五十二、補うものたち
宴会の翌朝。
俺たちは、セレノスの外れにある訓練場へ来ていた。
石を均しただけの広い地面に、木製の人形、槍立て、弓場、模擬戦用の柵。
朝の空気は冷えていたが、すでに兵たちの熱気が薄く立ちこめている。
北聖騎士団の連中は整然と並び、東聖騎士団の連中はその周囲で柔らかく散っていた。
守りの北と、動く東。立っているだけで性格が出るのが少し面白い。術皇騎士団も馴染んだ様で違和感なく隊列が組めている。
その訓練場の中央に――小さな影がひとつ。
灰銀の髪を揺らしながら、リゼリアが腕を組んで立っていた。
見た目だけなら、訓練場に迷い込んだエルフの少女だ。けれど実際は、六百年を生きた大賢者である。神様はたまに変な配剤をする。
「さて」
リゼリアが、いかにも退屈そうに言った。
「昨日は話を聞いただけじゃったからの。今日は実際に、お主らの強さを見せてもらう」
カタリナが、少しだけ顎を上げる。
「望むところよ。昨日あれだけボロクソ言われたんだもの。少しは見返さないと気が済まないわ」
「その意気は買う」
リゼリアは即答した。
「じゃが現実は、意気だけではどうにもならん。魔王の前ではなおさらじゃ」
その言い方が、妙に軽い。
軽いのに――そこに冗談が一滴も混じっていないのが分かる。
グラトスが肩を回しながら前へ出た。
「では某から――」
「全員まとめて来い」
リゼリアが遮った。
「は?」
グラトスだけじゃない。
その場にいた全員の顔が、同じ角度で止まった。
リゼリアは、心底不思議そうに首を傾げる。
「何じゃ。魔王軍は順番待ちでもしてくれるのか?」
……その通りすぎて何も言えない。
エリシアが、すっと眼鏡を押し上げた。
「つまり、連携も含めて見たいと?」
「うむ。単体の力量など後でいくらでも見られる。まずは“勇者の仲間たち”として、どの程度まともに噛み合うかじゃ」
そう言われると、反論はできない。
俺は息を吐いて、皆を見た。
「やるぞ」
その一言で、空気が戦闘用に切り替わる。
エリシアの目が冷えた。
カタリナが低く腰を落とす。
グラトスの槍先が、朝の光を鋭く弾いた。
合図は、いらなかった。
最初に動いたのはエリシアだ。
翠嵐の補助魔法が足元に絡みつき、身体が一段軽くなる。空気の抵抗が消えたみたいに、踏み込みが滑らかになる。
次にカタリナが前へ出た。
剛岩の壁が、リゼリアを囲うように半円状にせり上がる。完全な遮蔽じゃない。わざと隙間を残した、突撃のための壁だ。
その裂け目から、加速したグラトスが飛び出した。
真正面から圧をかける紅蓮を帯びた槍。
その後ろを、俺が追う。
悪くない。
寄せ集めにしては、ちゃんと形になっている。
――が。
「遅いのう」
リゼリアが、ただ一歩だけ浮いた。
ふわり、と。
たったそれだけで、グラトスの突進は空を切る。
「ぬっ!?」
「真っすぐ来るのは元気があってよいが、真っすぐすぎるわ」
細い杖が、グラトスの槍の腹をこつんと叩く。
その瞬間、槍にまとっていた炎も、エリシアの補助も、ばちんと弾けた。
芯を外されたみたいに、グラトスの体勢がぐらりと泳ぐ。
「殿下、下がって!」
エリシアが叫ぶより早く、リゼリアの足元から炎の球が咲いた。
いや、燃やしているわけじゃない。
押し返すためだけに温度を整えた炎。丸みすらあるのに、嫌になるほど正確で、だからこそ恐ろしい。
カタリナが即座に前へ出る。
「金剛鏡!」
鏡面みたいな岩壁が立ち上がり、グラトスを庇うように炎を受け、角度を変えて弾く。
そこへ俺が雷を走らせた。
真正面じゃない。わざとカタリナの鏡面へ当てる。反射角を読み、死角へ回す。
普通なら、直撃しなくとも、それで一瞬の隙は奪える。
「……ほう」
リゼリアの口元が、少しだけ上がった。
だが刺さる寸前、リゼリアの姿がぶれた。
残像でも転移でもない。
最小限の翠嵐魔法で、雷線の外へ抜けたのだ。
次の瞬間、背後に炎球がいた。
「っ!」
カタリナが反射した炎球が、今度は俺へ回されていた。
ラジコン式かっつーの。
振り向きざまにカムナギを抜く。
火花。
雷。
炎。
短い衝突音。
圧縮された炎球が爆ぜる。
その爆炎に紛れるように、リゼリアが杖を振りかぶって踏み込んできた。
(近接だと?)
今では大賢者と呼ばれているらしいが、根は魔術師だ。
そのリゼリアが、剣士でもある俺に真正面から殴り合いを挑んでくる。
――舐められたもんだ。
そう思った時には、もう体が動いていた。
カムナギを振るう。
だが、受け止められた。
信じられないことに、リゼリアは杖に凝縮した魔力をまとわせたまま、俺の一撃を真正面から受け切っていた。
硬い。
……いや、違う。
ただ硬いんじゃない。
こっちの力の流れを読み切り、ぶつかるその瞬間だけ、必要な厚みで魔力を差し込んでいる。
受けているようで、実際には斬撃の芯をずらされていた。
技量の塊だ。
昔のリゼリアは、こんな真似はできなかった。
この五百年、こいつもずっと戦ってきたのだろう。
(なら、こっちも少しは本気を出した方がいいか)
そう思った瞬間、リゼリアの目がほんの少しだけ細くなる。
「……なるほどの。やはり魔力だけではない」
その声には、さっきまでの軽さが少しだけなかった。
「ジークだけは、最低限戦えるの」
楽しそうでもあり、厳しくもある声だった。
「じゃが――」
一瞬だけ、言葉が途切れる。
視線が、俺の足運びから剣の返し、呼吸の間へと流れた。
何かを思い出しかけたような、ほんのわずかな沈黙。
「……手加減されてるのはワシか」
その呟きは小さすぎて、たぶん俺にしか聞こえなかった。
その隙をついて、エリシアたち三人が攻める。
最初に動いたのはカタリナだ。
前方に、剛岩の塊弾を三つ、間をずらして展開する。
そこへグラトスが炎を重ねた。
三つの岩塊弾が一瞬で赤熱し、表面に紅蓮を纏う。
さらにエリシアの翠嵐が吹き抜ける。
風はただ押し出すだけじゃない。
弾速を引き上げ、炎の勢いを煽り、三つの弾道そのものを殺意のある軌道へ整えていく。
岩。炎。風。
三人の連携魔法は、さっきよりも明らかに速かった。
威力も、密度も、覚悟も違う。
(……本気だ)
俺は息を詰めた。
これだけの一撃なら、並の相手なら致命傷になってもおかしくない。
それでも三人が撃ったのは、相手がリゼリアだからだ。大賢者なら、この程度で死なないと読んでいる。
逆に言えば、それくらい信用しなければ放てない一撃だった。
灼熱を帯びた三条の砲弾が、唸りを上げてリゼリアへ殺到する。
だが――そんな渾身の一撃を前にしても、リゼリアは次の瞬間にはもう、いつもの調子へ戻っていた。
「まだ甘い」
迫る連携魔法に、動揺は一切ない。
リゼリアは杖を軽く三度、払った。
一打目で風の流れを裂き、
二打目で炎の芯を散らし、
三打目で岩塊そのものの軌道を逸らす。
たったそれだけで、三人の渾身は“脅威”から“未完成な一撃”へと落とされた。
即興にしては上出来だった。
だが、その上出来を――リゼリアは、あまりに簡単に崩してみせた。
訓練場の空気が、ずしんと沈む。
真言はない。
詠唱もない。
結界を張った気配すらない。
あるのは、ただ圧倒的な魔力操作だけだった。
見えない壁に正面から叩きつけられたみたいに、砕けた風と炎と岩塊がその場で押し返される。
余波だけで、エリシアたちは数歩分、後ろへ弾かれた。
グラトスが地面を削って踏みとどまり、カタリナが歯を食いしばる。
エリシアの外套の裾が、大きく煽られた。
俺はその様子を見て、ひとつ息を整えた。
笑う場面じゃない。
ないんだが――妙に口元が上がりそうになる。
(ちゃんと食らいついてるじゃねえか)
グラトスは踏みとどまった。
カタリナの岩塊も、割れずにまだ形を残している。
エリシアも、体勢を崩しながら次の補助に入ろうとしていた。
十分だ。
ここからは、こっちの番だ。
俺はカムナギを握り直し、雷鳴魔法を展開した。
ばちり、と青白い雷が走る。
腕から肩へ、肩から背へ。
稲妻は鎧の隙間を這い、筋肉の芯に熱を通していく。
身体が軽い。
視界が澄む。
世界の輪郭が、少しだけはっきりする。
「皆、俺につづけ!」
三人の目が、同時にこっちを向いた。
俺は迷わず指示を飛ばす。
「グラトス! 炎壁で正面を切れ、リゼリアの魔法を一瞬でもいい!止めろ!」
「応!」
「エリシアは翠嵐で全員の速度を底上げしろ! 俺とカタリナに寄せろ!」
「承知しました!」
「カタリナ、お前は俺の隣だ! 前で援護しろ、リゼリアの視線を散らす!」
「言われなくてもやるわよ!」
考えるより先に口が動いていた。
いや、違う。こういう時は昔から、考える前に“形”が見えていた。
誰をどこに置けばいいか。
誰に何を任せれば、一番噛み合うか。
身体が覚えているみたいに、言葉が出る。
「――やるぞ!」
三人の目に、もう一度力が宿った。
その瞬間だった。
リゼリアの目が、また少しだけ細くなった。
驚きとも、確信ともつかない色が、一瞬だけそこを過ぎる。
杖を構えたまま――止まった。
「…………」
ぴたり、と。
ほんの一瞬。
だが、戦いの最中には致命的なくらい長い空白だった。
俺は思わず声をかける。
「あれ? やらないのか?」
だが、リゼリアは何も言わない。
訓練場の端で見ていた兵たちが、誰一人として声を出せずにいた。
朝の冷気の中で、張り詰めた沈黙だけが広がっていく。
やがて、リゼリアは小さく肩を竦めた。
「うむ。もうよい……よく分かった」
「これからですぞ! 何がでありますか……!」
膝をつきそうになりながら、グラトスが叫ぶ。
リゼリアは、驚くほどあっさり告げた。
「ジーク以外、全然駄目じゃ」
容赦がない。
ないどころか、ためらいもない。
「今のまま魔王と相対したら即死じゃな。お主らは“強い人間”ではある。じゃが、魔王軍と戦うには話にならん」
カタリナが奥歯を噛んだ。
悔しさで顔が歪んでいる。だが、反論はしなかった。さっきの差を見せられて、なお言い返せるほど馬鹿じゃない。
エリシアが、静かに問う。
「……ジーク様は?」
リゼリアの視線が、まっすぐ俺へ向いた。
さっきまでとは違う。値踏みではない。確かめる目だ。
「ジークだけは、別じゃ」
一拍。
「最低限どころではない。今の踏み込み、剣の返し、雷の通し方――少なくともこの場では頭ひとつ抜けておる。いや、頭ひとつどころではないの。格が違う」
訓練場の空気が、わずかに揺れた。
兵たちが息を呑む気配がある。デュランまで目を丸くしていた。
だが、リゼリアはそこで終わらなかった。
「しかも、お主……かなり抑えておるな」
「……いや、そんなことは……」
「嘘をつくな」
ぴしゃり、と切る。
「出力じゃ。仲間を巻き込まぬよう、訓練場を壊さぬよう、殺気まで薄めておる。それであの動きは、正直気味が悪い」
さらっと言うが、内容はまるで褒めていない。
いや、こいつなりに最大級の賛辞なんだろうけど。
「本気でやれば、今の連携ごとこの場を吹き飛ばせた。じゃが、お主はそれをせん。勝つためではなく、“壊さぬため”に力を削っておる。……その若さで、ようそんな戦い方が身についておるの」
そこで、リゼリアの言葉がほんの少しだけ止まった。
俺の足元から腰。
剣を握る手元。
呼吸の間。
そこを順に見て――そのまま、目を細める。
「…………」
一瞬だけ。ほんの一瞬だけだが、こいつの顔から余裕が抜けた。
また何かを言いかけて、飲み込んだ顔だった。
「……どうかしたか?」
俺が問うと、リゼリアはすぐにいつもの調子へ戻る。
「いや。何でもない」
軽く鼻を鳴らして、視線を外す。
「じゃが、恐ろしいのう。今の歳でそこまで出来る者など、そうはおらん」
そして改めて、全員を見回した。
「ただし――それでも魔王に勝てるとは言うておらん」
空気が、また張り詰める。
「ジークは戦場に立てる。いや、もう“立てる”などという段階ではない。神話の側に片足を突っ込んどる。……じゃが、魔王はその先じゃ」
俺自身、分かっていた。
白虎を倒した。だが、だからといってもう十分だなんて一度も思っていない。むしろ逆だ。魔王と一度でも相対したことがあるからこそ、まだ足りない部分が嫌でも見える。
リゼリアは続ける。
「鍛え直すのに最低でも半年。できれば一年は欲しいのう」
そこで今度は、俺ではなく全員へ向けて言い切った。
「今のお主らでは、魔王や四天王とやらの前に立つ資格すらない」
訓練場に、朝の風が吹き抜けた。
冷たい風だったが、不思議と頭を冷やすにはちょうどよかった。
デュランが腕を組む。
「なら、その時間をどう作るかだな。敵は待ってくれん」
「今行っても無駄死にじゃ。待たせればよい」
リゼリアが当然みたいに言った。
「勝つのではなく、好きにさせぬ。主要都市を守り、被害を抑え、四天王の動きを遅らせる。戦線は保てる」
ランベールが短く頷く。
「ならば、北聖騎士団が壁になる」
「東聖騎士団も、リゼリア殿の教えで今なら魔族の動きが少しは読める」
デュランも続けた。
声はもう折れていない。むしろ、一度折れたあとで組み直した人間の硬さがあった。
そしてリゼリアは、今度は俺たち三人を見る。
俺、エリシア、グラトス。
「お主らは王国へ戻れ」
やっぱり、そこに行き着くか。
「アマテリアを確保せねば話にならん。それに、話に聞いたが、弟のカミナの件もあるのじゃろう?」
その名を出されて、胸の奥が小さく痛んだ。
ずっと引っかかっている。カミナたちがどう動いたのか。何を見たのか。何を選ぶのか。
エリシアが、もう答えを持っていたみたいに口を開く。
「王国との交渉役は私が務めます。アマテリアは“宝”ですが、今は王国だけの問題ではありません。理屈は通します」
グラトスも拳を握った。
「某も戻るであります! 王族として、話を通すでありますぞ!」
リゼリアが頷く。
「うむ。ジークがいれば問題ないじゃろ。エリシア、グラトス。この三人の少人数で動くのが最も早い」
そして残る方へ視線を移した。
「カタリナ、お主は残れ。聖導剣シラヌイの扱いを叩き込む」
「……ええ。力不足を再度認識した。よろしく頼むわ」
カタリナは即答した。
少し悔しそうな顔ではあったが、そこに迷いはない。
「残った連中も、修行しながら防衛じゃ。
デュランは北聖騎士団と合わせて軍を組み直せ。
ランベールは東聖騎士団と兵の連携を鍛え直せ。
術皇は魔力量が良い。後衛と穴埋めに回せば働く。
バルド、ローレン、マルセルは二人に習い、隊長としての立ち方を叩き込め。
魔族に勝つ必要はない。好きにさせぬことだけ考えよ」
訓練場のあちこちで返事が上がる。
それはもう、昨日までの“ただの援軍”の声ではなかった。
方針が決まったからだ。
進むべき方向が見えた人間は、強い。
その日のうちに準備は進んだ。
王国へ戻るのは、俺、エリシア、グラトス。
セレノスに残るのは、カタリナ、ランベール、デュラン、そして各小隊長たち。
別れとしては短い。
だが、今はそれでいい。しんみりしている時間はない。
⸻
昼過ぎ。
セレノスの門前に、俺たちは立っていた。
荷は軽い。
時間を食う旅じゃない。行って、取り、確かめて、戻る。そういう旅になる。
カタリナが腕を組んだまま、俺の前に立つ。
「いい? アマテリアを取って、弟のことも確かめたら、さっさと戻ってくるのよ」
「命令口調だな」
「当然でしょ」
そう言って、少しだけ笑う。
「こっちは任せなさい。……あんたは、あんたのやることをやってきなさいよ」
その一言に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
任せろ、とか、死ぬな、とか、待ってる、とか。そういう言葉を全部まとめると、たぶん今の台詞になる。
エリシアが一歩前へ出た。
「こちらも急ぎます。王国との交渉は私がまとめますので」
短い。
でも、こいつらしい。
グラトスは空気を読んだのか読んでないのか、いつも通り元気よく手を振った。
「では行ってくるであります! 帰ってきた頃には、某もさらに頼れる男になっている予定でありますぞ!」
「予定形なのが不安だな」
「成長には余白が必要であります!」
やっぱりこいつはこいつだった。
緊張感をぶち壊す才能だけは本物である。
その後ろで、リゼリアが小さく鼻を鳴らす。
「気を抜くなよ、ジーク。魔王軍も馬鹿ではない。王国へ戻る道中、狙われることは想定しておけ」
「分かってる」
「ほんとかのう」
「なるようになるさ」
リゼリアは、少しだけ目を細めた。
疑っている顔というより、見届ける顔にみえた。
門の向こうには、王国へ続く街道が伸びている。
白金の聖灯が昼でも淡く残り、その先で道は緩やかに霞んでいた。
俺は一度だけ振り返る。
セレノス。
灯りの都。温泉の都。束の間に休ませてくれた街。
そしてこれからしばらく、仲間たちを預ける街だ。
カタリナが顎をしゃくった。
「ほら。行くんでしょ?」
「ああ」
俺は頷いて、エリシアとグラトスを見る。
「……さあ、行こう」
「はい」
「承知であります!」
俺たちは踵を返した。
門前に繋いであった馬へ向かう。
エリシアは慣れた手つきで手綱を取り、グラトスは気合い十分に鐙へ足をかけた。俺も鞍に手を添え、一息で跨る。
革のきしむ音。
馬の鼻息。
蹄が石畳を軽く打つ乾いた音。
王国の首都アークへ。
神器を取りに。
暁の牙の行方を確かめに。
そして――戻ってくるために。
背中には、セレノスの灯りがあった。
前には、まだ見えていない厄介ごとが山ほどある。
俺は手綱を軽く引き、前を向く。
「行くぞ」
「はい」
「承知であります!」
次の瞬間、三頭が一斉に地を蹴った。
最初は石畳。
やがて土の街道へ変わり、蹄の音も硬さを失っていく。
朝の風が頬を叩く。マントが後ろへ流れ、セレノスの白金の灯りが少しずつ遠ざかっていった。
それでも、足は止まらない。
今はまだ足りない。
だから進む。
足りるところまで、何度でも。
⸻
セレノス近くの、とある村。
かつては畑の土と家畜の匂いがしていたはずのその場所に、今は湿った泥の臭気と腐臭、それから甘ったるい花の香みたいなものが、区別もつかぬまま混じり合っていた。
不自然な匂いだった。
生き物の匂いと、死体の匂いと、魔の匂いが、一つの村の空気として溶け合っている。
村人は、まだ“いる”。
だが、もう普通の人間ではなかった。
目の焦点が合わず、口元だけが薄く笑っている者。
暗影魔法に精神を侵され、命じられるまま棒立ちになっている者。
すでに死んでいるのに、ぎこちなく歩き回るゾンビ。
人の皮を被ったまま、その内側に魔族を飼っている者すらいた。
家々の影には、魔物も潜んでいる。
鶏小屋の奥で爪を鳴らすもの。
井戸の縁に逆さに張りついているもの。
納屋の梁の上で、じっと獲物を待つもの。
にもかかわらず、村は妙に静かだった。
広場だけが、異様なほど整えられていたからだ。
壊れた荷車も、倒れた柵も、転がる死体も――まるで舞台の端へ掃き寄せられたみたいに、そこだけ綺麗に避けられている。
その中央に、白い“玉座”のようなものが置かれていた。
石にも見える。
骨にも見える。
磨き上げられた木にも見える。
だが、近づいて素材を確かめようなどと思った者は、たぶん二度と眠れなくなる。そういう類の“何か”でできていた。
その上に当然のように脚を組み、青龍――フェルディナン=ル=マルシャンは退屈そうに腰かけていた。
長い指先で扇の骨を弄びながら、村そのものを舞台みたいに眺めている。
よく整った顔立ちに、やわらかな笑み。
遠目に見れば、上等な芝居を見物に来た貴族の遊び人にしか見えない。
だが、その目だけが笑っていなかった。
澄んでいて、冷たくて、役者の失敗を楽しみに待つ観客の目だった。
フェルディナンはこの村に、自分の魔族をあまり表に出していない。
大賢者リゼリアに気取られぬよう、あえて“普通の人間”を使ってセレノスの様子を探らせていたのだ。
そのうちの一人――鎧を着た騎士の男が、震えながら広場へ進み出て、玉座の前に跪く。
「ほ、報告します……」
声が上ずっている。
当然だ。目の前にいるのは、美しい顔をした怪物なのだから。
「勇者は……皇子と、その付き人と共に、三人の少人数で一度王国へ戻るようです」
フェルディナンの目が、すっと細まった。
次の瞬間、彼は楽しそうに笑った。
「ああ、それはいい〜」
語尾が妙にやわらかい。
だからこそ、余計に気味が悪い。
「白虎を倒した勇者と、大賢者リゼリアが合流した時には、どうしようかと思ったんですが……これはチャンス到来ですねえ。ご苦労様です」
跪いた男は、安堵したように肩を落とした。
褒められた。許された。そう思ったのだろう。
愚かだ。
男は、おそるおそる顔を上げた。
「そ、それでは……約束通り、妻と子供を助けてくれますか……?」
フェルディナンは、にこやかに頷いた。
「あ〜もちろんです」
そう言って、ひらひらと手を振る。
広場の奥。
倒れた荷車の影から現れたのは、女と小さな子供だった。
いや――“だったもの”だ。
皮膚は青黒く変色し、目は濁り、口元には乾いた血がこびりついている。
動いてはいる。だが、そこに生者の温度はない。
「あ……ああ……」
男の喉から、壊れたような声が漏れた。
青ざめる、という表現では足りない。顔から人生そのものが抜け落ちたみたいだった。
フェルディナンは、その反応を眺めて、くつくつと笑った。
「残念でしたねえ」
扇を閉じる。
ぱちん、と乾いた音が広場に響く。
「でも安心してください。あなたもすぐ、楽にしてあげますから」
男が何か言うより早く、翠嵐の刃が走った。
風は見えない。
見えないまま、首だけを正確に掻っ切った。
血が噴き、胴が崩れ、頭が石畳に転がる。
フェルディナンは一歩も引かず、その飛沫を避けることすらしなかった。
ただ、ほんの少しだけ首を傾げる。
「うん。今の絶望の悲鳴は、なかなか良かった」
その足元に、黒い影がにじんだ。
暗影魔法だ。
切り離された死体へ、それが蛇みたいに這い入り、ぴくり、と指先が動く。
首を失った胴が、不自然に立ち上がった。
フェルディナンは満足そうに微笑む。
「ほら。これでご家族三人、また一緒ですよ。よかったですねえ」
その光景を見ていた騎士の姿をする魔族の一体が、低く問う。
「では、フェルディナン様。動きますか」
フェルディナンは扇を肩に乗せ、くるりと踵を返す。
「そうですねえ。勇者一行が通る村々に、先に罠を張りましょう。いや、この村が丁度よいか……」
その笑みは、ぞっとするほど美しかった。
美しいまま、底だけが腐っている。
「三人、でしたよねえ。人質を混ぜつつ、物量で押し潰すのがよさそうです」
そこで少し考えるように扇の先を唇へ当て、それから楽しげに言い足す。
「万全を期すため、麒麟にも相談しましょうか。玄武が近くにいた筈です。二人で連携すれば、なお良い」
広場の周囲で、屍人たちが一斉に顔を上げた。
焦点のない目が、同じ方向を向く。
まるで次の演目を待つ観客みたいに。
フェルディナンは、その中心で愉快そうに告げた。
「せっかくです。王国へ戻る道を――勇者にとって最悪の舞台にしてあげましょう」
遠くでは、聖灯の都セレノスの光がまだかすかに揺れている。
だが、その手前に広がる闇は、もう静かに牙を研いでいた。




