四十七、白虎の夜襲(前編)
西聖騎士団との抗争も、そろそろ大詰めだ。
あれから二日ほど。奴らは少しずつ後退していった。今日の戦いも――ひとまず終わった。
霧雨は夜になっても薄まらない。天幕の布を叩く音が、誰かが扉をノックするみたいに規則正しくて、逆に眠りを邪魔していた。
胸の奥が騒がしい。戦場の疲れじゃない。
あの報せが、まだ頭の中で鳴っている。
ミルテ村、焼失。
《暁の牙》、全滅。
“不死身”の“偽勇者”――討伐。
一つずつ確かめないといけないのに、今は前線を守らなきゃいけない。
その板挟みが、まぶたの裏で燻っている。
眠りにつきたい――そう思うのに。
身体はもう限界だった。
眠気が、強引にまぶたを引きずり下ろしてくる。
(……寝れそうだ。寝て、明日また前線を上げる)
エリシアやカタリナ、グラトスたちの顔が浮かぶ。あいつらのおかげで、折れずにいられる。
明日この平原を突破できれば、セレノスという街まで前線を押し上げられるだろう。
……あと少し。意識が沈み切る、その瞬間だった。
外で、甲高い金属音が鳴った。
――なんだ?
角笛じゃない。合図でもない。
次に鳴ったのは――悲鳴だった。
「敵襲――ッ!!」
天幕の外で誰かが喉を裂いた。
次の瞬間、地面を蹴る音、鎧の擦れる音、馬のいななき、叫びが一気に重なって、野営地が“起きた”。
静けさが一枚ずつ剥がれ落ちていく。
俺も反射で跳ね起きた。寝台から足を出すより先に、手が剣へ伸びる。
神滅聖剣カムナギ。
鞘が小さく鳴る。留め金が緩む。俺が抜こうとするより先に、剣のほうが“戦う準備”を始めているみたいだった。
(西聖騎士団か?)
外へ飛び出した瞬間、夜の闇に赤い点が浮かんで見えた。
――違う。獣の目だ。
数が多い。火じゃない。灯でもない。野営の外周に赤い目が点々と並び、同時に揺れている。
魔獣の群れだ。熱い息が霧を切り裂き、歯の擦れる音がこちらまで届く。
ヘルハウンドに、アイアンファング・ボア。――上空にはワイバーンの影までいる。
ヘルハウンドは走りながら口を開き、赤い息――火炎の噴射を扇状に撒いてくる。
炎で視界と退路を削って、逃げた兵を跳びついて噛み裂く。
アイアンファング・ボアは、荷車ごと兵を跳ね飛ばす巨体で突っ込んでくる。
伸縮する岩牙が、盾壁の“隙間”をこじ開け――隊列を一息で崩す。
ワイバーンは低空を滑り、上から風の刃――翠嵐の斬撃を槍みたいに落としてくる。
斬撃が地面を走り、遅れて風圧が盾をめくり、足元をさらって隊列を乱す。
……夜襲。しかも、魔獣混成。魔族の尖兵だ。
すでに被害が出ていた。
俺の布陣は今日も野営の奥――本陣だ。最初の一撃をまともに受けずに済んだ。
だがそれが仇になる。前線の異変に気づくのが、一拍遅れる。
外周の杭が折れ、荷車が倒れ、火が布に移って炎が踊っている。
荷を守ろうとした兵が噛みつかれて叫び、槍を突き出した兵が泥で足を取られて転ぶ。
夜の戦いは、不注意で呆気なく死ぬ。
「っ……!」
俺は一歩前へ出た。
クサナギを抜くと、刃が青白く脈打った。霧粒がぱちぱち弾ける。雷の走る音が、夜にやけに目立つ。
「退け!」
近くの兵が俺を見て、息を呑んだ。
目が丸い。驚き――いや、安堵だ。
「……勇者殿だ」
誰かがそう漏らした瞬間、張り詰めていた空気がほどけた。
逃げ腰だった足が、踏ん張る足に変わる。
任せとけ。
俺は気合いを入れて踏み込む。
雷鳴を刃に通し、一本にまとめる。
散る雷を、剣の彫り目で“線”にする。
「天よ轟け、我が刃にて万雷を束ねよ――《雷帝轟閃刃》!」
――置く。
獣の群れの“骨”へ、薙ぎ払う一本。
雷が走り、まず上空のワイバーンが落ちる。続けて先頭のヘルハウンドが痺れ、赤い目が消え、ボアが躓き、群れが乱れる。
乱れた瞬間――北聖騎士団の槍列が反転した。
「――槍、前! 間合い、詰めろ!」
前に出た上官が短く吠える。
合図はそれだけで足りた。
「おう!」
「了解!」
返事は短い。だが動きは一つだ。
盾が開き、槍が揃い、半歩だけ前へ出る。息まで揃って見える。
ランベール隊は、こういう“反転”が強い。
言葉じゃなく、訓練と信頼で繋がっている。
「勇者殿! 魔獣は前方より来ています!
勇者殿を案内せよ! 前へ――!」
上官が叫ぶ。士気が跳ね上がるのがわかる。
こういう瞬間、俺は“象徴”なんだと痛感する。ありがたい反面、期待が重い。
俺は魔獣の喉を刃の腹で断ち、次の獣の脚を雷で焼いて落とし、さらに奥へ進んだ。
外周の防衛線は、まだ持ちこたえている。――だが、本命は別だろう。
案内役の騎士に導かれ、魔獣を蹴散らしながら駆け出す。
前線のほうで、空気が冷えた。
霧雨が――凍る匂いがした。
次の瞬間、前から駆けてきた騎士が俺を見つけ、喉を鳴らすように叫びながら突っ込んできた。
そのまま俺の腕を掴む。
肩から先が白く霜をまとい、左手はもう動かない。呼気は細い。息が切れている。鎧の留め具がガタガタ鳴って、言葉が噛み合わない。
「ゆ、勇者殿! 前線、北の――! ランベール隊長が……!」
(この震えは寒さじゃない。恐怖だ)
「聖き印よ、傷を閉ざせ――《聖痕》!」
俺は聖光を流し、凍りついた筋と左手を“戻す”。
霜が解け、血が巡る音が、本人の喉でひゅっと鳴った。
「落ち着け。何がいる」
騎士は唾を飲み込み、震える声で吐き出した。
「魔獣を率いる……黒い修道服の女です! 氷の魔法で隊列が止められて……!
枢機卿クラリス・ド・グラセール――白虎、だと……思われます! 至急、隊長の援護を……!」
クラリス。
その名を聞いた瞬間、胸の奥で嫌な鈍音がもう一段落ちた。
若返ったと噂される枢機卿――魔族に喰われた大神殿の“中枢”の名だ。
(……上位魔族。来たか)
俺は騎士の肩を軽く叩き、周りにも聞こえるように視線を巡らせて言った。
「分かった。お前たちは前に出過ぎるな。撃退だけでいい。――一人になるな。連携しろ。傷ついた仲間を守れ。絶対に誰も死なせるな」
命令が多い。だが指示が具体的なら人は動ける。迷う暇がなくなる。
騎士たちは剣を握り直し、声を揃えた。
「了解であります! ご武運を!」
――もたもたしていられない。
俺は案内の騎士の元、走り出した。
走りながら思う。西聖騎士団を相手にする時は、どこかで“人間”を見てしまう。
だから手が鈍る。息が詰まる。殺さず止めたいと考えてしまう。
だが、枢機卿は違う。
上位魔族に喰われた――あるいは最初から“器”だった存在。魔物や魔獣と同じ、手加減無用の敵だ。
魂が残っていない相手に、救いはない。
そこに“助けられる人間”はもういない。躊躇は捨てる。
――情けは、ここでは毒だ。
クサナギもある。
そして、俺の中の切り札――夢幻魔力がある。
(ここで全力を試す)
俺は息を吸って、魔力を解放した。
世界が、僅かに歪んだ気がした。
俺の周りの空気が白く霞み、マナが針みたいに肌を刺す。髪が白銀に光を帯び、産毛が逆立つ。
刃の彫り目が青白く燃え、雷が“待ちきれない”みたいに走り回った。
「案内ご苦労だった。この先だな? ここからは一人でいく!」
俺の変化を見た騎士たちが、手を折り返し祈るみたいに呟く。
「……やっぱり勇者殿は神の使いだ……」
「伝説を、この目で……」
(やめろ。信仰すんな。俺は神じゃない。ただの寝不足の平民だ)
俺は聞こえなかったことにして、踏み込んだ。
泥が跳ねる。足元が追いつかない。身体が軽いんじゃない――世界のほうが一拍遅れてくる。
⸻
前方、闇の中で魔獣の群れが道を塞ぐ。
なら――道を開ける。
俺は刃を水平に構え、短く息を吸った。
喉の奥に、雷の言葉が溜まる。
「天を裂き、雷霆を我が刃に。万象を貫き、悪しき魂を灰燼と帰せ――《雷帝聖裁》!」
世界が、一拍遅れて悲鳴を上げた。
空一面が青白く裏返り、雲の奥に走っていた稲妻が、一本に集まって刃へ吸い込まれる。
クサナギの彫り目が回路になり、雷は“剣の形”に整列した。
次の瞬間――轟音。
腹の底、骨の内側、歯の根――全部が同時に震える。
俺が振り抜くと、雷は線になって走った。
一直線じゃない。扇でもない。狙った“道”だけを焼く、一本の神罰だ。
光が夜を引き裂き、霧雨が蒸気に変わって消える。地面の“上”を、雷がえぐっていく。
魔獣の群れが、まとめて弾けた。
肉が焼ける匂いが遅れて鼻を刺し、赤い目が一斉に消える。
倒れる音すら追いつかない。残ったのは――熱と、焼けた土の匂いだけだ。
そして、余波が来る。
遅れて吹き荒れた雷の風が、倒れた荷車の灰を巻き上げ、炎を一瞬だけ黙らせた。
遠くの槍旗が同時に揺れ、兵の外套が一斉に翻る。
……それでも、味方の列は残っている。
俺が雷を“置いた”場所だけが削れている。
巻き込みは、ゼロ。――最初からそうなるように絞った。
騎士団が呆然としていた。槍を構えたまま、口が開いている。
……気持ちはわかる。俺も、自分の雷が時々怖い。
「……夢だ。そうだろ?」
「違う。ほら、手が震えてる。――それに、焦げ臭い」
「……天災だ……」
騎士たちが、震えた声で漏らした。
(……やりすぎると、味方の心が先に折れる。派手さは“武器”だけど、同時に“毒”だ)
横合いから、魔物を散らしながら駆けつけてきたグラトスの声が飛ぶ。
「勇者殿の雷は今日も景気が良いでありますなぁ!」
(景気とか言うな。戦場だぞ)
内心でツッコミを入れたところで、遅れてエリシアの声が刺さる。
「……出力が上がっていますね。次に放つ時は一言ください。周囲の兵を下げます。巻き込み防止を優先しましょう」
(相変わらず、戦場でも事務仕事みたいに言う)
さらに、カタリナが盾に剣をガンガン鳴らして割り込んだ。
「遅い! ジーク! 寝坊助!」
(……寝不足だって言って、無理やり寝かせようとしてきたのはお前だろ)
振り返ると、みんなもう戦う顔をしていた。
どんなに危ない魔法を使う俺でも、こいつらは頼ってくれる。――俺も同じだ。こいつらがいるから踏ん張れる。
(まずい。しんみりしてる暇はない)
「行くぞ! ランベールが危ない!」
白虎がいる。ランベールがそこにいる。
雷を足に纏わせ、地面を蹴る。泥が跳ねる。風が割れる。
夜の野営地を、一本の雷として駆け抜けた。
⸻
前方で、魔力が濃くなった。
空気が凍り、霧雨が“粒”になる。
肌の上を撫でるだけで、体温が削られる。
――いる。
ケルベロスとマンティコアに挟まれた、黒い修道服の女。
その周囲だけ、闇が静かすぎる。音が死んでいる。
ランベールと北聖騎士団が半円に陣を作って対峙していた。だが、もう足が止まっている。
膝をつく者が増え、盾の縁は霜で白く固まり、槍先が重く落ちていた。
……押されている。今にも崩れる。
俺は唇を噛み、剣の柄を握り直した。
(間に合え)
雷鳴を刃に通す。
狙うのは“頭”じゃない。“骨”だ。
――置く。
青白い閃光が走り、魔獣がまとめて弾けた。
遅れて熱と焦げ臭さが追いすがり、氷の空気に一瞬だけ混ざる。
俺は駆け寄りながら聖光を流す。
凍えた指が戻り、息が通る。倒れかけた兵が、やっと目を開いた。
「ランベール! 無事か!」
ランベールは膝をついたまま、短く吐いた。
「……被害が多数出た。……勇者殿、こいつはもう“クラリス枢機卿”じゃない」
視線が、黒衣の女へ移る。
枢機卿クラリス・ド・グラセール。――通称、白虎。
俺の雷を正面から受けたのに、眉ひとつ動かさなかった。
雷の残光が霧雨に散る中、彼女の周囲だけが綺麗に“無傷”で、そこだけ世界の温度が違う。
(……今迄の敵とは格が違う)
白虎が俺を見て、淡々と言った。
「お前が勇者か。……その魔力、想定以上」
声に熱がない。機械みたいに平らだ。
「危険分子。ここで処理する」




