愛しいあなた
ーーだがルシアンと逃亡した翌年、二人はあっけなくレオンに見つかってしまった。
「お兄様……お願いよ……見逃して?私今とても幸せなの。どうか……どうかお願いよ……」
「……セレナ……すまない。お前の願いは聞いてやれないんだ。俺と一緒に帰ろう」
「嫌よ……お兄様……お願い……」
ボロボロと涙を流すセレナの隣で、ルシアンは彼女の肩を力強く抱き寄せた。
「レオナード様、私の命でセレナ様を守れるのであれば、喜んでこの命捧げましょう。ただし、セレナ様のことはどうかこのまま見逃してくださいませんか。どうか、どうかお願いいたします」
「……ルシアン!何を言っているの!」
「悪いが、お前の首は皇太子殿下のもとに持ち帰らせてもらう。だが、セレナは帰らねばならない。見逃すことはできない」
「でしたら、私はここで死ぬわけにはいきません!」
ルシアンはセレナの手を強く握り締め、「セレナ様、走ります!」と言うと、レオンに背を向けて走り出した。
「……ルシアン、どこに逃げるの……?」
「セレナ様、もう少しの辛抱です。この先に、私が以前お世話になった教会があります。彼ならきっとあなたを守ってくれるはずです……!」
「……嫌よ、あなたはどうするの!?」
「……大丈夫ですよ。私も後から向かいます。セレナ様はどうか先に隠れていてください。レオナード様も他国の教会の中まで追ってはこれません!」
そうして二人は大きな教会の前にたどり着いた。
セレナは震える手でロザリオを握った。
「このロザリオを持って、入ってください!そして、セオドア様に助けを求めてください!」
「嫌よ!あなたも一緒に――」
「セレナ様!」
その声は、初めて彼が見せる強い声音だった。
「私はあなたが生きていれば、それでいい!」
その瞬間、背後で馬の蹄の音が止まった。レオンだった。
馬を降り、レオンは静かに二人を見つめている。
「逃げ切れると思ったのか?」
その声に、怒りはなかった。
ルシアンがセレナの前に出る。
「レオナード様。あなたは妹君を愛しているのでしょう?」
「当然だ。愛している」
即答だった。
「ならば、なぜ――」
「だが、俺は帝国の人間であり、公爵家の人間だ」
ルシアンの目が細くなる。
「皇太子殿下の命令ですか」
沈黙ーーそれが答えだった。
「セレナを連れ戻せ。男は始末しろ」
淡々とした言葉。
セレナの体から血の気が引く。
「始末……?」
レオンの拳が震えている。
「今ならまだ間に合う。セレナ、お前だけなら守れるんだ」
「守る……?」
セレナの声が崩れる。
「ルシアンを殺して?」
レオンは目を閉じた。
「……俺に選択肢はないんだ」
嘘だ、とセレナは思った。
兄なら、どうにかできると思っていた。
でも違った。
兄はどうやっても帝国の人間だった。
「セレナ様!早く教会の中へ!!」
「嫌よ!」
「どうか……お願いです!!」
その一言に、セレナは動けなくなる。
レオンが剣を抜いた。
「レオン!やめて!!」
ルシアンが振り返った。
その目は、満ち足りていた。
「私は、あなたと過ごした時間で十分幸せでした」
セレナの視界が滲む。
彼との思い出が一気に蘇る。
狭い部屋。
粗末な食卓。
二人で分けたパン。
暖炉の前で重ねた指先。
次の瞬間、レオンが剣を振り下ろした。
ルシアンの身体が崩れ落ちる。
「ルシアン……いや……」
彼の手が、彼女の頬に触れる。
「泣かないで」
「嫌よ……私を置いていかないで」
「あなたは……生きて……」
言葉が途切れる。
セレナは血まみれの手でルシアンを抱き締める。
「あなたとなら……何もいらなかったのに」
彼の心臓は、もう動かない。
セレナの中で、何かが完全に死んだ。
彼の瞳から、光が消えていく。
その時、セレナは初めて絶叫した。
「いやああああああああああああああああああああああああッ!!!」
胸の奥が裂ける音がした。
セレナは崩れ落ちたルシアンの身体を抱き起こす。
「起きて……お願い、起きて……」
何度揺すっても、彼は目を開けない。
レオンは立ち尽くしていた。
剣を握る手が震えている。
「……セレナ」
その名を呼ぶ声は、兄の声だった。
「……帰るぞ」
その一言が、何よりも残酷だった。
セレナはゆっくりと顔を上げる。
「……お兄様」
掠れた声でセレナが呟く。
「私は、あなたを信じていたわ」
「お前を守るためだ」
「違うわ。あなたは、妹よりも帝国を選んだのよ」
セレナはルシアンの頬に額を寄せる。
「ねえ、私……あなたのいない世界で……どうやって生きればいいの?」
答えはない。
血の匂いだけが、濃くなる。
セレナはゆっくりと立ち上がる。
血で濡れたドレスの裾が、重い。
レオンが一歩近づく。
セレナは隠していた短剣を抜いた。
レオンの顔色が変わる。
「やめろ!」
「あなたは言ったわね。私だけなら守れるって」
刃先を自分の胸に当てる。
「じゃあ、守ってみせて」
「セレナ!!」
レオンが駆け出す。
でも、もう遅い。
セレナは一瞬だけ、空を見上げた。
夕焼けがとても綺麗だった。
「ルシアン」
唇が微笑む。
「今、行くわ」
そして、ためらいなく刃を押し込んだ。
鋭い痛み。
だが、それは皇宮で味わった痛みより、ずっと優しい。
血が溢れだし、身体が傾く。
レオンがセレナの体を抱き止める。
「……なんでだ!!」
レオンの震える声。
セレナはかすかに目を開く。
「お兄様……私、幸せだったのよ」
涙が、レオンの頬を伝う。
「……すまない……すまない……」
セレナの視界が暗くなる。
最後に見えたのは、ルシアンの愛しい顔だった。
「愛してるわ……ルシアン……」
かすかな囁き。
そして、セレナの心臓の鼓動が止まった。




