批判とメリット
昨今話題の読者の権利ついて。正直私の話題とはずれるから扱わなかったけど、一部重なってると思ったので書きます。以前どこかで書いたかもしれませんが、結論から言うと”なろう”では肯定的なコメント以外認めるべきじゃないと思っています。その理由として、作者にメリットが無いだろ?って思うからです。
重要な事を書きます。私はすべての作品に否定的コメントを避けるべきだと思っていません。なろうのランキングを重視した作品は批判的なコメントは排除すべきです。むしろ禁止すべきです。何故なら作者にとってメリットの無い批判はただの悪口にしかならないからです。何故多くの人は一般論として語ってしまうのか?ここに問題があると思います。なろうだけの特殊事例とするべきです。
ただ私は頭をあまり使わない物語はすべて批判的意見禁止で良いと思います。アニメ漫画もそれにあたるの?ならそうなりますが、そこでなろうとの違いを語ります。なろうは文字ゆえに文字につかう頭脳的負担から内容がさらにアホになっていきます。ここで勘違いしてほしくないのは何度も書いてますが、アニメ漫画を含めてなろうはアホになって楽しむもので、アホが楽しむものじゃないです。
だからなろうを読んでいるものはアホばかりだと言う誹謗中傷は不快です。あほである可能性は否定しませんが、可能性で断言されると不快です。ただ無理にアホな内容ってのを否定しようとする読者は見苦しいと思っています。敢えてあほになって楽しんでる読者を、あほに違いないって断言するレッテルはうざいってだけです。なろう作品は内容はアホだよなってのは、別に否定しなくていいです。
なろう作品は文章を読む難解さに漫画アニメより脳のリソースが取られるので仕方ないんです。アニメで見るなろう作品と小説で直接読む作品じゃ全く違います。それは内容じゃないです。なろうを直接読むのは多大な労苦を伴います。それを知らずにアニメだけ見て馬鹿にしてる連中の意見など聞いても意味が無いです。
将来私の目指す少数精鋭ランキングが作られるなら批判コメント解禁で良いと思います。むしろやるべきです。作品が向上するからです。私が批判を重視するのは作者一人にとっては負担でも作品全体で見ればメリットがある場合があるからです。無制限な読者の権利はむしろ制限するべきです。
じゃ何故その違いが生じるの?なら、頭を使って読む作品には頭を使った良い批判が寄せられるからです。元がパッパラパーななろう作品じゃただの悪口にしかどれだけ頑張ってもならないでしょう。そもそもこれどうやっても作品を向上させるメリットのある批判にならずにただの悪口にしかならないって気が付かない時点で、そのコメントの書き手多分馬鹿で無能です。そんな奴の話まともに聞くことないです。
よって無駄なので全面禁止した方が良いです。ただし、作者が受け入れればいいのではないか?と思っています。よって現時点で全面禁止になってないなら作者がブロックするのは至極真っ当な行動と言えると思います。運営が原則禁止にしてしまえば特別な機能はいらないです。ブロックに大義名分を運営が与えればいいだけです。それを当然の権利みたいに書くからおかしな話が流行するのです。
読者にはすでに、作品にポイントを与えるって大きな権利があるのですからこれで十分じゃないですか?私自身なろう作品を言語化しようとして無茶苦茶苦労しています。それは頭を使わない作品って理論的に分析するのがとても困難だからです。そのため、一つ一つの作品では無くマクロに集合として扱っています。
作品に対する個人個人の意見なんて確率的な感情論にしかなりません。それを知的なものにしてるのは集合としての傾向だけです。私はそれを量子力学と似ているととらえています。粒子の1つ1つは知的な見解を求める意味を持たないがそれらを集合としてとらえると知的活動に使える学となると言うわけです。いわゆる波ですね。
よって一つ一つの個別の感想などゴミだとして良いと思います。作者が見るべきはむしろPTだけで良いと思います。コメントと言う形で答えをくれてる読者は大体偏った見解の持ち主だけです。否定的コメントを真に受けると物言わぬPTをくれるサイレントマジョリティの行動をゆがんでとらえる可能性が高いです。
じゃ肯定的な意見も意味がないじゃないか?なら意味は無いです。ただ気持ちいいでしょ?ほめられてうれしくない人っているの?ってなります。それは作者のメリットでしょ?だから書いています。作者が許可すれば否定的コメントもいいのでは?んまー私はマゾかよって言いますけどね…。役にも立たないコメントもらって何がうれしいんだろう?って多分読者を馬鹿にするようで言いたくないのですかね?でもそういったごく少数のマゾ的作者が多くの作者に迷惑かけてるんですよね。
謙虚な作者ってのは、ただのマゾ的な変わり者だと私は見ています。何故ならその作者は古い価値観で批判は肥しと見てるからだと思います。今のなろうにそういった批判精神は役に立たないと思います。むしろ物言わぬサイレントまじょりtぃもこう見てるんだと思う被害妄想を持つ害悪にしかならないと思っています。
私がなろう作品を知的に分析してるのは興味本位と、もう1つは今のなろうとは違うものを新しく作りたいからです。今のなろう作品で成功する秘訣はランキング上位の模倣です。これをやめるための方法論を確立しようとしています。これ自体は簡単です。その一つの答えが少数精鋭ランキングです。最初から多数派を無視すればいいのです。
そこなんです。多数派相手に変えていくには?そうなると多数派が今のパターンの奥底に眠るもっと大きなものを求めてると掴めば、パターンをそのまま模倣しなくていいからです。よって現行の作品の良さはなろうテンプレこそがそこだと思います。それゆえそれを使いこなしてる作者より知的に語れる人なんていないんです。すでにそこそこPT取れる作者なら読者の意見って多分役に立たないと思います。
もっと上に行くには?何度も書いてるのですが、それは現行の作者も分かっていません。正直言って100や200ランクが変わったからってそれが内容のおかげと言えるか?というとなんとも言えないです。ランクの順位なんて多分に理解不能な確率的現象としか私には見えないんですよね。さいころの出目に振り回されるギャンブラーにしか大半の作者やエッセイの書き手って見えないんですよ。
何度も書いてますが、なろうのランキングって下の足切りにはとても有効だが、上の些細な順位を上げることについてはあまり意味がある言及できないだろうなと見ています。底辺からの脱出は大事だと思いますが、その後中位から上位には意味のある言及って可能なのか?なんとも言えないです。
この世界東大クラスでもさいころの出目に振り回されて解釈を垂れ流すオカルト論者がものすごくいます。それは神学論争や形而上学に近いと思います。
抽象的で具体性のない読者の権利なんて意見はやめて、具体的に作品にとってどんなメリットが否定的コメントから生まれるの?って考えるべきだと思うし、なろうを特殊だとして一般論への拡大を避けるべきじゃないか?と私は思っています。ケースバイケースで語るものを敢えて枠組みを大きくして語るのは良くある議論の収拾をつかなくさせる悪質な手口です。ただ本人が悪意的じゃないのが多いのがやっかいなのですけど…。
常日頃から安易にざまぁとして恋愛とハイファンをまたぐざまぁ読者って一括した見方を私は否定しています。個別に対応した方が圧倒的に話しやすいんです。大きな枠組みにするほど、具体的が減って抽象的な神学論争形而上学に近いものになるですよね。