五十四、青龍の舞台(後編)
村の中に、もはや安全な場所は存在しなかった。
ジークたちは屋根の上から飛び降り、半壊した家々のあいだを縫うように後退していた。先頭はジーク。子ども二人を庇うエリシアを内側へ入れ、消耗の色が濃いグラトスが最後尾で追っ手を牽制する。
広場へ戻れば囲まれる。
ならば狙うのは村外れだ。
畑へ抜ける細道。柵の切れ目。家畜小屋の裏。
どこでもいい。とにかく一か所、村の外へ繋がる穴を見つけなければならなかった。
だが、進む先々で景色が悪意みたいに口を開ける。
崩れた石垣。
足を取る泥。
壁際に打ち込まれた導魔鉄杭。
そして、曲がり角の向こうで揺れる、人とも屍人ともつかない影。
下がっているはずなのに、息が詰まる。
逃げ道を探しているはずなのに、村そのものがこちらを奥へ奥へと誘い込んでくるようだった。
――最初から、そういう形に作り替えられていたのだ。
路地は剛岩魔法で塞がれ、地面には導魔鉄杭が埋められ、水気を帯びた土が雷を逃がす。広く撃てば家屋へ流れ、人質にまで回る。
勇者の最大火力を封じるためだけに拵えられた、悪意の箱庭だった。
見張り台の上で、青龍フェルディナン=ル=マルシャンが楽しげに扇を揺らした。
「いやあ、綺麗ですねえ。実に綺麗です。強い人ほど、守るものがあると選択肢が減る。勇者様、今まさに苦悩に歪む顔をしていますよ」
その声は戦場全体へ、甘く、薄く降っていた。煽りであり、祝詞であり、舞台の口上でもある。敵の神経を逆撫でするためだけに、妙によく通るよう整えられた声だった。
その一方で、玄武――オスヴァルド=バスティエは、すでにジークたちの退路へ回り込む位置まで歩を進めていた。
崩れた家屋の影。割れた石垣の脇。
細い路地を後退する三人と子どもたちを、正面から見通せる位置だ。
白衣めいた法衣の裾を汚しもせず、痩せた長身が静かに立っている。
神官めいた整った顔立ち。だが、その目だけが生き物を見るものではなかった。怯えも怒りも苦痛も、ただ反応として切り分ける――標本を測る眼だ。
眼鏡を押し上げ、玄武は低く呟く。
「守る対象が二。負傷者が一。退路封鎖は完了。導魔鉄杭も機能中……やれやれ」
誰に聞かせるでもない、小言めいた独り言。
だが、その声音には奇妙な熱が混じっていた。
「ここまで整えて、まだ崩れんか。面倒だ。……だが、悪くない」
玄武の視線は、路地を這うように動く。
子どもを庇いながら屍人を斬るジーク。
風で視界と足場を整え、村人の軌道を逸らし続けるエリシア。
傷と疲労で動きが鈍りながらも、なお前に立ち、炎の線で人間と屍人を分けようと足掻くグラトス。
追い詰められている。
それでも、まだ崩れない。
玄武の口元が、ほんのわずかに歪んだ。
「そうだ。そういう足掻きだ。雷を奪われ、退路を塞がれ、人質を抱え、それでも最善を探す。勇者というのは、追い詰めるほど選択が綺麗になる」
見張り台の上で、青龍がうっとりと笑みを深める。
「ああ、素敵ですねえ。早く見たいなあ。人質を殺され、仲間を潰され、それでも届かず、最後に勇者が“ああ、もう駄目だ”って理解する顔」
声が甘く、細く降ってくる。
「誇りでも希望でも何でもいいんですけどね。そういうのが音もなく折れる瞬間って、本当にたまらないんですよ」
玄武は眼鏡の位置を指先で直した。
「少し黙れ、青龍。今、面白いところだ」
だが青龍はまだ笑っていた。
次の瞬間、玄武は暗影の回線を切った。
それで会話は終わりだった。
もう青龍が何を喋ろうと、玄武にとっては雑音でしかない。
玄武はそのまま地面へ魔力を流し込む。
井戸の周囲の土が盛り上がり、湿った石畳の下を何かが走った。
導魔鉄杭の埋まる地脈に沿って、剛岩の圧がじわじわと蓄積されていく。
「あと一段だ。もう少し削れば――」
その時だった。
見張り台の影に、灰銀の影が音もなく入り込んだ。
風もない。
気配もない。
それは柱の影を滑るように進み、青龍のすぐ背後へ立つまで、誰にも気づかれなかった。
フェルディナンが、ふと何かを感じたように首を巡らせる。
「――な」
振り向きざま、その目が見開かれた。
「なんで、お前が……!」
反射的に暗影魔法が走る。
玄武へ意識を繋ぐための、短く鋭い連絡。
だが、応答はない。
闇の回線は途中で弾かれたみたいに途切れ、向こう側にいるはずの玄武は、こちらへ意識を割こうともしなかった。
「玄武! チッ……戦闘に入り込んでいて届かないか……!」
舌打ち混じりの声には、先ほどまでの芝居がかった余裕が、もうほとんど残っていない。
答えたのは、年端もいかない少女の姿をした、六百年の大賢者だった。
「ようやく捕まえられたわ。お主のように逃げ足の軽い蠅を捕まえるには、よい餌が要るからの」
リゼリアは、いたずらっぽく、だが目だけは笑わずに言った。
「まんまと釣られたわけよ、青龍」
その手が、青龍の首筋へ伸びる。
フェルディナンは即座に身を捻った。翠嵐魔法が弾け、身体が風そのもののように見張り台の端へ滑る。同時に暗影が幾重にも裂け、輪郭を複製した。三つ、四つ、五つ。笑みを浮かべた青龍が、一斉に屋根の上へ散る。
「怖いですねえ。勇者を釣り餌にするなんて、趣味が悪い」
「お主にだけは言われとうないわ」
リゼリアの指先が、空中でひと振りされる。
まず紅蓮が走った。
細い。だが、逃げ道だけを正確に焼く線だった。
分身が二つ、三つと消える。
青龍が着地しようとした屋根へ蒼氷が降り、足場を凍らせる。風で逃げれば、その風向きごと翠嵐が捻じ曲げる。さらに剛岩の杭が屋根の端々に立ち上がり、跳ぶ先を一つずつ潰していった。
青龍は距離を取ろうとし、リゼリアはその距離そのものを消していく。
暗影の幻をばら撒けば、聖光がそれを剥がす。
闇へ潜ろうとすれば、別の闇が先回りして足を絡め取る。
風で逃げても、氷と岩と炎が着地点を奪う。
六属性が、噛み合っていた。
互いを食い潰すどころか、次の一手のために前の一手が敷かれている。虹色の大魔道――その異名は伊達ではなかった。
「っ……それは反則でしょう」
「六百年も生きとると、こうなる」
リゼリアが踏み込む。
その一歩で距離が死んだ。
杖が腹へめり込む。
「が――っ!?」
鈍い音。
青龍の身体が鐘楼の壁へ叩きつけられ、石が割れ、木片が飛び散る。
口元から血を垂らしながら、フェルディナンはなお笑おうとした。
「おかしいですねえ……大賢者って、もっと後ろで偉そうにしてるものじゃないんですか」
「前に出られんかったのが、ワシの唯一の後悔でな」
リゼリアの目が、静かに冷えた。
「ゆえに、今度は出る。お主みたいな外道を、前で叩き落とすためにの」
青龍は最後の距離を取ろうと風を爆ぜさせる。
だが、遅い。
見張り台の四方に、六色の魔法陣が層のように重なっていた。虹を輪にしたみたいな結界が、空間そのものを閉じる。
リゼリアが、ゆっくりと告げる。
「デュランの部下たちの敵じゃ」
声は静かだった。
静かなのに、炎より熱い。
「東の連中が味わった恐怖も、喪失も、ここで返してもらうぞ、青龍」
フェルディナンの笑みが、そこで完全に剥がれた。
「……っ、冗談じゃない。こんな所で、僕が――」
「終いじゃ」
手が振り下ろされる。
六色の輪が、同時に収束した。
聖光が暗影を剥ぎ取り、
翠嵐が逃げる風を逆流させ、
剛岩が四肢を縫い留め、
蒼氷が肺まで凍らせ、
最後に紅蓮が、その中心だけを灼いた。
見張り台そのものが、内側から虹色にひび割れる。
石が熔け、木が炭となり、風さえ焼ける。
「や、やめ――」
声が裏返る。
「ぎっ、ぁ、あああああああっ――!!」
断末魔は、長く続かなかった。
六色の光が弾けた次の瞬間、そこに残っていたのは、崩れ落ちる見張り台と、焼け焦げた扇の残骸だけだった。
爆ぜた風圧が、村全体の空気を震わせた。
⸻
上で何かが爆ぜた。
風圧が瓦を鳴らし、焼けた破片が視界の端をかすめて落ちていく。
だが、そっちを見上げる余裕なんてなかった。
屍人。
操られた村人。
毒を持つ魔物。
その全部から、こいつらを守らなきゃならない。
意識はとっくに限界まで削られている。
そして、その隙を玄武は見逃さなかった。
視界の端で、地面が盛り上がる。
来る――と理解した瞬間には、もう遅かった。
玄武の剛岩魔法が迫っていた。
でかい。
見た瞬間に分かった。
ただの岩塊じゃない。圧縮し、内部に炸裂の力を仕込み、命中と同時に内側から砕き潰すための剛岩だ。
まともに食らえば終わる。
俺も。
エリシアも。
グラトスも。
抱えている子どもごと、まとめて吹き飛ぶ。
――その瞬間だった。
目の前に、鏡みたいに滑らかな岩壁が、音もなく立ち上がった。
「《金剛鏡》」
低く、よく通る女の声。
次の瞬間、玄武の岩爆破はその鏡面にぶつかり、暴発するどころか、まるで深い水へ投げ込まれた石みたいに、すべて呑み込まれた。
「……は?」
俺の口から、間抜けな声が漏れた。
その鏡の上へ、軽やかに降り立つ影がある。
褐色の髪。勝ち気な目。
そして、手には盾と一本の剣。
「か、カタリナ!?」
思わず叫ぶと、そいつは肩を竦めて笑った。
「敵を騙すには、まず味方から――らしいわよ?」
視線の先、崩れかけた見張り台の上で、灰銀の影と青龍が紅蓮と翠嵐をぶつけ合い、見張り台そのものを削りながら激突しているのが一瞬だけ見えた。
……なるほど。そういうことか。
玄武の目が細くなる。
「……金剛鏡のカタリナか。報告は受けていたが、実物は初めてだ」
「わたしも程々に名が通ってるみたいね」
カタリナは吐き捨てるように言ってから、ちらりと俺を見た。
「それと、あのエルフ。本っ当に性根が腐ってるわ」
「何があった」
「ジークたちが出た後よ。『よし、ワシらも行くぞ』とか言い出したと思ったら、いきなり私の首根っこ掴んで、そのまま空を飛びやがったの」
そこで肩を震わせ、大げさに顔をしかめる。
「空を飛んでるはずなのに、気分は完全に地獄だったわ。風で目は痛いし、景色を見る余裕なんてないし、怖がる私を見て絶対ちょっと楽しんでた」
文句ばかりのはずなのに、口元は少しだけ上がっていた。
次の瞬間、カタリナはもう片方の手で何かを放った。
勾玉だ。
「エリシア、これ!」
エリシアが反射的に受け取る。
淡く脈打つそれを見た瞬間、彼女の目が見開かれた。
「……ヤツミタマ!?」
「そう。あのエルフ、これを渡すのも忘れてたのよ」
カタリナは荒い息のまま、唇の端を吊り上げた。
「私はずっと、シラヌイの使い方を死ぬほど叩き込まれてたんだから。――天才の翡翠姫エリシアなら、リゼリアに習わなくても使えるでしょ?」
神威三聖具を、またしてもそこらの石ころみたいに放って寄越しやがった。
カムナギをぶん投げられた時といい、どうしてこいつらは神話級の代物をそんな雑に扱えるんだ。
呆れるより先に、俺は少し笑ってしまった。
その間に、カタリナは剣を抜いていた。
聖導剣シラヌイ。
抜かれた刃は、ただの剣じゃない。薄く光を帯びている。
よく見ると、さっき金剛鏡が呑み込んだはずの玄武の剛岩魔力が、鏡面から細い筋になって、シラヌイの刀身へ流れ込んでいた。
魔力を導く剣。
受けた魔力を溜め込める金剛鏡。
相性が、えげつない。
「おいおい……」
俺は息を呑んだ。
「一日でそこまで使いこなしたのかよ」
「誰のおかげだと思ってるの。あのエルフ、死ぬほどスパルタだったわよ」
言いながら、カタリナはシラヌイを地面へ突き立てた。
「《岩牢陣》――!」
次の瞬間、村の路地、広場、井戸の周囲へ、剛岩の壁が一斉に噴き上がった。
まるで地面そのものが牙を剥いたみたいに、鋭く、重く、正確に。
操られた村人たちはその壁に囲われるように封じ込められ、屍人たちは別の檻へまとめて押し込まれる。
生者と死者。
ようやく、厄介極まりないその二つが切り分けられた。
だが、カタリナはそこで止まらない。
歯を食いしばり、シラヌイを握る手にさらに力を込める。
額から汗が噴き出し、呼吸は荒い。それでも視線は落とさず、今度は石畳へ、薄い岩盤を何枚も何枚も重ねていった。
導魔鉄杭が埋められた地面ごと、別の層で蓋をするつもりだ。
石畳の下で、鈍い音が連続する。
玄武が仕込んだ罠の上から、カタリナの剛岩魔法が無理やり被さっていく。
「導魔鉄杭の上……塞いどいたわ……! 完璧じゃないけど、さっきよりは雷を逃がされにくいはずよ!」
そこまで言い切ったところで、カタリナはついに膝を折った。
どさり、と石畳へ座り込む。
肩で息をし、汗だくのまま、震える腕をそれでも無理やり持ち上げる。
「はぁ……っ、はぁ……っ……少し、休憩……」
それでも、親指だけは俺へ向けて立てた。
「さあ――後はやれるわよね? ジーク!」
俺はカムナギを握り直す。
青白い雷が、刃の表面を細く這った。
思わず、笑みが浮かぶ。
「任せとけ!」
玄武が眼鏡を押し上げる。
妙だった。
こいつ、さっきから割って入ろうと思えばいくらでも入れたはずだ。なのに、わざわざ一歩引いて、こっちの出方を見ている。
……これも研究か。
「実に不愉快で、実に興味深い」
口調は相変わらず、面倒くさそうな小言そのものだった。
だが、目だけが違う。冷たいまま、はっきりと光っている。
「金剛鏡で受けた私の剛岩の魔力を、別の媒体へ移す。しかも、そのまま導魔鉄杭の地相に上から蓋をするか。粗い。雑だ。穴だらけだ。……だが、発想は悪くない」
そこで一拍。
玄武の口元が、ほんのわずかに歪んだ。
「いい。実にいい。勇者だけでなく、お前も欲しくなった。暗影で落として、じっくり中身を見てやる。最高の標本だ」
次の瞬間、玄武が動いた。
石畳が爆ぜる。
足元から剛岩の杭が突き上がり、砕けた破片の隙間から、爆砕する岩塊が唸りを上げて飛び出した。
俺は身を捻ってそれをかわす。
だが、かわしただけじゃ終わらない。
むしろ、そこからが本命だった。
砕けた岩塊が視界を埋める。
なら逆に、その死角を使う。
俺は岩塊の影へ滑り込み、そのまま一気に踏み込んだ。
玄武の視界が岩で切れる一瞬、その裏から喉元へ斬り込む。
――取った。
そう思った直後、冷たいものが背筋を走った。
岩塊の影から、毒を仕込まれた暗影の礫が這うように飛んできたのだ。
「っ……!」
反射で首を切るように捻る。
頬を掠めた黒い礫が、後ろの壁へ突き刺さり、じゅっと嫌な煙を上げた。
だが、その回避で剣筋が僅かに甘くなる。
そこへ、玄武がいた。
いつの間にか、剛岩魔法で全身を武装している。
腕には鈍重そうな盾。反対の手には岩のメイス。肩から胸にかけては分厚い鎧。だが見た目ほど重くない。鏡盾式の流し込みで、必要な瞬間だけ硬さと重さを噛ませている。
俺の斬撃は盾で受けられた。
いや、ただ受けられたんじゃない。
ぶつかるその瞬間だけ、鏡面みたいな魔力の層で刃の角度をずらされる。
芯を外された剣は致命の軌道を失い、その横から、岩のメイスが唸りを上げて返ってきた。
「ぐっ!」
肘で受ける。
だが衝撃を殺しきれず、身体ごと横へ持っていかれた。
重い。
だが、ただ重いだけじゃない。
受けて、逸らして、返す。殺しきれなくても確実に削る。あらゆる動きが、いやらしいほど実戦的だ。
硬い。
嫌らしい。
そして――思ったより武闘派だ。
普通に強い。
白虎も強かった。
だが、あいつとはまるで違う。
白虎は冷たく速い刃だった。速さと精度で急所を抜いてくる、氷みたいな戦い方だ。
対して玄武は、岩盤そのものだ。
分厚い防御の中に、罠と毒と流し込み、それに鈍器じみた近接戦まで詰め込んでいる。
たぶん、相性もある。
白虎相手には、俺の速度と踏み込みが噛み合った。
だが玄武は違う。真正面からぶつかるほど厄介だ。
それに――剛岩は、効かないわけじゃない。
だが、俺の雷鳴とは明らかに噛み合わせが悪い。
雷は貫き、裂き、瞬時に勝負を決める力だ。
けれど剛岩は、それを受け止め、逸らし、殺し切るまでの時間を奪ってくる。
嫌な相手だ。
だが――
「おら! そんなもんか四天王!」
それでも、今は違う。
導魔鉄杭は封じられ、村人と屍人もカタリナの壁で分断された。
やれる。
俺は地を蹴った。
雷を纏った踏み込み。
カムナギが青白い軌跡を引き、玄武の防壁へ食い込む。
玄武は受ける。
受けて、ずらす。
ずらして、返す。
俺の斬撃が岩の盾を削った瞬間、その割れ目から毒針が跳ねた。腕を逸らす。頬を掠めた針が後ろの岩へ突き立ち、じゅっと嫌な煙を上げる。
間髪入れず、今度は足元が盛り上がった。
踏み込みの軸を潰すための低い岩壁。跳ぶ。着地するその地点へ、横殴りの剛岩塊が突っ込んでくる。斬る。砕く。砕けた破片の陰から、暗影の礫が蛇みたいに這ってくる。
玄武は休ませない。
受けて、流して、削る。
ただぶつかるんじゃない。こちらの動きの“次”に、先に罠を置いてくる。
「やれやれ……本当に鬱陶しいな、勇者というのは」
文句を言いながら、目は完全に楽しんでいた。
「だが、観測値は申し分ない。雷を制御した状況でも、その剣圧、その判断、その切り替え。理論上、ありえない。……実に良い」
「趣味の悪い感想だな!」
「研究者への褒め言葉だと受け取っておく」
踏み込む。
喉元へ刃を走らせる。
だが寸前で、玄武の足元から鏡面みたいな岩盾が立ち上がった。
ただ防ぐだけじゃない。刃が触れた角度をそのまま返し、俺の剣筋を外へ滑らせる。
こいつ、カタリナみたいなことまでできるのか。
そこへ、本命。
横腹を狙って放たれた剛岩の拳。
「っ!」
膝を捻って避ける。
だが避け切れない。肩を掠め、鎧が軋む。衝撃で呼吸が一瞬止まる。
その隙へ、また毒針。
カムナギで払う。
青白い火花。
石畳へ落ちた毒が、じゅうっと音を立てて溶ける。
激しい攻防が、村の中央で何度もぶつかった。
(強いな……!)
正直、白虎より厄介だ。
少なくとも今はそう感じる。
だが、追い詰められているのは、少しずつ向こうの方だった。
調子が出てきた。
俺の踏み込みに玄武が遅れ始める。
受け流しが浅くなる。
剛岩の厚みが、一瞬ずつ足りなくなる。
玄武の眼鏡の奥で、初めて苛立ちが揺れた。
「っ……さすが、勇者といえる……!」
舌打ち混じりに息を吐く。
「青龍。そろそろ来い。観測が終わる前に壊されるのは好かん」
返事はない。
俺は口元を歪めた。
「なんだ。見放されたか?」
ぴくり、と玄武の眉が動いた。
「その程度の安い煽りで――」
「チャーミングな極太眉が、さっきからピクピクしてるぞ」
その瞬間、玄武の顔から無機質な余裕が剥がれた。
鬼みたいな形相。
ついに苛立ちが、はっきりと表へ出る。
次の瞬間、俺たちはまた激突した。
⸻
その一方で、エリシアは震える子ども二人を背に庇ったまま、手の中の勾玉を見つめていた。
ヤツミタマ。
触れているだけで分かる。
これは道具じゃない。奇跡そのものだ。
「……なら」
エリシアは短く息を整えた。
「使います。制御して、必要な分だけ……!」
翠嵐の流れに合わせ、勾玉が白く脈打つ。
次の瞬間、やわらかな光が石畳の上を満たした。
まずグラトスの肩口を覆っていた傷が閉じる。
裂けた肉がみるみる繋がり、荒れていた呼吸が落ち着いていく。
「なっ……!?」
グラトスが目を見開いた。
「こ、これは……! 傷も、魔力も、疲れも……まるで最初から何もなかったみたいでありますぞ!?」
光はそのまま、座り込んでいたカタリナにも届く。
乱れていた息が整い、枯れかけていた魔力が一気に満ち直していく。
「うそ……でしょ……」
カタリナが、自分の掌を見つめた。
「こ、これなら……! これなら、まだジークの助けになれる! さすがエリシア!」
「当然です」
エリシアはヤツミタマを握りしめたまま、真っ直ぐ前を見た。
「ここで終わるつもりはありません」
⸻
あと一歩――その距離で、また玄武の鏡盾式に攻撃を流された。
芯を外される。
次の瞬間、衝撃が全身を撃ち抜いた。
「っ……!」
身体ごと弾き飛ばされる。
石畳を削りながら、俺は砂埃を巻き上げて後退した。
ざざざざざ――っ。
ようやく止まった時には、エリシアたちのすぐ手前まで戻されていた。
だが、悪くない。
まだ見えた。
あと一手。次はやれる。
俺はすぐさま地を蹴ろうとした。
その時だった。
空から、どさり、と何かが落ちた。
扇だ。
白く焼け焦げた縁。見間違えるはずがない。
青龍の扇だった。
続いて、灰銀の髪を揺らした小さな影が、石畳へ音もなく降り立つ。
リゼリアだ。
服は煤け、袖の先は少し切れ、珍しく息も上がっている。
それでも、口元には余裕があった。
「青龍はやったぞ」
短くそう言って、リゼリアは玄武へ視線を向けた。
「後はそいつだけじゃ」
その一言で、玄武の顔色が初めてはっきりと変わった。
聖剣を振るう再臨の勇者。
古より生きる虹色の大魔道。
聖珠を解き放つ翡翠の軍師。
炎の意志と民を背負う皇子。
魔力を喰らい力へ変える聖騎士。
崩しかけたはずの盤面が、一瞬でひっくり返った。
「……やれやれ」
玄武は静かに息を吐いた。
だが、その静けさの底には、抑え込みきれない苛立ちが濁っていた。
「実に不本意だ。せっかく整えた実験場だったのに」
次の瞬間、彼はメイスを地面へ突き立てた。
村の石畳が裂ける。
地下から溶けた岩が噴き上がり、同時に何重もの爆音が連鎖した。
「伏せろ!」
俺が叫ぶ。
溶岩と爆炎が、まるで幕みたいに視界を覆った。
熱風。煙。崩れる屋根。
その向こうで、玄武の声だけが聞こえる。
「標本は次へ持ち越しだ、勇者ジーク」
煙が晴れた時、玄武の姿はなかった。
残ったのは、抉れた石畳と黒く焼けた傷跡だけだった。
俺はカムナギを下ろし、荒く息を吐く。
完璧に勝ったわけじゃない。
反省点は多い。
四天王相手でも、どうにかなるかもしれない。
どこかでそんな甘さがあった。
油断していた。
それでも――誰も死ななかった。
今は、それで十分だ。
横でグラトスが大きく息を吸い込む。
「……死闘でありましたな」
「レオンと魔王を倒す、その第一歩って感じね」
カタリナはそう笑ったが、少しだけ声が掠れていた。
エリシアはヤツミタマを抱えたまま、静かに周囲を見渡す。
「玄武は逃がしましたが……ひとまず、最悪の事態は避けられました」
「うむ。青龍は落とした。それでよしじゃ」
リゼリアが頷く。
「とりあえず、ひと段落だな。今日はもう動きたくない……」
俺はそう言って、その場にごろんと寝転んだ。
――と、そこで。
「あ」
間抜けな声が、自分の口から漏れた。
「なによ」とカタリナが睨む。
「いや……お前が閉じ込めた村人たち、まだそのままじゃね?」
一瞬、全員が固まった。
「……やば」
カタリナの顔が引きつる。
結局そこからは、戦闘の続きじゃなく後始末になった。
カタリナが土壁を順に解除し、エリシアが風で瘴気を払い、俺とグラトスで中の連中を運び出す。リゼリアは怪我をした村人の治療に回った。
屍人はもう動かず、操られていた村人たちも、青龍を倒したからか少しずつ正気へ戻っていった。
その晩はオルディ村に泊まり、安否確認と瘴気の残りを調べることになった。急ぎ旅ではあったが、ここまで巻き込まれた村を放り出すわけにはいかなかった。
⸻
そして翌朝。
出立の準備を終えた俺たちの前で、案の定、カタリナが腕を組んでいた。
「やっぱり私も行く」
「駄目じゃ」
リゼリアが即答する。
「なんでよ!」
「シラヌイの扱いがまだ甘い。昨日のは上出来じゃったが、あの精度で何度も通ると思うな」
「でも役に立ったでしょ!?」
「立った。じゃが、そこで調子に乗るな」
朝から盛大に揉めている。
最初は気が強い者同士で、絶対に相性が悪いと思っていた。
だが、今こうして見ていると妙にしっくりくる。
口うるさい親と、反抗期の娘。
そんな言葉が、妙にぴたりとはまった。
俺が笑いを噛み殺していると、隣でエリシアが小さく呟く。
「……親子のようですね」
どうやら、思うことは同じらしい。
「ワシが親ならこんな高飛車にはならん!」
「誰がこの偏屈なチビっ子の子供よ!」
見事なくらい、息の合った同時ツッコミだった。
その横で、グラトスが肩を震わせながら笑う。
「喧嘩するほど仲が良い、とは申しますからな」
リゼリアは咳払いを一つしてから、何事もなかったように俺へ向き直る。
「後始末はワシが引き受ける。てかデュランに丸投げじゃ。そして予定通り、このじゃじゃ馬も鍛え直しておく」
「じゃじゃ馬言うな!」
「馬力だけはあるじゃろ」
「上手いこと言ったつもり!?」
朝からやかましい。
だが、不思議と悪い空気じゃなかった。
俺たちは馬を進める。
死にかけて、助かって、また強くなる。
面倒事は山ほどあるし、これから先も楽な旅にはならないだろう。
けれど、不思議と悪くない。
少なくとも――この仲間たちと一緒なら、どんな無茶も、何とかなる気がした。




