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この頃兄の様子がおかしい。
フィグネリアはイーゴルの様子が心配だった。
兄はとにかく悩むことのないひとである。自分がいつも考えすぎるという自覚があるので、そんな兄の前向きさがとても好きだった。
だが、この頃はふと物思いにふけっていたり、ため息をついていることが多く元気がない。そんな兄を見ていると自分まで悲しくなる。
それでもすぐに元気になってくれるだろうと静観していたのだが、日に日に悪化していっている。
直接兄に聞くのも気が引けて、かといって父に話すのにもいささか大げさすぎる気もしてフィグネリアはお茶の時間に妹と義母に話してみることにした。
「まあ、お姉様気付いてらっしゃらなかったの?」
丸い大きな瞳をさらに大きく見開いて半年年下の異母妹のリリアが驚く。
「様子がおかしいと気付いてたなら、リリアはなぜもっと兄上の心配をしないんだ」
これまでリリアが兄の様子を気に掛ける素振りは一切なかった。むしろ兄が思い悩むにつれて明るくなっていったとすら思う。
「だって、あれはお兄様、絶対に、恋、してらっしゃるのだもの」
「恋?」
にんまりとリリアが笑うのに、フィグネリアはぽかんとしてそれだけ返す。
「やっぱり、リリアもそう思う? そうじゃないかしらと思ったのだけれど、男の子の恋の相談なんて母親ができるものかしていいのかわからなくて。あまり騒ぐのもいけないでしょう。もしかたらエドゥアルト様がこっそり相談にのっているのかもしれないわ。母親には相談しにくいことも父親ならということもあるし」
ぱっと顔を輝かせる義母のオリガは、三十半ばにさしかかっても少女めいた雰囲気であるがいっそう幼く見える。
黙ってイーゴルの恋を見守っていたふたりがはしゃいでいるのを、フィグネリアはぽかんとみつめるしかない。
一体、自分の今日までのこの心配はなんだったのだろうか。
「……いや、しかし仮にそうだとしても一体誰に」
イーゴルに見合い話が様々な所からひっきりなしに入ってきている。もし父の意向に沿わない相手だとしたら、困りものだ。
「この間お兄様が鹿の櫛を贈ってらしたでしょう」
そういえば三月ほど前にそんなこともあった。帰ってきたときは見合い相手のことよりも、森で領主の娘と狩をしたことばかり話していた。
(ニキフォロフ男爵……)
領主の名前と領地は頭に浮かんでも、他にとりたてて記憶にひっかるものはなかった。あのあたりはほとんど森で主要街道の外れにあり、隣接する領地の主達との縁戚関係などもないだろう。
自分が知っているかぎりでは皇太子の婚約者となるにはあまりにも、不釣り合いである。
「お姉様、またむずかしいことを考えてるでしょう」
リリアがつまらなそうに唇を尖らせる。
「むずかしいことじゃない。大事なことだ」
兄はいずれ皇帝となるのだ。伴侶選びというのは色々なことを考えないといけない。
「お姉様のおっしゃる大事なことはぜーんぶむずかしいですわ」
「リリアはもう少し、勉学に身をいれたほうがいい」
勉強嫌いのリリアにフィグネリアは小言をもらす。
リリアはみっつぐらいまでは虚弱で無事に育つか心配されていたせいもあって、勉学を始めるのが遅かったのでまだ色々分からないのはしょうがない、ただ、やる気がないというのはよくはない。
「お勉強はお姉様ができるからいいの。それよりお兄様よ。このままずっと恋煩いなんておかわいそうでしょう」
可哀相と口にしつつリリアは実に楽しげだった。
「そうねえ。このままだとイーゴルもずっと悩んでるばかりになってしまうわね」
「だから、その方をお招きしましょう」
なんとなく嫌な予感がしていたフィグネリアは、リリアの提案に首を横に振る。
「そんな、ご迷惑だろう。ひと月はかかるんだぞ」
「ちゃんと旅支度もわたくしたちですればいいでしょう。お姉様は会いたくない? お兄様が好きな人」
気にならないわけではない。だが、時間が経てばまたイーゴルも恋煩いは解消して元気になるのではないだろうか。
フィグネリアはリリアを諫めてくれないだろうかと、ちらりとオリガを見る。
「会ってみたいわ。イーゴルに聞いて、エドゥアルト様にもご相談してみましょう」
だがオリガの方もすっかりその気でフィグネリアはこっそりため息をつく。
かといって最後には父が上手くおさめてくれるだろうと、さほど心配もしていなかった。
***
「かまわん。俺も、お前がそれほど気に入っているというのなら会ってみたい」
そしてその日の晩餐の時、フィグネリアの期待は見事に裏切られた。
父のエドゥアルトはイーゴルがサンドラを皇宮へ招きたいという話を切り出すと、すぐにそう答えた。
「いや、き、気に入っているというのはそのいささか言い過ぎではありますが」
兄の方は顔を赤くしながらもとても嬉しそうで、もやもやした気分になる。
(父上は一体何をお考えなのだろう)
フィグネリアは読めない父の表情を伺う。
エドゥアルトはディシベリアの男達の平均と比べれば小柄で、筋骨隆々というわけでもない優男だ。だが若干二十歳で九公家をまとめきれずに国を傾けていた先帝を退けて帝位についた。
武力が何よりも崇拝されるこの国で、知恵だけで玉座まで登りつめた父になんの謀略もないということはありえない。
時々こっそりと自分の考えを教えてくれることもあれば、自分で考えてみなさいと課題をあたえられることもある。
エドゥアルトの涼やかな目がフィグネリアに向く。
これは自分で考えろと言う時の視線だった。
いままでにたくさん難題を与えられたことがあったが、これはまたとびきり難しそうだった。
「お兄様、お手紙には押し花をそえられたらどうかしら。わたくしたくさんもっていますから差し上げますわ」
「まあ。それは素敵ね。他に何を用意したらいいかしら」
リリアとオリガはあいかわらず楽しげで、フィグネリアはひとり黙々と食事を進める。
今日は兄が獲ってきた猪肉の煮込み料理で好きなはずなのに、あまり味がしない。
「フィグネリア、どうした? 口に合わないか?」
そんな思いが表情に出てしまっていたのか、イーゴルに心配されてしまう。
「いえ。とても美味しいです。あの、ニキフォロ男爵のご令嬢をお招きにする準備をどうすればいいか考えていて」
「おお、そうか。いや、これも俺もよくわからなくてな。道中と滞在する間、できるだけ不便のないようにしたい」
イーゴルはフィグネリアのとっさの嘘を疑うことなく、早く会いたいとそわそわしている。
その姿を見ていると余計に胸のもやもやが増していく。
「イーゴル、もてなしというのは度を過ぎるとかえって迷惑ということになる。内務官によく相談してきめなさい」
エドゥアルトがやりすぎないようにと釘を刺すと、イーゴルは真剣な顔でうなずく。
「母上とリリアとフィグネリアにも相談させてもらうので、お願いします」
生真面目に頭を下げるイーゴルにオリガとリリアはもちろんととても楽しそうだが、フィグネリアは愛想笑いしか返せなかった。
この頃ずっと沈みがちだったイーゴルがやっと元気を取り戻せたのに、なぜかあまり嬉しくない自分が一番嫌だった。