優しい場所
セレナは、彼の背中が見えなくなるまでその場に立っていた。
広い玄関ホールには、静かな空気が満ちている。
磨き上げられた大理石の床。高い天井。窓から差し込む柔らかな光。
どこを見ても整えられていて、無駄がない。
まるでこの屋敷そのものが――ユリウスのようだった。
静かで、整っていて、必要以上に主張しない。
それなのに、なぜか強く印象に残るーーそんな感じ。
「奥様」
グレイが静かに声をかけた。
「お部屋へご案内いたします」
「ええ、お願いするわ」
セレナは小さく頷いた。
長い廊下をグレイとともに、ゆっくりと歩いていく。
窓の外には、広い庭園が広がっていた。
噴水の水音が遠くに聞こえる。
壁には控えめな装飾の絵画が飾られていた。
華やかな宮廷風の絵ではない。
どこか落ち着いた風景画が多い。
使用人たちは皆、彼女を見ると丁寧に頭を下げた。
だが、視線には好奇心が混じっている。
それも当然だろう。
六年前、突然婚約が決まり、
そして今日――突然この屋敷の女主人となったのだから。
(不思議な気分ね)
見知らぬ屋敷。
見知らぬ人々。
それなのに、不思議と居心地が悪くない。
「こちらでございます」
案内されたのは、屋敷の奥にある大きな部屋だった。
扉が開く。
扉の隙間から柔らかな光が差し込んだ。
広い寝室に、暖炉、そして本棚。
何よりセレナの目を引いたのは、一面に広がる大きな窓だった。
窓の外には、庭園のコスモスが揺れていた。
「……綺麗ね」
思わず呟くと、グレイが静かに微笑んだ。
「ユリウス様が奥様のためにご用意された、特別なお部屋でございます」
セレナは少しだけ驚いた。
「……ユリウスが?」
「はい。家具の配置まで、すべてユリウス様がお決めになりました」
セレナは再び部屋を見渡す。
確かに、とても落ち着く空間だった。
色合いも装飾も、どこか控えめだ。
けれど、不思議と温かい。
「……そう」
それだけ言った。
グレイは一礼した。
「侍女をお呼びいたしましょうか?」
「いいえ、大丈夫よ。休むから少し一人にしてもらえるかしら?」
「かしこまりました。では、夕食の際にお声がけいたしますので、お休みくださいませ」
「ええ。ありがとう」
扉が静かに閉まる。
セレナは窓辺に歩み寄る。
庭園を吹き抜ける風が、カーテンを揺らしていた。
コスモスがゆらゆらと揺れている。
どこか穏やかな景色だった。
セレナはしばらくの間、ただ外を眺めていた。
それからふと、視線を机に落とす。
そこには一冊の本が置かれていた。
見覚えのある装丁だった。
セレナの指がわずかに止まる。
ゆっくりと近づき、本を手に取った。
タイトルが目に入る。
――”光の雫”
それは、十歳の誕生日の日にユリウスがくれた本だった。
(先に私の荷物を運んでくれていたのね)
セレナはそっと表紙を撫でた。
指先に、懐かしい感触が伝わる。
あの頃のことを、思い出す。
十二歳の誕生日。
まだ子供だったユリウス。
今よりもずっと幼い顔をしていた彼。
真面目で、少しだけ不器用でーーけれど、その瞳は不思議なほど真っ直ぐだった。
あの日、彼は言った。
――『君がいつか、この物語を好きになってくれたらいいな』
セレナは苦笑した。
「……好きになんてならないわ」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
この物語は、あまりにも優しすぎる。
現実は、そんなふうにできていない。
涙が光になったりはしないし、苦しみが報われる保証もない。
それなのに――
そう思いながらも、なぜか、この本を手放すことだけはできなかった。
セレナは本を胸に抱いた。
そして、静かに椅子に腰掛ける。
窓の外のコスモスを見ながら、セレナは思った。
――この場所は、思っていたよりずっと静かで……
そして、少しだけ、安心できる優しい場所なのかもしれない、と。




