五、平和な日常と玉鋼、忍びよる影
朝焼けの光が、村はずれの小さな道場を斜めに切り取っていた。
踏み込みで磨かれた床はうっすら艶を帯び、節目には汗と松脂が薄く光る。
壁に散った傷は、木刀が刻んだ稽古の息づかいだ。
木と油、砥粉の匂いに、ほんのわずかな鉄の気配がまじる。
その混ざり合いが、なぜか心を落ち着かせた。ここに立つと、自分が“生きてる”って実感できる。
「おいっ! ジーク! サボってんな! カミナの相手してやれ!」
父さんの声が梁を震わせ、朝の静けさを易々と押しのけた。
低く太いくせに、不思議と肩の力が抜ける声だ。
岩みたいな体に、笑えば赤子が泣く迫力――それでも、村でいちばん頼りにされている。
あの広い背中を目印にしてきたのは、きっと僕だけじゃない。
「へいへい。行くぞ、カミナ」
ジークは木剣を二本、肩に担ぎ、薄く笑った。
朝の光に、中央で分けた黒髪がわずかに揺れる。前髪の隙間からのぞく瞳は冷たく澄み――奥に小さな火が灯っている。
あの目に射抜かれると、胸の底がざらりと熱を帯びる。ジークがわずかに顎を上げた。挑発でも、余裕でもない。〈本気で来い〉――その合図だと、僕はもう知っている。
僕は首をひとつ振り、肺いっぱいに朝を吸い込む。足裏で床のきしみを測り、木刀の柄を握り直した。
――いく。
「うおおおおっ!!」
大上段から一気に叩き下ろす。
バギィン、と梁が震えた。手のひらに残るのは、骨の芯まで響く衝撃。
子どもの腕力じゃないってことくらい、僕自身が一番わかってる。
けど止められない。体の奥から、もう一回、もう一回って、力が湧き上がってくる。
「お前ほんとに十五歳かよ……!」
ジークの木剣が交差し、火花みたいな音を立てた。
受け止められた衝撃が腕に跳ね返り、筋がきしむ。
それでも足を止めない。踏み込み、床を蹴り、もう一撃。
壊れた筋繊維が、すぐに**闘気の“流れ”**に包まれて修復されていく。
赤黒い闘気が皮膚の内側でざわめき、熱と冷たさが同時に巡った。
痛みと快感が混ざる。――まだいける。
「ハッ、まだまだだ!」
歯を食いしばって押し込む僕に、ジークは一瞬だけ目を細めた。
その瞳の奥――光が走る。次の瞬間、木剣が二本、稲妻のようにほどけた。
〈迅玉式・双剣連舞〉
八連の打ち込み。空気を裂く音が連続し、視界が追いつかない。
肩、脇腹、手首、膝――弱点を、寸分の狂いもなく叩き込んでくる。
痛みが遅れて、波のように押し寄せた。普通なら膝が折れる。だが――
「効かねぇッ!!」
咆哮が漏れる。
闘気の“再生”が間に合い、切れた筋がすぐに繋がっていく。
体が勝手に立て直り、木刀を逆袈裟に振り抜いた。反射。ほとんど本能。
ジークが受け流す。
〈鏡盾式・受け流し〉
僕の剛力を刃の面で泳がせ、腰をひねり、背後に抜ける。――速い。残像が見える。
「化け物みたいな回復力だな、カミナ」
「ジークだって反則みたいな速さだろ! どっちが化け物だよ!」
ぶつかる。離れる。またぶつかる。
木剣が交わるたび、乾いた衝撃音が道場の梁に跳ね返る。
空気が震え、古い壁がみしりと鳴った。
見学していた子どもたちが、いつの間にか声を失っていた。
年上の弟子でさえ、息を飲んで木刀を握る手を止めている。
誰も笑わない。ただ、目を見開いて――見ていた。
額の汗が視界をかすめる。呼吸が荒い。
でも――まだいける。そこへ、腕を組んでいた父さんの低い唸り声が落ちた。
「……やべぇな。もう人間の域じゃねぇ。やめだ、道場が壊れる」
木の梁から、ぱらぱらと埃が舞い落ちる。その一粒一粒が、今の稽古の激しさを物語っていた。
稽古は終わった。
肩で息をしている僕の額に、母さん――リーナが清潔なタオルをそっと当ててくれる。
干した布の、日向の匂い。
顔を上げると、後ろで結った翡翠色の髪が朝の光を拾って、ゆるく揺れた。
穏やかに微笑んでいるのに、瞳の芯は鋼みたいにまっすぐだ。
「少し力を抜きなさい。怪我をするわ」
声は淡々としている。だけど、手つきは驚くほど優しい。
父さんの豪快さとは違う、静かな強さ――優しさと厳しさを同時に抱えた人。
母さんが剣を振るうところは、数えるほどしか見ていない。
それでもジークは「父さんと同格だ」と言った。勇者だったやつの目がそう言うなら、きっと本当だ。
本気を見せないだけで、母さんがこの家で一番“恐ろしい”相手なのかもしれない。
僕はまっすぐで、隠し事が下手だ。父さんも、たぶん同じ。
一方で、母さんとジークは時々同じ目をする――状況を量り、一手先を胸にしまう目。
頼もしくて、ほんの少しだけ怖い目だ。
そんな父さんと母さんは、よく笑い、よく支え合う。
“理想の夫婦”って言葉が、似合う二人だ。僕の世界の中心にいてくれる。
僕らは転生者だ。親から受け継いだのは、ほとんど見た目だけだろう。
それでも、そばにいれば確かに影響は受ける。
この家で暮らすうちに、僕は少しずつ変わっている――いい方向へ、前へ。
⸻
うちの道場で教える流派は三つだ。
破剣式――力で断ち割る。
鏡盾式――受けて、流して、返す。
迅玉式――速さで攪乱する。
父さんは、いつもこう評する。
「ジークは三流派を満遍なく使いこなす、紛れもない“技の天才”だ。
だが力はカミナに軍配。技はまだ荒いが、怪力バカ――だがそれがいい。破剣式の申し子だ」
ひどい言い方だ。でも、胸の奥は少しあったかくなる。父さんは嘘をつかないから。
ジークは肩をすくめ、口の端だけで笑った。
「天才なんかじゃねぇよ。勇者やってた頃に、あれこれ叩き込まれただけだ。……本当に得意なのは迅玉式だな」
それから――貴族の血じゃないのに、ジークは勇者時代の“雷鳴”と“聖光”をそのまま扱える。
胸の奥には、まだ見せていない“もうひとつ”の力まで隠しているらしい。
正直、羨ましい。けど同じくらい、心強い。
僕の“チート”は怪力と回復力。どっちも源は闘気だと言われた。
鍛えれば伸びる。理屈は分かるのに、制御はまだ下手くそだ。
力は呼べるのに、溢れさせてしまう。刃の上を走るみたいに、調整ができない。
⸻
稽古のあと、道場裏の坂を下りて川べりを歩く。
石に打ちつける布の音、桶を満たす水の音。泡といっしょに子どもたちの笑い声が弾け、風が水面を撫でて魚影がきらりと折れる。
――平和だ。だからこそ、油断しない。
「こういう時こそ備えるんだ」
僕が言うと、ジークが口の端だけで笑った。
「……あの丘で“歪みを直す”って言ってから、お前は本当に変わった。素直に尊敬できるわ」
僕が八歳で手を出してから十五の今に至るまで、やってきたことは少しずつ形になった。
数年前まで貴族の取り立てで餓死者まで出ていたこの村は、“玉鋼”を見つけてから、確かに変わりはじめた。
もともと玉鋼の“元”は、鉱山の片隅に積み上げられた黒い塊だった。
ミスリルや金銀銅の選鉱のあとに残る、どろりと固まった滓――鉱夫たちはそれを「黒滓」と呼んで、川べりに投げ捨てていた。
「それ、刃物にも釘にもならねぇ。しかも魔符が近づくと光が死ぬ。気味が悪い鉄だ」
古い鍛冶屋がそう言って、つま先で塊を小突いた。
その瞬間、胸の奥で止まっていた歯車が、かちりと噛み合う。
僕は魔法が使えない。けれど前世で散々読んだ――魔法を使えない主人公が無双する物語は覚えている。
なら、道はひとつ。**“魔法を殺す鉄”。**それを刃にすればいい。
夜、人目のない土手。ジークに頼んで、爪先ほどの雷を指の間に走らせてもらう。
僕は黒滓の欠片をその前にかざした。
ぱち、と白い糸が揺らぎ、欠片の縁で急に鈍む。光はやせ、音は喉で途切れる。
――迷信じゃない。魔力は確かに通らない。確信が、指先の震えごと僕の中に沈んだ。
あとは、やるだけだ。
前世で読んだ『雷電伯爵』――主人公・雷電の相棒に腕の立つ鍛冶師がいた。
細部はもう霧がかかったみたいに薄いけれど、炉の温度の見極めや折り返しの要領、風を入れる“呼吸”の仕方……断片は残っている。
だから最初の一歩は、そこから踏み出した。
本物の鍛冶屋の戸を叩いたのは九歳のときだ。返ってきたのは鼻で笑う声だった。
「黒滓だぁ? 焼きの回らねぇ鈍鉄だ。魔法を通さねぇ鉄なんざ売れねぇ。帰れ」
それでも通った。毎日、炭を運び、土間を掃き、風箱を踏む。二年。指の豆は潰れて荒れて、また固くなった。
根負けした親方が、渋々と道具の握り方から教えてくれた頃には、僕の手はもう鍛冶屋の手になっていた。
ジークが何度も背を押してくれた。
「進め。迷ったら、一個だけ条件を良くしろ。それを積め」
その言葉どおり、一つずつ良くした。
風箱は一つから二連へ。炉壁の土は練り直し、藁灰を混ぜて持ちを上げる。
炭の配合は季節で変える。乾いた冬は細かめ、湿った夏は荒目。
赤から桜色、麦わら色へ――脆さが抜ける温度帯を目で追い、音で聴く。
折り返しては叩き、火花を散らし、また折って叩く。
じい、と地金が“鳴く”瞬間に合わせて風を送る。鍛接の匂いは甘苦く、油に落とす音は短い悲鳴みたいだ。
黒滓はやがて層を重ねた鋼に変わった。
刃をつけ、砥に当てる。水面に白い筋が引かれていく――息を止める。
そして、最初の一本の包丁が立ち上がった。
切れる。欠けない。錆びにくい。
母さんが台所でそれを握り、野菜を刻む音が変わった――とん、とん、と。
その小気味いい音に合わせて、村の歯車もひとつ回りはじめた。
出来た刃物を行商人に見せると、目を細めて刃先で紙を裂き、無言で買っていった。
翌月には二本、次には三本。気づけば注文が続く。
いまじゃ鍛冶小屋の火は、夜明け前まで落ちない。釘、鍬、包丁、鎧の当て板――作れるものは全部作った。
“魔法を通さない”――ただその一点が、村では護符に等しい価値になった。
貴族が気まぐれに徴発しようとしても、「屑鉄だ」と鼻で笑って素通りする。無理解が、むしろこちらの味方だ。
刃は術に鈍らず、当て板は流れ込む力を散らして受け流す。
手間はかかる。けれど、それは確かな“盾”になる。
「ジークは魔法使えて、ずるいよな。魔法が使えない僕には、こういうの作るくらいしかないし」
ジークは苦笑して、僕の肩を軽くたたいた。
「“ずるい”のはお前な。俺からしたらカミナの頭のほうがよっぽどチートだと思ったぜ。
俺はもうネットに繋がってねぇ。AIだった頃の知識なんて霧の向こうだ。
でもお前は、ばらけた断片を拾い集めて、ちゃんと現実に落とし込む――それは才能だ、カミナ」
才能ってほどじゃない。前世で読んだ物語の欠片を、いま拾い直しているだけだ。
魔法を使えない主人公が“魔法を通さない金属”で軍勢をひっくり返す話なんて、いくつも見た。
覚えているのは断片だけ。それでも、試して、失敗して、形にすることはできた。
村を変えるには、僕のこの知識で十分――少なくとも、今はそう信じたい。
⸻
村長の家の前に、人だかりができていた。
遠い森の向こうに、黒い煙がのぼっている。筋は太いが、風にちぎれて形が定まらない。火事か、狼煙か――見当がつかない。
「……あれ、なんだ?」
「祭りか?」「獣避けの焚き火じゃ量が違うぞ……」
ざわめきが、朝の静けさより重く響く。
風下から、焦げた脂と湿った灰の匂いが、ときどき鼻の奥を刺した。焚き火と違う、いやな匂いだ。
(……嫌な煙だ)
ジークがわずかに顎を引く。目を細めても、木立の稜線が煙に隠れて根は見えない。
「距離がある。断言はできないが、ただの野焼きじゃない」
「……分かった。どっちに転んでも、準備だ」
僕らは短くうなずき合った。悪い予感に名札はまだつかない――それでも動く。
「帝国兵か?」「隣の村が襲われたばかりだぞ……」
ゼルファス帝国。力こそ正義の軍事国家。奴隷が売られ、弱者に人権はない。
この北方の村は、王国の税と帝国の侵略、両方に挟まれて生きてきた。
僕たちはこの一年、“来る日”のためにコツコツ準備してきた。
道場の床下に隠した玉鋼の剣。盗賊・帝国対策の罠。子どもでも持てる投石袋。火矢に使う油。
そして何より――“逃がす道順”。勝てないなら、生かして逃がす。それが第一だ。
ゴォン――。重い鐘の音が、村じゅうに広がる。
大人たちが顔を上げ、子どもが走る。鶏が騒ぎ、犬が吠える。
僕の心臓は、鐘の音に合わせて叩いた。震えがせり上がる。怖い。でも、立つ。
「今日のために準備してきた。この村は――僕が絶対に守る!」
口に出した瞬間、腹の底の震えがすっと収まる。言葉は、“覚悟”の形になる。
ジークが僕の肩を掴んだ。冷静な目。僕の熱を測って、冷やし過ぎない“ちょうど”に戻す目だ。
「一人でやろうとすんな。まずはみんなに伝えろ。役割をばらせ。落ち着け、カミナ」
「……うん」
僕はうなずき、走り出した。
道場へ。母さんへ。村長へ。鍛冶小屋へ。
やることは山ほどある。手順は頭に入っている。失敗の余地は、ない。
走りながら、ふと思う。
この世界は、どこか歪んでいる。生まれで決まる、血で決まる、魔法で決まる。
でも、歪んでいるなら――裏側から叩いて直せばいい。玉鋼みたいに、何度も焼いて、叩いて、折り返す。
僕は“勇者”じゃない。
だけど、勇者の相棒がいる。父さんと母さんがいる。仲間がいる。
だったら、ここからだ。ここから、僕らの番だ。
鐘がもう一度鳴る。
朝焼けはもう、戦の色を帯びはじめていた。




