きたことの顛末を簡潔に説明した。

 ロイドは途中で一度も口を挟まなかった。

 ただ、話が終わる頃には、地図の上に新しい印がいくつも増えていた。


「なるほど。把握した」


 短くそう言ってから、彼は椅子へ深くもたれず、逆に少しだけ前へ出た。


「では次に、こちらの話をしよう。むしろ今、君に伝えるべきは、王国側で何が起きていたかだ」


 ロイドの指が、地図の北方――城塞都市バストリア周辺へ移る。


「まず、一年前の件から話そう。帝国七神将、“紅”と“白”――第二軍と第六軍が、バストリア攻略のため南下した」


 紅と白の七神将。

 帝国にある七つの軍、そのうちの二つだ。俺と手合わせしたことのあるヴォルグが“蒼”だったことくらいは知っている。帝国の内情に詳しいわけじゃないが、七神将の名くらいは嫌でも耳に入る。


「王国側では、栄皇騎士団を率いるダリウスがこれを迎え撃ち、打ち破った。……民衆には、そう伝えられている」


 その言い方が、少しだけ引っかかった。


「“そう伝えられている”?」


 俺が聞き返すと、ロイドは短く頷いた。


「実際には違う」


 一枚の報告書を抜き出し、机の上へ置く。


「紅と白を消し飛ばしたのは、ダリウスではない。君たちと合流したという――大賢者リゼリアだ」


 部屋の空気が、わずかに沈んだ。


「……は?」


 思わず間の抜けた声が漏れた。

 隣を見ると、エリシアも珍しく目を見開いている。いつもの澄ました顔が、ほんの一瞬だけ崩れていた。


「驚くのも無理はない。こちらも、最初は誤報かと思った」


 ロイドは疲れの滲む目を細める。


「だが複数の報告が一致している。戦場へ突如大賢者が現れ、帝国軍を壊滅させ、そのまま姿を消した。王国側は事実上、漁夫の利を得た形だ」


 言い方は静かだが、中身はめちゃくちゃだった。


 七神将二人を擁する軍勢を、ひとりで壊滅。

 そんなもの、戦争でも戦術でもない。天災だ。


「……じゃあ、ダリウスの戦果ってのは」


「まったくの虚偽ではない」


 ロイドはすぐに切り返した。


「大賢者の一撃で帝国側の戦線が崩れたあと、最も早く動き、最も大きく戦果へ変えたのはダリウスだ。そこは事実だよ」


 一拍。


「だが、“七神将紅白を討ち取った英雄”という物語は、事実をかなり都合よく並べ替えている」


 なるほど。

 つまりダリウスは勝った。だが、勝ち方が違う。


 ロイドの指先は、そのまま南へ滑る。

 バストリアから、さらに帝国領内の深い位置へ。


「そして、その混乱の隙を逃さず、ダリウスは反攻した」


「……オルタか」


「そうだ」


 ロイドは頷く。


「帝国南方の前線基地都市オルタ。もともとは地方都市に過ぎなかったが、王国北部の城塞都市バストリアを呑み込むための拠点として肥大化した街だ。兵站、補給、鍛冶、兵舎……南の戦を支えるものは、ほぼ一度あそこを通る」


 机上の地図に印が打たれる。


「そこを、ダリウスは落とした。これは紛れもない大戦果だ」


 その言葉には、評価と警戒が同時にあった。


「王国中が浮かれるのも無理はない。帝国の牙を一本折ったどころではない。喉元へ刃を突きつけたに等しい」


 ロイドはそこで、初めて小さく息を吐いた。


「……そして、こういう時ほど厄介なものも増える」


 視線が、別の書類束へ移る。


 今度の束は、どれも分厚かった。

 しかも、読み込まれすぎて端が擦り切れている。


「暁の牙の件だ」


 胸の奥が、わずかに軋んだ。


 ロイドは、こちらをまっすぐ見た。


「君が弟の死を、そう簡単に信じられぬように――私も、ジルヴァンがああも容易く潰える男だとは思っていない」


 一拍。


「何か裏がある。そう考えて、調べた」


 そう言って、ロイドは一番上の報告書を抜き出し、机の中央へ置いた。

 その手つきは静かだったが、紙を扱うというより、棘のあるものを指で撫でているみたいだった。


「ミルテ村そのものだけではない。周辺村落の避難記録、教会の施療台帳、街道の通行印、糧秣の消費、各地の見張り台から上がった報、そして戦闘後に提出された一連の報告書まで――拾えるものは、一通り洗った」


 一拍。


「その上で言う。……結局、分からなかった」


 俺は眉をひそめた。


「分からない?」


「正確に言えば、“確証に届かなかった”だ」


 ロイドは次の紙を開いた。

 そこにはミルテ村周辺の略図と、赤と黒の細い書き込みがびっしり走っている。


「公式の筋は綺麗だ。帝国兵がミルテ村周辺へ侵入した。暁の牙が迎撃した。村はその戦闘に巻き込まれて壊滅。遅れて王国側の部隊が入り、帝国兵を掃討した。――これだけ見れば、話は通る」


 机上の地図へ、指先が静かに落ちる。


「しかも厄介なことに、これはまるきりの嘘ではない」


 ロイドの目が細くなった。


「ミルテ村は以前にも帝国の襲撃を受けている。周辺の村も、その噂も恐れも知っている。だから“また帝国が来た”という筋立ては、あまりにも自然に通ってしまう」


 なるほど、と喉の奥で思う。


 たしかにあの村なら、帝国再襲来と聞いても誰も疑わない。

 村人たち自身が、ずっとその恐怖と隣り合わせで生きてきたはずだ。


 ロイドはさらに続けた。


「暁の牙が村へ出入りしていたことも、その話を補強している。反帝国を掲げていた連中が、帝国兵と交戦し、村ごと巻き込まれて消えた。……筋だけ見れば、むしろ綺麗すぎるほど綺麗だ」


「綺麗すぎる、か」


「そうだ」


 今度は別の一枚を開く。


「生存者証言が少なすぎる。現場の記録も整いすぎている。あの規模の混戦で、ここまで乱れのない報告が上がる方がおかしい。死体の数、焼けた家屋の位置、街道を抜けた兵の流れ――全部が“その説で読める”ように揃えられている」


 低く、淡々とした声。

 だが、その淡さの下にははっきりとした苛立ちが沈んでいた。


「証拠がないのではない」


 ロイドの指先が、書類の端で止まる。


「証拠だけが、あまりにも都合よく並んでいるんだ」


 部屋が静まり返った。


 俺は紙の山を見つめたまま、ゆっくり息を吐く。


「……誰かが、そう見えるようにしたってことか」


「その可能性は高い。だが」


 ロイドはそこで言葉を切った。


「今の私が掴んでいるのは、“怪しい”という感触だけだ。誰が、どこで、どの瞬間に手を入れたのか――そこまでは届かん」


 その視線は厳しかった。

 俺個人ではなく、王国という盤面そのものを見ている目だ。


「しかも今の王国は、オルタ陥落という大戦果に支えられている。民衆も兵も、ようやく掴んだ勝ちの形へ縋っているんだ。そこへ証もない異説を差し込めば、王党派と宰相派の冷戦は一気に燃え上がる。最悪、外敵と戦うより先に、国内が割れる」


 なるほどな、と思った。


 この人は臆病だから黙っているんじゃない。

 逆だ。


 動いた時に何が壊れるかを、動く前から全部見てしまうから――この人は、簡単には動けないんだ。


「それに、仮にジルヴァンが生きているとしても、まったく動きが見えないのは腑に落ちん。帝国に捕らえられた線も、まだ捨てきれないと思っている」


「……じゃあ、放っておくのか」


「放ってはおかん」


 答えは早かった。


「そのために、自分で洗っていた。今も別筋で追っている。だが、今この場で君に渡せるのは真相ではない。違和感だけだ」


 一拍置いて、ロイドは俺をまっすぐ見た。


「ゆえに――君自身の目で見ておくべきだと、私は思っている」


 胸の奥が、少しだけ熱を持つ。


「ミルテ村へ行け、ってことか」


「止めても行くだろう、君は」


 その言い方に、思わず苦笑しかけた。

 こっちの性格も、もうだいぶ読まれているらしい。


 ミルテ村へ行けば、何かが見えるかもしれない。

 逆に、何も見えないかもしれない。

 それでも――行かないという選択肢はなかった。


 ロイドはもう次の書簡へ目を落としていた。

 会話が終わったわけじゃない。ただ、この人の中ではもう、俺を動かした先の盤面まで進んでいる。


「ジーク君」


 呼び止められて、振り返る。


 ロイドは紙から目を上げず、静かに言った。


「証が出ぬうちは、怒りを剣へ変えるな」


「……難しい注文だな」


「知っている。だから君に頼む」


 その頼み方が、妙に重かった。


「何か掴んだら、伝令を回してくれ。小さなことでも構わん」


「ああ」


 短く返して、俺は部屋を出た。


 扉が閉まる。

 それだけで、さっきまで張り詰めていた空気が、一枚向こう側へ置いていかれた気がした。


 宰相府の回廊は、相変わらず白く、静かだった。

 だが胸の奥では、ロイドの言葉がまだ沈みきらずに残っている。


 ミルテ村へ行く。

 故郷を、この目で見る。


 王国へ帰ってきたはずなのに、ようやく本当の意味で“帰還”が始まった気がした。


 ――そして、そのままエリシアに促され、今度は玉座の間へ向かう。



 玉座の間へ入ると、王は先客と話していた。


 銀髪の整った顔立ちに、冷たい光を宿す碧眼。白手袋に羊皮紙。

 いかにも貴族然とした男だった。だが、ただ上品なだけじゃない。

 近寄れば、指先を切りそうな薄い刃みたいな気配があった。


 王が横目でこちらに気づき、ぱっと顔を明るくする。


「よくぞ戻った、ジークよ!」


 相変わらず、声がでかい。


「グラトスから聞いたぞ。法国でも順調に活躍しておるようではないか!」


「ああ。色々大変なこともあったが、なんとかやっていけてる」


「うむ、よい!」


 王は満足そうに頷いた。


 そこで、俺は玉座の間を見渡した。

 いるはずのやつがいない。


「……グラトスはどこへ?」


「母上のところへ、自慢しに行くと言って走っていったぞ」


「やめてくれ。俺たちを待たずに、さっさと会いに行くあたり、あいつほんと母親大好きすぎるだろ……」


 一瞬の間を置いて、アルトリウスが吹き出した。


「ははは! あやつは勇者と旅しても、まるで変わらんな! 道中大変であろう! 世話まで任せてすまん!」


 やっぱり、いつも通り豪胆な王だ。


 そこで、先客の男がこちらへ向き直った。

 無駄のない所作で一礼する。


「お初にお目にかかります。栄皇騎士団副団長を任されております、リュシアン=ド=モルティエと申します」


 名乗りも、礼も、よどみがない。

 第一印象の通り、隙の少ない男らしい。


「ああ。一応、勇者をやらせてもらってるジークだ。よろしく頼む」


「こちらこそ」


 愛想はある。

 だが、崩れない。

 ――綺麗すぎるな、とだけ思った。


 王がそこで、ふと思い出したように顎へ手をやった。


「そういえば、アマテリアが必要だと言っておったな」


 背後の白銀の盾を見上げかけて、すぐに気づく。

 そこには、ない。


「だが今、ここにはない。ダリウスが持っておる」


 王はあっさり言った。


「グラトスにも話したが、あやつが貸し出してよいと認めるなら、ぜひ使え。魔王とやらを倒すには必要なのだろう?」


 俺は頷いた。


「……ああ。そのつもりだ」


「ちょうどよい。リュシアンに話を通させ、後日こちらへ運ばせることもできる。どうする?」


 少しだけ考えてから、俺は答えた。


「いや、自分で取りに行く」


「ほう?」


「北部で、立ち寄りたい場所もある」


 王は一瞬だけ目を細めたが、すぐに豪快に笑った。


「よかろう! 自分の足で取りに行くというのも、勇者らしくてよい!」


 すると、リュシアンが一歩だけ進み出た。


「でしたら、私も同行いたしましょう」


 穏やかな声だった。


「どのみち私は、これよりオルタ方面へ戻る身です。北部経由の道にも通じておりますし、ダリウス団長への話もその場でお通しできます」


 一切よどみがない。

 親切で、実務的で、断る理由が見当たらない申し出だった。


「ミルテ村周辺の被害についても、報告は受けております。道案内も兼ねて、ご一緒した方が都合がよろしいでしょう」


 王が満足そうに頷く。


「うむ、それがよい! 話が早い男は好きだぞ、リュシアン!」


「恐れ入ります」


 隙のない一礼。


 ……何ひとつおかしなことは言っていない。

 言っていないのに、なぜか少しだけ引っかかった。



 王の間を出ると、リュシアンは回廊の中央でこちらへ向き直った。


「では、明朝お迎えに上がります」


 白手袋の指先を揃え、寸分違わぬ礼をする。


「今宵はどうぞ、ごゆっくりお休みください」


 穏やかな声だった。

 最後まで崩れない。綺麗すぎて、こっちの方が背筋を正したくなるくらいだ。


 そうしてリュシアンは、来た時と同じように無駄のない足取りで去っていった。


 その背を見送りながら、エリシアが静かに口を開く。


「リュシアン副団長は、聖光魔法を極めた騎士です。“白裁卿”の異名でも知られております」


 淡々とした説明口調。だが、少しだけ緊張が混じっていた。


「実力は、王国でもダリウス団長に並ぶと評されるほど。頭もかなり切れると聞きます」


「へえ……」


 見た目通りってわけか。

 礼儀正しいだけの優男じゃないのは、立ち方だけでも分かった。


 エリシアはさらに続けた。


「北部の被害報告や、《暁の牙》に関する書類の取りまとめも、彼が関わっているはずです」


 一拍置いて、こちらを見る。


「道中、それとなく話を聞いてみるのも良いかもしれません」


「ああ、そうだな」


 俺は頷いた。


「そこから何かわかるかもしれない」


 ちょうどその時だった。


 回廊の向こうから、やたら騒がしい足音が近づいてくる。

 振り向くまでもない。


 こんな王城の回廊を、汗だくで全力疾走してくるのなんて――グラトスか、よほど急ぎの伝令くらいのものだ。


「ああっ! 間に合わなかったでありますか!」


 案の定、グラトスだった。

 額に汗を浮かべ、息を弾ませながらも、顔だけは妙に晴れやかだ。


「報告はもう済ませたでありますか?」


「終わったよ」


 俺が答えると、グラトスは目を輝かせた。


「では、出立は?」


「明朝早くに出る。リュシアンも同行することになった」


「おお、それは心強い!」


 グラトスがぱっと胸を張る。


「リュシアン副団長はかなり頼れる男ですぞ! これで道中は安心でありますな!」


 そう言うと、今度はぐいっと顔を近づけてきた。


「今日は豪華な食事を用意させるであります! とりあえず風呂でも入りましょう、勇者殿!」


 嫌な予感がした。

 そして案の定、その予感は当たる。


「お背中、お流しいたしますぞ!」


「一人で入るからいい」


 即答だった。


「てか、皇子が平民の背中流そうとするんじゃねえって、前にも言っただろ」


「なっ……! 勇者殿相手なら、もはや平民とか皇子とか関係ないであります!」


「いや、あるだろ普通に! それに俺だって、どうせなら男じゃなくてエリシアみたいな女に流してもらいたいわ」


 どうせいつもの冷たい返事が飛んでくる――そう身構えた瞬間。


「いいですよ」


 エリシアが、あまりにも軽く言った。


 ……おっ、まじか。


 思わずそっちを見る。


「流すのは血、ということでよろしいですか?」


 エリシアは微笑んでいた。

 顔だけは。

 目はまったく笑っていなかった。むしろ鬼の形相に近い。


「……いえ、エリシア様。今のは完全に言葉が過ぎました」


 即座に訂正する。命が惜しい。


 そのやり取りの向こうで、扉脇に控えていた騎士たちの肩が、ぴくりと揺れた。


 次の瞬間、どちらからともなく、ぷっと噴き出す音が漏れる。


 見ると、以前は石像みたいに無表情だった連中が、必死で顔を引き締めていた。

 笑ってはいけない場で笑いを堪えてるみたいな、妙に人間くさい顔だ。


 ……なんだ。


 この前ここへ来た時は、無愛想なやつらだとしか思わなかったが、ちゃんと心はあるらしい。


 グラトスはそんなことには気づかず、まだ胸を張っていた。


「さあ勇者殿! 本日はゆっくり休むであります! 英気を養うのも勇者の務め!」


「はいはい……」


 呆れて返しながらも、少しだけ肩の力が抜ける。


 ロイドの重い言葉も、王の頼もしさも、リュシアンの綺麗すぎる礼も、胸の奥でまだ沈みきってはいない。

 けれど――


 今夜くらいは、少しだけ息をついてもいいのかもしれない。


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