父と兄1
ーーセレナの10歳の誕生日から、数週間が経った。
あの日、彼女が婚約者にユリウスを指名したことで、周囲の関心の声は高まり、王宮内でも大きな注目を集めていた。
だが、セレナにはそのような騒ぎにまるで関心がなかった。まるで他人事だ。
あの日、セレナの誕生日の日。
セレナがユリウスを選んだ後から、アレクはエヴァレット公爵家を何度も訪れていた。
皇太子である彼を追い返すこともできず、セレナは仕方なく応接室で彼の相手をした。
「セレナ、あんなことするなんて.....俺が何か気に触ることでもしたのか?それとも、俺の関心を惹きたかったのか?」
「いいえ、皇太子殿下」
「…じゃあなぜなんだ?つい最近まで、俺は君も同じ気持ちでいてくれていると思っていた。それに、その呼び方....急にどうして他人みたいな振る舞いをするんだ?」
「確かに、皇太子殿下との婚約を考えたことがないかといわれれば、嘘になります。ですが、私はユリウス様を好きになったのです。それから、こうなった以上、私たちは気軽に名前で呼び合う中ではないかと思います」
セレナは冷たく言い放つ。
セレナの表情も言葉も、その全てがアレクを完全に拒否している。
「.....あいつのどこがそんなに好きなんだ?俺のどこが奴に劣っているというんだ?」
「そうですね…見た目が美しく、それでいて寡黙ところでしょうか。皇太子殿下と違って、声を荒げることもありませんし。皇太子殿下が劣っているとは言っていません。ただ、私はユリウス様を選んだ…ただそれだけです」
(まあ、今のユリウスは寡黙じゃなさそうだけど…)
セレナは呆れたようにため息をつく。
「…俺も、容姿は劣っていないと思うのだが....それに陛下も君の父親も俺たちの結婚を望んでいたはず。君ほど皇太子妃の座に相応しい女性はいないんだよ。君はいずれ皇后になる運命なんだ」
「身に余るお言葉です。私は皇太子妃の座にも、皇后の座にも興味はないのです。なので、皇太子殿下との結婚も望んでおりませんし、今後望むこともありありません」
「…」
セレナは頑なだった。
そうしてアレクは次第にセレナの元を訪れなくなった。
庭に出ると、冷たい風が彼女の髪を揺らす。
空は高く、雲一つない青空が広がっている。
それでもセレナはその美しい景色に目もくれず、ただ静かに時が止まっているかのように、その場に立ち尽くしていた。
目を閉じ、深く息を吸って、吐く。
これから先、どんな未来が待っていようとも、彼女にはすでに関係のないことだ。
足音が近づき、背後から静かに声がかけられる。
「セレナ」
ユリウスだ。
彼の足音はいつも静かで、他の誰よりも感情を隠すのが上手だ。
セレナは振り向かずに答えた。
「何か用?」
ユリウスは一歩進み、彼女の隣に並んだ。視線を空に向け、言葉を探すように口を開く。
「…君に会いにきただけだよ」
セレナはその言葉に少し眉をひそめたが、すぐに何も言わずに口を閉じる。
アレクがセレナの元を訪れている間も、ユリウスもセレナの元を定期的に訪れていた。
「君は…どうして俺を選んだの?」
セレナは彼の言葉に、視線を少しだけ向けた。
しかし、その目は冷たく、どこか遠くを見ているようだった。
「あなたが好きだからよ」
セレナは感情もなく淡々と答えた。
ユリウスはその言葉を聞いて、胸の奥で何かが引っかかるのを感じた。
セレナの言葉がどれだけ冷たく響いても、彼は無視することができなかった。
「それだけ?皇太子殿下を拒んでまで、俺を選んだのには理由があるんじゃない?」
セレナはしばらく沈黙して、そっと口を開いた。
「いいえ、他に理由なんて何もないわ。ただ、あなたが好きなだけよ」
セレナは先ほどと同じように淡々と返した。
「…そっか」
ユリウスはどこか寂しそうだったが、セレナは気づかないふりをした。
「あなたには何も望まないから、だから…あなたも自由でいてね。何も我慢することなんてないわ」
「……わかった。じゃあ、俺が勝手に君のそばに居るよ」
その返答に、セレナはつい目を細めた。
「……馬鹿ね」
「そうかもね。でも、君に馬鹿って言われるのは…嫌じゃないよ」
風が、二人の間をふわりと通り過ぎた。
空は高く澄み渡り、夏の光が木々の葉を透かしてきらめいている。
それでも、セレナの中には曇天のような重さが渦巻いていた。
彼が笑えば笑うほど、遠ざけなければいけないと思った。
だからこそーー。
(……これ以上近づかないで)
心のなかで何度も何度も呟く。
けれど、それでもなお、彼の言葉は胸の奥の冷たい地層に、じんわりと染み込んでいた。
まるで、闇に差し込む陽光のように――
***
“光の雫”
ありふれた、童話のような筋書き。
だけど――読むたびに、心が揺れる。
まるで自分の心の奥をなぞるようだった。
セレナは、ふと本の奥に何かを挟んであるのに気づいた。
一枚の紙。そこには、稚拙な筆跡でこう書かれていた。
《もし、君がいつか光の雫を見つけるときには、俺が君のそばにいたいな》
日付も、署名もない。
けれど、彼のものだとすぐにわかった。
その瞬間、胸が軋む。
心の奥に隠していたものが、ぐらりと揺れた。
涙は、まだこぼれていない。セレナは、本をそっと閉じた。
窓辺に立ち、夜空を見上げる。
そこには、何も語らない月が浮かんでいた。
けれど、今夜はほんの少しだけ――その月の光が、温かく思えた。