四十二、赤の外套と黒い板
朝稽古をひと区切り。肌に残る塩気を拭う間もなく、ゼクスとリリスが「武具の見直しと外套の購入だ」と言って、帝都の鍛冶屋と仕立て屋の並ぶ通りへ俺を引っ張っていった。
最初に連れていかれたのは衣装通り。ここはいろんな意味で戦場だ。
染め釜の湯気が通りの上でふわっと揺れて、絹の反物が風を受けてシャラシャラ鳴る。肩章、留め金、紋章布。店先から飛んでくる呼び声が何層にも重なって、まるで闘技場の歓声みたいに耳を打つ。
「恐らくカミナは、闘技場での活躍次第で黒曜騎士団への配属が期待できます。外套も揃えましょう。黒で統一が妥当です」
ゼクスがさっと黒の外套を二枚つまみ上げて、布の密度や落ち感を親指で確かめる。うん、相変わらず“合理の人”。迷いがない。
すかさずリリスが被せる。「黒い鎧に黒い外套なんて、映えませんわ! 殿方の美学は尊重しますけれど、闘技場では“誰の目にも止まる”ことも実力のうち。せめて――赤ですわ!」
「リリス。アルベリオ様の前でも、同じことが言えますか?」
「もちろん言えますわ。アルベリオ様は黒がお似合い。でも人には人のカラーがございますの! カミナは若い。鎧は黒でも、外套は鮮やかな方が観客席に届きますわ」
「……アルベリオって誰だ?」
つい口にすると、ゼクスが肩越しにこちらを見て簡潔に教えてくれた。
「アルベリオ=カイン。年は七十ほど。帝国騎士団の黄金期を作った伝説の方で、全盛期は女帝アマーリエと並び称された剣士。破剣式の“超級”。黒曜騎士団の現団長です。魔法は使いませんが、いまも前線で剣を振るう誇り高い方。最近は老いを悟られ、己の剣を“未来に譲る後継者”を探しておられる」
(……超級で、女帝と肩を並べた……)
胸の奥で、煉獄の焔がチリ、と鳴った。あの金装の間の圧の中で、剣一本で隣に立ち続けた男がいる。想像しただけで腕が疼く。
「ほら、こう」
リリスが赤い外套を俺の肩にふわっと乗せる。鏡に映るのは、黒い鎧に赤の差し色。場の空気がそれだけで明るくなる。
「ね? 黒に赤は英雄の背中。縁は金……いえ、カミナなら銀が似合いますわ。留め具は二重にして、戦いの前に片手で外せる構造。裏地は紫紺か浅い藍……どちらも捨てがたいですわね」
(黒でよくない?)……と思ってたけど、目の前で赤が風を掴むと、確かに観客のざわめきが耳の奥で立ち上がるのを想像できる。――これが“映え”ってやつか。
「……赤にしようかな」
「ご覧なさい!」
リリスは勝ち誇ったみたいに指先で布を弾く。ゼクスは「ぐぬ」と小さく歯噛みして、それでも最後には頷いた。
「縁取りは銀。団章は所属が決まった後で。実用仕様は僕が詰めます」
「外套はわたくしが仕立て屋へ。ゼクスは留め金の構造を」
勢いのまま、肩幅だの背丈だの肘の角度だの、二人に片っ端から測られる。いつの間にか通りの店先が舞台になっていて、俺は真ん中で踊るマネキン。……正直、おしゃれは分からん。耳の後ろがちょいむず痒い。
買い物を終えて通りを抜けると、鉄と炭の匂いが濃くなる。鍛冶屋の列だ。炉の口が橙に呼吸して、金床の音が一定の拍で刻まれていく。打つ、返す、打つ――。耳の奥のどこかが、そのリズムに合わせて落ち着いた。
オレは足を止め、玉鋼の黒い胸板に手を当てる。
「……まだ、もっと鍛えたいな」
「カミナは鍛冶も得意でしたね」ゼクスが頷く。「闘技場で勝てば報奨金が出ます。それで工房を買えばいい。工省の外郭に貸し工房もあります。設備の良し悪しは、僕が見ます」
「それなら、奴隷を雇ってでも自分で工房を回すべきですわ」リリスがまっすぐ言う。
「腕はあるのに行き場のない者は多い。契約を結んで働かせ、衣食住の保証と引き換えに技を磨かせる――帝都では珍しくありません」
「……そんなこと、できるのか」
胸の底に、細い迷いが走る。
奴隷。王国で腐れ貴族に踏みにじられた村人の顔が浮かんだ。拘束、搾取。あれを、俺の手でなぞるのか――。
「奴隷は許したくない。けど……少しでも俺が雇って“抜け出せる”ようにできるなら、ありか……?」
言葉は砂利みたいに重くて、口の中で鳴った。
ゼクスがまじめに頷く。「“解放条項”付きの契約が存在します。『勤続10年で自由民に』『違約金は雇い主が負担』など。抜け穴も多いですが、こちらが本気で救う意志で運用すれば、出口になる」
リリスは横顔だけで微笑む。「カミナは玉鋼の加工が得意なんですもの。カミナが工房主になって“働けば自由になれる玉鋼”を広めれば、人は勝手に集まりますわ」
(働けば、自由――)
復讐の火は消えない。でも、別の火が隣で灯るのが分かった。守るための火。手を差し出すための火。
「……いいな。勝って、手に入れて、自分でみんなを動かす」
暁の牙のジルヴァンとセリオスの背中が、ふっと浮かぶ。
その時だ。通りの向こうから、香ばしい匂いと、場違いな独り言が近づいてきた。
「おいしい……けど、もうちょい塩……いや、甘いタレで正解か。んー、“七分焼き”くらいだなぁ……」
人混みをかき分けて現れたのは、小太りで小綺麗な少年。年は俺と大差ない。濃藍の作業外套に真鍮ボタン、下は白シャツと薄革の胸当てベスト。袖口は作業用にまとめ、指なし手袋。額には小型の保護ゴーグル。腰には薄い工具ポーチ。胸元では〈学士院付/工省外郭〉の真鍮札が鈍く光る。片手に串焼き、もう片方には――革手帳“みたいなもの”。
その“手帳”の縁を親指で撫でるたび、内側でふっと光が走り、ピッと短い音。指の運びが迷いなく、癖になっている。
二度、三度――俺は無意識に息を止めた。あの質感、角の丸み、手の馴染ませ方。前の世界で、毎日触っていた。
「……スマホ!?」
喉が勝手に鳴った。
「マ、マジっ……!」
少年がこちらを見る。次にゼクスとリリスを確認すると、目をぱちぱち。
「リ、リリス様……? あ、いや、“マジ”とか言うなって姉ちゃんに言われてた……」
リリスがぱちりと瞬いて、扇の代わりに指を揃える。「あら? やっぱりマーク? 久しぶりですわね。クロノは元気?」
少年――マークは慌てて串を紙で包み、外套の裾をさばいて礼。丸い頬にでっかい目。十六くらいの輪郭に、子どもの影がちょっと残ってる。
「ご、ご無沙汰しております、リリス様。ゼクス様は初めまして……。姉ちゃんは元気。いまは王国のヴェルデンに。自分も、帝国に“ぜひ”と言われて、学士院付きで工房通いの滞在中であります」
「姉ちゃん?クロノ?」ゼクスがわずかに眉を上げる。リリスはにっこり。
「クロノにも会いたかったのに……って、そうでした。その手の“板”、何ですの?」
俺は彼女の言葉を追い越して半歩前へ出る。
「それ、スマホだろ」
マークの目が小さく揺れた。串の手を下げ、もう片方――“革手帳”を胸元へ引き寄せる。画面は黒に落ち、ただの帳面の顔に戻る。
「な、なんで分か……いや、そっか。もしや……姉ちゃんと同じ……?」
喉まで出かかった言葉を、飲み込む。なにか隠している様子だがわかりやすいタイプの様だ……。姉が転生者か?リリスの目が好奇心で光り、ゼクスは通りの喧噪の中でも微細を逃さない観察者の目。
マークが決めたように、指先でピッ。刹那、数字が走る――ストップウォッチ。すぐに黒へ。
「これは姉ちゃんがくれた、ちょっと特殊な“時計兼メモ帳”です。教わったことは全部ここに入れてます。音も、絵も、数字も……それから辞書も。ボクは、忘れっぽいので。落としたら大事ですから、こうして握ってないと不安で」
「メモ帳が紙ではなく、黒鏡に文字が浮かぶ器具……初見です。さすがマーク・ソーカ」ゼクスが低く評する。
「普段は人前で出しません。ただ……焼き加減を“秒”で見たくて」
「食材ですら秒で焼き加減を……」ゼクスの口元がわずかに緩んだ。目だけが笑っている。
胸がいっぱいだった。懐かしさ、驚き、そして少しの恐怖。帝都の真ん中で、その黒い板を見せる危うさ。――“異端”って言葉が、どこかで鈍く光る。
「おい、あんたら、そこで立ち話かい? 邪魔だよ!」
荷車の親方に怒鳴られて、俺たちは道の端へ寄った。マークは外套の胸で“手帳”を押さえ、もう一方の手で口元を布で拭う。聖典を抱えた侍祭みたいな仕草で、ちょっと可笑しい。
「姉ちゃんに怒られるかなぁ……“帝都で使うな”って言われてるし。いや、言われてるどころじゃない、“バレたらボクの大事なもの永久没収”って……」
「相変わらずですわね、クロノ」リリスが肩を震わせる。「でも、ちくったりしませんわ」
ゼクスが短く頷く。「場所を変えましょう。……マーク、帝都には滞在中と言いましたね。工房は?」
「今迄の事業は後任に任せ、貸し工房を新しく借りました。外郭の安い区画。設備は微妙です。広さはまぁまぁ。炉があるのですが……温度ムラがひどい。最近は走輪車(自転車)の派生から荷車や軍で使える物がないかと、相談が増えてます。正直軍で使うような“人を傷つける道具”は気が進まないんですが、防具・搬送・救助に繋がるなら全力でやりたい。ゼクスさんの炎の知恵を借りられたら最高です」
「話が早い」
ゼクスがこちらを一瞥。(丁度いいじゃないですか)って顔。道筋を引く話になると、彼は誰より饒舌だ。
俺はその横顔を見ながら、赤い外套の裾をつまんだ。さっきまで“映え”だ何だと言っていた布が、別の意味を持ち始める。
――旗印。仲間の印。ここから増える。工房、玉鋼、盾、鎧、兵器、そしてマークの黒い板。どれも、俺の戦いに必要だ。
「マーク」
呼びかけると、彼は背筋をピンと伸ばした。
「オレはカミナ。たぶん君の姉ちゃんと同郷だ。オレの鋼を扱う鍛治の知識も、少しは君の発明の役に立てると思う。その代わり――しばらく俺たちに付き合ってくれ。闘技場で勝つための“装備”が欲しい」
マークは口の端を上げ、外套の裾を翻す。真鍮の許可章がチリと鳴った。
「わ、分かりました。ぼくで役に立つなら。人手もこれから集めようと思っていました。工房も広いので共同で開発しましょう。『姉ちゃんメモ』、山ほどあります。……カミナさん、この”手帳”をご存じなんですよね?」
「ああ。俺はその”手帳”を、電波が生きてる場所で使ってた」
リリスがじっとこちらを見る。「なんだか要領を得ませんけれど……カミナ、その板のこと、ご存じでしたの?」
マークは息を整え、丁寧に一礼した。
「とりあえず、ぼくの工房で。ここじゃ目立ちます」
赤い外套がもう一度、風を掴む。通りの騒がしさが一瞬だけ遠のいて、鍛冶屋の金床の音だけが、はっきり耳に残った。
――勝って、資金を手に入れて、“働けば自由になる玉鋼”を回す。復讐の先に、つなぐ火を作る。今は、その第一歩だ。




