五十三、青龍の舞台(前編)
セレノスを発ったその日は、街道沿いの小さな宿場村で夜を明かした。
王都アークまではまだ距離がある。馬を潰すわけにもいかず、強行軍は避けた形だ。
そして翌朝。
街道は、昼に近づくにつれて白く乾いていった。
朝露の名残はすでに消え、緩やかな起伏の続く平原を、三頭の馬が一定の速さで駆けている。
背後には、一泊したばかりの小さな村がもう見えなくなっていた。
前には、王国の首都アークへ続く長い街道だけが伸びている。
先頭は俺。右後ろにエリシア、左後ろにグラトス。
いかにも“急ぎの小隊”という隊列だった。
風は悪くない。太陽も出てる。道も素直で、馬の足取りも軽い。
今のところ、旅は拍子抜けするくらい順調だった。
――だからこそ、嫌な予感がした。
こういう時の嫌な予感ってやつは、大体当たる。
理不尽だが、そういうものだ。
俺が手綱をほんの少し緩めたところで、横からエリシアが静かに言った。
「考え事ですか。少し速度が落ちています」
「ああ……分かるか?」
「はい。ジーク様が何か考えておられる時は、馬への力のかけ方が僅かに鈍りますので」
「観察眼が鋭いな」
「この大陸で最も重要とも言える“勇者”の補佐を任された身ですので」
さらっと返す。そこまで見られてるのは怖い。
しかも本人は、その言葉の重さを重圧として口にしているわけじゃない顔だった。なお怖い。
後方では、グラトスが妙に楽しそうに馬を走らせていた。
こいつはこいつで、久しぶりに故郷である王都アークへ戻るからか、どうにも遠乗り気分が抜けていない。
「勇者殿! このまま順調に行けば、日が落ちる前には中継地、フェリシアまで届くでありますぞ!」
順調に進んでも届くわけがない。
今の距離感でそれを言うのは、だいぶ希望的観測だ。だが、ここで現実を突きつけるのも野暮だろう。
俺は適当に返した。
「届くといいな」
「何でありますか、その濁した言い方は!」
「こういう時に限って、面倒が起きる気がするんだよ」
するとグラトスは、なぜかますます楽しそうに笑った。
「ハッハッハ! 勇者殿なら、そのような面倒もすぐに解決できましょう!」
こいつの俺に対する評価は、どうにも高すぎる。
俺も一応、人間なんだが。
――その時だった。
街道の先、低い丘の向こうから、人影がふらつきながら現れた。
俺たちはほぼ同時に馬を止める。
向こうもこちらに気づいたらしく、よろめくように足を速めた。
鎧姿の男だ。
騎士――いや、少なくとも装備だけ見ればそう見える。だが肩当ては片方が砕け、胸甲には泥と乾いた血がこびりついていた。歩き方もおかしい。まともな状態じゃない。
その後ろには、農民らしい男と女が二人。さらに、女の腰に小さな子どもがしがみついている。
「た、助けてください……!」
男は街道の真ん中まで来ると、その場に膝をついた。
息は荒く、声は掠れ、喉の奥から無理やり絞り出しているみたいだった。
「この先の村が……魔物に襲われて……まだ生き残りが……子どもたちが……!」
グラトスが即座に馬を寄せる。
「何があったでありますか!?」
男は顔を上げ、藁にもすがるような目で俺たちを見た。
「街道沿いのオルディ村です……! 夜明け前に、魔物と、狂った村人が……! 我々では抑えきれず……まだ中に取り残された者がいます……!」
――狂った村人。
その言葉に、エリシアの眉がほんの僅かに動いた。
俺も同じことを思う。
デュランの報告と似ている。
魔物だけならまだしも、“狂った村人”が混ざる時点で、魔族か暗影魔法の匂いが濃い。青龍フェルディナンの趣味にも、妙に合っていた。
俺は馬上から少し身を寄せ、エリシアだけに聞こえる声で問う。
「街道を避けて進めるか?」
エリシアは視線を前方へやったまま、小さく首を振った。
「北の街道を避けるなら、東へ大きく迂回するしかありません。ですが、デュラン様から東側の橋が崩落していると聞いています」
「遠回りになるな」
「はい。王都到着はかなり遅れます」
そのやり取りの横で、グラトスはもう半ば答えを決めている顔で男へ詰め寄っていた。
「我らに任されよ! 中に取り残された者は何人でありますか!?」
「正確には……分かりません……ですが、子どもも……何人も……!」
それを聞いた瞬間、グラトスが完全に“助けに行く”顔つきになった。
いや、顔つきだけじゃない。息の吸い方からして、もう行く気満々だ。分かりやすすぎる。
俺はエリシアを見る。
エリシアは騎士の男ではなく、その後ろの農民たちを見ていた。
子どもの足元。女の袖。男の靴。泥の付き方。呼吸。震え方。そういう細かいところを、舐めるように観察している。
「……不自然ではあります」
小さく言う。
「ですが、全部が偽装とも言い切れません」
「切れない、か」
「はい。少なくとも、あの子どもの震え方は本物に見えます」
くそ。
こういう“本物が混ざっているかもしれない”状況が、一番厄介だ。
嘘だけなら切り捨てられる。全部が敵なら斬れる。だが、本当に助けを求めている人間が混じっている可能性がある以上、無視はできない。
俺はさりげなく手綱を持つ手に聖光を薄く巡らせた。
光は外へ漏らさない。ごく浅く、視るためだけに。
騎士の男へ意識を向ける。
……やはりか。
男の身体の奥に、異物がいる。
人の魂の座に、ぬめりつくような黒いものが食い込んでいる。魔族の憑依だ。しかも、かなり馴染んでいる。
だが――後ろの農民たちは違う。
怯えているだけの、生きた人間だ。
グラトスが真っ直ぐ俺を見る。
「勇者殿」
「ああ、分かってる」
見捨てられない。
エリシアもそれを分かっているから、“怪しいので切り捨てましょう”とは言わない。
結局、最初から答えは一つだった。
「行くぞ。だが、全員気を抜くな」
騎士の男の顔に、露骨な安堵が浮かんだ。
「ありがとうございます……!」
「礼は、生き残りを助けてからにしろ」
そう言って馬首を巡らせる。
オルディ村は街道から少し外れた先にあるらしい。案内役の騎士を先頭に、俺たちは土の細道へ入った。
道幅は徐々に狭くなり、草の丈が高くなる。
風が少し、淀み始めた。
村が見えたのは、それから十分ほど後だった。
低い木柵。畑。納屋。戸数の少ない、小さな農村。
見た目だけなら、どこにでもある村だ。
だが、そこへ入る直前。
俺は馬を止め、さも何でもないことのように声をかけた。
「悪い。少しこっちへ来てくれるか」
騎士の男が振り向く。
「……私、ですか?」
「ああ。中の状況を、もう少し詳しく聞きたい」
それから、グラトスとエリシア、それに後ろの農民たちへ向けて言う。
「お前たちは少し待機しててくれ。入る前に作戦を詰める」
グラトスは不満そうに眉を寄せたが、エリシアは何も言わなかった。
俺の顔を見て、何かを察したのかもしれない。
騎士の男だけを連れて、街道脇の茂みへ入る。
森の匂い。湿った土の匂い。
さっきまでのか弱い足取りが、茂みに入った途端、ほんの少しだけ軽くなった。警戒している。
やっぱり、そういうことだ。
「この辺でいい」
俺が立ち止まると、男は一歩遅れて止まった。
「中の様子を話す気はあるか?」
男は一瞬だけ黙った。
それから、表情のどこかが剥がれたみたいに笑う。
「……どこで気づきました?」
もう、掠れ声じゃなかった。
喉の奥に湿った何かを貼りつけたような、不快な声だった。
「最初から怪しかった。決め手は、お前の中身だ」
男の笑みが深くなる。
「さすが勇者様。困りますねえ、そういうの」
「青龍の差し金か?」
「答える義理は――」
最後まで言わせなかった。
踏み込む。
音もなく、短く。
抜いたカムナギに雷はまとわせない。派手にやる必要はない。
聖光を刃の一点へだけ込めて、男の胸を貫いた。
「――がっ」
肉を裂く感触より先に、黒いものが悲鳴を上げる。
人の身体に潜んでいた魔族が、聖光に焼かれて輪郭を崩した。
男の身体が糸の切れたように崩れ落ちる。
もう、人としては助からない。憑依が深すぎた。
俺は短く息を吐き、血を払った。
「悪く思うな。お前をそのまま通すわけにもいかない」
返事はない。
俺は何食わぬ顔で茂みを出る。
グラトスが首を傾げた。
「騎士殿は?」
「先に村の裏手へ回ってもらった。生き残りの位置を確かめに行ってる」
半分嘘で、半分本当だ。
もう二度と戻っては来ないが、“先に行った”という意味では間違っていない。
エリシアの視線が一瞬だけ俺の剣へ落ちた。
だが、何も言わない。
俺はここまでついてきた村人たちに短く告げた。
「中へは入るな。入口脇の森へ下がれ。俺たちが戻るまで、何が聞こえても出てくるな」
農民たちは怯えたまま頷き、子どもを抱えて森の影へ駆け込んだ。
エリシアが小さく手を上げる。
淡い翠嵐が木立の間に広がり、揺れる枝葉と一緒に三人の気配を呑み込んでいく。
「簡易的ですが、隠蔽にはなります」
「十分だ」
それだけ言って、俺たちはオルディ村へ足を踏み入れた。
⸻
最初の違和感――いや、真っ先に鼻についたのは、匂いだった。
湿った泥の臭気。
腐臭。
その奥に、甘ったるい花の香みたいなものが絡みついている。
不自然だ。
生き物の匂いと、死体の匂いと、魔の匂いが、区別もつかぬまま一つに溶け合っている。
村ひとつの空気そのものが、もうまともじゃない。
俺たちは村の入口で馬を降りた。
見た目だけなら、普通の農村だった。
低い石垣、木造の家屋、小さな畑、井戸、納屋。どこにでもある、平和な村の形をしている。
――だが、空気が違う。
「……静かすぎる」
俺が低く言うと、エリシアが小さく頷いた。
「はい。それに、風の流れも妙です」
こういう時、翠嵐の術師は本当に頼りになる。
「どんな具合だ?」
「村の中央へ向かうほど、空気が重いです。霧か、それに類するものを意図的に流している可能性があります」
エリシアは周囲を見回しながら、もう半分は“読んで”いた。
風の流れ、匂いの濃淡、湿り気の偏り。目に見えないはずの異常を、こいつはきちんと拾う。
グラトスは槍を構えたまま、辺りを油断なく見回していた。
「しかし、人の気配はありますぞ」
「ああ」
いる。
確かにいる。
軒先に立ち尽くす男。
戸口の影からこちらを見ている女。
井戸の縁に腰掛けた老人。
だが、全員の様子がおかしい。
目の焦点が合っていない。
口元だけが薄く笑っている。
立っているだけなのに、まるで命令待ちの人形みたいだった。
エリシアが眉を寄せる。
「暗影魔法でしょうか」
「精神干渉系だな。しかも浅くなさそうだ……」
浅い支配なら、もっと揺らぎがある。
こいつらは違う。身体の芯まで“使われる側”に落とされている感じがした。
その瞬間だった。
どこかで、子どもの泣き声が上がる。
甲高く、短く、必死な声。
「っ、あっちであります!」
グラトスが迷わず駆け出した。
俺とエリシアもすぐに続く。
曲がり角を抜けた先に、半壊した家屋があった。
梁は折れ、屋根は斜めに沈み、壁は今にも内側へ崩れそうになっている。
その隙間から、小さな声が聞こえた。
「た、すけ……」
本物だ。
「子どもがいる!」
グラトスが一歩前へ出た。
槍を捨て、両手を突き出す。
「炎壁――」
そこまで言って、止まった。
家屋の梁は乾いている。
藁束も積んである。
ここで炎壁を出せば、建物を吹き飛ばし、崩落は止められても火が回る。
グラトスの顔が、はっきりと迷った。
たぶん今、一瞬で全部考えたんだろう。
炎壁なら止められる。だが、燃える。
燃やさずに止めるなら、火ではく自分でやるしかない。
次の瞬間、グラトスは叫んだ。
「某が支えます!」
そのまま家屋の下へ飛び込んだ。
「おい、グラトス!」
止める間もない。
体を滑り込ませるように潜り込み、崩れかけた梁を両肩と両腕で受け止める。
みしっ、と嫌な音が鳴った。
「ぐっ――ぬおおおお!」
グラトスの足が地面に沈む。
だが、止まった。傾きかけていた屋根が、そこでわずかに持ちこたえる。
「今であります! 子どもを!」
「任せろ!」
俺は家の脇へ回り込み、割れた壁板を蹴り破った。
中は暗い。土埃がひどい。
梁の隙間に、小さな男の子がうずくまっていた。泣いてはいるが、まだ動ける。
「来い!」
腕を掴んで引き寄せる。軽い。骨みたいに軽い。
その子を抱えて外へ跳ぶ。
背後で、また梁が軋む音がした。
「グラトス!」
「まだであります! 中に、もう一人――」
言い終わる前に、家の奥の暗がりから黒い影が飛び出した。
屍人だ。
人の形はしている。だが、肌には血の気がなく、口は耳まで裂け、濁った唾液を垂らしている。
そいつが、梁を支えるグラトスへ真っ直ぐ飛びかかった。
「させません!」
俺が雷を走らせるより早く、エリシアの風刃が屍人の胴を横から薙いだ。
だが浅い。
肉ではなく、古びた木を断ったみたいな硬さがある。
屍人は軌道をずらされ、それでもなおグラトスの肩口へ食らいついた。
ぐしゃ、と嫌な音がした。
「殿下!」
「問題……ないでありますッ!」
問題ない音じゃなかった。
だがグラトスは踏みとどまり、歯を食いしばったまま屍人と揉み合う。
エリシアが風で土埃を払いつつ、鋭く叫ぶ。
「殿下! その屍人、毒を持っている可能性があります!」
見れば、グラトスの肩口を裂いた傷の周囲が、じわりと黒く変色し始めていた。
くそ。
やっぱりただの村じゃない。最初から全部、仕組まれてる。
その時だった。
屋根の向こう、風上のどこかから、柔らかな笑い声が落ちてきた。
「いいですねえ。素晴らしいですねえ」
ぞわり、と背筋が冷える。
「やっぱり勇者一行は、ちゃんと助けに来てくれる」
この声は――
俺は子どもを抱えたまま、ゆっくりと顔を上げた。
屋根の上。
半壊した鐘楼の影。
そのどこかに、誰かがいる。
見えない。
だが、見られている。
「……青龍フェルディナン」
俺が低く呟くと、声の主は嬉しそうに笑った。
「正解です」
風が、ひどく甘い匂いを運んできた。
「さあ、舞台は整いました。ここからが本番ですよ、勇者様」
その瞬間、村のあちこちで、今まで棒立ちだった村人たちが一斉に顔を上げた。
同時に、家々の影、納屋の裏、崩れた壁の隙間から、潜んでいた屍人たちがゆっくりと起き上がってくる。
村そのものが、俺たちを呑み込むために目を覚ましたみたいだった。
⸻
ぞわり、とした。
さっきまで焦点の合っていなかった目が、一斉にこちらを向く。
笑っている。
口元だけが、糸で吊られたみたいに揃って笑っていた。
「……っ、来るであります!」
屍人を蹴り飛ばし、肩口を押さえながらグラトスが叫ぶ。
次の瞬間、広場側の路地から男が一人、女が二人、老人が一人――農具とも呼べぬ棒切れや石を手に、ふらつくような足取りで、それでも一直線にこちらへ走ってきた。
その後ろからは、さらに屍人が混ざる。
遅い。
だが、躊躇がない。
操られた人間と屍人が入り混じり、誰がまだ生きていて、誰がもう死んでいるのか、一目では判別がつかない。
最悪の形だった。
「殺すな!」
俺は子どもを抱えたまま叫ぶ。
「グラトス、足を止めろ! エリシア、一旦引く! 退路の確保を頼む!」
「応!」
「承知しました!」
グラトスが槍を振り払う。
紅蓮が低く薙いだ。
だが、ただの炎壁じゃない。広く焼くための火じゃなく、生きている人間の足元だけを狙った、薄く細い炎の線だ。
炎を嫌がり、先頭の男が足を取られて転ぶ。
その上に、後ろの女がもつれ込む。
だが、屍人は止まらない。
燃えながら、そのままこちらへ突っ込んでくる。
炎をまとった死体がふらつくように両腕を伸ばしてくる光景は、地獄絵図としか言いようがなかった。
俺は抱えている子どもの耳元で低く言った。
「目をつぶってろ」
返事はない。震えているだけだ。
そのまま片腕で子どもを抱え込み、接近してきた屍人へ刃を落とす。
首。肩。脚。
死んでいる人間が動かなくなる角度だけを選んで斬る。
動く死体を倒す時は、魔物を相手にするよりよほど神経を使う。
「っ……数が多い!」
エリシアが短く言った。
見れば、まだ出てくる。
今の一団で終わりじゃない。五人、六人、七人――棒立ちだった村人や屍人が、誰かの合図を受けたみたいに、ゆっくり、だが確実にこちらへ向かってきていた。
その間にも、グラトスは何度も炎の線を走らせ、追っ手の足を止めていく。
だが、肩の毒は確実に回り始めていた。顔色が悪い。息も少し荒い。
早く治療してやりたい。
だが、今はそんな余裕がない。
エリシアが周囲を一瞥し、鋭く叫んだ。
「ジーク様、一度、足止めをします!」
そして、ちらりとグラトスを見る。
「殿下。辛いのは分かりますが――最後に大きいのをお願いします!」
グラトスが、肩の傷を押さえたまま歯を剥いた。
「注文が雑でありますな……! だが、了解であります!」
次の瞬間、エリシアの翠嵐魔法が唸りを上げた。
巻き上がる風じゃない。
低く、鋭く、面で押し飛ばす暴風だ。
路地を埋めるように迫ってきた村人たちと屍人が、まとめて横殴りに弾き飛ばされる。
人間は石畳の上を転がり、屍人は家壁や荷車へ叩きつけられ、それでもなお起き上がろうともがいた。
「今です!」
エリシアが叫ぶ。
グラトスが一歩前へ出た。
肩の毒で顔色は悪い。だが、その目だけはまだ死んでいない。
「紅蓮よ、立ち塞がれ――《炎壁》ッ!!」
轟、と紅蓮が立ち上がった。
今までみたいな細い牽制じゃない。
道幅いっぱいを塞ぐ、全力の炎壁。
熱が爆ぜ、空気が軋む。
吹き飛ばされて体勢を崩した村人たちと屍人が、そのまま壁の向こうで押し留められる。屍人は焼かれながらなお前へ出ようとし、生きている人間たちは熱に怯んで足を止めた。
完璧な防御じゃない。
長くは持たない。だが――今この一瞬、追っ手を止めるには十分だった。
「あの大きい建物へ! 一度、体制を立て直します!」
「分かった!」
俺たちは追っ手をかわしながら、広場脇の大きな建物へ駆け込んだ。
中へ入るなり、俺とグラトスで入口脇に倒れていた大机を引きずる。
重い木机が床を削り、嫌な音を立てながら扉の前へ滑った。
「押せ!」
「応!」
二人がかりで机を扉へ叩きつける。
直後、向こう側から何かがぶつかってきて、扉板がどん、と鈍く鳴った。
ひとまず、これで簡単には入ってこれない。
集会場か、あるいは村の寄り合い所だろう。
だが、中はすでにひどい有様だった。
梁は斜めに落ち、土壁はひび割れ、床には食器や木片が散乱している。
人が逃げ惑い、何かがそれを追い回した――そんな痕跡が、まだ生々しく残っていた。
その奥で、かすかな動きがある。
人の気配――。
目を凝らすと、棚と床の隙間に、小さな女の子が身体を縮めて泣いていた。
「こんな所にもいたのか……! 今出してやる!」
手を伸ばした、その時だった。
背後から、ぞっとするような冷気が這い上がる。
咄嗟に振り向く。
床板の隙間から、黒い針めいたものが何本も突き出していた。
「――っ!」
飛び退く。
針は木を貫き、壁にまで突き立って止まった。
毒だ。見ただけで分かる。嫌な光沢を帯びている。
「ジーク様!」
外からエリシアの声が飛ぶ。
「床下にも罠があります! この建物だけではありません――おそらく村全体が!」
その声を遮るように、建物のどこからともなく、あの柔らかな声が降ってきた。
「そうそう。そこです、そこです」
青龍――フェルディナンの声だ。
笑っている。心底、楽しそうに。
「全部まとめて、村そのものが罠なんですよ。気づいていただけて嬉しいです」
その言葉と同時に、地面が鈍く震えた。
「くそっ、上に出るぞ!」
俺は女の子も抱え上げる。両腕が塞がる。
エリシアが先に跳び、グラトスが毒に顔をしかめながらも最後尾を抑える。俺たちは半壊した梁と壁を足場にして、一気に屋根へ抜けた。
だが――姿はない。
翠嵐と暗影魔法で声だけを飛ばしているのか、フェルディナン本人はどこにも見えなかった。
屋根の上から村を一望した、その時だった。
ごご、と低い音。
背後――俺たちが入ってきた路地の向こうで、何か大きなものがせり上がる気配がある。
エリシアの顔色が変わった。
「村の入口が……!」
見れば、村の入口側の道を、分厚い岩壁が塞いでいた。
いや、入口側だけじゃない。左右の細道もだ。村の外へ抜けられそうな道が、次々と石の壁で閉じられていく。
凄まじい精度の剛岩魔法。
――もう一人いる。
「青龍だけじゃないのか……!」
俺が吐き捨てると、風に乗った声がくすくすと笑う。
「さすがに、そこまで舐めてはいませんよ。こちらも白虎を倒した“勇者”を相手にしているんですから」
その時、グラトスの身体ががくりと沈んだ。
「ぐ……っ」
「殿下!」
エリシアが駆け寄ろうとする。
だが、その前を、今度は屋根の下から飛び上がってきた魔物が塞いだ。
犬のような輪郭。
だが脚は異様に長く、口は裂け、舌だけがやけに赤い。
俺は子ども二人をエリシアの方へ押しやった。
「任せる!」
「はい!」
次の瞬間、俺の刃が走る。
魔物の首を一太刀で払う。
飛び散った血は黒く、屋根板に落ちた瞬間、じゅっと嫌な音を立てて焼けた。
「気をつけろ、毒持ちだ!」
叫びながらグラトスのもとへ滑り込む。
肩口の傷は黒ずみ、毒が首元へ這い上がり始めていた。
「勇者殿、力不足ですみません。いつも守られてばかりで、不甲斐ない……」
「馬鹿言うな」
俺は外套を裂いて傷口を押さえ、そこへ聖光を流し込む。
白い光が、ゆっくりと黒ずみを押し返していく。
「お前の士気と炎の術には、いつも助けられてる。今だってそうだ」
グラトスが苦しげに息を吐いた。
「かたじけない……」
その横で、エリシアは屋根の縁へ身を乗り出し、眼下の石畳を睨んでいた。
その目が、獲物を見つけた鷹みたいに鋭くなる。
「導魔鉄杭が埋めてあります」
そこで俺も気づいた。
石の継ぎ目。
わずかに覗く金属の縁。
湿った土。
井戸から延びる細い水の流れ。
「……雷を逃がす気か」
「はい。広く撃てば地面へ散ります。加えてこの湿り気では、家屋や人質に流れる危険もあります」
ちっ、と舌打ちした。
俺を封じるための村だ。
青龍の陽動で人間を混ぜ、別の魔族が地形で殺す。嫌になるほどよく出来ている。
その時、グラトスが低く唸った。
「……子ども二人を抱えて、一度離脱しますか。これは……長くは支えきれんでありますな」
見ると、肩口の黒ずみは聖光で少しずつ薄れていた。
毒が、ようやく治まり始めている。
あと少し遅れていたら危なかった。
胸の奥で、ようやくひとつ息がつけた。
だが、その安堵を嘲るように、村の中央から今度は鐘の音が鳴った。
ごぉん、と鈍く。
祝福の鐘じゃない。
死体が棺の中で拳を振るったみたいな、不吉な音だった。
それを合図にするように、村人たちが一斉に走り出す。
今度はさっきより速い。
暗影魔法で操られていた連中に、さらに何かを上乗せしたんだ。
その間を縫って、魔物も来る。
屋根の上。納屋の陰。井戸の縁。最初からいた連中だけじゃない。まだ潜んでいた。
「ちっ……!」
俺はカムナギを構え直した。
青龍の声が、今度はもっと近くで聞こえた。
「素敵ですねえ。守ってますねえ、皆さん」
見上げる。
半壊した見張り台の上。
ようやく姿が現れた。
金髪。白く派手な服装。楽しそうな笑み。
青龍フェルディナン=ル=マルシャンが、扇を片手にこちらを見下ろしていた。
「勇者様は強い。強いんですけど――」
扇が、楽しそうに開く。
「守るものがあると、急に壊しやすくなるんですよねえ」
「……降りてこいよ、青龍」
「嫌ですよ。研究のデータが欲しいと息巻いていた玄武に怒られます」
その名が出た瞬間、村の中央の井戸の縁に、いつの間にか長身の男が立っていた。
痩せた長身。眼鏡。白衣めいた法衣。
表情は薄い。だが、こちらを測る目だけが異様に冷たい。
玄武――オスヴァルド=バスティエ。
……四天王が、二枚。
さすがに笑えない。




