静かな屋敷
《コンコンコン》
ドアをノックする音が聞こえて、セレナはそっと目を開けた。
窓際の椅子にかけたまま、しばらく眠ってしまっていたようだ。
こんなにも熟睡したのは、久しぶりのことだった。
「……どうぞ、入って」
扉がゆっくりと開く。
入ってきたのは、栗色の髪をきちんとまとめ、落ち着いた雰囲気の少女だった。
自分と同じくらいの歳だろうか。
彼女は、セレナを見て深く一礼した。
「失礼いたします。奥様」
セレナは彼女を見た。
「あなたは?」
「ミレイユと申します」
少女は静かに言った。
「本日より、奥様の侍女としてお仕えするよう、ユリウス様より命じられております」
(ユリウスが選んだ侍女……)
セレナは少しだけ興味を持った。
ミレイユの立ち姿には、無駄がない。
まだ若いが、礼儀作法はきちんとしているようだ。
「そう」
セレナは軽く頷いた。
「よろしくね、ミレイユ」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
ミレイユは再び一礼した。
それから、そっと視線を上げて、落ち着いた口調で続ける。
「奥様、夕食のご用意ができております。グレイ様から、奥様をお連れするようにと言われております」
「……もうそんな時間なのね」
セレナはゆっくりと立ち上がった。
窓の外を見ると、庭園のコスモスは夕暮れの色に染まり始めている。
昼間のやわらかな光はすでに薄れ、空は淡い橙と紫が溶け合うような色をしていた。
どうやら思っていたより長く眠っていたらしい。
「ユリウスは?」
何気なく尋ねると、ミレイユは静かに答えた。
「ユリウス様は、書斎で執務中でございます」
やはり、と思った。
屋敷に戻ってきたばかりだというのに、すぐに仕事に戻ったのだ。
侯爵家当主という立場を思えば当然なのだろうが、
それでも十八歳の青年には重すぎる責務のように思える。
セレナは一瞬だけ、昼間の彼の横顔を思い出した。
穏やかな微笑み。
それなのに、その背には帝国屈指の侯爵家の重責がのしかかっている。
「私だけ先に食事を?」
「はい。ユリウス様からそのように仰せつかっております」
セレナは小さく息を吐いた。
「……そう。じゃあ、案内してくれる?」
「はい、奥様」
ミレイユは軽く頭を下げ、扉へ向かった。
セレナは抱きしめていた本を机の上に置き、ミレイユの後に続いた。
***
廊下へ出ると、屋敷の空気は昼間とは違っていた。
歩きながら、ミレイユが控えめに言う。
「奥様」
「なに?」
「ユリウス様は……普段からとてもお忙しい方なのですが……」
セレナは視線を向けた。
ミレイユは少しだけ迷うような顔をしてから続けた。
「今日は、奥様と夕食をご一緒されたいからと、かなり無理をされていました」
セレナは一瞬、言葉を失った。
「……そう」
それ以上の言葉は出てこなかった。
廊下を曲がると、やがて大きな扉の前に出た。
「こちらでございます」
ミレイユが静かに扉を開く。
中は広い食堂だった。
天井は高く、壁には幼い頃のユリウスと両親とが描かれた絵画が飾られている。
中央には長いテーブルが置かれていたが、用意されている席は二つだけだった。
「奥様、どうぞ」
セレナは席に腰を下ろした。
しばらくすると、食堂の扉が開いた。
「待たせてしまったな」
ユリウスだった。
昼間と同じ服のままだが、上着を脱いでいる。
執務の途中だったのだろう。
「仕事は終わったの?」
「一段落はついた」
「忙しいのなら、無理して一緒に食べなくてもいいのよ?」
「無理なんかしてないさ。俺が君と食べたいんだよ」
そう言って、優しく微笑むと、セレナの向かいの席に座った。
ミレイユが静かに料理を運び始めた。
食堂に、食器の触れ合う小さな音が響く。
しばらく、二人は黙って食事をしていた。
だが、その沈黙は不思議と気まずくない。
セレナはふと、食堂を見回した。
大きな屋敷なのに、静かすぎる。
「……この屋敷、随分と静かなのね」
ユリウスが顔を上げた。
「そうか?」
「ええ。侯爵家にしては使用人も少ない気がするわ」
ユリウスは少しだけ考えるように視線を落とした。
「そういえば、父はあまり騒がしいのが得意ではなかったな。使用人たちも、昔から支えてくれているものたちだけを集めていて、新しい人間はあまり好まなかった。だからかもしれないな」
「そうなのね」
それから、ユリウスは少しだけ間を置いて続ける。
「母も、そうだった」
セレナは顔を上げた。
「お母様?」
「ああ」
「お母様は確か、あなたが幼い頃に亡くなったのよね?」
ユリウスはナイフを置いた。
「あぁ。俺が八つの時に病で亡くなった」
声は、驚くほど静かだった。
「そう……そんなに幼い時に……」
セレナはそれ以上聞かなかった。




