2-3
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滞在から三日目に、サンドラはイーゴルに案内されて兵舎にいた。
「うわ……」
まだ入り口に立っただけだというのに地響きと雄叫び声がこだまして全身が揺すぶられる感覚に、サンドラは唖然とする。
まだ姿はみえないものの大勢の巨漢達が槍や斧、あるいは大剣を持って鍛錬に勤しんでいるのだ。昔ここにいた兄のボグダンにも話は聞いていたとはいえ、実際に直面すると驚いてしまう。
「俺が一番よくいる場所がここだ。騒々しいのは苦手、か」
呆気にとられているサンドラに、イーゴルが少々不安そうに眉根を寄せる。
「ううん。話に聞いてたよりすごそうでびっくりしただけ。ここもやっぱり、すごく広いのよね」
初日こそ緊張していたものの、イーゴルと共に短い時間でも一緒にいて話しているうちにすっかり入りすぎていた力は抜けて気楽に過ごせるようになっていた。
「ああ。多くの兵達がここで鍛錬している。口で説明するより見た方が早いな」
そうしてイーゴルに促されるまま赤煉瓦の兵舎の中へと入る。途中長い階段があり、見張り台へと繋がるらしかった。
「あそこの森も練兵場なの? ……子供よね」
やっと登り切って鎧戸から外を見渡すと、いくつかの建物に囲われた広場で何百という兵が揃いの白い軍服で鍛錬している他に、建物の奥の森の中にちらちらと小指の爪の先ほどの大きさの白い人影が見える。
「そうだ。あそこもだ。ここから子供とわかるか」
「うーん、速さと樹の大きさとの差でなんとなくそうかなって」
「兄妹だな。ボグダンもここにいたときは一番目がよかった」
「初めて聞いたわ。だから兄さんのこと覚えてたの?」
イーゴルがボグダンのことを覚えていることは少し不思議だったのだ。長兄が軍にいたのは十一年も前だ。その頃、イーゴルはななつである。これといって特徴のない兄はこの大勢の兵達に埋もれてしまっていただろう。
「覚えやすかったのはそうだな。それに、俺は全部とはいかなくともできるだけ一言でも言葉を交わしたことがある兵の名前は覚えるようにしている。ここにいる全員としたいところが、いかんせん俺は物覚えがわるくてな」
「それでも何百人でしょ、すごいわ」
貴族の男子の他にも志願兵も多く滞在していて、それこそ数え切れない人数が入れ替わり立ち替わりしているのだ。イーゴルのことだろうから、身分など気にせず多くの兵と言葉を交わしているだろう。
「ううむ。数にするとそんなに多いか? 任期を終えて故郷に戻った者達と会う機会も少くないのでな、ちゃんと覚えていられるか自信はない」
「でも、ボグダン兄さんのこと覚えてられたんなら他の人も覚えてるわよ」
何百人といる中で目がよかったぐらいしか目立ったところのない兄を覚えていたのだ。他にも大勢覚えているはずだろう。
「フィグネリアのように家名まで覚えるということまでとはいかんが、名前ぐらいはわかるといいな」
「第一皇女殿下、ほんとうにすっごく頭がいいのよね。せっかくお話ししてくれるのに、あたしじゃ全然話相手にならなくて……」
フィグネリアとリリアは初日の昼食後も連れだって顔を見せてはくれるものの、フィグネリアの話題はいつも難しくて答に窮してしまいまるで会話が成り立たない。
「大丈夫だ。俺もさっぱりわからんことの方が多い。やはり、政の話の相手をできる友人がもっといたほうがよいのだがな」
イーゴルが見張り台からまた下へと移動しながらぼやく。
「できれば同い年ぐらいの方がいんだろうけど、フィグネリア皇女殿下と同い年ぐらいで同じぐらい頭の良い子って難しいわね」
「いや、あれよりふたつ年上でなかなかに聡明な子はいることはいるのだ。一緒にいる所を何度か見かけたのだが、本人に友達かと聞くと、友人と言うほど親しくないという返事でな。フィグネリアも人見知りなところがあるから、まだ馴染んでいないだけやもしれんが」
「何回も会ってるなら、きっとその子と友達になりたいのよ。相手の子の方は?」
「フィグネリアとよく似て真面目で賢い少年だ。ラピナ公のご子息でな。いかんせん真面目すぎて、遠慮が過ぎる所があるのでなあ。身分とは時にわずらわしいものだな」
確かに真面目で思慮深い子供なら、ことさら上下関係にも気を使ってしまうだろう。
「むずかしいわねえ」
「むずかしい。おお、噂をすればだな。タラス!」
下へ降りるとちょうど黒髪の少年が歩いていて、イーゴルが呼び止める。少年、タラスはすぐさま跪いて深く頭を下げた。
サンドラはその様子を少し離れて見ていたのだが、イーゴルに呼ばれて前に出る。
(ラピナ公の御嫡男……。ええっと、九公家の跡継ぎ、よね)
恭しい挨拶を聞きながら、家格ははるか上の幼い少年との距離感に戸惑ってしまう。
普段子供に接するように、とはいかないのは皇女ふたりの時もだがやはり身分や立場というものがくっついてくるとあたふたしてしまう。
「サンドラ様は軍事に関心がおありなのですか?」
挨拶をすませたあと、タラスにそう問われてサンドラは首を横に振る。
「そいうわけじゃないんだけれど、あ、ないんですけど、考えたこともなくて……」
何も考えずにイーゴルについてきただけなので、他に答えようがない。
「俺がいつもいる場所を見て欲しくて連れてきたのだが、そうか、俺もサンドラが興味があるかまで考えていなかったな……」
「あ、つまらないわけじゃないの。ボグダン兄さんがいた所だし、知らないものを見るのは嫌じゃないもの」
目にするものなにもかも目新しく退屈なことはない。なによりイーゴルと一緒にいる。それだけで楽しいのだ。
「そう聞いて安心した。これから行くところは弓の練習場でな、それならばサンドラも見ていて面白いと思うのだが、どうだ?」
「うん。見てみたい。……あ、ごめんなさい。えっと……」
サンドラはタラスがじっとしていることに気付いて、イーゴルに視線を送る。どこかへ向かう途中の足止めしてしまったのではと思うのだが、ここはイーゴルが何か言わなければ彼も動けないだろう。
「タラス、呼び止めてすまなかったな。フィグネリアの友人の話になって、いずれはお前が良き友になってくれるだろうと話をしていたところだったのだ。これからもフィグネリアと仲良くしてやってくれ」
「……私がフィグネリア皇女殿下の友とは、恐れ多いことでございます。友と呼んでいただけるほどご信頼をいただけるよう、これからも誠心誠意お仕えさせていただきます」
十歳児にしては堅苦しすぎる返答にサンドラは目を丸くしながら、タラスが慇懃に礼をしてその場から去るのを見送る。
「もう少し気楽にかまえてもよいのだがなあ」
イーゴルが後ろ頭をかきながら零す言葉にサンドラは苦笑する。
「でも、フィグネリア皇女殿下とはすごく気が合いそうだわ」
ほとんどふたりを知らないものの、受けた印象はよく似ている。
「似たもの同士。上手くいくといい」
そんな話をしながら、サンドラはイーゴルに案内され延々と続く廊下を歩き外に出る。それと同時にしなる木の音と風を切り裂く音が複数重なり合った音が響いた。
「すごい……」
大きなイーゴルの背中に阻まれて見えなかった景色が見えると、思わず感嘆の声が漏れる。
縦に長い演習場では二十人近くが横に並び一斉に矢を放っていた。一組が終わると、またもう一組と一糸乱れぬ連携である。
「全隊、停止!!」
指揮官と思しき兵がイーゴルの姿を見つけると素早く兵達の行動を止める。
百以上はいるだろう兵達の視線が一斉に向けられ、サンドラもびっくりして首をすくめる。
「えっと、よろしくお願いします!」
イーゴルから大声で兵達に紹介され、サンドラもつられて大きな声で返す。
まるでこれから入隊でもするかのような威勢の良さに、今度は兵達が目を丸くしながらも少々緊張した雰囲気が和やかになる。
「訓練中、手を止めさせてすまんな。サンドラに弓を見せたいのだがよいか?」
イーゴルがそう言うと、すぐさま兵のひとりが弓を持って来る。
「これはちょっと引けないわねえ」
弓の長さは自分の背丈ほどもあり両手で持ってもずっしりと重みがあって、長身で筋骨隆々とした屈強な男にしか引けなさそうな代物だった。
「サンドラ、弓を引いてみたいか?」
「え。そっか。あたし、自分で引くつもりで来ちゃった」
弓の練習場ならば当然自分も弓を引くものだろうと思っていたサンドラは、イーゴルがそう思っていなかったことにきょとんとした後、照れ笑いを浮かべる。
「サンドラが引ける弓か……。ここで一番弱い弓を試してみるか」
どうやらもう少し軽い弓もあるらしく、イーゴルが持って来させる。
「皇太子殿下、女性の力ではこれも難しいと思われますが……」
そして持って来られた弓は、最初の物よりは短く軽いとはいえ自分の顎ぐらいまでと長い。
「やるだけやってみてもいい?」
今まで使ったことのある弓は自分の胸の高さよりも少し上ぐらいまでだが、引けないこともなさそうである。
サンドラは不安げな兵達に見守られながら、的の前に立つ。的は遙か遠く親指の先ぐらいの大きさである。
(ドレスが動きやすいのでよかったわ)
今日は袖も裾も広がりの少ないドレスで邪魔にはならない。
(やっぱり重いわね)
いざ矢をつがえて引くとなかなかに力がいる。それでもサンドラは引ききって、矢を放つ。
的は外したものの、そのすぐ側までは届いた。
息を詰めて見守っていた兵達もざわざわし始める。あの細腕でよく引けたものだと、耳に入ってきてサンドラも少々申し訳なくなる。
丸太のような腕の男達から見れば自分の腕は細く見えるだろうが、ドレスの上腕部分で平均的な女性よりも筋肉質で太い腕をわかりづらくしているだけである。
「さすががだな」
「外したのは悔しい。ねえ、あと三本だけいい? 的に当てたいの」
しかしそれよりも、真っ直ぐ飛ばせただけという結果には不服でサンドラはイーゴルに頼む。
「もちろん。負けん気が強いのはよいことだ」
イーゴルが楽しげに答えてさらに矢を用意してくれ、サンドラは深呼吸をひとつして再び矢をつがえる。
感覚は掴んだので最初よりはすんなりとひけた。
風を割く音と、的に矢尻が当たる鈍い音がほとんど同時に響く。
「端っこかー」
的には確かに当たったが、端も端である。
サンドラのつぶやきに、遠眼鏡を持った兵が的の左斜め上を確認して周りからおおという歓声が上がる。
「真ん中でなければ納得いかんようだな」
わくわくとした顔でイーゴルが言うとおり、サンドラは中央に当てるとやる気を漲らせていた。
矢は残り二本。
サンドラは熱くなりながらも周りの物音が聞こえないほど集中する。
兵舎の他の訓練で地面は震動しているし、風向きも少し変わった。
的には確実に当てられる自信はあるのだが。
三本目の矢を放つ。
「ああ、下すぎた!」
今度は先程の対角線上の右端だった。
後もう一回だけ。
ここ一番の緊張にその場の全員が固唾を飲んで矢が放たれるのを待つ。
そうして、最後の一矢が指先から離れる。
「……いった? あ、ちょっとずれてる?」
サンドラは目を細めて遠くの的を肉眼で確認するものの、中央あたりに刺さった矢で見極めがつかない。
「少々ずれておりますが、たったこれだけの矢数でこれほど正確に当てられることはありませんよ。お見事です!!」
遠眼鏡で確認した兵が称賛を贈ると同時に、周囲で一際大きな喝采が起きてサンドラは真ん中は外したのにいいのだろうかと思いつつ、その場の雰囲気が楽しくて笑顔になる。
「訓練の邪魔しちゃってごめんなさい。でも、楽しかったです。ありがとうございます!!」
そして歓声に負けじと声を張り上げる。
盛り上がる中、イーゴルの側に戻ると彼も満面の笑みで迎えてくれてふわふわとした気分になる。
「楽しんでくれたか」
「うん。すっごく。ありがとう」
そうしてふたりは微笑み会いながら、その場を後にして来た時よりも少しだけ近い距離で並んでゆるりとまた兵舎内を巡ることにしたのだった。