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十一、牙を継ぐ者たち


夜、道場。

柱間の壁付け燭台に差した蜂蝋が小さく揺れ、磨かれた板間へ長い影を落としていた。松脂と椿油、木刀に染みた汗の塩気が夜気にほどけ、障子の向こうで笹がこすれる。

稽古場には暖を置かないのが決まりで、隣の師範室の小さな火鉢だけが赤く息をしている。


俺とカミナが板間を渡ると、父さんと母さん、そして見知らぬ老人が座していた。

白髪をひとつに束ねたその人は、まるで冬を越えた老木のように穏やかで、凛としていた。

深い皺の間に宿る光が、焚き火のように柔らかく俺たちを包み込む。


……襖の影に二つ、空気の“揺らぎ”。

床の軋みが半拍遅れる。微かに流れる風の筋――翠嵐系のマナの痕だ。

鼻を抜けるのは古い革と蜜蝋、それに矢羽根油の匂い。

(……気配隠しのつもりか。けど、マナの流れまでは誤魔化せない)

気づいているのは、たぶん俺だけだ。

カミナは鼻歌まじりに腰を下ろし、影の“欠落”を素通りした。


父さんが、普段は見せない真面目な声で言う。

「……紹介しよう。冒険者時代の先輩にして、王国の盾皇騎士団の元・副団長――ジルヴァン・グランフェルト様だ」


(盾皇騎士団。俺が転生する前の時代にも名のあった王国三騎士団の一角――盾と防衛戦を旨とする精鋭。しかも父さんが畏まってる。 ……ただ者じゃない)


老人は俺たちを見回し、皺の間に笑みを刻んだ。

「ジルヴァンだ。……やっと会えた、ガイの息子たち」


穏やかな声なのに、胸の芯へ石が落ちるみたいにずしりと響く。自然と背が伸びた。


――ジルヴァンは語り出す。

「表向きは北部辺境伯家の政務顧問だが、裏では《暁の牙》の代表をしておる」


……暁の牙。母さんが言っていた反貴族の地下組織。その“代表”が貴族? どういうことだ。隣のカミナを見ると、案の定、眉間に皺。


ジルヴァンは苦笑して続ける。

「訳がわからんじゃろう。だが簡単な話じゃ……わしの妻は平民じゃ。騎士団におった頃、魔物に襲われておったのを救ったのが出会いでな。才気ある女で、惹かれた。共に飯を分け、冬を越え、幾度も口論して――そこでようやく悟った。貴族も平民も、変わらん。魔法が使えぬだけで、人は同じ人じゃ。」


燭台の炎がわずかに揺れ、蝋がひと雫、皿に落ちた。

「妻はもう亡くなったが、今でも愛しておる」


短い一言なのに、胸の奥がきゅっと縮む。


「貴族の“平民侮り”に嫌気がさしての。四十に手が届く頃、騎士団を捨てて冒険者になった。『ジルヴァンは気が狂った』と笑われもしたが、後悔はない。……身分は道具にすぎん。時には貴族の席にあればこそ、腐った権力に牙を立てやすいこともある」


父さんが静かに頷いた。

「駆け出しだった俺を叩き上げてくれたのが、この方だ。リーナを含めた六人編成で、いくつもの迷宮を潜り抜けた」


ジルヴァンが目を細め、昔を掬うように微笑む。

「良い時代じゃった。――だが北部バストリアの貴族どもは、年貢を三度四度と積み増し、払えぬ家の子を夜の荷車でさらい、帝国へ奴隷として売り払っておった。王国では本来、平民の奴隷化は禁じられておるというのにな。だからこそ、牙を掲げた。――《暁の牙》じゃ」


悪徳貴族の要人の排除。強奪された税荷の奪還。飢えた村への供給。

……たまに届いていた“謎の炊き出し”、あれも《暁の牙》の仕事だったのか。


横でカミナの目がギラギラに光る。(あ、余計な事言う顔だ。いや、絶対言う)


「つまり父さんと母さんも《暁の牙》だったんだな? だったら僕とジークも参加させてくれ! 僕らの夢は、この不平等をぶっ壊して“ちゃんと直す”。苦しむ人を減らすんだ!」


やっぱり言った。しかも迷いなく俺までセットで。

「おいおい、勝手に――」


止めかけた言葉が喉で止まる。カミナの熱がまっすぐ突き刺さる。

(……ま、いいか。どうせ俺もいずれカミナと始めるつもりだった。なら、まずはここを足場に動く)


「……まあ、狙いは同じだ。俺も乗る」


ジルヴァンは豪快に笑った。

「わっはっは! 聞いていた通り、良い息子たちじゃ!」


「この村に玉鋼で希望を与えたカミナ。雷で危機を退けたジーク。お主らが加われば、世界は変わる」


父さんは申し訳なさそうに頭を下げ、しかし目はもう決まっていた。

「二人がそう言うのは予想していた。俺も復帰する。他の村の惨状は聞いている。――もう見逃せない」


母さんは少し寂しそうに笑う。

「……ごめんね。心は同じ。でも私は家を守る。あなたたちを育てて、命の重さをもう一度知った。――もう、人は殺めたくないの」


「母さんは女の人だからな。見た目は若いけど実際はもうよんじ――」


ゴンッ。

「ぐはっ!」


母さんの拳骨が正確な角度でカミナの頭頂に落ちる。すぐさまジルヴァンへにこやかに会釈し、耳元で低く囁いた。

「……カミナ。女性の年齢は揶揄わないものです」


「ひっ……ご、ごめんなさい……」


(やっぱ父さんより怖ぇ)


火鉢がちり、と鳴り、影が一度だけ長く伸びる。ジルヴァンの声は重いが、背を押す温度を含んでいた。

「いいか、これは遊びではない。正義を振りかざすだけでは人は救えん。血を流すことも、命を奪うこともある。――それでも進むか?」


カミナは迷いなく頷く。

「わかってる。だからこそ、見過ごせない」


俺も息を整え、言葉を置く。

「……いずれ俺たちも表に出るつもりだった。二人だけじゃ手の届かない所があるのも分かってる。歯車を噛ませてくれるなら――上等だ」


父さんが目を閉じて頷き、母さんがほんの少し誇らしげに微笑んだ気がした。


ジルヴァンは腰の革袋から、細い黒革紐と小さな“牙”形の朱鋼しゅこう片を二つ取り出す。磨かれた面の奥で、朝焼けみたいな朱がかすかに脈打っていた。

「では――“牙のちかい”だ」


親指で灰をとり、俺とカミナの掌に一本ずつ薄い線を引く。

「誓句を復唱せい」


「弱きを護り、牙は民に向けず、権に向ける。

血を望まず、必要の血は自ら背負う。

名を求めず、結果のみを置いて去る。」


「……誓う」

俺たちの声が重なった。ジルヴァンは朱鋼の牙を革紐に通し、「胸の内側にしまっておけ。肌身離すな」とだけ告げて渡す。見せびらかす飾りではない――朱の光にそんな重みが宿っていた。


ジルヴァンが指を小さく鳴らす。柱影から二つの気配がすっと抜ける。


最初に進み出たのは、気品をまとった三十代前後の男だった。

一歩の踏み出しから重心の移動まで、無駄が一切ない。

さっき感じた翠嵐のマナ――あの澄んだ風の気配は、間違いなくこいつのものだ。


「セリオス・グランフェルトだ。父上が粗相をしないよう監督に参った次第だ」


声は低く、よく通る。まるで場の空気そのものを整えるような響き。

その穏やかさの奥に、刃のような冷静さが潜んでいた。


落ち着いた声に、燭火が一度だけ静まる。

その隣で、三つ編みを短く束ねた少女が一歩。革の小袋が腰で鳴り、短弓と逆手剣が影に溶けた。

「リサ。普段はソロの冒険者。今日は“護衛の仕事がある”って言われたから来た」


セリオスが明るい調子で補う。

「無愛想だが腕は確かだ。城塞都市バストリアで俺が拾った。斥候と迅玉式の才あり――弓は外さない」


リサは俺たちを一度だけ見て、短く頷いた。

「私は五年前、税で村が潰れた生き残りで、しばらく盗賊みたいな真似もした。……貴族には、返す借りが山ほどある」


そして指先で左肩を二度、胸を一度、軽く叩く。

「団員同士の合図、覚えて。――左肩を二回、胸を一回」


「標的は貴族だけじゃない。魔物討伐もウチの柱だ。最優先は“困ってる民を守ること”。

合言葉は――呼びかけ『月は欠けても』、応えは『牙は折れず』。

それと現場で逸れたら、まず“忍ぶ”、次に“守る”、壊すのは最後。いいな? 自分の命は替えがきかない。必ず持ち帰れ。」


ジルヴァンが満足げにうなずいた。


「後日、一つ計画がある。それを初任務とする。同行はセリオスとリサ。先導はリサ、殿はセリオスじゃ。お主らの適性を見極める。得手不得手を自覚し、役を果たせ。」


そして、静かに告げる。

「今日からお主らも《暁の牙》だ」


燭火がぱっと大きく揺れ、影がほどける。新しい物語の門が、音を立てて開いた。

隣のカミナの横顔は、いつもよりずっと頼もしく見えた。

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