橋の向こうの落書きを
ある日の夕暮れ時、事件が起きた。壁の落書きを塗り直していた清掃員にある青年が暴力を振るうというものだ。
それを目撃した9歳の少女リッカは、携帯電話で警察と病院に通報した。パトカーの音に気付いた不良はその場から逃げ、暴力は止んだ。逃げた青年はまだ見つかっていない。
リッカはその場でもう一件、電話をかけていた。
リッカが電話したのは川の向こうに見える駐在所。そこに勤務する駐在さんだ。その駐在さんは落書きをきれいにしてくれる、と評判の駐在所だった。
あるとき、リッカは大きな川をまたぐ橋に落書きをしている不良の姿を目撃した。川の向こうには派出所が見える。リッカは落書きしている不良の出で立ちをジッと観察した。不良が立ち去った後、すかさず駐在所に電話を掛けた。
「落書きしてる人を見つけました。耳に沢山ピアスをつけてて黄色いジャンパーを着てました」
「そうか、情報ありがとう。ちなみに場所は?」
「橋の東側の壁です。たぶんその駐在所からも見えると思います」
「…なるほど、了解しました。その子を見つけたら厳重に注意します。壁の清掃も手配しましょう」
その後すぐに壁は隅々まで真っ白になっていた。それを見たリッカはもう一度駐在所に電話を掛けた。
「駐在さんありがとう!壁すごくきれいになってるよ!」
「あぁ。いつも見てた壁だけど、真っ白もいいもんだね。この間と同じところにいるかい?」
「そうです。もしかして見えてますか?」
リッカは白い壁の前で大きく手を振る。よく見ると、駐在所の窓から手を振る人が見える。
「駐在さんは正義の味方です。駐在さんがいれば平和で綺麗な街になると思う」
「そういってくれると、嬉しいよ。街で何かあればすぐ知らせてね」
「駐在さんは私のヒーローです!」
駐在さんは電話に出なかった。
どうして?
辛うじて冷静ではあったが、リッカは絶望に近い感覚を覚えた。
綺麗で平和な街を愛する私のヒーローが、こんな事態にどうして助けてくれないの?
清掃員さんがどうして襲われているの?落書きはやめさせるんじゃなかったの?そいつのせいで、あの人は殴られて、血まみれになってる。
これが正義なの?約束が違う。あの駐在さんは、私のヒーローなんかじゃなかった。
「警察には詳しく話を聞かれました。そのとき駐在さんのことも話したけれど、取り合ってくれませんでした。大人はみんな私を『たまたま通報したお手柄小学生』としか思っていないんです。本当はなにも終わってない。駐在さんがどうして私を、正義を裏切ったのか分からない。許せないんです。だから探偵さん、駐在さんを探してください。お願いします」
探偵とリッカは事件現場である河川敷を訪れた。探偵は橋の下に入り、塗り直された壁を見ている。壁の真ん中に、周りより一段明るい白色で塗り直された部分がある。
「そこを塗り直しに来た時不良と鉢合わせて、清掃員さんは襲われたんです。その前に駐在さんが止めてくれてれば、こうはならなかったのに…」
現場を見終えたらしい探偵は河原を後にし、土手を上がっている。リッカが小走りで後を追い始めたとき、探偵は通行人を呼び止めた。シールがベタベタの自転車に乗った青年だった。事件を起こした不良では無かったが、似た雰囲気だとリッカは思った。話を聞くと、その不良のことを知っているらしかった。
「あぁ、まだ捕まってないらしいなあいつ。西側にいるらしいけど、どこに居るかは知らないよ。
最後に見たのは結構前だな。そこの落書きが消されちまったって怒ってたよ。あいつの絵、俺も好きだったんだけどな」
探偵とリッカは川の向こう、街の西側に渡ることにした。
この街は川を隔てて治安の良し悪しがハッキリ分かれていて、西側の治安は子ども一人で出歩けるものではなかった。探偵のもとを訪れるまで、リッカは橋から向こうへ行くことは出来ていなかった。
駐在所は橋を渡ってすぐの場所に位置する。訪ねようとするも、だれも駐在していない。リッカの知る警官が見えなくなって以降、新たな警官は来ていないようだ。探偵は建物を一周し、付近をきょろきょろ見回している。ひと気が無かったら侵入するつもりだったな、とリッカは思った。
派出所から手がかりが得られない以上、聞き込みをするほかない。探偵は、川沿いを中心に聞き込みをしている。リッカはもっと奥へ行けば落書き犯に関する証言も得られないかと思った。しかし奥へ行くほど治安は悪くなるため、避けているのかもなと納得した。
派出所を始点に南へ北へと往復し、聞き込みを行った。事件のことを知る人は多く、駐在や落書き犯を知っているという人も居たが、現在どこで何をしているかを知る者はいなかった。
日も暮れようかという頃、探偵とリッカは派出所付近に戻ってきた。リッカはベンチに腰掛ける。
「駐在さん、どこ行っちゃったの?」
リッカの横に座ろうとした探偵だったが、バッと立ち上がり川の向こうを見た。何かを見つけたようだ。すでに走り出している探偵に付いて来いと言われ、リッカも慌てて走る。先を行く探偵は橋を渡り切り土手を駆け下りている。やっと橋を渡ったリッカは橋の下を覗き込む。すると、探偵が何を追っていたのかが分かった。
一人の青年が探偵と揉み合いになっている。
青年の姿に目を凝らす。ぎらぎらと光るピアスに黄色いジャンバー。リッカが今までに二度目撃した不良だった。
探偵の手を振りほどき背を向けた不良だったが、ジャンバーの裾を掴まれた拍子に足を滑らせその場に転んだ。その隙に探偵がのしかかって取り押さえる。
我に返ったリッカがそばまで近寄る。両者ともに顔や手の甲に擦り傷を沢山作っているのが分かった。
「あぁ!怪我してる!救急車!?いや、それほどじゃないか。いやでもこの人!警察呼ばないと!あれ?救急車!?パトカーは警察?!」
リッカがわたわたとする間に探偵がタクシーを呼んでいる。その手もあったか。しかしこの不良は黙ってタクシーに乗るだろうか?とリッカは思ったが、探偵が立ち上がってもそこから動こうとはしない。すっかり観念している様子だ。塗り直された壁を地面に伏せたまま、じいっと見つめている。懐かしい景色を見るかのようで、何をも貫く鋭さを孕んでいる。山ほど言いたいことがあるリッカだったが、唾をのんで数歩後ろに退いた。
程なくしてタクシーが到着した。リッカが助手席に座り、探偵と不良が後部に並んで乗った。リッカは当然警察署に不良を連れて行くのだろうと思っていたが、後ろの探偵が告げた行先は街で一番大きい病院だった。
病院に着き、タクシーから降りる三人。探偵は不良に「行くか?」と聞いた。不良は黙っていた。答えを知っていたように背中を向け、探偵は病院の入口へ向かう。リッカはどうすればいいのか分からなかった。しかし立ち止まっても居られなかった。全速力で探偵に近づき、付き添って歩いた。
受付に向かった探偵が何やら話しているが、リッカの耳には届いていなかった。聞くべきこと言うべきことが沢山ある。そのいずれもが重要なことだ。だがそんなリッカの頭から離れないのは、川原に伏せていた不良のあの目だった。自分が何をしているかも分からないのに、あれがどうしても脳裏に引っ掛かる。
空を見つめるリッカの手を探偵は引いて、院内を進んだ。エレベーターを昇り入院病棟を行く。四階、四五七室。ドアを開け中へ入り、探偵はカーテンをめくった。
「病院の前に居たのは、やっぱり君か」
絆創膏いっぱいの顔でベッドに座る男性。リッカはその声に聞き覚えがあった。
「もしかして、駐在さん…?」
ただ私の周りからいなくなっただけだと思っていた駐在さんは、痛々しい姿で入院している。どうして?と聞こうとした時、駐在さんの傍らにある紺色バッグが目に入った。そこに白いペンキの跡が付いている事に気付き、リッカは気付いた。この事件が要するにどういう事か。
「清掃員さんは、駐在さんだったの?」
「騙すかっこうになってしまってごめんな。こんなつもりじゃなかったんだけど」
駐在さんは布団にくるまった足をぺしぺしと叩いた。
「前まで私はもっと大きい街の警官だったんだ。ちっとも成果を上げられず、この街に出来た駐在所に飛ばされたんだ。とことん、勤務意欲を失った。警察のクセに、私に正義感なんてなかった。大した仕事もせず川の向こうの落書きを眺める日々だったんだ」
あの日までは、と駐在さんは続けた。
「あの日君は電話で落書き犯の事を知らせてくれた。ルールを守ろう、街を綺麗にしよう、と純粋な正義にしたがって。恰好いいと思ったね。いい歳の大人が、小学生の君に憧れたよ。
電話をくれた日君に伝えたように、清掃を手配するつもりだったんだ。でも私にそんなアテはなくてね。自分でやることにしたんだ。脚立を使って、一晩かけて。あそこで怪我しなかったのは奇跡的だ。
次の日明るくなったころ駐在所からあの壁を見た。夜中じゃ分からなかったがびっくりするほどきれいになってた。勿論、よく見れば素人の仕事なのは分かる。でも、そうじゃないよな。これは君もわかってくれるよな。
それから数日経った日の夕方、またひとつ落書きがあるのを見つけた。以前の私なら眺めて終わりだろうが、あの電話のおかげで私の中にも正義感が芽生えてる。すぐペンキをもって川原に行った。落書きひとつ隠すのに時間はかからなかった。辺りも暗いので帰ろうとしたとき、一人の少年と出くわした。また真っ白に戻った壁を悔しそうに見ていたから、落書きしたのが彼だとすぐに分かった。優しく注意したけど聞く耳を持ってはくれなかった。思い切り突き飛ばされて尻もちをついた。激痛が走って動けなくなった。座ろうとしてる人の椅子を引いて転ばせるイタズラあるだろ?あんな感じでね。ありゃやっちゃだめだ。そして動けなくなったところを殴られた。でもその時の痛みは不思議と覚えてない。そして意識がもうろうとし始めたころ、君の呼んだパトカーのサイレンが聞こえた。あの日も君に助けられたんだね。
君に嘘はつきたくないから、正直に言う。落書きなんて放っておけばよかったと、思ってる。壁が白くなる事の引き換えに、私の脚は動かなくなった。
でも、それは君のせいじゃないとも思ってる。これが私の運命だ。この怪我のせいで、君の正直さを失ってほしくはない。
君は私より賢い。もっと賢くなれる。その純粋な目で、君の正義を探すんだ。
…言いたくないが、これも言っておかないと。 私は、あの落書きが好きだったんだ」
病室を出ると傍の壁に不良がもたれて真正面を見つめていた。探偵とリッカに一瞥もくれず階段へ歩いた。
玄関を出ると、しばらくむこうを歩いているのが見える。また逃げるかも、とはちっとも思わなかった。
病院と警察署は目と鼻の先のはずだ。迷わず向かうに違いない。この景色と壁の落書きをリッカは重ね合わせた、美しい景色だと思ったことは、誰にも言ってはならないと思った。




