不穏な影
セレナは小さく息を吐き、再び庭園の奥へ視線を向けた。
陽はすっかり高くなり、コスモスの花弁は朝よりもくっきりと色を増している。
風はやわらかく、花々の香りがかすかに漂っていた。
だが、胸の内は少しも穏やかではない。
ユリウスのことを知るたびに、心のどこかがざわつく。
奴隷を買って、解放する。
そんな権力の使い方をする人間を、セレナは知らない。
父も。
アレクも。
信じていた、レオンでさえも。
皆、自分の都合や正しさを優先した。
誰も私自身を助けてはくれなかった。私はいつも檻の中だった。
けれど、ユリウスは違う。
違うからこそ、困る。
(……そんな人だと、思わないじゃない)
こんなふうに少しずつ知ってしまえば、警戒し続けるのが難しくなる。
それが、何より怖かった。
「奥様」
カイラスが低く呼ぶ。
セレナが顔を上げると、彼は庭園の奥を見ていた。
「旦那様がお見えになりました」
その言葉とほぼ同時に、石畳を踏む足音が近づいてきた。
セレナが振り向くと、ユリウスが近づいてきていた。
昼の光の中に立つその姿は、庭園の静けさによく馴染んで見えた。
「ここにいたのか」
「ええ。庭園を少し見ていたの。とても綺麗だから」
ユリウスは一度だけ頷き、それからカイラスへ視線を向けた。
「問題はなかったか」
「はい」
カイラスは即座に答える。
その簡潔さに、ユリウスはそれ以上何も問わなかった。
「ちょうどよかった。仕立て屋が来ているんだ」
「仕立て屋?」
「あぁ。君のドレスをいくつか仕立てるといい。これから侯爵夫人として参加する会も増えるだろうから」
「……わかったわ」
ユリウスは一歩近づいた。
「無理はしなくていい」
それだけの言葉なのに、まるでこちらの内側を見透かしているかのようで、セレナは一瞬だけ言葉を失う。
「大丈夫よ。ありがとう」
少しだけ強い口調になった。
「そうか」
「……行きましょう」
セレナはそれ以上話を続けたくなくて、先に歩き出した。
カイラスが一歩下がり、後方につく。
ユリウスも隣に並んだ。
庭園から屋敷へ戻る道は、先ほどより少しだけ長く感じられた。
「カイラスとはうまくやれそうか?」
不意に、ユリウスが言う。
セレナは前を向いたまま答えた。
「ええ」
「どうだった?」
それは何を問うているのか、すぐには分からなかった。
カイラスの人柄か。
忠誠か。
それとも、自分が彼を受け入れられそうかどうか。
セレナは少し考えてから答える。
「……真面目で、口数が少なくて、私にとってはありがたい人材ね」
隣で、ユリウスがわずかに目を瞬かせる気配がした。
「それは良かった」
やがて屋敷の扉が見えてくる。
そのとき、表に見慣れない馬車が止まっているのが目に入った。
深緑の車体に、金糸で紋章が縫い取られている。
かなり身分の高い家の馬車のようだ。
セレナの足が、わずかに止まる。
「……誰か来ているの?」
ユリウスの視線が馬車へ向く。
その瞬間だけ、彼の表情がほんのわずかに変わった。
「あの馬車は……仕立て屋ではないな」
すると、グレイが屋敷の中から姿を現し、三人の前で深く一礼した。
だが、その表情には珍しく、わずかな緊張が浮かんでいた。
「ユリウス様」
「誰か来ているのか?」
グレイは一瞬だけセレナを見た。
それから静かに告げる。
「ローゼン侯爵家のご令嬢、レベッカ・ローゼン様がお見えです」
以前から、ユリウスに好意を抱いていた令嬢。
そして、自分のことを面白く思っていない女。
「通したのか?」
「現在は客間にお通ししております。旦那様のご帰還を待つと仰っておりました」
グレイの返答は落ち着いていたが、その意味するところは明白だった。
レベッカは、ただの挨拶に来たのではない。
(……そうよね)
生ぬるい不幸で終わってくれるほど、人生は優しくない。
セレナは、ゆっくりと顔を上げた。
「会うのでしょう?」
ユリウスは彼女を見た。
「君は部屋へ戻っていてもいい」
その言葉に、セレナは一瞬だけ目を細めた。
「いいえ。私も一緒に行くわ」
「分かった」
そうして四人は、静かな屋敷の奥へと足を踏み入れた。
新しい生活の最初の波は――
思っていたより、ずっと早く彼女の前に現れたのだった。




