16.いつから?
本日2回目の更新です。
「アデリナ様、どうぞ」
「ありがとう、ニール」
ニールに手を握られて歩くのも、だいぶ慣れてきた。
これまでも彼は私と一緒にいてくれたけど、こんなふうに歩くときに手を取ってエスコートしてくれるということはなかった。
ただ静かに側で控え、何かあれば歩み寄る。それだけだった。
けれど今は私の隣でとても嬉しそうに微笑んでいる。
まるで凍っていた氷が溶けたように、冬が終わり春が訪れたように。彼はよく笑うようになった。
今日も空いている時間にニールと二人で庭園に来て、庭師が新しく剪定してくれたばかりの草花を見ることにした。
ニールとこうして一緒にいる時間が、私にはとても心地いい。
結婚相手に愛なんて望んでいなかったけど、彼は違う。
口だけではなく、私を大切にしてくれる。愛してくれる。
そんな彼のことを、私も――
「アデリナ様」
そのときだった。
後ろから声をかけられ、私の背中に嫌な汗が流れた気がした。
この声って……。
「……ヘクター様?」
「やっぱりアデリナ様だ。お元気でしたか?」
私の元婚約者、ヘクター・ザクセン。
彼は、夜会の場で私を断罪しようとした男だ。
彼の姉、イルゼは嘘を吐いて王女である私を陥れようとした罪で辺境の地送りとなったけれど、ヘクターは姉の話を鵜呑みにしていただけということと、彼の父であるザクセン伯爵が、娘に続き跡継ぎ息子まで失うわけにはいかないと、大金を積んでくれたおかげで一ヶ月間の事情聴取……軟禁で済んだのだ。
「あれから僕はすっかり参ってしまって……社交の場にも顔を出しづらくなってしまいましたよ。ですが、アデリナ様もそうでしょう?」
「え?」
頰が痩けて少し痩せたように見える彼は、髪にも艶がない。確かにすっかり参っていたようだし、今後も彼と結婚してくれるようなまともな女性が現れるかはわからない。
けれど、一緒にしないでほしい。
よく私の前に顔を出せたものだと思う。
「本当に申し訳ありませんでした。あんな場で貴女に婚約破棄を告げるなんて……深く反省しております」
今更謝罪をしに来たの? そんなことはもういいから、早く帰ってほしい。正直、もう顔も見たくないのだ。
「いいわよ、もう済んだことなのだから」
「……ありがとうございます、アデリナ様。それでアデリナ様、どうか僕との婚約を結び直していただけないでしょうか?」
「……は?」
なに言ってるの、この人。
あまりに予想外なことを言われて、思わず変な声を出してしまった。
「アデリナ様は俺の婚約者です。貴方もご存知のはずですよね?」
けれど、先ほどから黙って話を聞いていたニールが、私の代わりに口を開く。
そうだ。社交界に顔を出していなくても、ニールはあの場で私に求婚したのだから、ヘクターもそれを聞いていたはずだ。
「本当に婚約したのですか……? あれはあの場でアデリナ様に恥をかかせないために護衛騎士として言っただけじゃ……!」
「いいえ。俺は本気でしたよ。アデリナ様を愛しています。貴方と違ってね」
私を庇うように一歩前に出たニールが、はっきりとヘクターに告げる。
誰がどう見ても、ニールのほうが格好よく見える。色んな意味で。
「……っいきなり彼女を好きだなんて、そんなの嘘だ! だって貴方はずっと王女にも、誰にも興味を示していなかった……!」
ニールの言葉にかっと顔を赤らめて、ヘクターはみっともなく声を荒げた。
「あの場で王女を庇えば結婚できると思ったのだろう!? どこから情報が漏れたのか知らないが、どうせ証言者の誰かから情報を金で買ったのだろうな!」
「やめてください、ヘクター様」
ニールよりも背の低いヘクターは、まるで子供のように見苦しく喚く。
「貴女も貴女ですよ、アデリナ王女! 僕と婚約していたというのに、あっさりとこの男に乗り換えて……!」
乗り換えるというか……元々ヘクターに気持ちはなかったのだけど。それはまぁ、お互い様でしょう?
「おい」
「あ? なんだ――」
ヘクターが私に向かって唾をまき散らしながら喚いていると、ニールが低い声を出してずいっと彼に近づいた。
途端、ヘクターの顔色が変わる。
「お前、死にたいのか?」
「……あ……いや……」
私の位置からではニールの表情を見ることができなくなってしまったけど、ヘクターの顔は見える。
びくりと肩を震わせ、パクパクと口を動かして空気を漏らすヘクター。
「俺のことをどう言おうと構わないが……、それ以上アデリナ様を侮辱してみろ」
「……っ」
「二度と口が利けなくなるぞ」
「…………は、はいっ……」
ニールがこんなに鋭い声を出したのは、初めてだ。その表情が見えなくても怒りが伝わってくる。
固まったまま動かなくなってしまったヘクターを気にせず、ニールは私に笑顔を向けると「行きましょうか」と言って再び手を差し出した。
「……ねぇ、ニール」
「はい」
手を繋いでゆっくり歩きながら、私は先ほども聞いた「愛してる」という言葉を頭の中で反復した。
「貴方は、いつから私のことが好きなの……?」
「……」
そして、ずっと聞いてみたかった質問を、勇気を出して聞いてみる。
ヘクターも言っていたけれど、確かにニールは私にも誰にも興味があるようには見えなかったのだ。
いつも冷めた雰囲気のある人だった。それなのに、本当に人が変わってしまったように、今では私を愛してくれているのが伝わってくる。
「俺は――」
足を止めた私たちは、手だけ繋がったまま人一人分の距離を空けて見つめ合った。
「……俺は、アデリナ様を失って、初めてその存在の大きさに気づきました」
「え……?」
私を失った?
それは、どういうこと……?
「俺は一度貴女を失っているのです」
ニールが何を言っているのか、一瞬理解に苦しんだ。混乱した。
けれど私には、心当たりがある。
私は一度死んでいる――。
それじゃあ、ニールもやり直しているということ……?
「聞いてください、アデリナ様」
「……ええ」
静かに語り始めたニールの言葉を一つも逃さないように、私はごくりと息を呑んで背筋を伸ばした。




