四十六、真なる勇者、雷の契
ジーク視点です。
湿った草の匂いが、マナと鉄の鋭い匂いに薄く押し潰されていた。靴底は朝露を含んだ泥に沈み、踏むたびに小さく吸い付く音がする。西方境の野営地は、低く垂れ込めた霧の底に沈んでいて、白い海面から突き出したように槍先と旗布だけが見えている。焚き火は布で囲って炎を抑え、煙だけが静かに霧へ吸い込まれていった。
俺――王国の勇者ジークは、政務官エリシア、王弟にして術皇騎士団長グラトス、法国南聖騎士団の“金剛盾”カタリナとともに、北聖騎士団長ランベール隊へ合流して三ヶ月程。
暴走する西聖騎士団(団長レオン)と、その背後で糸を引く“魔王四天王”が指揮をする精鋭を、前線でひたすら押し返し続けている。
雷鳴の魔法と勇者の聖剣で塞いだ突破口は、もう両手の指じゃ数えきれない。
俺が聖剣の彫り目に雷を通すたび、聖剣の刃は青白く脈打ち、前衛を固める西聖騎士団の聖印障壁に“ひび”が走る。そこへカタリナの盾壁が滑り込み、歯車みたいにかみ合って、崩れヒビを割って進む。背後ではエリシアの号令と布陣が兵の呼吸を揃え、緩んだ糸を即座に縫い直す。グラトスはただの檄屋じゃない。どの隊が限界かを鼻で嗅ぎ分け、紅蓮の壁と短い一声で背骨にもう一節の力を通す。
――それでも、戦場は常に“崩壊”の縁に立っている。一つの判断、一歩の遅れで線は裂け、そこから冷水みたいに
敵が流れ込む。張り詰めた糸の上を裸足で渡るような日々だ。
朝靄の奥で角笛が三度、応答で二度、間を置いて遠くで一度――重ねた合図が霧を貫く。見張り台の兵が喉を張り上げた。
「――王国援軍、到着!」
霧の帳を裂いて術式灯の光輪がにじむ。紺の外套、白銀の徽章、編成旗――波のように列が現れた。馬蹄がぬかるみを叩き、鎧の留め金がかすかに鳴る。先頭の騎手が手綱をきゅっと絞ると、馬は泥を跳ねてぴたりと止まり、鞍上の男がひと跳ねで地に降りる。
バルドだ。いつものメイスを腰にさし、頬に泥、目が冴えている。胸に拳を当て、腹から響く声を放った。
「団長グラトス様、ただいま着陣! 勇者ジーク殿、北聖騎士団長ランベール殿――術皇騎士団、参上つかまつる!」
「よく来てくれた!とグラトスが一歩踏み出し、馬上の列へ大きく手を振る。
「神話は今ここからでありますぞ! 術も声も余さず投じるであります!」
地が鳴った。槍の石突が一斉に湿土を打ち、野営地のあちこちで止めていた息がまとめて吐き出される。肩に載っていた見えない重りが、はっきりひとつ落ちたのが分かった。
隣でランベール――北聖騎士団長、腕は立つが無口な大男――が顎をわずかに引いて頷く。あの小さな動き一つで、隊全体の呼吸が揃った。
「助かる。西の斥候線がしぶとい。勇者殿の雷鳴と、勇者殿から聞いた“術皇の合唱”で前線の骨を折りたい」
「承知致しました」
エリシアは返事と同時に巻き皮の地図を開き、両端を文鎮で押さえて細針で三点を“とん、とん、とん”と叩く。
「ここ、ここと、ここが魔法障壁の“骨”です。術皇の陣形は“く”の字で差し込み、合唱の主旋は第二列に。
カタリナ、前に出す盾壁は四隊。『押し→絡め取り→押し→絡め取り』で交互に出し入れ、網を狭めます」
「任せなさい!」
カタリナが金剛盾をコン、と叩き、指で“4”を作る。背後の兵が短い気合で応え、足鎧が一斉に動いて列が入れ替わった。
術皇騎士団の陰からローレンとマルセルが顔を出す。もう“葡萄と酒”の二人じゃない。胸甲は磨き上げ、革紐は手に馴染み、動きに無駄がない。……元々素質はあった。今ようやく、顔つきに芯が通った。
「遠路ありがとな。お前らが背中を押してくれるのは、本当に助かる」
「はっ。アルトリウス陛下より“法国の異常は看過できぬ”との勅。全力で支援に参じました!」
士気がもう一段上がった――その時だ。
バルドの顔に影が落ちた。言葉の手綱を締め直す“間”が生まれ、喉仏がひとつ上下する。胸の奥で、嫌な鈍音が落ちた。
「……どうした?」
俺の問いに、バルドは口を開きかけて閉じ、深く息を吸ってから低く告げる。
「――勇者殿にお伝えすべき王都通達が一件。“暁の牙”なる集団が王国北方で帝国軍に蜂起。帝国七神将ヴォルグの麾下部隊と、勇者殿の生まれ故郷ミルテ村で衝突。『不死身を名乗る偽勇者』もろとも討ち取られた――との報です」
頭の中が真っ白になった。耳の奥で細い音が延々鳴り、舌が乾いて歯茎に貼りつく。自分の声が遠い。けれど口だけが勝手に動いた。
「……誰が、“偽勇者”だって?」
「名は記されておりませんでした。通達の記載によれば、栄皇騎士団到着時には村は既に壊滅しており、武装した遺体が散見されたため『近時、北方で貴族に対する反乱を起こし、“偽勇者”を旗頭として活動していた暁の牙と断定した』とあります。現地に残されていたのは、焼損した玉鋼の剣片と村の焼失痕、そして『村民もろとも暁の牙は全滅』とする記録のみでした。」
聞き終える前に、体が勝手に前へ出ていた。バルドの両肩を掴む。金属の継ぎ目がミシと鳴り、肩当てが悲鳴を上げる。指先が白くなっていくのが自分でも分かった。
「証拠は誰が集めた? 現地は誰が見た? 報告経路は? いつの話だ! ロイド宰相の確認は?!」
言葉が刃になって飛ぶたび、皮膚の内側で雷が荒く呼吸した。パチ、パチ、と小さな火花がバルドの肩甲の縁を走り、布の天幕に静電のざわめきが広がる。髪が逆立ち、視界の周囲が白くちかちか瞬く。
周りの空気が一変した。
槍の穂先がいくつも震え、金具が触れ合って細かい音を立てる。近くの馬がいななき、手綱を引いた従卒が尻もちをついた。
いつもは冗談ひとつで空気を和ませる“余裕の勇者”が、鎧の上から伝令を揺さぶっている――その事実が、野営地の隅々まで一瞬で走った。
「ゆ、勇者殿……!」ローレンが青ざめて手を伸ばし、マルセルも反対側から腕を取ろうとする。
グラトスが二歩で間を詰め、肩を入れかけて止まった。ランベールは無言で半歩滲み出る――だが、その手は宙で固まる。誰も、この“顔”の俺を見たことがない。
バルドの顔色がサッと引いた。喉が乾いた音を立てる。俺の握力に合わせて鎧の皮紐がキシ、と鳴り、肩がわずかに沈んだ。
「落ちついてください、ジーク様」
エリシアの声はいつもより低く、冷たい。細い指が俺の手に重なり、節と節の間を押して、力の逃げ道を作るようにそっと引き剥がす。
我に返って手を放した。バルドが小さく息を吐く。……やりすぎた。バルドに怒鳴っても、現実は一つも動かない。
エリシアは半歩前へ出て、いつもの実務の調子に戻る。
「通達の封蝋は?」
「軍務局印、紫。副署に栄皇騎士団副団長リュシアン。王印も宰相印もありません」
ランベールの目がわずかに細くなる。カタリナは奥歯を噛み、視線を落とした。
俺は額を押さえ、深く息を吐く。まだ指が震えている。視界の端で焚き火の赤が揺れ、波のように滲んだ。
(ミルテ村が……また帝国に狙われたのか。あの時ヴォルグを仕留め損ねた報いか。“不死身”――カミナ? “偽勇者”だと? 誰がそんな烙印を押した。……俺はまだ、勇者として何ひとつ取り返せていないのに)
エリシアは一本一本、糸を解くように続ける。
「軍務局単独の通達は“間違った報告”も多い。いま北部前線ではダリウス将軍がバステリア防衛中だと聞いてます。その中、帝国が大兵力でミルテ村へ迂回し、斬り込む余裕は薄いはず。ロイド宰相からの裏取りも来ていません。――この報せは“疑義あり”。情報は私が並行で洗います。今は法国の線を守り、足場を作るのが最優先です」
喉が焼けるように痛い。けれど、声は出た。
「……いや、これは見過ごせない」
バルドが足をもつれさせ、膝をつきかける。顔色は蒼白だ。まずい。仲間を傷つけてどうする。反射的に聖光で循環を整え、肩を支えた。ローレンとマルセルが左右から抱え、ほっと息を吐く。
(俺は何をやっている。仲間を怒鳴って、縋って、それで救える命はひとつもない。今やるべきは――)
「勇者殿」
グラトスが正面に立った。いつもの粗野な笑みじゃない。生まれついた王族の目をしている。
「某も、兄上からジーク殿がミルテ村出身で、双子の出生であった話を聞いております。帝国が討った“不死身の勇者”……もしそれが、双子の弟御のことなら。知らせを受けて取り乱すのは当然。しかし、ここで勇者殿が抜ければ法国は魔族に飲まれます。栄皇騎士団ダリウス将軍は、判断力もあり、なにより武力は信じられる男。帝国方面は彼に委ねましょう。
――それでも今すぐ確かめに行くおつもりなら、こちらの指揮は某に。術皇の力、勇者どのとの戦いで十分に覚醒しました。戻られるまで、命に代えてでも線を守ります」
カタリナが俺の背をドン、と叩く。甲冑越しでも骨に響く一撃だ。
「ジークとは一年程共に戦った。仲間だと思ってるからこそ、冷たい言い方するわ。私も父を殺された。その戦場では一手の遅れで決まった。あんたの弟が、生きてるか死んでるかは、いずれ自分の目で確かめればいい。でもいま、確かめにいったところで結果は変わらないわ。
ていうか、あんたの双子の弟は“ただで死ぬ奴”なの? 血を分けたあんたが一番知ってるでしょ。なら今は信じなさい。
――助けられる命が目の前にある。背負ったものを放り出すなんて有り得ないわ」
胸の真ん中に重い石が落ちた。波紋は大きい。苦しい。怖い。悔しい。けれど、逃げ場はない。皆が言っている事はわかる。思考がブレる。
バルドが膝を折るほど深く頭を下げる。
「詳細を持ち帰れず痛恨に存じます。しかし、術皇の兵は総て勇者殿のために振るいます。命も剣も、ここにお預けします」
北聖騎士団の警戒笛が鋭く鳴いた。
西の先遣が、もう一度ぶつけに来る――。
ランベールが俺を見る。
(……今はこっちだ。俺がいなくなり、ここを崩せば法国が落ち、王国も沈む。やるしかない)
俺はうなずき返す。ランベールは手袋をきゅっと締め、短く吠えた。
「――全隊、展開!」
号砲。土に刻んだ術式円が次々と灯り、紋が線になってつながる。合唱の起点音が低く震え、空気の皮が一枚めくれるみたいに圧が変わった。
俺は聖剣クサナギを抜く。刃の彫り目に沿って雷が走り、青白い火花が霧粒を弾く。
エリシアが風を立てて合図旗を切り、隊列の“骨”を素早く組み替える。
カタリナの金剛盾が前列をずんと押し上げ、交互に噛み合う壁が道をこじ開ける。
背後ではグラトスが術皇騎士団に掛け声を飛ばし、呼吸と足並みを揃えさせる。
バルドは中列で合唱魔術の拍を取り、ローレンとマルセルが左右の端を締めて崩れを許さない。
雷鳴を刃に通す。
「行くぞ」
霧が裂け、俺たちは前へ出た。
(待ってろ、カミナ。魔族を倒し、帝国の影があっても、全部斬って進む。 だが今、俺の雷は、この線を守るためにある。お前が生きているなら、必ず辿り着く)
雷鳴が轟いた。霧が裂け、前線が押し出される。俺たちは法国の霧へ、もう一段深く踏み込んだ。
――一週間ほど経った夜更け。
術皇騎士団が来てから、流れは確かに変わった。合唱魔術が兵の背骨を支え、前線の揺れを最小で止めてくれる。
何より、みんなが限界の一歩手前で踏みとどまってくれるようになった。その積み重ねで形勢は逆転し、いよいよ“法国の神殿へ打って出る”作戦を詰めている――
だが、エリシアが王都へ走らせていた伝令の返書が届いた途端、天幕の空気は湿った。油が染みた布の匂いと、溶けかけの蝋の甘い匂いが重なる。粗い卓に木枠で挟んだ羊皮紙。エリシアが四隅に小さな重しを置いて広げる。文体の癖、句読の置き方、余白、封蝋の色――どれも宰相ロイドの様式だ。
エリシアは糸をほどくように、淡々と告げる。
「結論です。出来事そのものは起きています。ただ――“誰がやったか”を示すものが何もありません。
一つ。件の通達は軍務局名義で、副署は栄皇騎士団副団長リュシアンのみ。王印も宰相印もありません。
二つ。栄皇騎士団以外の目撃がゼロです。関所台帳、烽火、宿場の記録――帝国兵の該当する通過は確認できません。
三つ。現場の痕跡が薄すぎます。村の焼痕のみで、血痕・魔法残滓が、掃き取ったように消えているとのことです。
以上から確かな事実は、『暁の団が消えた』『“不死身の偽勇者”と呼ばれた者も所在不明』――このニ点だけです。証拠が無さすぎて不自然。意図的な痕跡消しが行われた可能性が高いと見ています。
宰相からの正式な返答は“調査中”の一語のみ。情報線は私どもでも引き続き洗います。今は法国戦線を崩し、次に進む足場を作ることを最優先にすべきです」
「……分かった」
しばらくまともに寝れていない。声が掠れていた。紙から手を放し、天幕の裂け目に目をやる。低い雲の向こう、遠い稲光が一度だけ空の裏側を白く撫でた“気がした”。
喉の奥で、同じ調子の小さな音が跳ね返る。
ーーー
その夜、また俺は眠れなかった。寝転ぶ気になれず、前世の妹レイが使っていた聖剣クサナギを、ただ黙って握りしめていた。
天幕の口が開き、カタリナが顔を出す。鎧は脱ぎ捨て、薄い上衣の下で呼吸に合わせて胸元がわずかに上下する。濡れた前髪が頬に貼りつき、指で払う仕草が艶めく。それでも視線はまっすぐ、戦の刃を帯びたまま。
天幕の薄闇で、俺はカタリナの姿を見て思わず固まっていた。
カタリナは躊躇なく近づき、俺の指を一本ずつ剥がすみたいにほどいていく。
「ほら。指先、真っ白。血が止まってるわよ」
彼女は聖剣をそっと取り上げ、脇へ置いた。
水浴びでもしたんだろう。しっとりした前髪を耳に払って、膝を抱え俺の正面に座り込む。
「アンタが悩んでても救える命はない。だから、今はなにも考えず寝るの」
「……でも」
「“でも”禁止」ぺち、と指先で俺のおでこを軽くはたく。
「あなたが今やる事教えたげる。悩まずに寝る。弟は信じ。法国を守る。はい、復唱」
「悩まずに寝る。弟は信じる。法国を守る……」
「よろしい」
カタリナは力強く俺を抱き寄せた。香の気配と肌の匂い、確かな体温。
「ジーク、思ってる以上に皆あなたを頼ってるの。……私も。エリシアも」
背を一定のリズムでトン、トンと撫でられ、余計な力が抜けていく。
指の震えが静まり、胸のざわめきも浅くなる。
「心配してるわ、全員。――大丈夫。私がここにいる」
「明日、私が前で盾になる。ランベールも、グラトスも、エリシアもいる。アンタは“いつもの飄々とした勇者”を通せばいい。泣き顔はね、男は一回だけ。それに出来れば、嬉し泣きが理想ね」
思わず笑って、肩の力が抜けた。
カタリナも口の端だけ上げると、俺の額に自分の額をコツンと当てた。
「寝る。命令。――勇者ジーク」
「……了解」
彼女は立ち上がり、脇に置いた聖剣に視線を落としてから振り返る。
「その剣、大分気に入ったみたいね? 明日も大活躍してもらうわよ。だから、今は置いときなさい」
天幕の裾がもうひと揺れ、ぺし。
香の気配とカタリナの匂いが薄く残り、体にはさっきの温かさがまだ残っている。
幕をくぐった瞬間――
「きゃっ、驚かさないで! エリシア、のぞき? 趣味悪いわね」
「のぞいてません。報告が――」
「報告は明日! 今日は私がケア担当。エリシアも寝る!」
「待ってください、私だって――」
どたどたと離れていき、静けさが戻る。
俺は寝台に沈み、長く息を吐く。胸の底で雷が小さく転がり、まぶたが落ちた。交代の鈴が一度。遠くで兵の咳がひとつ。霧雨は夜になっても薄まらず、天幕の外をいつまでも湿らせている。
目を閉じれば、もう一つの時間が立ち上がる。
――学生服の“ヒカル”、漫画に顔を埋めて。
――土手の“カミナ”、木剣で空を切る。
村の丘の草いきれ、道場の匂い。ぎこちない構えで笑って転び、土の手で鼻をこする。父さん(ガイ)は足幅を直し、母さん(リーナ)はため息をついて手を拭う。
あの時間に、もう二度と触れられないのか――胸がきしむ。だが、いまこの瞬間にも守れる命がある。法国の線を支えて、次へ進む足場を作る。カミナが生きているなら必ず辿り着く。そうでなくても、真相はこの手で掴む。
レイも救えず、カミナまで失ったと認めるわけにはいかない。
ここで折れたら、何も取り戻せない。
「……負けない」
「負けてたまるかよ」
誰にでもなく呟く。
……頭の中でカミナの声が重なった気がした。




