三十四、夜明けの霧は赤く染まり
夜明け前の霧は、やけに濃かった。
峡谷の底から吹き上がる風と、滝の轟音が混じり合って……耳の奥がずっとざわついている。
オレたち暁の牙は二手に分かれていた。
セリオスたち先行班は長橋を渡った先の岩場に潜み、正面から仕掛ける役。
オレと父さんは橋の手前の林に身を隠し、護送車が渡り切ったところで背後から襲いかかる役。
橋を挟んで前後からの挟撃――完璧な作戦のはずだった。
……はず、だった。
「カミナ、息を潜めろ。滝の音に惑わされるな」
低い声で父さんが言う。その背中は大きい。ただそこに立ってるだけで力が湧いてくる。
「わかってる」
声を殺して返すけど、胸の奥は落ち着かなかった。
柄を握る手のひらは汗でぬるつき、革が指に食い込む。
(……来ない)
予定の時刻を過ぎても護送車の音はない。
馬の嘶きも、車輪の軋みも、鎧の擦れる音も。
あるのは滝の音だけ。
「父さん、遅くないか?」
「焦るな。待つのも仕事だ」
「でも……」
「セリオスがいる。あいつの嗅覚は鈍っちゃいない」
そう言われても、不安は消えなかった。霧が厚すぎる。
視界が閉ざされるたびに、誰かに見られてる気がした。
(……嫌な感じだ)
背中を汗が伝う。
オレは深呼吸して、胸の奥で煉獄闘気を循環させた。赤黒い光がわずかに滲み、体の芯が熱くなる。
走り出したい。でも動いたら終わりだ。
父さんが小さく笑った。
「落ち着け。ジークと違ってお前は顔に全部出るからな」
「……バレてんのかよ」
「昔から全部お前の嘘はわかったぜ」
少しだけ笑えて、緊張がほどけた――その瞬間だった。
霧の奥、橋の先。
一瞬、光が走る。剣がぶつかる音。
「……っ!」
予定外だ。護送車が来る前に戦いの音――セリオスたち先行班がやられている。
鎧の列が霧を割って現れる。胸甲の紋章は――栄皇騎士団。
同時に背後、山道のたもとからも鎧の足音。
(……やられた!)
護送車なんて最初から囮だった。
待ち伏せしてたつもりが、待ち伏せされてたんだ。
「やっぱりか……!」
父さんが舌打ちする。「セリオスと合流するぞ!橋を渡って王都方面に抜ける!」
「了解!」
オレたちは林から飛び出し、五十名あまりの暁の団員と共に橋へ駆け出す。
「目標発見!暁の牙だと思われます!」
栄皇の声が響き、重厚な鎧の軍勢が追いすがる。
橋を走り抜ける途中――石畳の広場で縄に捕らえられたセリオスの姿が見えた。
仲間は死んでるか、押さえ込まれている。
縄を持つのは、冷たい碧眼をした美貌の騎士。白銀のレイピアに薄盾。
貴族特有の気品と冷酷さを兼ね備えた男。
「鼠を駆逐せよ! 不死身を名乗る者には注意しろ!」
「チッ……! カミナ、セリオスを助けろ! 俺が橋で殿を努める!」
「わかった!すぐ片付ける、それまで持ち堪えてくれ!」
魔法の嵐が遠くから降り注ぐ。火、氷、風、光。
オレは単独で突っ込み、玉鋼の剣で斬り払いながら進む。
掠っても鎧が弾く。肉に届いても、すぐ再生する。
仲間もついてくるが、矢と魔法に吹き飛ばされ、何人も滝下に消えた。
広場に出て最初の栄皇騎士団の一人と切り結ぶ。
鍔迫り合い――そこへ横槍が二名、足と腰を貫かれる。
普通なら動けない。でも――関係ねぇ。
煉獄闘気が燃え上がり、瞬時に再生。その痛みすら力に変えて叫んだ。
「裂鋼閃ッ!」
赤黒い斬撃波が走り、数人まとめて吹き飛ぶ。
「轟鋼断ァ!」
大剣を振り下ろす。地ごと断ち割る轟音。悲鳴と血飛沫が霧に混じる。
何も考えず、無我夢中で動いた。
二十人は斬り伏せただろうか……。
キザ男が驚愕の声をあげる。
「魔族か!? 誰か、やつを止めろ!」
「逃げろおおカミナ!俺のことはいい!」セリオスが叫ぶ。
けど、数が違う。七十人近い騎士団の連携に押され、足が止まる。相手も全然応えないオレに少しビビっているようだ。
(強い……数が……!)
背後を振り返る。暁の牙はほとんど殲滅されていた。
父さんの姿を探す――いた。
傷だらけで切り結ぶ相手は、赤髪に白銀の鎧、赤いマント。
立派な騎士剣を持つ、巨躯の男。
一目でわかった。こいつが……
ダリウス=グレイヴ。
その存在感に圧倒された瞬間ーー
ダリウスの剣が父さんの大剣を強烈に打ち据えた。
耳を裂く金属音。火花が散る。
玉鋼の大剣が宙に跳ね、弧を描いて――滝へ。
「父さん!!!」
叫ぶ。父さんが生きていれば突破できる。そう思った。いや、思いたかった。
「カミナ!」父さんが背中越しに叫ぶ。「お前だけでも逃げろ! ジークと母さんに……よろしく伝えてくれ!」
最後の言葉のつもりか?
……嫌だ。そんなの、聞きたくない。
「息子との別れの挨拶はできたようだな」
低く響く声。ダリウスが詠唱を始める。紅蓮と翠嵐の合奏。
炎と嵐が渦を巻き、巨大な刃の軌跡が父さんを飲み込んだ。
「父さあああああん!!!」
灼熱。
視界が赤に染まる。
オレの叫びは滝の轟音に呑まれ、それでも胸の奥で焼け残った。
――父さんは、玉鋼の鎧だけを残して、黒い灰になった。
視界が真っ赤に染まる。滝の音も、傷の痛みも、何もかも消える。
父さん。
父さん――。
……殺す。
殺す殺す殺す殺す殺す。
足が勝手にダリウスに向け前へ出た。煉獄闘気が皮膚の下で爆ぜ、赤黒い光が毛細血管を逆流する。握った玉鋼の剣が、腕の延長じゃなく“牙”になった。
「邪魔だ、どけえええええッ!」
ダリウスの前に塞がる騎士たちを、煉獄闘気を纏った大剣で振り抜く。
最初の一人は、喉を横に。
二人目は、腋の下へ斜めに。
三人目は、股の付け根を上へ。
――豆腐みたいに、ばらばらになっていく。




