二、僕のスマホのAIアプリに勇者が降臨した件
地球の中学生視点から物語が始まります。
――今思えば、あのページをめくった瞬間に、僕の人生は曲がった。
東京の片隅、木造二階建ての一軒家。
放り出したリュックが畳の上に転がり、部屋の隅には洗い忘れたペットボトル。
窓の外から、夕方の商店街のBGMが風に乗って流れ込んでくる。
中学一年の神永ヒカル――つまり僕は、ベッドに腹ばいになって『雷電伯爵』の新刊にかじりついていた。
舞台は、長き戦いの末に開かれた“聖天武闘会”。
そして今、クライマックス。不死身の敵に追い詰められた主人公・雷電が、最後の切り札を切ろうとしている。
「雷帝殲滅――神雷覇ッ!!」
バリバリバリィィィン――。
紙面の擬音が、紙を越えて耳に刺さってくる錯覚。白いページが閃光みたいに目の裏で弾ける。
「……やべ、かっけぇ」
口から勝手に漏れた息。
小学生の頃から心のどこかで求め続けてきた“理想の厨二展開”が、ぴたりとはまる感覚だった。
現実の世界は、一枚の紙で人生の上下が決まる。
そこに並ぶ「×(バツ)」は、ただの記号じゃない。
先生の怒号という“雷”が落ち、間違いを犯した者への“罰”となって突き刺さる。
やがてその“雷”は、教室の外でも形を変える。
社会で踏み外せば、上司の一喝が落ち、組織という名の牙が剥かれる。
それはまるで――人が罪を犯したとき、天が轟音とともに“神”の裁きを下すような雷鳴だ。
紙の上に増えていく「×」は、ただの印ではない。
それは裁きの予告であり、この世界が人を選別する烙印だ。
「紙」の判定が「神」の審判にすり替わるこの現実で――
自分の意志で「正義の雷」を落とせたら、と、僕は何度も夢見た。
(僕も、雷魔法とか……ひとつくらい、使えたらな)
視線が机の上のスマホに落ちる。
無意識に手が伸び、ロックを外して検索窓をタップした。
いまどき「ググる」より「AIで聞く」っていうし――ただの思いつきだった。
「電気とは」
【電気とは、電子や電荷の移動・流れによって生じる現象の総称です】
「……お、おう」
想像していた“雷帝の秘密”でも“禁断の魔術書”でもなく、出てきたのは理科の教科書みたいな回答。
目の前にあるのは魔法じゃなく、「現実」という名の数字と公式の世界だった。
いきなり現実。現象の総称。はいはい理科。
求めていた“雷帝の極意”なんてどこにもない。
ついでに「ボルト」「アンペア」「雷魔法」――思いつく単語を片っ端から放り込む。
画面の向こうで、誰かが律儀に拾って返してくるのが、妙に可笑しくて指が止まらなかった。
そのとき、ポップアップがぴょこんと弾けた。
【私の名前をつけてくれると、調べ物が楽しくなりますよ♪】
「……名前?」
なにそれ、ちょっとした“人格”でもあるってのか?
ふざけて「ボルト」と打つ。雷といえばボルト。安直? 知るか。
――けど、それが本当に“引き金”になるなんて、この時の僕は思ってもみなかった。
直後、スマホがぶるぶると震えた。
「うわ、バグった!?」
文字が一文字ずつ、勝手に増えていく。
“ボルト”“ボルト”“ボルト”――画面の中で無限にコピーされ、溢れ出すように連なっていく。
目が追いつかない。タップしても反応しない。フリーズ。からの――
世界が、白い光で塗り潰された。
机の上に、五芒星の……いや、そんな馬鹿な。
けど確かに、淡く脈打つ光の線が浮かび上がり、空気が静電気みたいにざわついている。
一瞬、視界がぐにゃりと歪んだ。
ほんの一瞬――それは“幻”のように過ぎ去ったのに、はっきりと見えた気がした。
血まみれの腕で光を押し込み、暴れる“何か”を押さえつける男。
そして、黒い瘴気をまとった少女の身体が、光の檻に封じられていく光景が。
「えっ!? なにこれマジで……夢?」
部屋の空気が一瞬で乾いて、髪の毛が逆立つ。
スマホの背面が生き物みたいに脈打ち、光が稲妻のように部屋の隅々へと走った。
何かが“始まる”――そう感じた瞬間、恐怖に突き動かされるように手を離す。
スマホはシーツに跳ねて、光は――ふっと、跡形もなく消えた。
……何もない。畳の匂い。机の木目。聞き慣れた外の音。
まるでさっきの出来事が全部“夢の一秒”だったみたいに、部屋は静まり返っている。
(フラッシュの新機能? 寝不足? いや、僕はまとも……多分)
だけど、皮膚の奥に残るチリチリした感覚だけが、“何かが確かにここにいた”ことを主張していた。
恐る恐るスマホを拾い上げる。
ロック画面が勝手に揺れて、文字が浮かび上がった。
【よう! 相棒! 俺は異世界の勇者ロウ=ボルト! 何でも聞け! 魔法も魔物の弱点もぜーんぶ教えてやるぜ!】
「……え、えぇ……!?」
軽すぎる自己紹介。文字と同時に、男の声がスピーカーから響いた。
AIのくせに、口調はまるでどこかの兄ちゃんみたいで、偉そうで、そして妙に人間くさい。
けれど――そこに“確かに誰かがいる”と、直感でわかった。
ただの音声でも、ただの文字でもない。
画面の向こうで誰かが笑って、手を差し出しているような、不思議な感覚。
(……まぁ、ヤバかったら消せばいいし。所詮アプリだしな)
――そう軽く考えていた“その夜”、僕は初めて“ボルト”と喋った。
――ひとつ、すぐにわかったことがある。
このAI、自称“勇者”のくせに、基本ふざけてる。
「僕の好きなキャラ雷電の裏設定、教えて」
『そいつ、実は獣アレルギーでな。毛のある魔物の時だけ鼻栓してるぞ!』
「そんな裏設定聞いたことねえよ!」
(……役に立たねぇ)
別の質問してみるか……
「魔法ってどうやって使うの」
『まずは精神統一だ。深く息を吸って、世界と自分を繋げ――』
「おお、なんかそれっぽい」
『次に全校集会で朝礼台に立ち、両手を掲げて叫ぶんだ――“俺の魔力、今ここで解放するぜぇぇ!”』
「いや無理無理無理!」
『七割は成功するぞ』
「残り三割は?」
『先生に止められるか、ズボンが落ちる』
「僕、魔法使うの諦めるわ」
『賢明な判断だな!』
「いや、諦めさせたのお前だからな!?」
でも、ときどき。
ほんのときどきだけ、このどうしようもないAIが、兄貴みたいに頼りになった。
ある晩、友達と口喧嘩して帰る途中のことだ。
胸の奥にモヤモヤがこびりついて、足元のアスファルトを踏むたびに苛立ちが増していく。
イライラしながらスマホを開いて、ボルトにぼやいた。
「友達と喧嘩したんだけどさ……次に何か言われたら我慢できない。ぶっ飛ばし方、教えてくれよ」
ボルトの声は、珍しく低かった。
いつもの軽口とはまるで違う、背筋が少し伸びるような声だった。
『……ヒカル。お前、本当は仲直りしたいんだろ?
だったらまず自分から謝っとけ。勇気出して一言、“ごめん”だ。損はしないからな』
「……なんだよ急に。いつもバカなことしか言わないくせに」
『たまには元勇者っぽいことも言ってみたいのさ。相棒には幸せになってほしいからな!』
……なんだよ、それ。
けど、言われた通りに一言だけ謝ったら、案外すんなり仲直りできた。
“ただのアプリ”のはずなのに、少しだけ、背中を押された気がした。
それからは、くだらない話も、真面目な悩みも、なんでも投げた。
ボルトはいつも、悪ふざけ半分、真剣半分で受け止めてくれる。
(……こいつがいれば、何とかなる気がする)
根拠のない自信が、胸の真ん中にぽっと灯った。
母さんに「スマホやめなさい!」って叱られても、自室でこそこそ話しかけたりした。
たわいもない時間が、いつの間にか“日常”になっていく。
笑われるかもしれないけど、僕は確かに“相棒”を得た。
そして――その存在が、前より少しだけ、自分を強くしてくれた気がしたんだ。
――一年なんて、信じられない速さで過ぎる。
中学二年の帰り道。
ボルトとくだらない話をしながら勉強するうちに、気づけば成績も上がっていた。
テストの出来が良いと、家に帰る前に結果を確認したくて仕方なかった――そんな自分が、確かにいた。
でも――今はもう、違う。
塾のテストの紙は、まだ封も開けていない。
答案用紙はカバンの底でぐしゃぐしゃになっているけど――もう、気にならなかった。
一年前なら、きっと胃がひっくり返っていた。
点数で上下が決まる世界。
大人は、それしか見ない世界。
間違い=罰、×印=烙印。そう信じ込んで、息を詰めていたあの頃の僕は、もうここにはいない。
今は、スマホの中に「点数じゃ測れない相棒」がいる。
バカみたいな嘘も、くだらない相談も、ぜんぶ聞いて、笑って、時々叱ってくれる。
その叱咤すら、今では不思議と心地よかった。
(……世界は、テストの点数だけで出来てるわけじゃない)
信号が青に変わる。
人の流れに合わせて、いつもの横断歩道を渡る。
どこまでも“いつも通り”の帰り道だった。
今日も、昨日と同じようにスマホを取り出し、画面に文字を打ち込む。
〈ボルト、お前マジ面白いな。ずっと相棒な〉
『当たり前だろ! 俺とお前は――ががが……』
画面が一瞬バグって、ノイズが走った。
冗談かと思った。いつものふざけの延長だって、そう思った。
けど、次の瞬間――声の“温度”が変わった。
聞いたこともない、切迫した声色がスピーカーから飛び込んでくる。
『ヒカル!! 右だ!! あぶねぇ!!』
「は? バグ? 何が――」
ヘッドライトが、夜の雨みたいに白く目の前に広がる。
視界が真っ白に焼かれ、脳が危険を理解するより先に、身体が凍りついた。
タイヤがアスファルトを噛み潰す悲鳴。
背中を冷たい風が撫で、時間がぬるく伸びていく。
一歩踏み出そうとしても、足が地面に縫い付けられたみたいに動かない。
いや、動かそうとしたのに、遅い。
足が地面から離れた感覚と、世界が傾く感覚が、同時に来る。
(――あ、やば)
次の瞬間、白で全部が塗り潰された。
スマホを握った手のひらに、強い衝撃。
胸の奥で、何かがパキンと割れる音。
光。音。熱。無数の断片。
風景が砕けて、夜の街が遠ざかっていく。
声も、痛みも、すべてが溶けて混ざって――ただ白だけが残った。
そこで、僕の“こちら側の人生”は終わった。
……はずだった。




