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雷の勇者と鋼の英雄 〜世界を変えると誓った兄弟は、やがて敵対する〜  作者: ちぇ!
帝国編 ーーカミナの復讐

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三十八、国境を越えて

王国北西――国境線に張り付くように広がる、ミントス通商倉街。


“街”と呼ぶには倉庫が多すぎて、“都市”と呼ぶには育ちきっていない。

石畳の両脇に積み上がるのは家じゃなく、倉庫だ。荷、荷、荷。板張りの巨大な箱が並び、番号札がぶら下がり、木箱の隙間をすり抜けるように人が流れていく。


帝国の鉱山都市ザルドフェルンから流れ込む鉱石は、いったんここで積み直される。札を付け替えられ、帳簿の名前を変えられ、王国の奥へ溶けていく。

田舎のくせに荷馬車と商人が絶えず、表通りだけは“仕事”で賑わっていた。


北門をくぐれば帝国。

たったそれだけで、この街の空気は王国の他所と違う。


露店が連なり、串焼きの煙が鼻を刺し、香辛料の匂いが喉に絡む。値切り声が飛び交って、銀貨が鳴る。

……なのに、いちばん目に刺さるのは、飯でも金でもなく――看板だった。


剣、槍、弓。武器の扱いを教える道場。

破剣、鏡盾、迅玉――三流派の看板を掲げた道場。

倉庫の隙間に、雑草みたいに生えている。


で、呼び込み文句がまた、狂ってる。


《三日でできる門番の殺し方。初心者歓迎》

《盾も武器になる。破盾式・短期仕込み》

《“正義”は不要。“勝ち方”に拘る迅玉講座》

《鞭教えます。今日から君も“奴隷刈り”に》

《無料体験あります(※骨折は自己責任)》


……いや、待て。


「おい。これ……誰も取り締まらないのか?」


口にしたオレに、ゼクスが肩をすくめた。

いつもの顔。いつもの声。感情は薄いのに――ゼクスが落とす“現実”は、いつだってやけに重い。


「取り締まれないんだと思います」


「なんでだよ。教えてるもんが、ほぼ犯罪の匂いしかしねえ」


「ここは“通商倉街”です。荷と金が集まる場所には商人が集まり、護衛も集まる。――そして揉め事も集まります」


淡々と言い切る。


リリスも当然とばかりに顎を上げた。

背筋がすっと伸び、立ち姿だけで妙に優雅だ。雑踏の中でも、こいつだけ浮いて見える。


「揉め事があるなら腕の立つ者が必要ですの。腕の立つ者が必要なら道場が増えますわ。道場が増えれば門下生を増やす為に――」


ぱん、と扇子でも叩きそうな勢いで看板を指差す。


「看板はより過激になりますわ!」


……風に揺れた看板が、まるで誇らしげにギシ、と鳴った。


「理屈は分かったけどさ……“三日でできる門番の殺し方”って、理屈の外だろ」


「外じゃありませんわ。現実の内側ですもの」


即答。こえぇよ。


ゼクスが補足するように、静かに続けた。


「帝国が近い。倉庫街は人が出入りする。護衛は常に足りない。だから“すぐ使える腕”が売れる。売れれば増える。――結果、こうなるんでしょうね」


目の前で《破盾式・短期仕込み》が鎖を鳴らして小刻みに踊った。

破盾式なんて聞いたことがねえ。盾を武器にする流派? 投げるのか? 叩くのか?

……気になってる時点で負けた気がして、むかつく。


オレは舌打ちして、口の中の苦さを噛み潰す。


「帝国が“力が正義”を掲げるなら、その隣で生きる街も、否応なく力に寄せて形を変える……ってことか」


「ええ。国境ってのは、そういう場所ですわ」


リリスは勝ち誇ったみたいに頷く。

なんで誇れる。帝国はこんな街ばかりなのか? こっちは胃が重い。


ゼクスが、さらに嫌な現実を落とした。


「王国南方、法国に近い村は教会だらけだって言います。あそこは“神の声”が正義ですから。……国境は、どこも隣の国の影響を受けるんでしょうね」


なるほど。

北のミントスは鉱石と金で、帝国の“力”を輸入してる。

南は祈りと教義で、法国の“信仰”を輸入してる。


――国ってのは、地図の線で分かれてるんじゃない。

端っこから、じわじわ侵食されていく。


ふと、前世の記憶が鼻先をかすめた。

島国の日本じゃ、国境なんて海に溶けてて、意識する場面がほとんどなかった。


ヨーロッパの国境って、こんな感じなのかな。

街ひとつまたぐだけで、空気の成分が変わるみたいな。


「……めんどくせえ世界だな」


つぶやいたら、リリスがなぜか嬉しそうに笑った。


「ええ! だから面白いんですわ! 私、お父様の許しを得たら世界中を旅したいと思ってますの!」


ゼクスは、うっすらため息をついた。


「姉さん。面白くはないでしょう。それに、父上の許しは――……」


言いかけて咳払い。切り替える。


「……まず通過しましょう。国境はこの先です」


歩きながら、胸に刺さるものがあった。

会話の内容じゃない。自分自身の情けなさだ。


――オレ、この世界のこと、知らなすぎる。


復讐を果たすにしても、生き残るにしても。

まず要るのは力より先に、知識だ。


オレは黙って歩き出した。



北門の前だけが、妙に開けていた。検問所。

盾皇騎士団の紋章をつけた兵が七、八名、槍を持って並び――“形”だけは作っている。


だが、形だけだ。


鎧の紐は緩み、槍先は地面に預けられ、目つきが死んでいる。

国境だぞ。門の向こうは帝国だ。いつ牙を剥いてもおかしくない国だ。


それなのにこいつらは、槍を持って立ってるだけで「仕事した気」になってる。

守ってるのは国じゃない。自分の体力と、小遣いだ。


リリスが前へ出た。背筋を伸ばし、澄ました顔で書類を差し出す。

王国兵はじろりと荷馬車を睨み、わざとらしく鼻を鳴らした。


「商人一行か」


商人。

……いや、無理がある。


どう見ても“兵の中隊”だ。

装備の擦れ方、歩幅の揃い方、止まるときの間合い。全部が揃いすぎている。

護衛なら、ここまで綺麗に揃わない。人間の癖が出る。

こいつらは癖を消してる。――戦の匂いがする。


隠しようがない。

……いや、そもそも隠す気がない?


そう思った瞬間、ゼクスが横で“にこり”と笑った。

笑顔は柔らかいのに、動きが妙に手慣れている。隊長格の兵士の手へ、何かをそっと滑り込ませた。


一瞬のぞいた“それ”が、日差しを噛んでピカリと光る。

――金貨だ。


兵は当然みたいにそれを受け取り、重さを確かめるでもなく懐に沈めて――


「……通れ」


それだけ言って、短く顎で合図した。


門が開く。荷馬車がきしみ、兵が道を空ける。

信じられないほど、あっさりだ。


(……は? これで、いいのかよ)


喉の奥が熱くなる。

思い出したくもないのに、村が襲われた時の光景が蘇る。


金貨一枚で通れる国境。

焼かれた村の民が泣き叫んでるのに、王国の兵は賄賂ひとつで目を逸らすのか。


胸の奥が、ぐつぐつ煮えたぎった。


「……王国は、腐ってやがる」


気づけば漏れていた。

言葉にしたぶん、苦さだけが濃くなる。


ゼクスがちらりとリリスを見る。ほんの短い目配せ。

次の瞬間には、もう何事もなかったみたいに歩き出していた。


(……なんだ?)


リリスはそれを受け取ったのか、口元だけで笑って言う。


「王国なんて所詮そんなものですわ。血筋ばかりで、人の価値なんて見ていませんもの」


軽い口調。だけど軽さの奥に、刺すような毒があった。


オレは唇を噛んだ。

怒りじゃない。――悔しさだ。


帝国から見た王国は、きっとそんなもんなんだろう。

そして今のオレには、それに反論する言葉がひとつも出てこない。


頭の中を探っても、“誇れるもの”が見つからない。

出てくるのは、税で腹を太らせた貴族の笑い声と、税で背中を丸めた農民の顔だけだ。


……くそ。


憎しみを向ける矛先が、どこにも定まらなかった。



帝国側の検問は、空気が違った。


砦の門前に立つ帝国兵は、まず“立ち方”が違う。

槍先は地面に預けない。視線は泳がない。鎧の紐一本まで締まっていて、動きに無駄がない。


列が近づくと、兵の目がひとりずつを“切って”いく。

顔、手、荷、馬、車輪――順番が決まってるみたいに視線が滑り、止まるべきところで止まる。


王国兵みたいな、ねちねちした品定めじゃない。

愛想はない。けれど――秩序がある。


視線は冷たいほど均一で、誰にも同じ角度で刺さる。

商人だろうが兵だろうが、子どもだろうが関係ない。

「ここは帝国の検問所だ」とだけ言っている目。


リリスが差し出した書類は、丁寧に捌かれた。

印章、署名、日付。札と積荷。視線が一つも遊ばない。


確認が終わると、


「ご苦労さまです」


短い労い。

それに合わせて、兵の敬礼が揃う。揃いすぎて気味が悪い。


終わりだ。

通行許可。門が開く。無駄がない。


……だけど。


通り抜けた瞬間、視線がオレの背中を“舐めた”。


「あの大剣、ただの飾りじゃねぇな」

「背中から滲む闘気……あれは本物だ」


囁きが耳に刺さる。

王国の“軽薄な腐り”とは別の――別種の圧。

ここは金じゃなく、力を見る場所だ。


ゼクスが、歩みを崩さず静かに言った。


「基本は名簿の照合だけです。条件を満たしていれば、誰でも通す。――来る者は拒まない。それが帝国のやり方です」


リリスは顎をしゃくり、冷たい笑みを落とす。


「才無き者は沈み、才ある者は這い上がる。――それだけの掟ですわ」


一拍置いて、こちらを見る。


「ね、カミナ。この帝国では――王国よりずっと、努力と才が埋もれにくい。あなたには、きっと帝国の方が合いますわ」


(……努力と才が、埋もれにくい)


たしかに。

血筋や賄賂や税で線を引いて、“正しい顔”で踏みつける王国より。

力で殴って、殴ったぶんだけ“正直な顔”をする帝国のほうが、筋は通って見える。


胸の奥がざらつく。

王国は血で地獄を決める。帝国は才で地獄を決める。

決め方が違うだけで、落ちる側に救いがないのは同じだ。


――それでも。


オレは思ってしまった。

血筋より、才能が報われる世界のほうがいい。

そこからしか“平等な世界”なんて生まれないんじゃないか、と。


王国で”革命”をやろうとした。

だから暁の牙に入った。理想を、牙にした。


でも現実は、牙なんかじゃ届かなかった。

貴族の軍隊。金。権力。数。

正しさを叫んだところで、最後に残るのは“踏み潰された音”だけだった。


――じゃあ、順番が違ったんだ。


まず力だ。

平等を掲げる前に、掲げた旗が折れないだけの“棒”が要る。

握りつぶされないだけの重さが要る。


王国じゃ、血筋が壁になる。

生まれで決まる。どれだけ足掻いても、最初から天井がある。

……そこに挑んで、オレは折れた。


でも帝国なら。

綺麗ではない。むしろ汚いのかもしれない。弱い者には容赦がないだろう。

それでも――力があるなら、上に行ける。

“奪い返す位置”に立てる。


(……帝国で力をつけて、そこから奪い返す)


それが、復讐の先に残る“次”へ繋がる気がした。



街道を進んでいたとき、岩壁が――割れた。


最初は錯覚だと思った。

岩肌が、ずるりと“生き物みたいに”動いたのだ。


次の瞬間、鱗。

爪が石を削る嫌な音。

岩の中から、巨体が這い出してくる。


「岩竜蜥蜴――ストーンリザードだ!」


帝国兵の叫びに遅れて、咆哮が来た。

空気が震える。喉の奥まで振動が刺さって、胃がきゅっと縮む。


二体――いや、見えるのが二体、だ。


(……でけぇな。冗談みてぇだ)

でも前に出たゼクスの背中を見た瞬間、笑えなくなった。


「僕が受けます!」


盾を構えた姿勢が、“受ける”というより“整う”に近い。

呼吸、重心、視線。全部が揃っている。


一体目が突進してくる。岩の塊みたいな質量が正面から――


――ぶつかる。


はずなのに。


ゼクスは微動だにしなかった。

鏡盾式。衝撃の“向き”を抜いて、流して、地面へ逃がす。

巨体が、まるで最初から逸れる運命だったみたいに軌道を変える。


さらにゼクスが、剣の縁に紅い光を走らせる。


「紅き炎よ、地を舐め、全てを灰へと還せ――《紅蓮焔陣》!」


ズワァァァッ――!


地を這う炎が広がり、熱風が頬を叩いた。

目の奥が痛い。肺が一瞬だけ息を嫌がる。


「今ですわ!」


リリスが槍を突き出す。

蒼氷が走り、リザードの片目が白く曇った。


「離れろ! オレが止めを刺す!」


ガイアブレードに煉獄闘気を噛ませる。


「轟鋼断――!」


縦に落とす。

刃が地形ごと割って、巨体が“沈む”。

腹の底まで響く音だった。


残った一体は、炎と氷の圧に怯んで様子をうかがう。


(……いける。次で終わる)


そう思った直後。

荷馬車の脇、影の溜まった岩陰が動いた。


「ちっ、こっちにも――!」


もう一体。

さっきまで岩のフリでもしてたんだろう。


(いや待て。何体いるんだよ)


オレは踏み込んだ。今なら刈れる――と判断した瞬間。


足元に“影”ができた。


「……え?」


横じゃない。下だ。

地面が口を開けていた。最初からそこが“穴”だったみたいに。


ストーンリザードは、しれっとガイアブレードを置き去りにして――オレだけを丸呑みにした。


(あ、終わった)


熱い。粘つく。息が詰まる。

サウナの中に濡れた毛布を詰め込んだみたいな圧。


外から声がした。


「カミナ殿!?」

「飲まれたぞ……」

「まじか……まだ若いのに……」


うん。オレも死んだ。

そう思った。

思ったんだが――


「……足が歯に挟まってる……!」


(……あ。足、引っかかってんのか)


半身は中へ。右足だけは外へ。

中途半端に“生きてる”のが一番気持ち悪い。


光が一瞬だけ差し込んで、すぐ消えた。

口を少し開けたんだろう。呼吸のために。


(くっそ……剣さえあれば……!)


脱出しようと暴れてみる――が、力が入らない。

粘膜の圧が身体を締めつけ、口の中の柔らかさが踏ん張りを奪う。


直後、下から“ぬるい圧”が来る。

何かが、歯の隙間からオレの足を押し出そうとしていた。


……やめろ。

その動き方は反則だ。

変な意味で鳥肌が立つ。  


ねちゃぁ――。


ぬるい圧が、足を“ずらした”。


(まずい! この位置で歯を閉じられたら――)


ガチン。


――ブチッ。


嫌な音。

右足が千切れた。

痛みが来るより先に、脳が冷えた。

その次に、遅れて激痛がきた。


「ああああああああああッ!!」


叫んだ声が反響して、自分の声が気持ち悪い。

ここはライブ会場じゃない。ソロ公演も望んでない。


――でも。


叫んだ瞬間、煉獄闘気が勝手に噴き上がった。

赤黒い熱が腹の底から煮え返る。

切れたはずの場所が、じゅわ、と塞がっていく。


(……今、再生してる)


冷静に考えると最悪にグロい。

いつも無我夢中で、見ないふりをしてただけだ。


いつぞや討伐した盗賊の頭がオレを「化け物」と呼んだ理由が、今なら分かる。

こんなの普通の人間が見たら悪夢だ。


外の匂いが流れ込んできた。焦げる匂い。氷を呼ぶ詠唱の呪文。金属が鳴る音。兵の掛け声。

――みんな戦ってる。


しばらくして、口の中の力が抜けた。

倒したんだろう。圧が減る。


「うおおおおおッ!!」


オレは内側から、素手で、口の縁をこじ開けるように押し返した。


そして。


ズルンッ!!


鼻先あたりから、ぬるっと外へ出る。

地面に転がる。空気がうまい。

ベトベトだ。リザードの匂いと焦げた匂いが混ざって、現実が戻ってくる。


顔を上げると、リザードは全部倒れていた。


……正直、オレが張り切らなくても、対処できたんだろうな。

そう思った瞬間、妙に恥ずかしい。


で、周りを見る。


帝国兵たちが固まっていた。

リリスは口を開けたまま。

ゼクスは目を丸くして――珍しく、言葉がない。


視線の先。


千切れたはずの足が――そこにあった。

そして、オレの足もちゃんと二本ある。


「……え?」


オレが言う。


「……え?」

帝国兵が言う。


「……ええええ!?」

リリスが言う。


ゼクスが数秒遅れて息を吐いた。


「……足、戻ってますね……」


オレは自分の足首を叩いて確認した。

痛い。ある。大丈夫。


「……あぁ。オレ、ちょっと特異体質でさ。ちょっとした怪我なら治るんだわ……」


“ちょっとした怪我”の基準が、普通とズレすぎてるのは自覚してる。

言い訳が苦しい。


リリスが、ようやく正気に戻った顔で、にやりと笑った。


「よくトカゲは尻尾を囮にして逃げると言いますが……」


嫌な予感。

こういう時のリリスは、百発百中で余計なことを言う。


「カミナは足を尻尾にして逃げられますわね!」


「ちゃんといてぇからそんなことしねぇの!!」


反射でツッコんだ。


その瞬間。


ゼクスが肩を震わせた。

帝国兵がこらえきれず吹き出す。

誰かが涙を拭きながら笑っている。


「ははっ……ははははっ……!」

「おい、やめろ、笑うと腹が痛ぇ……!」

「死ぬかと思ったのに……足が生えるって……なんなんだよ……!」


ゼクスも笑いながら、珍しく泣いていた。

悔しいけど、オレも――ほんの少し笑ってしまう。


……笑った瞬間、胸の奥がほんのちょっとだけ軽くなった。


復讐は消えない。

でも――こういうのが、たぶん“生きてる”ってことなんだろう。


「ほんとすげぇよな……」

「味方で良かった……」

「やっぱり只者じゃねぇ」


帝国兵の声が次々と耳に届く。

怖がっているのに、“嫌悪”がない。むしろ賞賛に近い目をしてる。


……胸の奥に、妙な熱が残った。


今は手を組んでいる。

けど、ついこの前までは――ミルテ村を焼こうとした連中だ。命令だったのは分かる。分かる、が。


嬉しいのか。悲しいのか。

その区別すらつかない感情が、汗と魔物の臭いと一緒に肌へ張り付いて――剥がれなかった。



帝国南西、鉱山都市ザルドフェルン。


岩山を削った城壁を抜けた瞬間、鼻を刺す鉄と煤の匂い。

鍛冶場の槌音が遠近で重なって、街全体が巨大な炉みたいに脈打っている。


鉱石を積んだ荷馬車。石造りの建物。肉を焼く匂い。

活気がある。生きてる匂いがする。……好きだ。悔しいけど。


リリスが胸を張った。


「これが帝国の力の源ですわ!」


その言葉に、うなずきそうになった――その直後。

路地へ入ると空気が変わった。


鎖のきしむ音。

奴隷商人の怒鳴り声。

獣人の少年が膝を抱えて震え、エルフの女が無言で引かれていく。


匂いが冷たくなる。

“生きてる匂い”が、別の意味に変わる。


「……許せねぇ」


声が漏れた。オレの喉から勝手に落ちたみたいな低さだった。

鎖の音が、耳じゃなく腹にくる。


ゼクスは目だけを動かして、淡々と言った。


「帝国じゃ珍しくもない光景です。見て見ぬふりが生きる知恵ですよ」


冷たい。

でもオレに“言い聞かせてる”のが分かった。


リリスは、冷たく告げる。


「変えたいのなら……女帝アマーリエ様に挑んで制度を変えるしかありませんわ」


挑む。制度を変える。

言葉の重さが、腹の底に落ちた。


オレは目を逸らさなかった。


(……帝国で力をつける。奪い返す位置に立つ。そこから、変える)


復讐の火の隣に、別の火種がひとつ落ちた気がした。



夜。帝国兵御用達の宿。


石造りの廊下は質素だが、部屋は広い。風呂もある。

食卓に並んだのは肉ばかり。骨付き肉を塩で焼いただけの豪快な料理。


オレは夢中でかぶりついた。


「……うまい」


涙は、もう出なかった。

あの“勝手に滲む”感じがない。


リリスが胸を張った。鼻先まで得意げだ。


「ふふん! 帝国では主食は麦ではありませんの! 肉ですわ! 肉を喰らい、力を養う――それが私たち帝国兵の力の源ですの!」


言い切った瞬間、テーブルの上の骨付き肉まで誇らしげに見えてくるから不思議だ。


ゼクスが、いつもの温度で刺した。


「……姉さん。帝国はただ酪農が盛んで、肉が安いだけです」


「だ、だまらっしゃい! 現実的なことは言わなくてよろしい!」


リリスは赤面して、勢いのまま肉にかぶりつく。

――が、意気込みに口が追いつかなかった。


噛みちぎれなかった肉が、ぬるっと逃げて、床へ落ちる。

ベチャン、と乾いた音。


一拍。


「ぷっ……ははっ。帝国兵の“力の源”が転がったな」


口から勝手に笑いが漏れた。

自分でも驚くくらい、自然に。


リリスが真っ赤になって睨み、ゼクスは何も言わず肉を切り分け直す。

……くだらない。くだらないのに、胸の奥が少しだけ軽い。


(こういうの、いつぶりかな)


笑うたびに、憎しみが薄くなるわけじゃない。

でも、憎しみの“形”が変わる気がした。



翌朝。


宿の窓を開けると、鉄と煤の匂いに混じって――聞き慣れない高い鈴の音がした。


チリン、チリン。ガラガラッ。


馬車でもない。鍛冶槌でもない。

胸のむず痒さに負けて階下へ降り、表へ出る。


そこでオレは目を丸くした。


二つの輪。

細い金属の骨組み。鎖みたいな線が歯車に噛み合っていて、足で踏むたびに後ろの輪が回る。

革の小さな鞍。前には握り棒。

そして、また鳴る澄んだ鈴。


(……なんだよ、これ)


石畳をすいっと滑っていくのは、背中に鉱石袋を括りつけた少年。

その後ろからパンを加えた娘が器用に追い抜く。風を切る顔が、やけに楽しそうで――オレは一瞬だけ“村の朝”を思い出しかけた。


「“走輪車”です。俗に、自転車とも」


横でゼクスが答える。

声はいつも通り落ち着いているのに、目だけ少し楽しそうだったのが腹立たしい。


「法国から来た帝都の学者、マーク・ソーカの発明品。高価ですが、ここ一年で爆発的に流行しました」


“ここ一年”。

その言い方が妙に引っかかった。普及が早すぎる。技術の回り方が変だ。


リリスが顎を上げ、くいっと髪を払う。


「荷馬車の補助、鍛冶場の伝令、子どもの遊びまで大活躍。――もちろん、わたくしも乗れますわ!」


言うが早いか、露店の兄ちゃんから一台を借りて跨る。


「見てなさいな! まずは優雅に直進、そして華麗な――きゃ、きゃっ、きゃああっ!?」


裾がチェーンに絡まりかけて、植木に突っ込みそうになる。

ゼクスが背から抱えて止めた。


「姉さん。裾をまとめてくださいと、何度も」

「ち、違いますのよ今のは“風向き”が悪かっただけでしてよ!」

「風ではなく、技術の問題です」


……相変わらずの漫才。

なのに、オレの目は二つの輪に吸い寄せられたままだった。


(鎖と歯車で回転を伝えて、前は操舵……)


理屈は全部“ありえる”。

でも、この世界で最初にそれを形にするのは普通じゃない。材料の加工精度、規格、発想の組み立て。どれか一つ欠けても成立しない。


貸し出し台の横に、小さな真鍮の札。

刻印が光る。


《SOKA式 二輪踏走機 改二》


改二。

改良前提。普及前提。量産前提。

……“現代の匂い”がする。


「マーク・ソーカって、どんな奴だ?」


口に出してから気づいた。

声に、少しだけ期待が混じっていた。


ゼクスが淡々と肩をすくめる。


「帝都の学士院付き。年は若いのに、道具と“仕組み”で世の中を動かす天才です。火を安全に運ぶ箱、夜でも読める灯り、計算が速くなる盤……他にも山ほど。名前を知らぬ者は、いまや帝都には少ない」


リリスが得意げに胸を張る。


「おほほ。私、マークとは顔見知りですのよ。帝国の文明は日進月歩、ですの!」


文明。

オレは二輪の足元をもう一度見た。油が差され、泥除けが付いている。誰かが“使うこと”を最初から考えた形。


胸の奥が、ぞわりとした。


オレとジークも――転生した直後は、現代知識を武器にして、道具を作って、世界を変えて、無双してやる未来を夢見た。

……夢見ただけで終わった。資材も環境も技術も、何も足りなかった。


でも、これは違う。

走輪車は“形になっている”。


この世界に偶然落ちてくるものじゃない。

誰かが“知っていて”、それを“実現できる場所”にいる。


オレはゆっくり息を吐いて、真鍮札の名前をもう一度なぞった。


マーク・ソーカ。


――転生者か?


そう思った瞬間、胸の奥の空っぽが少しだけ別の形をした。

復讐じゃない熱。

久しぶりに触った、好奇心の熱。


それが自分の中に残っていたことが、少しだけ嬉しくて――

少しだけ、救いだった。



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