夫婦の寝室
この感覚は、幼い頃ーーまだ何も知らなかったあの頃。
誰かに守られていると信じていた、あの頃のような――そんな、遠い記憶に似ている。
(……いいえ、違うわ)
セレナは、すぐにその考えを打ち消す。
そんなものは、もうとっくに失われている。
守られることも、信じることも、すべて。
セレナは無意識に指先を握りしめていた。
エヴァレット公爵家の屋敷は、もっときらびやかだった。
来客の笑い声、侍女たちの話し声、父の怒声――いつだって何かしらの音に満ちていた。
ミレイユは一歩先を歩きながら、静かに足を進めている。
振り返ることも、余計な言葉をかけることもない。
その距離の取り方が、妙に心地よかった。
やがて廊下の奥で、ミレイユが立ち止まる。
「こちらが、奥様とユリウス様のお部屋でございます」
昼間案内された部屋よりも、重厚な扉だった。
扉には、細やかな美しい彫刻が施されている。
ミレイユが静かに扉を開いた。
「……」
セレナは一歩、足を踏み入れる。
そこは、セレナの部屋よりもさらに広い空間だった。
中央には、大きな天蓋付きの寝台。
白いレースのカーテンが柔らかく垂れ、灯りを受けて淡く揺れている。
暖炉にはすでに火が入っており、室内はほんのりと暖かい。
だが――
「……随分と立派なのね」
セレナはぽつりと呟いた。
「はい。こちらは本来、侯爵様ご夫妻の主寝室でございますので」
ミレイユは静かに答える。
”夫婦の寝室”。
そうだ、結婚したのだ。
食堂で向かい合って食事をしただけではなく、もう“そういう関係”なのだと、
目の前の大きな寝台が容赦なく突きつけてくる。
「普段はユリウス様がお一人でお使いでしたが……本日からは、奥様とご一緒に」
ミレイユの顔に喜色が浮かんでいた。
その言葉に、セレナの心がわずかに揺れる。
(……一人で?)
この広い部屋を。
ずっと――一人で。
セレナは無意識に寝台を見た。
あまりにも大きく、そして――空虚に見えた。
「お茶をお持ちいたしますね」
そう言うと、ミレイユはすぐそばにあった茶器にお茶を用意し始めた。
その様子を見ながら、セレナはゆっくりと部屋の中央へ歩いた。
暖炉の火が、小さく揺れている。
その前に立ち、しばらく何もせずにいた。
セレナはそっと寝台に手を触れた。
柔らかな布地。
清潔で、整えられている。
「奥様」
ミレイユがそっと差し出した茶器から、やわらかな香りが立ちのぼる。
「眠りが深くなるよう、薬草を入れてあります」
「……ええ。ありがとう」
セレナは受け取り、小さく口をつけた。
温かい。
喉を通っていく熱が、少しずつ体の奥へ染み込んでいく。
「ミレイユ」
「はい」
「明日、ユリウスが言っていた“紹介したい者たち”というのは、どんな人たちなの?」
ミレイユは一瞬考えるように目を伏せた。
「奥様の護衛騎士となるカイラスと、もう一人は、まるでユリウス様の片腕のようなお方です」
「片腕のような……」
「エドガー様と言って、旦那様が最も信頼しておられる方のお一人でございます」
セレナは茶器を両手で包んだまま、静かに息を吐く。
また新しい人間関係が始まる。
侯爵夫人として生きる以上、避けては通れないことだ。
(……面倒ね)
「……奥様?」
気づけば、茶器の中身は半分ほど減っていた。
「いいえ。なんでもないわ。教えてくれてありがとう」
セレナはカップを置き、寝台を見つめた。
今夜、ユリウスはこの部屋に来るのだろうか。
別に来てほしいわけではない。
来ても――困るだけだ。
そう思うのに、どこかで落ち着かない。
それが苛立たしくて、セレナはわずかに眉を寄せた。
ミレイユは、おそらくセレナのぎこちない表情に気づいていたが、何も言わなかった。
余計なことは聞かない。踏み込みすぎない。
その距離の取り方が、セレナにはありがたかった。
「……着替えるわ」
「かしこまりました」
ミレイユは一礼し、手際よく支度を整える。
ドレスの紐がほどかれ、重たい布が肩から滑り落ちていく。
その一つ一つの動作が終わるたびに、昼間から積み重なっていた緊張が、少しずつほどけていくようだった。
やがて軽い夜着に身を包むと、体がずいぶんと楽になった。
「おやすみの準備が整いました」
「ありがとう」
セレナは静かに頷いた。
「何かございましたら、すぐにお呼びくださいませ」
「ええ」
それだけ言うと、ミレイユは部屋を出ていった。




