四十八、白虎の夜襲(後編)
「危険分子。ここで処理する」
白虎の声は、霧雨と同じ温度だった。
怒りも憎しみもない。
白虎が、暗影の真言を呟いた。
「黒き影よ、門を開け。白翼は天を裂き、三獣は地を蹂躙せよ――《双魔降臨》。
――出よ、グリフォン。出よ、キマイラ!」
白虎の足元、影の一角が膨らんだ。
地面が液体みたいに盛り上がり、黒が割れ、裂け目が“穴”になる。
そこから白い翼が、影そのものを押し上げるように現れた。
抜けた瞬間、翼がばさりと開く。
一振りで霧雨が千切れ、風圧が視線を伏せ、兵の外套が一斉に翻った。
魔獣グリフォン。
鷲の嘴と獅子の脚。目は刃物みたいに冷たい。
間を置かず、反対側の影も裂けた。
最初に飛び出したのは、獅子の前脚――地面を抉って土が跳ねる。
次に山羊の吐息が霧を凍らせ、白い息が“刃”みたいに広がる。
最後に蛇の尾がぬらついた牙で空を噛んだ。唾液が、黒い糸みたいに垂れた。
魔獣キマイラ。
熱と冷気と毒の匂いが混ざり、野営地の空気が一瞬で塗り替えられる。
魔族が“戦力”として重視する魔獣だ。
面倒とかいう言葉じゃ、足りない。
「俺が枢機卿……白虎をやる」
ランベールが短く吠えた。
「我等、北聖騎士団がキマイラを押さえる! 隊列を崩すな!」
エリシアが即座に受ける。
「殿下、カタリナ。グリフォンを落とします。私は翠嵐で機動を殺す――援護を」
カタリナが盾の縁をコン、と鳴らし、俺にウィンクを飛ばした。
「了解。落ちてきたら剛岩で止める――ジーク、勝ったら“いい事”してあげる」
ぴし、と空気が張った。
エリシアのこめかみに一本、青筋が立つ。
「カタリナ。今、ふざけている場合ではありません」
声は丁寧なのに、刃が混じっている。
カタリナは悪びれず肩をすくめた。
「士気よ、士気。ね? 勇者様」
(やめろ。俺を巻き込むな)
グラトスが豪快に笑った。
「勇者殿! 白虎を頼みましたぞ! 今宵の“見せ場”は独り占めでありますな!」
白虎が薄く告げる。
「元よりそのつもり。雑魚に用はない。――処理対象は勇者」
白虎が真言をつぶやき、両手を静かに合わせた。
「黒き霜よ、外界を断て。影の壁よ、世界を閉じよ――《黒霜結界》!」
そして、暗影が落ちた。
黒い薄膜が地面を這うように広がる。
円を描いて、俺と白虎だけを包み込む。
結界の縁が立ち上がった。
地面から黒霜がせり上がり、壁になる。冷たいドームだ。
霧雨が重くなり、音が遠のく。
世界の輪郭が、薄い氷膜で覆われたみたいに鈍る。
白虎が腰から、二本の黒銀の双刃短剣を抜いた。
刃先に蒼い霜が走り、冷気が糸みたいに尾を引く。
「処理工程、開始」
次の瞬間、姿勢が潰れるほど低くなり、四つん這いで構えた。
修道服の女が取る姿勢じゃない。
――人間が取れる姿勢でもない。
そして、音もなく。
獣の姿勢のまま、矢みたいに滑った。
速い。低い。地を舐めるように迫る。
――いや、違う。
影が揺れた。足音がしない。気配が、消える。
黒霜結界の内側では、闇が“床”じゃなく“海”みたいに深い。
白虎は、その影に沈んだ。
沈んだというより――鮫が水面下へ消えるみたいに、輪郭ごと闇に溶けた。
次の瞬間、背後に殺気。
(来る――)
白虎は俺の背後に“いた”。
振り向くより早く、双刃短剣の刃が走る。
冷たい。薄い。首筋を撫でるだけの距離。
俺は反射で身を捻り、カムナギを噛ませた。
カキン――金属音が、やけに近い。
結界の中では、刃の音だけが鮮明だった。
擦れる音、噛み合う音、息の音。全部が氷のドームに跳ね返って耳に刺さる。
火花は散らない。散る前に霜が噛みつき、光が鈍る。
(影移動……結界そのものが“転移装置”になってる)
一撃では終わらない。
白虎の猛攻が止まらない。
刃が走る。受ける。弾く。
短剣の角度が変わる。俺の死角へ滑る。クサナギで叩き落とす。
刃と刃が何度も噛み合い、硬い衝撃が手首まで抜けた。
――ガキッ、ギィ、カァン!
噛む音、擦れる音、弾ける音。
甲高い金属音だけが、結界の中で長く伸びた。
――キィィン。
高い音が、静かなドームの中で尾を引く。
最後に白虎の刃が、もう一度だけ首筋を掠めた。
血は出ない。先に霜が咲く。皮膚が“遅れて”痛む。
「……っ」
踏み込んで距離を詰める。
俺も攻めに転じ、刃が届く――その寸前。
白虎が、ずるりと影へ沈んだ。
消えるというより、黒に引きずられて輪郭がほどける。
(逃げた? 違う。位置を変えた)
足元が、きし、と鳴った。
黒い氷が地面から突き出す。槍みたいに細く、棘みたいに鋭い。
狙いは足首。踏み替えを殺し、次の一太刀を確実にする。
――避ける。
だが避けた先にも、もう一本。
黒い氷の突起が、俺の影を追って伸びる。
逃げ道じゃない。立つ場所そのものを消してくる。
(結界そのものも武器かよ)
⸻
俺は黒い氷の突起を跳び、影に沈む白虎の気配を追い、足元を殺しにくる棘を斬り払う。
間合いは詰めても、届く寸前で消える。
当てさせないために、結界が動く。
白虎が動く。
――合理的だ。腹が立つほど。
ふと、結界の膜越しに外を見る。
赤い光が瞬いた。グラトスの紅蓮だ。
白い翼が空を裂く。グリフォン。
獅子の咆哮と、蛇の尾の毒が霧を汚す。キマイラ。
……見えるのに、音が届かない。
助けに行けない。声も掛けられない。
(俺だけを、この閉鎖空間に閉じ込める)
胸の奥で燻っていたものが、火花を散らした。
(……ちょうどいいか)
口の端が勝手に上がる。自分でも分かるくらい、珍しく好戦的な笑いだった。
「白虎? 笑わせるなよ」
声が、結界の中で乾いて通った。
「姑息に影へ潜って、足元を削って、逃げ回る。……お前、それで“白虎”のつもりか?
せいぜい――影にすがる黒猫だ」
白虎の気配が、ほんの一瞬だけ“止まった”。
計算が跳ねた。
感情じゃない。処理の遅延だ。
「侮辱。記録。――処理優先度、上昇」
声が、今度は俺の真正面から聞こえた。
影から滲むように白虎が現れ、双刃短剣を構える。
刃には蒼い冷気と、黒い影が絡みつき、触れていないのに肌が刺さる。
「仲間を巻き込ませない結界を張ってくれて、ありがとうな」
俺は心底の笑顔で言った。
白虎の眉は動かない。目だけが細くなる。
「お前なら――俺の本気を見せてもいい」
白虎が影に沈む。
同時に、足元から黒い氷が槍のように突き出し、俺の膝を殺しに来る。
だが――その瞬間。
俺は、魔力で剣を胸の前に立て両手をあげ目を閉じる。
構えを捨てた。
防御を捨てた。
代わりに、胸の奥の“栓”を抜く。
夢幻魔力が、解放される。
白虎の黒霜結界が、きし、と鳴った。
氷が割れる音じゃない。
世界の規則が、軋む音だ。
白虎が一拍遅れて言った。
「……出力上限、未観測。危険――」
俺は息を吸う。
その吸気だけで、霧雨が一瞬“止まった”気がした。
空気が白く霞み、マナが針みたいに肌を刺す。
髪が白銀に光を帯び、産毛が逆立つ。
クサナギの彫り目が青白く燃え、雷が“歓喜”みたいに跳ね回る。
白虎が影に沈もうとした。
位置を変えるためじゃない。逃げるため。
だが――影そのものが、白く薄くなる。
闇が、光に負け始めた。
「夢幻よ、枷を断て。
無限の力を解き放ち――この世の理さえ、跳ね飛ばせ。
――《シャイニング・ノヴァ》!」
言葉が落ちた瞬間。
光が“世界を上書き”した。
黒霜結界の壁が、内側から剥がれ落ちる。
黒い薄膜が焼けるように白へ溶け、霜が蒸発するより早く“概念ごと消える”。
結界を支えていた暗影が、悲鳴も上げられないまま、無音で崩壊した。
白虎が目を見開く。
初めての表情だった。
「ば、馬鹿な……」
短剣が落ちる音すら、届かない。
白虎の輪郭が、影から引き剥がされるみたいに薄くなり――
次の瞬間、白い光の中で“消滅”した。
灰も残らない。霧も残らない。
ただ、光だけが残る。
⸻
結界の内側で《シャイニング・ノヴァ》を解いた瞬間、黒霜の壁が内側から膨らんだ。
風船みたいに、静かに。
次に、縁へ白い亀裂が走った。
光が漏れていく――漏れたというより、溢れ出された。
(……まずいやり過ぎた。制御しろ)
そう思った瞬間、外側から何かが聞こえた。
誰かの声。たぶん、エリシアだ。短く、息を呑む音。
次に、ランベールの怒鳴り声が、膜越しに歪んで届く。
「下がれ! 伏せろ!!」
黒いドームが、破裂した。
爆発じゃない。世界の明るさが一段跳ね上がる破裂だ。
光が雨みたいに降り注いだ。
草地が白く焼け、霧雨が一瞬で蒸発して、空気が乾いた鉄の匂いに変わる。
遅れて轟音。空が割れた音。
風圧が野営地を舐め、天幕がちぎれる気配が、膜越しでも分かった。
兵が地面に叩きつけられる鈍い音。
盾の裏で必死に息をする声。
魔獣の叫び――それが途中で、ぷつりと切れる。
結界の外で見えた影が、二つ――落ちた。
空を裂いていた白い翼が、燃え尽きて消える。
地を震わせていた咆哮が、途中で途切れる。
グリフォンとキマイラが、光の中に飲まれていった。
天災一歩手前。
いや、天災そのものだった。
光が引いたあと、世界が“しん”と静まった。
焦げた匂いと、湿った土の匂いだけが、遅れて戻ってくる。
……黒霜結界は、もうない。
白虎も、もういない。
俺は一拍遅れて息を吐き、剣を下げたまま周囲を見渡した。
仲間の姿を探す。
――いた。
倒れていないか。立てるか。動けるか。
確かめるより先に、足が勝手に動いていた。
「……勝った、の?」
カタリナの声が聞こえた。生きてる。
その事実だけで、胸の底の力が少し抜けた。
「……勝利、です。ですが――」
エリシアの声が続く。いつもの調子だ。
こういう時の“いつも通り”が、たまらなくありがたい。
「被害の確認を最優先に。負傷者はこちらへ」
グラトスが俺に気づき、乾いた笑いを混ぜて言った。
「勇者殿……今のは“見せ場”を超えておりますぞ……」
「……悪いな」
それだけ呟いて、まず目で全員の怪我を拾う。
軽傷が多い。致命傷は――見当たらない。
(……良かった)
霧の向こうへ視線をやる。
西聖騎士団の待機していた布陣は、もう見えない。退いたんだろう。
胸の奥が妙に静かだった。
ずっと胸に刺さっていた焦りと怒りが、雷と一緒に吐き出されて――ひとまず、沈んだ。
(……派手に暴れて、少しは――)
「カッコつけて黄昏れてんじゃないわよ!」
カタリナが頬を膨らませ、俺の思考に割り込むように怒鳴った。
「白虎は倒したけど、やり過ぎ! “いいこと”は次回にお預けね!」
(そ、そこかよ)
「……では、本日は私がジーク様のケアを――」
エリシアが当然みたいな顔で言いかけた瞬間、
「ダメに決まってんでしょう!」
カタリナが即座に遮った。
「明日はみんなで宴会よ! 勝ったんだから飲む! 食う! 寝る! ――それで明日も戦える!」
ランベールが――口元を緩めた。
……気がした。
「羨ましい限りだ。勇者殿はモテますな」
グラトスが胸を張って、追撃する。
「勇者殿の側仕えは誰にも渡しませんぞ!」
「皇子が側仕えしようとすんな!」
……笑いが漏れる。
こういうのが、戦場の後に一番効く。
カタリナの言う通り休憩も必要だ。人間の戦い方で、立っていくならなおさら。
(とりあえず今日は寝る。……それから考える。
“次”が来る前に、まず態勢を整えないと)
⸻
その夜。
白虎は消えた。だが四天王は、まだ三人いる。
そして――今の“勇者の出力”を感知したのは、魔王軍だけではなかった。
セレノス上空。
雲の切れ目に、ひとつだけ影が浮かぶ。
長い耳。灰銀の髪。
外套の端が風に揺れているのに、本人だけが“風の外”にいるみたいに静かだった。
エルフの少女――いや、外見だけが少女の大賢者が、地平の光が消えた場所を見下ろしていた。
「……雷が、星みたいに輝きおったか」
呟きは小さいのに、やけに重い。
まるで昔話の続きを“今”として受け取る声だ。
彼女は指先で小さく印を切る。
空気が揺れ、魔導書が出現した。探査でも通信でもない――“確認”。
「名は……ジーク、じゃったか。……魔力が規格外じゃの」
誰に言うでもなく、ひとりごとのように言って。
次に、口元だけが歪んだ。笑みというより、苦い納得だった。
「やれやれ。魔王が目を覚ましおって、次の一手を量っておったが……ようやく“本物”が出てきたようじゃ」
そう言うと、影は音もなく夜に溶けた。
雲だけが、何事もなかったように流れ続ける。




