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君は愛しのメランコリア  作者: 桔梗


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護衛の想い

エドガーはユリウスを見て微笑む。

それは先ほどまでのふざけた様子とは違って、まるで弟を見つめるような眼差しだった。


「皆、嬉しいのですよ」


「何がだ」


「ユリウス様が、奥様をお迎えしたことがです」


ユリウスは答えなかった。


訓練場の向こうでは、騎士たちが掛け声とともに剣を振っている。

朝日が刃に反射して、眩しく光った。


エドガーは続ける。


「この屋敷は、長いこと静かすぎましたから」


その言葉に、ユリウスの視線がほんのわずかに揺れる。


「……そうかもしれないな」


エドガーは、珍しくそれ以上踏み込まなかった。

ただ、その代わりに、少しだけ声を潜める。


「奥様は、私が思っていたより、ずっとお優しい方でいらっしゃいました」


「どういう意味だ?」


「カイラスに、“命に代えるだなんて、自分を大事にしてちょうだい”と仰ったでしょう?貴族のご令嬢なら……いや、公爵家のご令嬢ならば、護衛が命を張って守るのは普通じゃないですか。なのに、奥様はあんなに悲しそうなお顔をされていた。あれはきっと本心から出た言葉なのでしょう。私はあの方が、ユリウス様の奥様で良かったと心から思いましたよ」


そう言うとエドガーは優しく微笑んだ。


ユリウスは黙っていた。


セレナは一見、冷たく見える。

事実、誰にも心を許していない。俺にも。


だが、時折ほんの一瞬だけ、彼女の奥にある柔らかさがのぞく。

それは、ひどく脆くてーーだからこそ、見てしまった者の胸に残るのだろう。


ユリウスは、訓練場の中央へ視線を戻す。


騎士たちはそれぞれの相手と剣を交え、砂埃が薄く舞っている。

カイラスも、その中で黙々と剣を振っていた。


「カイラス」


不意に名を呼ばれ、カイラスが即座に振り向く。


「はい、侯爵様」


「午後からは、セレナの側に戻るように」


「承知いたしました」


カイラスは短く答え、再び頭を下げる。


***


ーー午後の庭園にて。


セレナは一人で庭園を散策していた。

ミレイユはついてくると言い張ったが、一人でいたかったので断った。


いや、まぁ正確に言うと一人ではないのだがーー。


少し後ろに、カイラスが控えているようだ。

だが彼は気配を消すのがうまく、振り返らなければ本当に誰もいないように思えるほどだった。


昼下がりの庭園は、朝よりも少しだけ明るかった。


風は穏やかで、コスモスの花弁が陽を受けてやわらかく揺れている。

アーデルハイト侯爵邸の庭は、どこまでも静かだった。


しばらく歩いたところで、セレナはふと立ち止まった。


背後の気配も、ぴたりと止まる。


「……あなた、カイラスいったわよね?」


振り返らずに声をかけると、低い声がすぐに返ってきた。


「はい、奥様」


「あなた、ずいぶん物静かなのね」


「……申し訳ありません」


セレナはゆっくりと振り返る。


「怒ってるわけじゃないわよ」


セレナは微笑んだ。


カイラスは数歩後ろで立ち止まり、真っ直ぐこちらを見ていた。

黒に近い濃紺の騎士服に、陽の光を受けた赤い瞳が印象的だった。


やはりその瞳の色は珍しい。


「その瞳……」


カイラスは一瞬だけ目を伏せた。


「とても綺麗ね」


セレナがそう言うと、カイラスは驚いた顔をした。


(こんな顔もするのね)


カイラスにもちゃんと感情があると知って、セレナは少し安心した。

すると、カイラスはおもむろに口を開いた。


「……母が異国の生まれだったそうです」


“だった”という言い方に、セレナは小さく目を細める。


「そうなのね」


「はい」


会話はそこで途切れた。

けれど、セレナはなぜかそのまま歩き出す気にはなれなかった。


「……ユリウスがあなたを私の護衛に選んだのは、強いから?」


カイラスは少しだけ間を置いた。


「それもあるかと思います」


「それも?」


「侯爵様は、あまり感情で人を選ばれませんので」


「では、あなたは何で選ばれたの?」


「私は侯爵様を裏切らないと判断されたからでしょう」


セレナは思わず小さく笑いそうになる。


「随分とはっきり言うのね」


「はい。事実ですので」


相変わらず、無駄がない。


「……あなたは、昔から侯爵家にいたわけではないのよね?」


「はい」


「差し支えなければ、聞いてもいい?」


拒まれてもおかしくない問いだった。

だが、カイラスは逃げなかった。


「私は、奴隷でした」


あまりにも淡々とした言い方だったので、セレナは一瞬、言葉を失った。

まるで天気の話でもするように、彼は言ったのだ。


「先の戦争で滅びた小国の生き残りで、帝国に売られてきました。最初は鉱山に、その後は闘技場に回されました」


セレナの指先がわずかに冷たくなる。


闘技場。


その言葉だけで、ろくでもない場所だと分かる。


「……何歳の頃?」


「十歳です」


セレナは息を呑んだ。


十歳ーーそんな年齢で。


「そこで剣を覚えました。生き残るために必要だったので」


カイラスは淡々と話した。


ひどすぎる過去は、逆に感情を削ぎ落としてしまうことがある。

セレナはそれを知っている。


「侯爵様が十五の時、闘技場で私を買われました」


「そう……」


“買われた”。


その言葉に、セレナの胸の奥で何かがきしんだ。

その響きは、嫌でも彼女自身の境遇を連想させる。


ーー公爵家の娘。

ーー皇族に連なる血筋。

ーー価値ある駒。


形が違うだけで、本質は似ている。


おそらくユリウスは、幼いカイラスが戦う姿を見ていられなかったのだろう。

前世の姿からは想像もつかないけれど、今私が知る彼はそういう人だから。


「それで、ユリウスはあなたを侯爵家の騎士にしたの?」


「正確には違います」


カイラスは静かに言った。


「侯爵様は、私を買ったあと、所有権を放棄されました」


セレナが目を見開く。


「放棄……?」


「奴隷商人の前で、契約書を破棄されました。“もうお前は誰のものでもない”と」


セレナはしばらく何も言えなかった。


「……どうして」


ようやく出た言葉は、それだけだった。


「理由は、聞いておりません」


「聞かなかったの?」


「聞くべきではないと思いました」


「……なぜ?」


「救われた側が、その理由まで求めるのは傲慢だと思ったので」


セレナは眉を寄せた。


その考え方が、痛いほど分かってしまったからだ。


恩を受けた者は、理由を問うことすらためらう。

差し出された手に、どこまで甘えていいのか分からない。


そういう感覚を、セレナはよく知っている。


「ですが」


カイラスは続けた。


「侯爵様は、その後こう仰いました」


セレナは黙って待った。


カイラスの赤い瞳が、真っ直ぐ前を向いている。


「“自由になったなら、自分で選べ。去ってもいいし、ここにいてもいい”と」


「……それで……あなたは、残ったのね」


「はい」


一切の迷いがない声だった。


「私は、初めて自分で居場所を選びました」


その言葉は、思いのほか深くセレナの胸に落ちた。


居場所を、自分で選ぶ。

そんなことを、自分はしたことがあっただろうか。


一度目の人生では、与えられた婚約。

二度目の人生では、ようやく選んだ愛を奪われた。

それ以降は、生きることさえ“選ぶ”というより“諦める”に近かった。


セレナは小さく息を吐く。


「……そう」


それ以上、何も言えなかった。


カイラスもまた、余計な言葉を足さない。

その沈黙が、今は少しだけありがたかった。


「奥様」


しばらくして、カイラスが低く言った。


「先ほどのお言葉、ありがとうございました」


セレナが顔を上げる。


「先ほど?」


「『自分を大事にしてほしい』とおっしゃってくださいました」


セレナの指先がわずかに動く。


「……そんなこと……大したことじゃないわ」


「私にとっては、大したことでした」


セレナは言葉に詰まった。


「私は、侯爵家に来るまで、大切にされたことなんてありませんでした。

ですから、”自分を大事にしろ”と言われたのは、初めてです」


セレナは目を逸らした。

そんなふうに、真っ直ぐ受け取らないでほしい。

自分はただ、あまりにも当然のことを言っただけだ。


そう、思いたいのに。


「……それでも」


カイラスの声が続く。


「奥様のためなら、命は惜しくありません」


セレナは反射的に彼を見た。

その瞳は揺れていなかった。


ーー忠誠。

それは美しい言葉かもしれない。

けれど、セレナにとっては少しだけ恐ろしい言葉でもある。


誰かが自分のために傷つくこと。

誰かが自分のために命を賭けること。


そんなものは、もうたくさんだ。


「……気持ちだけ受け取るわ。ありがとう」


ぽつりと、セレナは言った。

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