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ニキフォロフ男爵家は森の中にぽつんと建っている。領民が集まり祭事に使われる広場を設けているので、広さこそはあれど木組の屋敷自体は母屋が一棟にこじんまりとした小屋のような離れがふたつと大きなものではない。
「ただいまー!! 獲物あるから裏に来て!」
サンドラは扉を開けてそう声をかけ、返事も待たずにイーゴル達を獲物を解体する作業場のある屋敷の真裏へと案内する。
屋敷の裏は作業場の他にも、厩舎や小さな畑もある。少し離れた場所にある厩舎から二番目の兄がやってきて畑からは三番目の兄、家の裏口からは父が出てくる。もうひとり長兄の妻もいるはずだが、妊娠中で昨日から悪阻が酷くまだ動けなさそうだ。
「……使用人などはいないのですか?」
イーゴルの近衛のひとりが男爵家の人間だけが出てきて、他に誰かがやってくる様子もないことに首を傾げる。
「申し訳ありません。当家はこの通りでして、使用人を雇うほどでもないので家の人間だけでございます。そういうことなので、解体は我々のみで行いますので、中でお休み下さい」
答えたのは父のニキフォロフ男爵だった。父の視線がちらりとサンドラに向いて、少々呆れている様子だった。
「あ、そうよね。イーゴル……皇太子殿下には先に家に入ってもらわないといけなかったですね。ごめんなさい」
家についてすぐに獲物はひとまず玄関先に置いておいて、イーゴル達には屋敷の応接室に案内すべきだったのだ。
特に何も考えずにいつも通りに動いてしまった自分にサンドラはうなだれる。
「元から自分で狩った獲物は最後まで自分で片付けるつもりだ。よし、お前達も少し手伝え」
あいかわらずイーゴルは何ひとつ気に掛ける様子もなく、近衛達に命じる。
そうしてあっという間に獲物は綺麗に解体されていく。肉も皮も骨もあますことなく利用する。角のひと組は神殿に奉納し、肉は今日中に食す分以外は干して保存食する。骨や毛皮は売物だ。
大勢でやったので作業はすぐに終わり、サンドラは片付けに使う井戸へ水を汲みに行く。
「……だめだなあ」
汲んだ水を手桶に入れながらサンドラはため息をつく。
自分が貴族令嬢というにはあまりにも足りていないのは自覚はしているし、それ以前に何かと後先考えなすぎるのもよくわかっている。それでもここで森番と家の雑事をしてという日常に差し障りはあまりなかった。
(イーゴルがああじゃなかったら、とんでもないことになってるわ)
おおよそ自分の行動が皇太子へのものとしてはあまりにも相応しくなく、本来なら父が厳しく咎められてもおかしくないのだ。
このままでは他所の家に嫁いでなどとは考えられない。
「でも、ずっとここにいちゃいけないってわけでもないのよね……」
結婚せずにずっと森番としてここにいることはできるけれど、今その選択をするのも諦めや逃げに思えてすっきりしない。
サンドラはもう一回ため息をついて、水がたっぷり入った手桶をふたつ持ち上げる。
「手伝うぞ」
くるりと振り返るとイーゴルがひとりで立っていて、サンドラは一瞬手桶を落としそうになった。
「ひとりでも持てるから大丈夫……です」
言葉遣いぐらいは改めた方がいいだろうと、サンドラは語尾を付け足す。手桶はいつも持っているので重くはないので本当に大丈夫だった。
「……誰もいないからそう遠慮せずともいい。元気がないが、疲れたか?」
イーゴルが手桶をひとつ取って心配そうにする。
「疲れてるわけじゃないんです。うん、やっぱりこういうのはちゃんとしておいたほうがあいいのかなって思った、んです。普通に喋るのってやっぱり失礼なことだし、本当はやっちゃいけないことやっちゃってるのは直した方がいいと思うんです。見られてるときと見られてないときの切り替えなんてことも、できないですから」
イーゴルはふたりきりならばかまわないとは言ってくれたのだけど、改めるべき時にきちんと改められないのなら最初からいつ人目についても恥ずかしくない態度でいたほうがいい。
「俺が気にせずとも、周りが許さぬというもままならんなあ。時には立場や身分など難しいことは言わずに気楽にすごすこともよいだろうに」
ぼやくイーゴルの表情は本当に寂しげで、自分が悪いことをしているような気にさせられてしまう。
「……難しい、ですね」
こういう時にどう返していいかもわからず、サンドラはただうなずくことしかできなかった。
「ありがとうございます」
作業場に戻るとサンドラはイーゴルに礼をして残りの片付けを続ける。大方は水を汲みに行っている間にすまされていて、ひとまず奉納する角と神官達に分ける鹿肉を持ってイーゴルと近衛、それから父が神殿へと行った。
片付けが終われば料理だ。新鮮な鹿肉を焼き、畑で取れた香草や貯蔵庫に保管している芋や玉葱と一緒に内臓も煮込む。その間に森の見廻りをしていた長兄のボグダンが帰ってくる。
「なんだ、もうほとんど終わってるな。ジーナの具合、どうだ?」
「姉さん、具合はよくなってきたけど眠くてしょうがないって言ってたから寝てると思うわ」
調理に取りかかる前に義姉の様子を見に行ったときはずいぶん顔色はよくなっていた。しかしずいぶん眠たげにしていた。
「そうか。殿下もいいとは仰っていたが、できるならご挨拶ぐらいとは思ったんだがなあ」
義姉が体調が優れず挨拶もできないことは、昨日から父と兄がイーゴルに話した。心配そうな顔をしながらも大事でもないと聞くとほっとした顔で嬉しそうに、言祝ぎをくれた。
「皇太子殿下ってすごくいい人よね。いつか皇帝陛下になるのが楽しみ」
温和で寛容で逞しい皇太子。非の付け所のないぐらいに跡継ぎだ。
しかし、サンドラの言葉にボグダンは複雑そうにそれがと言葉を濁す。
「そこが問題なんだよ、確かに皇太子殿下のお人柄は素晴らしい。だがなあ、政の才能がさっぱりだそうだ。そもそも皇帝陛下が御側室を迎えられた理由がな、皇太子殿下があまりにもその勉学に向いてなくて、不安だからもうひとりは補佐になる子供が欲しいっていうことだったんだ」
「そうなんだ……でも、皇后陛下がいらっしゃるのに?」
「そうできるならそうしていたんだろうが、なかなかご懐妊なさらずやむなくということだ。皮肉なことに御側室が懐妊された後に、皇后陛下にも御子ができた」
「なんだか、複雑ね……」
難しいことが多いとぼやいていたイーゴルを思い出し、サンドラは顔を曇らせる。
「まあ、末の皇女殿下もそれほど政向きというわけでもないらしいからな。それで上の皇女殿下はとても優秀らしくて皇帝陛下は跡継ぎを第一皇女殿下にと考えてるんじゃないかって噂もある」
「すごいわね。まだ八歳でしょ」
イーゴルも賢いとは言っていたけれど、兄の欲目も多少は入っていると思っていた。
「まあ、あくまで噂だ。そもそも、皇后陛下の御父上は九公家のアドロフ公だぞ。よっぽどのことがない限り長子の皇太子殿下を差し置いて、第二子で平民出の御側室の子である第一皇女殿下が跡目にっていうのはないだろ」
ディシベリアは十の部族が集まって出来た国である。初代皇帝は部族長のひとりで、武力でもって他の九つの部族を従えまとめ上げ帝国を築いた。残りの部族長の末裔は九公と呼ばれ、今でもそれぞれ皇帝に次ぐ権威を持っている。アドロフ家は九公の中核的存在にあたる。
「うーん、難しいわね。にしてもボグダン兄さんはよく知ってるわね」
皇家の事情などまったく知らないサンドラは感心する。
「俺、一応この家の跡継ぎだぞ。これぐらいは知るだけ知っとかないとな。でも、お前は物を知らなすぎだ」
呆れる兄に、この場にいる二番目と三番目の兄がうなずく。
「まあ、それはそうなんだけどね……」
どこかでそんな噂を聞いていてもあまり日常に関係ないので、するっと忘れてしまっていることもおおいにありえる。
そんなことを話しながら食卓を整えていると、父とイーゴル達が帰ってきた。
実に幸せそうに料理を頬張り美味いと喜ぶイーゴルにサンドラは嬉しくなりがらも、帰りまでふたりだけで話をすることはなく少し残念だった。
「どうしたらよかったのかな……」
見送りを済ませた後、胸に引っかかるのはイーゴルの寂しげな顔だった。
もしももう一度会えたら、やっぱり彼が何者か知らなかった時と同じように接した方が喜ぶだろうか。
そんな機会が巡ってくることがないとわかっていても、いつまでたってもサンドラはそのことばかりを考えてしまっていた。
***
イーゴルは真白い紙前で両腕を組み、考え込んでいた。
傍らには書物が一冊ある。過去の国内の紛争とその結果についてまとめてあるものである。これを読んで紛争を幾つか分類してさらに対応についての自分の意見を纏めよというのが、皇帝である父から与えられた課題だった。
読んだ内容は他の紙に忘れないように纏めようとしたのだが、上手く整理できずにぐちゃぐちゃでどう手をつけていいか分からない状態だ。
「兄上」
悩んでいると、長机の隅で同じ課題をこなしている上の妹のフィグネリアが数枚の紙を持ってそっと差し出してくる。
紙には書物の内容を時系列ごとに纏めているものだった。
「おお、フィグネリア。いや、これは助かるのだが、いかんぞ。俺がひとりでやらねばならんのだ」
差し出された紙を断ると、フィグネリアが澄んだ水色の瞳を曇らせてしゅんとする。
「さしでがましい真似をして、申し訳ありません」
「なにも謝ることはない。これがないとお前も困るだろう」
イーゴルは綺麗に編み込まれた銀の髪を崩さないように妹の頭を撫でる。
「いえ。あの、私は覚えているので」
「この本の内容を全部か?」
「あ、要点だけです。そこの紙に書いたことぐらいです」
それでも相当な量である。
「お前は本当に賢いな」
まだ八つとは思えない妹の聡明さには日々感心するばかりだ。フィグネリアは五つの頃には帝国の地理を覚えたかと思うと、あっというまに自分と並んで学習するようになっていた。
「私は、たくさん兄上のお役に立ちたいのです……。父上も兄上のお手伝いをしろと仰っていたので、よいのではないのでしょうか」
「それはまだ先のことで今はやはりいかんと思うぞ」
日々、父は将来政はフィグネリアの手を借りるようにとは言っているものの、これとそれは別だろう。
「……今日は軍で兵達に稽古をつけるのを楽しみにされていたのに」
確かに課題が終われば軍に行って兵達と鍛錬に勤しむつもりではあった。しかしやるべきことを妹に手伝わせて、自分がしたいことをするのはよくない。
イーゴルはフィグネリアを抱き上げて膝に乗せ、目線を合わせる。
「お前は優しいな。よし、まずお前は自分の分をすませろ。それから、俺が間違っているところがあれば教えてくれ」
そうやって手伝ってもらえれば少なくとも今日中には終わるだろう。
フィグネリアは分かりましたとうなずき、自分の席へ戻ると黙々と課題に取り組み始めた。
時々様子をちらりと見ると、要点を纏めた紙には目もくれずにペンを進めている。
(賢すぎるからか)
歳を経るごとにフィグネリアは遠慮がちになっていく。母親違いでも妹ふたりは同じだけ可愛く分け隔てることはないのに、フィグネリアは自ら立場をわきまえようとする。
九公家の長である祖父やその嫡子である伯父がうるさく上と下の妹の扱いを同列にするなとフィグネリアのいる前でも口にするのもよくない。
そればかりは納得がいかないのでその場でどちらも可愛い妹だと言い返しても、一向にやめてくれない。
祖父と伯父が血統を重んじすぎるところは困りものだ。
(フィグネリアより賢い娘もそうそうにいないだろうに)
フィグネリアが政の補佐を担うことになることにも祖父達は気に入らないらしい。去年辺りから祖父達が見合い話を持って来ることが増えた。
政の補佐ができる賢い娘をと勧めてくる。皇帝である父は祖父達の勧める相手はやめておけと諭しながらも、義理立てに断る前提で受けろと言われている。
それで視察の名目の元でこの頃はあちこち出掛けることが多くなった。
祖父達が勧める令嬢は皆、利発でよい娘達ばかりだがどことなく一緒にいて窮屈さを感じてしまう。
見合いを断るつもりでいるからなのもあるだろう。しかしこの先ずっと一緒にいられるかと考えた時、さらにぎゅっと窮屈な気持ちにもなる。
(サンドラは今日も森で過ごしているのだろうな)
三月前、祖父の勧めで訪れた伯爵家からの帰還途中で知り合ったサンドラの事をイーゴルは思う。
こちらの素性に気付かなかった彼女の自然なふるまいはほっとした。それから自分の身分を明かして、彼女は戸惑ったものの望み通りにありのままに接してくれた。
とても短い時間だった。それでも彼女と過ごした時間が今でも鮮明に思い出しては、胸が苦しくなる。
獲物の処理が大方終わったところで、サンドラがひとりきりで水を汲みにいったのに気付いて追い駆けたのはもう少しだけ何も気負わずに話がしたかったからだ。だが、それは叶わなかった。
(俺がいいというのに、なぜ許されんのだろうな)
フィグネリアのことも、サンドラのことも、ままならない。
(また、あちらへ行っても立ち寄らない方がよいのだろうか)
サンドラにはもう一度会いたいと思うのだけれども、また困らせてしまうかと思うと気が引ける。
(……手紙だけではわからんなあ)
持ち帰った鹿角は職人に櫛に加工してもらい、ふたりの妹に贈り、そしてサンドラにも狩を手伝ってくれた礼として贈った。その礼状が十日前に届いたのだ。
もてなしが十分にできなかったことを詫びる言葉と、櫛への礼の言葉だけだったが少しでもサンドラの気持ちが知りたくて、何度も読み返してしまっている。
だが読んだところで書いてある言葉以上のものも見つかるはずがなかった。
「兄上、やはりお手伝いしましょうか」
知らず内に長いため息を吐いてしまっていたイーゴルは、フィグネリアの心配そうな声にはっと我に返る。
この頃はいつもこうだ。気がついたらサンドラのことを考えては、物憂げなため息などこぼしてしまっている。
「いや、大丈夫だ。自分でやる」
イーゴルはフィグネリアに慌てて告げて、もう一度本を読み直すべくページを広げる。 そして苦手な大量の文字にまたこぼれそうなため息を飲み込み、課題に取り組むのだった。